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<PCシチュエーションノベル(ツイン)>


夏の少年

 夏よりは、幾分日差しが和らいだだろうか?
 そんなことを思いながら、白い壁に取り付けられたスピーカーから鳴り響く無感情な始業チャイムの音を聞く。
 その手元には、先程まで気分が悪いとこの部屋――保健室のベッドを占拠していた生徒の名前を書いた上質紙の綴りがある。引かれた罫線からはみ出さないように丁寧に綺麗な文字で名前の下に「寝不足から来る貧血」と生徒が示していた症状を書き込みながら、不知火響は空いた左手で頬に降りかかる艶やかな黒髪をかき上げて耳にかける。
 窓辺に置かれたデスク上には、ガラスをすり抜けて差し込んでくる日差しがあちこちに濃い陰影をつけている。ペン立てに差した、柄が透明プラスチックで作られている安っぽいボールペンから出る虹色のプリズムが、響の纏っている白衣の袖上に綺麗に映し出されていた。
 ふとその光に気づき、響が顔を上げて窓の向こうへと視線を投げる。
 夏より、確かに日差しは幾分、和らいだかもしれない。
 空は日々高くなり、少しずつ、けれども確かに秋のそれへと近づいている。朝、日が昇るのが遅くなり、夕刻、日が落ちるのが早くなった。
 風も朝夕はひどく涼しい。夜、街頭で占い師としてタロットを切っていると、時折肌寒く感じる事さえある。
 秋は、確かに近づいて来ている。
 近づいて来ているのだが……。
 日中の暑さは相変わらずだった。
 今年の夏は七月までがひどく涼しかったが、それ以降の暑さにはもう辟易させられている。
 ペンを置いて椅子から立ち上がり、白衣の裾を翻して踵を返し、窓辺に歩み寄る。そしてガラス越しの太陽光線を遮断すべく安っぽい白い生地のカーテンに手をかけた時だった。
 窓から見える学校の校門付近に、見覚えのある後姿を発見した。
 まだ大人になりきれていない、少し華奢な背中。
 その手には、しっかりと学生カバンがある。どうやら下校しようとしているようだ。
 しかし、まだ本日の授業は終わっていない。どころか、たった今しがた三限が始まったばかりだ。
「……早退かしら?」
 ぽつりと呟く。
 体調が悪いのだろうかとちらりと思いもしたが、凛としたその背中からはほんの少しもそんな気配は漂ってこない。響とて伊達に保健医をやっているわけではない。遠目でも、それが健康なのかそうでないのかくらいは分かる。
 こと、あの生徒に関してなら、なおさらだ。
 ふむと引きかけたカーテンから手を離し、口許に指先を当てる。
 普段は真面目に高校生をやっているのに、一体どうしたんだろう?
 頭に浮かぶ疑問。
 と同時に、響はひらりと白衣を脱いで椅子の背に投げかけると、素早く保健室を後にしていた。
 きっと、何かがあるはずだ。彼なりの理由が。
 授業をすっぽかしてまで下校する理由が。
 何か面白い事がありそうだ。
 ――それは、直感。
 女の第六感、と言うヤツだ。
「さぁて、何処へ行くのかしらね?」
 無人になった保健室のドアにちゃっちゃと鍵をかけ、ノブに「ただいま所用で外出中」というカードをぶら下げ、昇降口へ颯爽とした足取りで向かう。黒いロングスカートのスリットから白い足がちらちらと覗くが、今は授業中。それに見とれる男子生徒も男性教諭もここにはいない。
 遠慮なく、けれども乱れのない足取りで素早く移動し、早退する男子生徒の後を追う。

