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<東京怪談ノベル(シングル)>


残夢の響

 空が、一面の焼け野原のように赤く、染まっていた。
 啼きながら通り過ぎる黒々とした鴉は、まるで焔から舞い上がる煤のようで。
 血の様に染まる光景の中、次々に迎えに来た親と共に消えて行く子供たち。屈託なく笑いながら、大好きな親に手を引かれ、夕食の事や今日の出来事について語っているその姿。
 その光景を、公園の中に立ち尽くして見つめている、少年。
 手にプラスチック製の赤い小さなスコップを持ち、無表情で彼は仲良く連れ立って帰宅の途に付く親子の背中を――真紅の逆光で黒々とした影にしか見えないその背中を、消えるまでじっと見つめていた。
 また一人、また一人、と。
 親が迎えに来て、また明日ねと笑いながら去って行く、子供たち。
 その親の一人が、貴方も早く帰りなさいね、お迎えはまだなの? と声をかけてくる。それに、手をつないでいた子供が答える。
「蓮ちゃんはパパもママもいないんだよ。だから誰もお迎えにこないよ。蓮ちゃんいつもひとりぼっちだもん」
 子供ゆえに悪意はないが、悪意がないだけ残酷な言葉。
 最後まで残っていた子供も、ついには迎えにきた親と共に帰って行く。
 今日もまた。
 ぽつんと、一人。
 誰も居なくなった公園で、一人。
『イツモヒトリボッチダモン』
 ……この上もなく寂しくなり、悲しくなり、胸に重なって行くその二つの重さに耐えかねたように、青い双眸に涙が浮かぶ。
 それでも泣くまいと必死に手で目をこする。けれども涙は後から後からこぼれ出て、目の前にある物全てをぼやかしてしまう。
 自分以外のものは全て幻であるかのように。
 それがますます寂しさを膨らませ、彼に涙をこぼさせる。
 その時。
「蓮?」
 優しい声が、耳に届く。驚いて顔を上げると、歪んだ赤い景色の中に、黒い神父服を纏った初老の男が立っていた。不思議そうに少年を見、やがて穏やかに微笑むと、彼は少年へと歩み寄り、目の前にしゃがみこんで涙で濡れた少年の頬に手を添えた。
「帰りが遅いから探しに来ました。さ、帰りましょう」
 何も問わずに。
 神父はそっと少年の小さな体を一度軽く抱きしめてから、その手を取って立ち上がり、ゆっくりと歩き出した。まだ幼い少年の歩調に合わせて、ゆっくりゆっくりと。
 その掴まれた手を強く握り返し、少年は泣いていた事を恥じるようにずっと俯いたまま、帰るべき場所――物心ついた時からずっと住んでいる施設へ向かって歩いた。


