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<東京怪談ノベル(シングル)>


鏡 ─悲しい鳥─

 荷物は既に文京区に新しく借りたアパートへ向けて発送した。後は、樹本人が移動するのみだ。
 御台場にある住み慣れたマンションを離れる最後の一時を、樹は独りピアノに向かって過ごしていた。
 ピアノとは、ある意味特種な楽器だ。身体の一部のようになる弦楽器や、──歌、発声に近い方法で奏する吹奏楽器とは違う。奏者は、机に向かうように鍵盤の前に座り、両腕を伸ばす。その特性は、今の樹には最大の慰めとなった。
 音楽は彼の一番の歓びである筈なのに、歌おうとすれば、余計な感情が沸き起こって邪魔をする。声を発するのが辛くなる。そんな時に、ピアノというクールな楽器は優しかった。
 
「……、」

 頭を真っ白にして、目を閉じた。これとは極めない位置に持ち上げた指を鍵盤に落とす。

──Si……

「……、」

──Si……、Si……、Si……、Si……、Si……

 暫く、樹は意味もなくその鍵盤を叩き付けていたが、やがて目蓋を開いて両手を鍵盤上に置いた。

「……、」

 厭になる、と思いながら樹は変ロ音の連打に続く旋律を奏し出した。音楽は鏡だ、演奏する人間、或いは聴く人間の──、そんな、誰かの言葉が皮肉な程的を得て現れた。
 何も考えずに弾いてみよう、そう思って弾き出した曲が、これだ。ラヴェルの「鏡」。──結局、迷いを打ち消す事は出来なかったらしい。それが、あからさまにピアノに投影された結果だ。

──分からなくなったんです、このまま歌い続けるべきなのか、それとも……。

 実技試験を前にして、某音楽大学の試験会場の前で踵を返して逃げ出した原因を問い詰められる度に返して来た答えを、樹自身、自分の声や迷いそのもののニュアンスまではっきりと思い返す事が出来る。うんざりする程、繰り返した言葉だ。
 その殆どの場合、次に相手は何故、と再び問う。才能にも声にも環境にも恵まれた樹が、何を迷う事があるのか、と。

──環境……。

 その一言が、どれだけ彼に取って重荷になっていたかなど、他人が推し量れる筈もない。樹に深い傷を追わせる言葉を口にしたと云って、彼等を責める事は出来ない。
 遣り場の無い憤りを、樹は右手の旋律に込めて鍵盤に叩き付けた。
 
 ──この連作品の中の一曲は、副題を「悲しい鳥」、と云う。樹はこのピアノ曲を聴く度、箱のような部屋に隙間なく舞う白い羽を思い浮かべた。──今はその中に、膝を抱えて蹲っている少年が見える。伸びやかな手足を折り曲げ、顔を俯けた少年の漆黒の髪は、前髪の一筋だけが白銀色に輝いて居た。

──悲しい鳥、……飛べない鳥……。

 それは今、葛城・樹、彼自身の迷いが鏡に映った姿だ。

 

 樹の母はドイツ人の高名な声楽家だ。葛城という姓は実業家である日本人の父のもので、当然だが一家は葛城姓を冠して居り、ハーフである樹も、珍しい読み方をする名前に比べればさして違和感なく日本社会に溶け込む葛城樹、と名乗っている。但し外見には日本人離れした特徴が多く見受けられた。肌の白さや抜群の比率の造型になった高い身長、端正な顔立ちなど、ハーフか、少なくともクォーターか、と第三者に予想させるには充分だ。何より、変声期を経てテノールの声域になったその声質は、平均的日本人の骨格では決して得られ無い類のものだ。皮肉な事に、才能などを割愛して考慮しても、音質そのものが生来の骨格や声帯で決定される声楽家、声という素質が既に母親の恩恵を受けていたのである。
 それだけならば、樹も格段気に病むことは無い。勿論、その悩みの種が、漆黒の前髪の一部に生まれ付き現れた白銀色の一筋に在る訳でも無い。
 樹の前髪の一部に影響を与えた、プラチナブロンドの髪を持つ母は声楽家としては結婚後も旧姓を使用している。音楽の英才教育を受けて有望な声楽家の卵と成り得た息子を引き合いに出したり、自らの子供として売り込むような真似は決してしなかった。有名人で無くとも、音楽の早期教育を子供に施している親に有り勝ちなステージママでさえ無かった。
 だが、──規模はどんなものでも良い、クラシックのコンサートのプログラムを見てみれば分かるが、演奏家の経歴と云う物は殆どが師事した門下の教師の名前で構成される。横より縦の繋がり重視の世界、というのは本当だ。殊、日本に於いては。──血縁者に世界的な演奏家が居れば尚更だ。必ずや、最後の一文は次の一句で締め括られる。「父(或いは母、兄等)は世界的な演奏家、──」。
 この3月まで、音楽高校とは云え学生の身分だった樹には今の所そうした不名誉な経歴が書かれる事は無かったが、結局はそんな感覚を持つ人間の世界だ。母が世界的な声楽家という事実を放っておく筈が無い。それが、子供本人にしてみればどれ程の精神的苦痛として枷となるか等、考えてもみない。
 当人である樹は意固地なまでに母の名を伏せていたし、母親もまた自らしゃしゃり出る事は無かった。──が、芸能人のゴシップが高値で売れる日本社会で、隠し通す方が無理なのだ。樹がささやかとは云え何かの舞台に立つ度、聴衆は先ずその歌声と有望な未来を讃えた後で必ずこう囁きを交わす。「流石、彼の世界的な声楽家の御令息だけあるわ、それにあの美貌、ルクセンブルク女史そっくり」と。
 自分が道化姿の操り人形になったような感覚がして、音楽は音程、リズム、歌詞に断片化され、今自分が何をしようとしていたのか分からなくなる。歌う喜びなど一瞬で消え失せ、声を出すのが辛くなり、息が苦しくなる。
 多感な少年期にそんな経験を繰り返していれば、声楽家の道を歩んだ際の自分の未来は目に見えていた。どうせ、本質的な音楽性の評価さえ血統という色眼鏡で如何様にも左右されるのだろう。そして、一生「ルクセンブルクの息子」という名前を冠され続けるのだ。
 それが、元々特別に繊細な樹には耐えられなかった。

