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記憶人
何をしていただろう。確か誰かとかくれんぼに付き合わされて、けれど、幾らもしないうちに飽きたから木の上で寝ようとしていたような気がする。
穏やかで心地よい風が葉の隙間から流れ、ちらちらと瞼をくすぐる光が零れてくる、そんな中。
安居院和美は誘われるように、静かな眠りへと落ちようとしていた。
うと、うとと次第に薄れる意識の奥。誰かが微笑んでいるのが、見えた気がした。
誰。と問う間もなく、気がつけば…いや、記憶をたどれば、そこに懐かしい景色があった。そしてそれは、夢という形を作り、和美を誘い込んでいた。
落ちたその先、夢の中。和美は柔らかい琴の音を耳にする。
優しく、けれど凛としていて、胸の奥に響くその音は、生前和美がよく聴き、そして好んだ音色だった。
(相変わらず、美しい…)
それは琴の音か。はたまた、御簾の向こうに見える影、その姿を示してか。
恐らく、両方であろう。なぜなら琴を奏でるは、和美が密かに思いを寄せる姫君なのだから。
彼女の琴に耳を傾けながら静かに桜を眺めていると。そんな和美を、呼ぶ声がしたような気がする。
その感覚に振り向けば、御簾の向こうの姫が微笑みながら和美を手招いていた。いや、見えはしないのだが、そんな気がしたのだ。
和美は姫の傍に腰を落ち着けると、また改めて琴の音に耳を傾ける。時折吹く風が、桜の花弁をさっと舞わせ、美を演出してくれる。
彼女の好む香りは如何か。よくよく思いながら、得意の香を焚いたものだ。
姫は、喜んでくれる。そうして、微笑んでくれる。夢の中、聞こえない彼女の声が、けれど記憶の内から鮮明に引き起こされていた。
決して想いを打ち明けること叶わない身分の差が、見えない壁のようにそこにあるのだが、和美はそれでもよかった。それで、幸せだったのだ。
そう、あの時。あの瞬間までは。
それは音もなく現れたのだ。空気が荒み、穢れ、その存在の邪を訴える頃には、和美の体は自由を失っていた。
(姫……逃げて……!)
訴える声など届きはしない。もとより、声など出せはしなかった。
和美の魂はその邪な鬼によって打ち砕かれ、その体は鬼によって奪われてしまったのだから。
鬼の力は御することも叶わず、己が体を勝手に暴れさせる。
御簾を破り、その向こうに恐怖する顔を見つけて、和美の心は痛み、鬼の心は悦んだ。
(やめろ…止めてくれ……)
どれだけ必死に抑制を願っても、和美の内の鬼は美しき音色奏でた琴を踏み壊し、なおも姫に襲いかかろうとする。
そして、高貴な華を紅く散らしたのだった。
悲鳴さえ上げずに伏した姫。そしてそのまま、命を落とした。
命一つの消える感覚が明確に感じられた。そしてそれをまた、鬼は悦んだ。
鬼に支配された心の奥から、姫の恨み言が聞こえるような気がする。耐えがたい自責にぎしぎしと締め付けらるような胸。思わず、和美はうずくまる。
そうして、血に濡れた頬に手をやる。そこに伝う雫は、愛した彼女の紅と混ざり、落ちる。
その色はただ鮮明に、姫の死を告げ語るばかり。
「あぁ、ぁ……うあああぁぁぁぁ!!!」
紅く流れる血の涙に、和美の魂は叫んでいた。
同時に、彼は悪夢から開放された。
背に冷たい汗を伝わせ、わなわなと振るえる手を見つめながら。和美は頭を振る。
「夢、か……」
安堵に浮かべた笑みは、しかしすぐに歪む。
これは夢。けれど、遠い昔に起こしてしまった事実。
愛しい人を守れなかった。それだけではない。自らの手で、殺してしまったのだ。幸せだった時間を、壊してしまったのだ。
自責の念が消えるはずは、ない。
「はっ……あんなことをしておいて、こんな時代までおめおめと生き永らえるなんて…俺は何をしてるんだろうな……」
朽ちることなく老いることなく、900の時を生きてきた、罪深きこの身体。爽、深い罪を感じていながら、何故今まで生きてきたのだろう。
自嘲し、目元ごと額を覆う。ぎり、と唇をかみ締めれば、彼女を染めたそれと、同じ味がした。
衝動的に拳を木の幹に叩きつけたが、その直後、木の下から声が聞こえた。
幼い声で、咎めるような言葉を投げかけてくるその者を見つめると、和美は一度だけ唖然とし、苦笑した。
(………生きる理由、と言うと、上質すぎるか?)
胸の内でだけ呟くと、いまだ怒鳴りつけてくる者に対し、和美もまた声を張り上げた。
「判った、判ったから! 降りるまで待ってろ!」
よいしょ。と身を起こし、指で目元を拭う。そうして、ふと気付く。
流れた雫が、暖かく澄んだ色をしていることに。
この手で紅染めにしてしまった彼女。その事実と罪は変わることなく消えることも無い。
けれど、そのものを思い起こす時。その瞬間だけは、彼女はいつも微笑っているのだ。あの悲劇が起こるその前までは、微笑っていたのだ。
それだって変わらぬ事実。いま一時だけでも、それにすがり生きていても、良いだろうか。
澄んだ色をした、記憶の中の人を思い描きながら。和美は小さく、微笑んでいた。
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