「……っ!」
 はっと目を開く。そして素早く体を起こし、周囲を見渡す。
 一瞬、自分がどこにいるのかわからなかった。
 必要最低限の調度しか置いていない、無愛想な室内。部屋の隅にある黒い本棚にはいくつものバインダーと本が並べられていた。納められているのはいずれも楽譜の類いである。
 自分の傍らには、ヴァイオリンと弓。そして数枚の譜面が床のフローリングの上に散らばっていた。
 よく見慣れたその室内。
 何の事はない、東京の自宅である。
 どうやらヴァイオリンの練習中にほんの少しだけ休憩するために床上に転がったところ、そのまま寝入ってしまったらしい。
「……なんだ……」
 一つ大きく吐息を漏らし、わずかにぼやける視界を厭うように、手の甲で目を軽くこする。
 そして、皮膚に伝わる濡れた感触に、微苦笑をこぼす。
 泣いているのはまだ幼い、夢の中の自分だけだと思っていたら……。
 また一つ軽く吐息を漏らすと、彼――香坂 蓮は整った指先で目の前に落ちてくる前髪をかき上げた。誰に見られているわけでもないのに、つい、零れ落ちた雫を隠すような仕草をしてしまう。
 幼い頃の出来事が、普段は気に留めていなくても、明らかに自分の中で瑕としてして残っていると知らしめるように、夢は、時折涙を誘いにやってくる。
 疲れ果てて眠りに落ちた時でさえ。
 どれほど日常で他人に対し冷静に無感情に接し、そうすることで強さを装っていても、幼い時につけられた瑕を癒す事もなく今もまだ抱え続けているのだと再度認識させるように。
 ……それはまるで、自分の弱さを見せ付けられるかのようで、あまり気分がいいとは言い難い。
 蓮は傍らにあるヴァイオリン「グァルネリ・デル・ジェス」のレプリカに手を伸ばし、そっと、その表板に指先を滑らせる。
 そして、目を閉じる。
 ――Requiem aeternam dona eis Domine, et lux perpetua luceat eis. Cum sanctis tuis in aeternum, quia pius es.
 胸の奥底で、歌うように呟く。
 誰へともなく、囁くように。祈るように。
 それだけで、苦い思いは緩やかに、また記憶の奥底へと沈んで行く。
 まるで、そのコトバに浄化されるかのように。