──分からなくなったんです、このまま歌い続けるべきなのか、それとも……。
 
 音楽大学声楽家を受験しながら、実技試験直前で逃げ帰ってしまったのもその事を限界まで気に病み続けた結果だ。──母は、何も云わなかったし、責めもしなかった。だが周囲がそうは許さない。揃ってその事を問い詰め、「贅沢だ」と責め立てた。「首席合格は確実だったのに、何を」、と掌返したように冷たくなり、そんな大それた事を仕出かして平常心で居られた筈のない樹の悩み等、まともに取り合っても呉れなかった。
 あのまま、ただ流されるように音楽大学へ行ってしまうのと思い留まったのでは、何かが決定的に変わっていた気がした。例え、結局は同じ道に立つとしても、だ。だが、その決定的な違いが正しい選択だったのか過ちだったのか、今の彼には分からない。
 母本人にそんな苦痛を訴えられる筈はない。縋る思いで電話を掛けたドイツ人の従兄は世間一般よりも更に容赦が無かった。

『母親の名前を引き合いに出されるのが苦痛だと? 巫山戯るな、それこそお前が叔母上の存在に依存して甘えている証拠だろう。本当に厭で、本当に歌が歌いたいのなら、自分の才能と評価で母親の存在など乗り越えて見せろ』
『──……、』
『……全く、なんと云うザマだ。こんな従弟を持ったとは情け無い。──……こんな事なら、ボーイソプラノの内にカストラートにしてやれば良かった』
『……、』
 黙ってその言葉の意味を思案して居た樹が、従兄の云わんとしている事に気付いて表情を強張らせた時、回線は一方的に切られた。
 
 ──……。彼に慰めの言葉を期待する方が間違っていた。樹とどこか相通じる白皙の美貌を持つ従兄の云いそうな事など考えれば分かった筈なのに、それでも淡い期待を掛けずには居られなかった樹の心中など察して呉れはしない。……察した所で、優しい言葉を取り繕って呉れる相手では無かったが。
 受話器からの不通音が響く電話ボックスの中はやけに寒かった。狭いガラス箱の中で、樹はいつまでも膝を抱えて蹲っていた。──悲しい鳥、飛べない鳥。

「……、」

 樹は「鏡」を弾き続けながら、右手の旋律の後ろでメロディック・クリシエの使用による半音階の連打を入れた。左手の四指は扇の開くように滑らかな軌道をとっている。和声法が得意になってきた最近、こんな事も出来るようになった。
 全てが終止形という規則に従って構成された音楽は、それ故にどこまでも創造性を展開する可能性を秘めて居る。一時期、夢中で作曲に関する本を読んだ。それこそ和声法からジャズのインプロヴィゼーションに至るまで、手当たり次第。興味が先行していた時には純粋に面白かったのが、ある時期からうんざりして来た。
 飽きた訳ではない。寧ろ、作曲と云う創造の可能性は音楽の奥深さを更に樹に感じさせて呉れた。──それが逆に、自分自身でも気付かない内に逃げ道を作っている気がして来たのだ。
 このまま、歌い続けるべきなのか、それとも作曲という新しい道を選択すべきなのか。
 新しい道? 創造の可能性? ……お前は単に理由をこじつけて「母の名前」という壁から逃げ出す云い訳をしているだけじゃないのか。
 音楽、そしてそれを創造する作曲という神聖な道を、逃げ道として使おうとしている自分に苛立った。
 左手の連打は更に激しいパッセージに変わって行き、右手にも即興の旋律がゼクエンツ毎の変形を伴って加わる。
 ──それに伴い、天井から羽が、彼の前髪と同じ白銀色のそれが降り注いだ。舞い上がる、降り注ぐ。絶間なく樹とピアノの周囲に舞う白銀色の羽にも、本人はつい気付かないままだった。

 不意に、──Si──、と一本の弦が弾けるまでは。

「──……、」
 樹は椅子を立ち、暫く呆然と、切断部の放物状に揺れるピアノ弦と、部屋一面にも、ピアノ内部や鍵盤の上にも溢れ返った雪のような羽を眺めて居た。

──やっちゃったな……、

 内面性を伴った即興演奏が嵩じると、元々彼に影響しやすい霊感が曲自体に魔力を与えてしまい、様々な形で現れる事は自覚していたが、──何故またこんなに羽を巻き散らしてしまったのだろう。
 自分が何を望んでいて、それがこんな形で現れたのか。
 つと、鍵盤上の一枚を手に取り、目の前に翳した。

──極めるのは、樹よ。

 その白銀色の髪を持つ母親の、美しい声が響いた。

 母親の許に居る限り本当に望む道を冷静に判断する事が出来ないと思う、暫く、独りになって新しい環境で学び直してみたい。樹は、母にそう申し出た。
 なんて酷い言葉だろうとは思った。声楽家としての母の存在を否定し、それから解放されたい、と云う事だから。
 だが、彼に向けられた言葉は優しく、美しい笑顔には一点の曇りも無かった。

『あなたの未来は、あなたが極める事だから』