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<東京怪談ノベル(シングル)>


1冊目の表紙


 話を聞いたとき、ラクスは驚いて、思わず訊き返してしまった。
 自分が常日頃望んでいた情報がもたらされたというのに、彼女は喜ぶこともなく、まずその話を疑ってしまう始末だった。
 ラクス・コスミオンが帯びた使命は、『図書館』から紛失した禁忌の書を探し出すことだ。世界中に散らばった禁断の書の行方を追って、ラクスはここ日本にやってきていた。彼女は日本にひしめく(いや、実際は世界中にひしめいているのだが、ラクスはまだ知らない)男性や、異国の喧騒にほとほと閉口していた。ラクスはその外見とは裏腹に、重度の男性恐怖症のうえ、内気でよくしくしくと涙を流すたちなのだ。彼女は並ならぬ使命感こそ抱えていたが、それを割いてあまりある恐怖心から、近頃ホームシック気味であった。
 そこに不意に飛びこんできたのが、肝心の『本』の噂である。
「ほ、本当に?」
 彼女はそう、訊き返してしまった。

 ラクスの姿を奇異だと見て取ることが出来る人間は少ない。
 顔と胸は褐色の肌を持った異国の美女でありながら、四肢は屈強なライオンのものであり、背には雄々しい鷲の翼が生えていた。
 だがそれでも、多くの人間にとっては当たり前の存在だ。
 彼女の大いなる知識の力であった。稀に彼女は凝視されたが、そういうときは彼女の方が一目散に逃げていた。
 当たり前の存在でなければ、困るのだ。
 自分が人間ではないことくらい、彼女は自覚している。
 稀であっても人間と目が合うと心臓が止まる思いがした。さらに、道を歩く人間の半分が男性だ。ラクスが『本』を求めて街に繰り出すのは、必然的に深夜になった。
 この夜も、彼女はウジャトの眼の加護にすがりながら、世話になっている屋敷を出たのだった。


 禁忌というほどでもないが、人間たちの記憶からは消え去って久しい秘術がある。『天の眼』という。ありとあらゆるオカルト知識を吸い込んでいるラクスにとって、その秘術を行使することは容易だった。アトゥム神の視線から逃れられるものは何ひとつ存在しないのだ。アトゥム神の力を帯びるいまのラクスの瞳から逃れられるものも、術の効果が続く向こう2時間は存在しない。
 ラクスの眼は、母なるナイルの流れの色そのまま。『天の眼』を借るいまのラクスの瞳は、時折金色に輝いていた。
「ああ……ええと、ここでいいのでしょうか……」
 頼れるものは何もない。ラクスはある屋敷の前に行きついて、ぽつりと呟き、きょろきょろと辺りを見回した。
 この国ではよく見かける住宅街のはずれだ。おそらく昼間でも人通りは少ないだろう。
 『本』はこの屋敷の中にある。アトゥム神の眼は見ている。
 そしてこの屋敷の中に人が居るのも確実だ。灯かりがついていた。
「……返してくださるかしら……返していただけますように……お願いですから返してください……」
 まだ家主に会って『本』の存在を確認したわけでもないのに、ラクスはもう口の中でかさこそと哀願しながら、門をよじ登って敷地内に侵入した。哀願を繰り返しているのは、家主から何を言われるか想像がついているからだった。
 『本』の力は偉大だ。人間が果たして、あの力を目にしたあとも、冷静でいられるだろうか――正気を保っていられるのだろうか。
 ラクスは人間を蔑む気持ちこそなかったが、人間がどういう存在なのか、書物から学び取っていた。


 屋敷の入口には、高度な結界が張られていた。並大抵の術者では解けない術式だろう。だが、ラクスは並大抵の術者ではなかった。まるで張られた糸をまたぐかのように、ラクスは造作なく結界を越えたのだった。
「あっ」
 上がってしまったその声は、悲鳴のようなものであった。
 ラクスが大きなダイニングで見たのは、青い髪の球体関節人形と、かっちりとスーツを着こなした紳士だった。
 ラクスが声を上げると同時に、
 からん、
 ひどく軽い音がして、椅子に腰掛けていた人形が床にくずれ落ちた。まぶたは閉じられ、ガラスの瞳の色を伺うことは出来ない。
「――いつの間に?!」
 紳士はひどく驚いた顔で振り向いていた。完璧な結界を張っていたつもりなのだから無理もない。だが、紳士が取り乱したのはその一瞬くらいのものだった。ラクスは家主が(想像通り)男性だったことに動揺して目が泳いでいたし、……何より、美しかったから。
「あ、あの」
 うっとりとしている、とも取れる紳士の視線にびくつきながら、ラクスは何とか声を搾り出した。
「貴方様がお持ちの『本』なのですが……」
「……おお。この『白人形の詩』を知っているのかね」
「……それは、あの、厳重に監視をしつつ保管しなければならない、大切な『本』なのです。お、お金なら……いくらでもお支払いします。ですから、その……返して、ください」
 ナイルの蚊でももっと大きな声で鳴くだろう。それほどラクスの声は小さかった。
 だが、屋敷の広いダイニングの中は、いやな静寂に満ちていた。倒れた人形は何も言わないし、紳士は『本』を開きながらうっとりと目を細めている。ラクスのその小さな声も、紳士の耳には届いていた。
「たった今、人形がひとり増えたのだよ。とても美しい人形だ」
 食卓の上には、豪勢で優雅な夕食が、食べかけのまま放置されていた。
 卓上と床を順に見て、ラクスは陰鬱な気持ちになった。
「私は欲張りだ。ひとりやふたりでは満足できないのだよ……」
 人間は往々にして、そんなものだ。

 ラクスにまで、『本』に秘められていた『うた』が突きつけられた。
 肉を石や木と為す大いなる詩だ。人間が持つべきものではない。
 ラクスに向けられた詩は――ラクスが紡いだ結界にぶつかると、儚く砕けて飛び散った。ひどく美しい、しかし透明な欠片が、ダイニングをきらきらと彩る。
 『本』自体は悪ではない。読むもの、記すものが存在を変える。どの『本』に秘められた力も、等しく透明なのだ。
「『トト神よ』」
 ラクスは仕方なく、その道を選んだ。
「『本に眠りを』」

 からり。

 乾いた木の表紙の『本』が、床に落ちた。
 ラクスは『本』を拾い上げると、溜息をつく。
 紳士の姿は、その手の中にある。そう、いまでは『本』そのものだ。『本』に魅入られた彼の肉体と魂魄は、『本』に食われてしまっていた。だが、紳士はきっと幸せだろう。愛する『本』とともに、永遠に眠り続けることが出来るのだ。
 神の呪いによって、死にも似た眠りに落ちるのだ――

 『本』を壊れ物のように抱えると、ラクスは床に転がっている青い髪の人形に近づいた。
 まだ、充分間に合う。この人形は、自分が人形になってしまったことを認識していない。ラクスは解呪の呪文を唱えた。たちまち人形は血を取り戻し、肉と魂が蘇った。意識は――回復するのに、少し時間がかかりそうだ。
「こちらの方が、ずっと美しいです」
 ラクスは微笑み、そっと呟いた。

 見つけた人形は全部で「12人」。
 そのどれもに美しさを返してやって、そして――帰してやった。
 ラクスはその夜、久し振りに走った。走って帰りたくなるほどに、彼女はうれしかったのだ。


<了>