 九月も半ばに差しかかろうかというのに、まだ太陽はその威力を弱めようとはしないようだ。
 青く晴れ渡った空を見上げ、蓮はわずかに目を眇めた。硝子のような青いその瞳にとって強い日差しはあまりにも眩しすぎる。網膜を直撃されると、頭がクラクラする。
 眠りながら泣いてしまったせいか、今日はいつもより少し目がはれぼったい。こんなことならサングラスか何かで目を隠すべきだったかと今更思うが、すでに遅い。
 今から家まで取りに戻っていたら、待ち合わせの時間に遅れてしまう。
 いや、時間云々より、ここから家に戻るより目的地に行くほうがよほど距離が短いというものだ。わざわざ家に戻るなんて、馬鹿らしい。
 太陽をちらりと恨めしげに見上げてから、またすぐ視線を下方へ落として歩き出す。
 今日は、珍しく裏の仕事の方もオフだった。
 表の仕事――ヴァイオリニストとしての仕事がないのは、悲しい事に別に珍しくはないのだが、裏の仕事――便利屋の方まで依頼が入っていないのは、珍しい。いつも何かしら(犬の散歩などの雑事)仕事が入っているのだが、今日はお得意さんにまで蹴られてしまい、やむなく一日演奏練習でもするかと思っていたのだが、そんな所に懐かしい友人から連絡が入ったのである。
「……ここか?」
 独り言と共に蓮が足を止めたのは、一軒の喫茶店前。赤レンガ造りの壁に、数本の蔦が這っている。表に出された看板には、友人が電話で言っていた店名が描かれていた。
 ふと見ると、窓際の席に、懐かしい顔が見えた。相手も蓮に気づいたのか、ひらひらと手を振っている。
 中へ入ると、熱された外気とはかけ離れたひんやりとした空気が襲い来た。店内は少し照明が暗く、外の強い日差しに慣れていた蓮の目には、一瞬周囲が全て闇に落ちてしまったかのように思えた。だがそれも束の間。すぐに視界の明度が戻る。
 いらっしゃいませと言いながら空いている席へと案内しようとする店員を手を軽く持ち上げて制し、蓮は友人の元へと歩み寄る。
「久しぶり」
 笑いながら言う友人は、スーツ姿だった。そういえばどこかの企業に就職して今はサラリーマンだと言っていたなと思い出す。
「昔はあんなに悪ガキだったのに。立派な社会人になったもんだな」
 唇の端をわずかにつり上げて笑いながら、蓮は友人の向かいの席に座る。その言葉に、友人が肩をすくめる。
「ったく。お前は相変わらずだな、蓮」
「そうそう簡単に人は変わらない。お前も変わったのは見てくれだけだろう?」
「さあ、どうだろうな。少なくとも、昔よりはちっとは大人になったぜ?」
「自分でそんなことを主張するあたり、まだ子供だとしか思えんが」
 しれっと言う蓮に、友人は苦笑を深くする。
「ホント、お前は変わんねえなぁ。あそこにいた時のままだ」
 たまには神父様に会いに言っているのかと問われ、蓮はオーダーを取りに来た店員にメニューに目を通しもせずにアイスコーヒーを注文し、追っ払ってから小さく頷く。
「たまにな。何を話すわけでもないが」
「俺もたまに帰るけどさ、皆に会っても蓮がどうしてるか知らないって連中ばっかだし。俺は神父様に携帯の番号聞いたからこうして連絡つけられたけど」
 帰るけど、という言葉に、蓮はわずかに視線をテーブルの上に落としたが、気に留めた事を悟られないよう、何を言うでもなく小さく頷く。
 蓮と彼は、幼い頃から共に施設で育った、いわば兄弟のようなものだ。共に育った連中の中では、一番一緒に居た時間が長く、よくつるんでいた相手である。
 蓮は大学へ行く際に施設を出たので、その後彼がどうしていたのかは知らない。滅多に施設へ戻る事もなかったし、あまり気にも留めなかったせいだ。薄情者だと言われたとしても否定のしようもないが、この友人はその言葉を口にはしなかった。
 昔と変わらず饒舌に話しまくる友人の言葉に応えを返しながら、運ばれてきたアイスコーヒーに口をつける。
 しばらく近況や昔の事などを取りとめもなく話していたが、やがて、彼が一つ吐息を漏らしてまじまじと蓮を見た。
「けどまさかずっとヴァイオリン続けてるなんてな。神父様に聞いてびっくりしたぜ。あんまり何かを熱心にやったこととかなかっただろ、お前」
「ああ……。他にやりたいこともなかったし」
「音大も自力で行ったんだって? すっげえ金かかったんだろ?」
「やれることとやりたいことがそこにあったから、仕方なかったんだ。どれだけ金がかかろうと」
「なんか、何とかいうすっげえいいヴァイオリンを欲しがってるんだって?」
 驚いて、蓮は相手の空になりかけているコーヒーカップに落としていた視線を上げた。
「誰に聞いた? そんなこと」
「へ? ああ、神父様に。そのために頑張っているようです蓮は、とか言っておられたけど」
 いつそんな話をしたか記憶にはなかったが、昔から言葉にするより早くこちらの思いを理解してくれていたあの人のことだ。何かの為に、自棄になっているかのように様々な悪事にも手を染めて金を稼いでいるという事をそれとなく察していたのだろう。
「なんでそんなの欲しがってるんだ? もしかしていいヴァイオリン持って自慢しようとか思ってんじゃねえだろうなぁ?」
「自慢の為にあくせく汗水流して働くように見えるか俺が」
「いいや全然」
 あっさり返ってきた言葉に、蓮は大きく溜息をついて頭を振る。こめかみに指先を当ててしかめっ面になった蓮に、友人が首を傾げる。
「だったらなんでだよ? そんなにいいヴァイオリンなのか? えーと、なんつったっけ、ガーとかデルとか……」
「グァルネリ・デル・ジェス」
 言って、蓮は面倒くさそうにズボンのポケットからかなり年季の入ったお守りを取り出した。薄汚れた袋から察するに、いつも欠かさず持ち歩いているもののようだ。教会付属の施設で育ったのに何故そんなものを持っているのかという顔で、友人がそのお守り袋を見つめる。
 何も言わず、蓮はその袋の口紐を緩め、中から小さく折りたたまれた紙切れを二枚取り出した。色がくすんでいることからして、それもまた年季の入ったものだと解る。
 一枚を広げ、蓮は友人にその紙面を見せた。
 そこには青いボールペンで「こうさか れん」と綴られていた。
 書かれているのはたったその一言だけ。
「これって?」
「俺の名前だな」
「そんなの見りゃ分かるけどさ」
「このお守りは、俺が教会の前に捨てられていた時、この名前を書いた紙と共に持っていたらしい」
「……お前を捨てた親が持たせたってことか?」
「多分」
 言いながら、もう一枚の紙を、丁寧な手つきで広げる。
 それは、写真のようだった。
 映っているのは、正装姿の青年が一人。そして、その手には――。
 ちらりと、友人が写真から蓮へと視線を移す。
「……これって、もしかして」
 無言のまま、蓮は写真を裏返す。
 端っこの方に、文字が綴られていた。

