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かけがえのない日々
ラクスが倒れていた時のこと。
救ってくださったのは、一人の女性。
それが雨柳凪砂さまでした。
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細い路地――ラクスの意識は殆ど遠のいていた。
僅かに開いた瞳の奥で、景色がゆらゆらと揺れている。
――ラクスは自分の肌に、何かが触れるのを感じた。数秒後、それは手だとわかった。しなやかな感触から、おそらく女性のものだろう。男性でないのは、ラクスにとって救いとも言えた。
その誰かは、ラクスを包みこみ、やがて抱き上げた。ラクスの頬が相手の胸元に触れる――お姫様だっこだ。
(何処へ連れて行かれるのでしょう)
疑問は穴の開いた船に流れ込む水のように溢れてきたが、今のラクスには抵抗する術もない。話しかける力さえない。
女性が歩くたびに、ラクスは微弱な揺れを感じた。母親が子供をあやすときのような揺れ――疲れが眠りを招いていく。
ラクスは瞳を閉じた。
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目覚め――。
極度の緊張からか、大分時間が経っているようだった。その分、疲れも取れている。
(ここは――)
ラクスは起き上がった。昨日のことを思い出し、今自分は何処にいるのかと不安に駆られる。
「大丈夫ですよ。別にこれから悪いことをしようって訳ではありませんからね♪」
近くから声がした。ラクスのすぐ傍に、一人の女性がラクスを覗き込んでいた。首に、首輪をつけている。妙な違和感。この世界に住む人は皆首輪をつけているのだろうか。
(あの人ごみの中では、首輪をつけた方は見かけませんでしたが――)
ラクスの視線に、女性は気付いたようだった。
「これは……あまり気にしないで下さいね」
その表情が何か裏があるのを物語っていた。あえてラクスは訊ねない。出会って間もない今、訊ねていいことではないだろうから。
今訊くのは、別のこと。
「何故ラクスを助けたのですか?」
「さぁ、どうしてでしょう。――助けたかったから、でしょうか」
「――……」
さらりとかわされ、拍子抜けしてしまう。
「あたしは雨柳凪砂と言います。ちゃんと覚えて下さいね♪ 貴方のお名前は?」
心の紐を一本ずつ解いていくように、凪砂は問いかけてきた。
ラクスは順序良く過去を辿り、話し始める。
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ラクスが全てを話し終えたとき、凪砂はさして驚く様子もなかった。
それどころか、ラクスを家に置いてもいいと言うのだ。
「ここで一緒に住みましょう?」
――ラクスは言葉が出ない。別に知り合いでもないアンドロスフィンクスを助けた上、家に置くのは、ラクスの想像を超えていた。数秒後、ようやく声に出す。
「そういう訳にはまいりません」
「どうしてですか?」
凪砂は本当に不思議に思っているらしい。真面目な顔で問い返してくる。ラクスは何と言っていいかわからない。
「だって、今ラクスさんがここを出るのは非常に危険なことだと思いません?」
凪砂の言うことはもっともだった。今のラクスにとって、あの人ごみの中へとびこむのは自殺行為だ。
凪砂は、追い討ちをかける。
「それだけではありませんよ〜。人ごみの中にはラクスさんの苦手な“男性”がいーっぱいいます!」
――『いーっぱい』……言葉がラクスの頭の中で反芻する。
(ダメです。今外に出てはいけません……非常に危険です……!)
心の叫びが聞え、ラクスは困惑する。
「ね? ここに居たくなりました?」
「す、少し……」
凪砂は身体をラクスに寄せ、言い聞かせる。
「恩の押し売りをする気はありませんから、安心して下さいね。ギブアンドテイク♪ 一緒に住みながら、お互いの情報交換をしましょう。ラクスさんの知識量はかなりのものでしょうから、興味があるんです。それなら、悪くないお話でしょう?」
(確かにそうですね)
――それにここの世界に詳しい人間の存在は不可欠であり、宿も必要だ。ここに住めば、二つを探す必要はない。手間が省けるのだ。
考えた結果、ラクスはここに住むことにした。
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この家に住むようにしたのは、ラクスにとって幸運と言えた。
何せ、凪砂の知識内容はラクスの知らないことばかりだったのだ。それ故に凪砂が話す度、ラクスは目を輝かせて耳を傾けた。
特にラクスが喜んだのは、パソコンに関する知識だった。
「ぱそこん、ですか?」
聞きなれない言葉に首を傾げるラクスに、凪砂は丁寧にパソコンが何かという話からその使い方まで教えてくれた。
キーを叩けば画面に言葉が出るというのは、ラクスにしてみれば空が割れるのと同じくらい衝撃的なことだった。言葉にならない歓声をあげ、喜んでパソコンへ向かう。
「早く凪砂さまのように、素早いタイピングが出来るようになりたいです」
そう言って努力するラクスを、凪砂は微笑んで眺めている。幾度も繰り返す光景。
その上、凪砂がいることでラクスの人脈は広がった。人に慣れ、親しくなれるように、凪砂は色々と骨を折ってくれた。
安全な場所、深まる知識。
ラクスにとって、凪砂は大切な協力者であり、同居人になっていた。
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かけがえのない場所と人――そう思えるくらいに、当たり前になっていく毎日。
今日もラクスはパソコンへ向かっている。
終。
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