 その男子生徒。
 名を、雨宮薫、と言う。


 少し出遅れはしたものの、薫の姿はすぐに見つかった。
 何かを気にするように、時折周囲を見回しながら街中を歩いて行く。手には、学生カバンだけでなく、何やら細長い筒状の布袋を持っていた。
 何かを探しているのか、それとも何かに気をとられているのか……。
 その神経質そうな姿に、響はわずかに目を細めた。
 ――もしかしたら、「仕事」に向かっているのかもしれない。
 代々陰陽師をしている家系の次期長である薫は、人ならざるモノ相手の調査や浄霊、退魔などを請け負っているのである。今日の早退も、それ関係かもしれない。
「……だって、見るからに元気そうだし」
 赤い唇で囁くように呟く。もちろん、その呟きが薫の耳に届く事はない。
 しゃんと伸ばされた背筋。時折ちらりと見える横顔はひどく秀麗で、すれ違う女性の何人かが薫を見て振り返ったが、彼はそんなことまったく気にも留めない様子でどこかへ向かい歩いて行く。
 その様は、まあ、彼らしいといえばらしい。 
 空から差す強い光が、地上を撃つ。正午に向かい時間が進みゆくにつれ、その光は強度を増して行くばかり。そして夕刻になるまでそのテンションが下がる事はないだろう。
 つまり、当分はこのキツイ日差しの下にいなくてはならないということで。
「……まったく、どこまで行くのよ、薫ったら……」
 額に浮く汗を取り出した白いハンカチで拭い、それを目の上にかざしてひさしにし、この熱気を生み出している張本人を恨めしげに見上げる。
 太陽は、そんな響を嘲笑うかのように、変わらず眩い光を虚空から放ちまくっている。


 そして。
 薫を追跡すること、約一時間弱。
 一駅か二駅分を徒歩で移動した薫は、住宅街の一角に入り込んでいた。どなたかのお宅に憑いた何かを祓いにでも来たのだろうかと思ったが、彼はこの炎天下の元、歩調を緩めることなく、ぴんと背筋を伸ばして歩いて行く。
 澄んだ、清廉な気を纏い歩み行く彼の姿は、凛然としていて、ただ歩いているだけなのにひどく綺麗なもののように思える。
 まだ薫は響の追跡に気づいていないのか――それとも他の何かに気をとられているのか。後ろを振り返ることもなく、住宅街を進んで行く。角を曲がり――。
「あら?」
 薫が曲がったはずの角を、響も少し遅れて曲がってみたのだが、すでにそこに薫の姿はなかった。
(まかれた?!)
 いや、違う。
 すぐさま、響は駆け出した。足元は踵の高い靴なのだが、そんなことを感じさせない俊敏さで、太陽に焼かれて熱くなったアスファルトの上を駆けて行く。
 残暑の熱に反した、ひんやりとした気。
 わずかだがはっきりとそれを感じ取り、響はその冷気の出所へ向かう。
 ただの冷気ではない。
 それはおそらく。
(邪霊……)
 その冷気の出所こそが、おそらく、薫の目的地のはずだ。