 ――Kazui-Kousaka 'Del Gesu'――

「まさか」
 友人の双眸が、見開かれている。さすがにここまで見せられて何も気づかないほど鈍くはないらしいと、蓮は苦笑をこぼした。
「多分、な」
 写真の青年が手にしているのは、ヴァイオリン。
 後ろに綴られた文字から察するに、この青年の名前は「Kazui-Kousaka」。そしてその手にしているヴァイオリンはおそらく「Del Gesu」――デル・ジェス。
「これがお前の親父さんかよ」
「あくまでも可能性の話だが。もしこれが俺の父親で、今でもヴァイオリニストとして生きているのなら……」
 同じ道を歩んでいれば、そのうちどこかで会えるかもしれない。
 彼がグァルネリ・デル・ジェスを弾いていたのなら、自分もグァルネリを手に入れれば彼に近づけるかもしれない。同じ「こうさか」という姓を持つ者がグァルネリを所有していると知れば、自分の――「蓮」という、「俺」という存在に気づくかもしれない。


 からんと、アイスコーヒーの中で氷がぶつかり合う音が上がった。
 友人は、蓮の前にある写真をしばし眺めて、やがて笑みを浮かべた。
「会えるといいな」
「……どうだろうな」
「っつーか、間違いねえよ、コレ。お前の親父だよ」
「なんで言い切れる?」
「顔、似てるし。なんつーか……無愛想っぽいし。性格ひねくれてそうだし。お前とそっくり」
「……お前な。正面切って俺の悪口を言いたいのか?」
「いや、そうじゃなくてさ。まあ頑張れよな。会えるといいな、ホント」
 なぜかひどく嬉しそうに言う友人に、蓮は何も言わずにただ淡い苦笑を浮かべた。


 頑張っただけで会えるほど、簡単なものではない。
 大体、汚い手を使ってまで稼いだ金で、「イエスの」などという名を冠せられたヴァイオリンを手に入れるなど……自分が育った環境を考えると、いささかどころかものすごく気は引ける。
 それにこの写真の青年に会えたところで、自分の奏でる曲など聴かせたら、きっと失望されるに違いない。
 機械的な演奏しかできない、こんな自分の音色では。

 それでも、今はただ、目的の為に前に進み続けたいと思う。

 会って何をしたいという希望も、今はない。
 自分を捨てた意味など、今更聞きたいわけじゃない。
 ただ。
 そうする事で、あの幼い頃の「夢」から解放されるかもしれないと。
 ……二四歳にもなって親の姿を追いかけているなど、他人からしたら笑い話にしかならないかもしれない。
 けれど、自分の生を源流を知ることで、自分は生まれながらにして一人ではないのだと思いたいのだ。

 そうしたらきっと。
 もう二度と、あの夢を見ないですむだろう。
 ようやく、自分はひとりぼっちではなくなるはずだから。
 ――たとえ、一度胸の奥に刻まれた瑕が消えることはなくても。


 写真に落としていた目をわずかに上げると、そこには笑みを浮かべた友人がいる。
 その時、ふと蓮は何かに気づいたように口許に手を当てた。
 そして、友人の笑みに答えるように小さく笑う。


 ああ。
 もしかしたら。

 もう自分は一人ではないのかもしれないけれど――…。