 家と家の狭間。
 そこにある、家一件分はギリギリありそうな空き地は太陽の光を左右に建つ家屋に遮断され、空気は湿り、ひどく澱んでいた。
 もちろん、それはその場の日当たりが悪いせいだけではない。雑草が高く茂り放題になっているからでもない。
 思わず、響は自らの顔の前に手を広げてわずかばかり顔を背ける。
 肌に叩きつけられるような濃い霊気が、痛かったのだ。
 その霊気も、穏やかなものではない。ひどく攻撃的で、怒りをはらんだ強い負の力を纏った物だった。
 短く吐息を漏らすと、手をゆっくりと下ろして目を細めながら視線をわずかばかり上に持ち上げる。宙にはゆうらりと、黒い影が三つ、舞っていた。それがこの濃い霊気の発信源である。
 一足先にこの場に訪れていた薫が、学生カバンを放り投げ、太腿までを草むらに埋めながら手にした五枚の呪符を腕をしならせて鋭く空き地の四隅と自分のいる場の足元に投げつける。
「東方降三世夜叉明王、南方軍荼利夜叉明王、西方大威徳夜叉明王、北方金剛夜叉明王、中央二大日大聖不動明王!」
 キィン、と氷を削るような音がし、その場一帯が結界内に置かれる。結界を成したばかりの薫を敵と見なしたのか、影どもが一斉に薫に襲い掛かった。
 だが、ひらりと身をかわし、そのかわしざまに素早く刀印を結んだ手で四縦五横の九字を切り、打つ。
 隙のない動きだったが、それでも三対一。一匹を相手にしている間に他の二匹に対してはやはり多少の隙ができてしまう。
 薫の背後から今まさに襲いかからんとする影に、響が素早くタロットカードを取り出し、一枚を投げつけた。
 ハッと、薫が振り返り、響の攻撃に怯んだ影に向かいもう一度九字を切る。
「臨兵闘者皆陣列在前!」
「こんなところでこっそり逢引きなんてヒドイじゃない、薫。大体、デートは私の方が先約でしょ?」
 薫と背中合わせになりながら、響が悪戯っぽい口調で告げる。それに、薫が形のいい眉をわずかにひそめた。
「お前、どうしてここに」
「いやだ、本当に気づかなかったの? ずっと後つけてきたのに」
「学校からか?」
「よっぽどこのデートに集中してたみたいね。ちょっと妬けるわ」
 言いながら、二人の会話に割り込むようにして飛来した影に向かい、もう一枚タロットを投げる。ライオンの口をこじ開けている女性が描かれたストレングスのカードは、淡い光を放ちながら鋭く空を切って影へ走ったが、ひらりとかわされてしまい、影の一部を削り取るに留まる。
 その攻撃に反するように、あえて影が響の方へと襲い来る。よくよくみると、その影には幾つもの人の顔らしきものが浮かんでいた。苦痛にあえぐ顔、憎悪に歪む顔、奇妙なまでに浮かれた顔……人のありとあらゆる感情がそこに刻み込まれていた。
 霊の、複合体。だからこそ、こんなに濃い邪気を放っているのだろう。
「響!」
 まじまじとその影に浮く表情を見てしまった響の頭を押さえ込むようにして身を低くさせると、薫は軽くバックステップし、影の攻撃をかわした。
 いきなり頭を押さえ込まれて草の中に身を沈めさせられた響は、わずかに乱れた髪を手のひらで直すような仕草をしながら頭を上げようとする。それを見、薫は鋭く声を上げる。
「そのままでいろ!」
「そのままって……」
「いいからおとなしく言うとおりにしろ!」
 言いながら、手に残していた細長い布袋を一振るいした。するりと音もなく袋が草の海の上に落ち、中から一振りの刀が姿を現す。素早く抜刀して両腕を伸ばし、刃に左手を添えてよく通る声で呪を唱える。
「吾是、天帝所使執持金刀、非凡常刀、是百錬之刀也、一下何鬼不走、千妖万邪、皆悉済除、急々如律令!」
 澱みなく紡がれる詞。その声に応じるように、刀に清廉なる気が宿って行く。
 緩く、薫の漆黒の髪が揺れた。
 ――……一閃。
 銀色の軌跡が宙に描かれる。見事な太刀さばきで、薫は一刀の元に影を斬り伏せていた。霊を束ねていた核を斬られたのか、影はばらばらとばらけ、やがては霧散していく。
 残るは、一体。
 すぐさま返す刃で始末しようとするが、影はその太刀をひらりとかわし、横合いから疾風の如き勢いで薫に襲い掛かる。再び軽くステップを入れて間合いを取る薫を援護するように、響が草むらから立ち上がってタロットカードを右手の指に挟み、ナイフ投げのように放つ。
 立ち込める濁った気を切り裂くように、カードは影に突き刺さる。するとそこに浮いていた顔の全てが苦悶の表情を浮かべ、声にならない悲鳴を上げるように口を大きく開けた。構わず、立て続けにカードを投げる。突き刺さるカード。狙いは外さない。
 だがその時。
 ぶぶっと影がブレたかと思うと、いきなり真ん中から真っ二つに裂けた。裂けた影は左右に分かれ、両方から響を挟み打ちにする。
「そう上手くいくと思うの?」
 呟きざま、まずは先に接近してきた右手の影にカードを投げる。そして別のカードを指先に挟み、斬り付ける。まるでカミソリの刃のように。
 影はまたも声にならない悲鳴を上げた。睨みつけるように視線を向けたその悲鳴を上げる顔たちの中に、響は、まだ幼い少女の顔を見つけてしまった。
 痛い痛いと言うように何度も口を動かし、涙をこぼしている少女。
 追加で攻撃を加えようとしていた響の手が、止まる。
 声は聞こえない。
 けれど、確かに、その少女は叫んでいた。
 おかあさん、いたいよう。たすけてよう、と。
「……っ」
 攻撃に躊躇いが生じたその一瞬を、影は見逃さなかった。
 もう一方の影が、背後から響に突撃してくる。その気配を察し、すぐさま身を翻すが、草で隠れた足元に石か何かがあったらしくヒールの高い靴を履いていた響はなすすべもなくバランスを崩してその場に倒れそうになる。
 影が、来る。
 ふらりと傾いだ身体。
 その身体を、横合いから支える腕。
 驚いて見やると、薫が、片腕を響の身体に回して自分の方へと引き寄せながら、もう一方の手に握り締めた刀を振るい、影を斬り捨てる。返す刃でもう一方の影も斬る。
 少女の顔が、霧散する。
 とさりと、響の身体が薫の胸の中に納まった。
 片がつくのとほぼ同時だった。
「……まったく。だからおとなしくしていろと言っただろう?」
 言いながら、薫は響を腕の中から解放した。そして何事もなかったように投げた鞘を拾い、刀を納める。
 息の乱れすらなかった。
 言葉もなく、響はそんな薫の背中を見つめる。
 いつのまに、こんなに成長していたのだろう。
 一瞬ではあったものの、抱きしめられたその時に感じた胸板はもう少年の物ではないように思えた。自分をフォローしながら戦う事ができるというその余裕も、もう立派な「男」のもののようで――。
 ふと。
 そんなことを思った響の脳裏に、誰かの姿が過ぎった。
 冷静に戦況を把握する能力。時折自分をちゃんと女扱いするその態度。
 誰だっけ、と思ったその自分への問いかけに答えるかのように、頭の中に、はっきりとその「誰か」の姿が浮かんだ。くるりとこちらを振り返り、唇の端をつり上げて笑っているのは。
(ああ……直親さんか)
 思い至ると、なんだか……言いようのない想いが胸の中に渦巻いた。
 なんだろう、この思いは。
 胸に手を当ててじっと黙り込んでいる響に、薫が怪訝そうな眼差しを向けた。
「どうした? どこかやられたか」
「いい男になってくれるのは嬉しいけど」
 似ていると感じる男が久我直親というのが、ちょっとだけ、しゃくで。
 刀を袋に納めている薫に駆け寄り、その思いを払いのけるように軽く頬にキスをする。
「な……っ、お前っ」
 驚きに目を見開き、頬をほんのわずかだけ染めて自分を見るその顔は、やはりいつもの薫だった。そのことに、心のどこかで安堵する響。
 そう。
 まだもう少しくらいは、このままでいてほしい。
 そんなに早く、大人になんてならないでほしい。
 まだもう少しくらいは、大人と子供の狭間にいてほしい。
 大人になってしまうと……なんとなく、自分から遠くなってしまうような気がして。
 そう思うのは、自分のワガママなのだろうか?
 しばらくじっと顔を見つめられ、薫は恥じらいを隠すようにふいと顔を背ける。
「保健医がいないと困る奴もいるだろう。さっさと学校に戻ったらどうだ」
「つれないこと言わないの。デートの先約は私だって言ったでしょ?」
「そんなもの、した覚えはないが」
「だったら今予約入れさせてもらうわ。どうせこの後予定ないんでしょ?」
 言って、腕を絡め取る。それを薫は腕を振って振りほどこうとする。
「こら、お手伝いしてあげたんだからデートくらいしてくれてもいいでしょう?」
「誰も頼んでない。大体お前が勝手に首を突っ込んできたんだろう?」
「あ、そういうこと言うの?」
「事実だろうが」
 カバンを拾い、スタスタと歩き出すその背中。
 照れているのだろうか?
 こういう時には、早くもう少し大人になってほしいと思ったりもするのだが。
(まあ、今はもう少し、ね)
 このままで、いてほしい。

 もう少しだけ、この手の届くところにいてほしい。