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<東京怪談ノベル(シングル)>


1冊目の裏表紙


「ああ、いたたたた、じ、持病の癪が……」
 突然目の前でうずくまった男は、一見上品で、そう――『英国紳士』と呼ぶのがしっくりくる外見をしていた。
 しかし、まるで演劇か特撮で聞くような説明的な悲鳴だった。すべてを間に受けてしまう(そして失敗したり、いやな思いをしたりする)みなもですら、一瞬「怪しい」と疑ってしまったほどである。
 それでも、この海原みなもという少女は、腹痛で苦しむ人間を無視出来るような性分ではなかった。

 みなもはその日――いや、夜と言うべきか。
 ここのところ奇妙なバイトや奇妙な事件に関わる毎日で、学校こそ真面目に通ってはいたが、放課後はすぐに下校するようになっていた。自分が部活に入っていることすら忘れてしまうほどの日々を過ごしていたが、この日は運悪く放課後にばったりと部長に出くわしてしまい、数時間みっちりと部活に参加させられたのであった。幽霊部員の存在が気に障るのだという。実に情熱的な部長だった。部に居るべき人間だ。
 みなもが学校を出る頃には、すっかり日も暮れていた。
 友人は皆とうに帰ってしまっているし、部活の面子はみなもとはまったく下校ルートがかぶらない。みなもはひとりで暗い夜道を辿ることになった。
「いやだな……」
 みなもはぽつりと呟いた。その愚痴を聞いた者はない。
 こういう夜は――ろくなことが起きないものだ。誘拐事件も殺人事件も、こういうひとり歩きの少女の身に起きるのだ。実際この辺りでは、ここのところみなもの年頃の少女が何人か消えている。
 みなもの足取りは、早くなった。
 その矢先に――

「いやあ、すまないねえ、本当に」
「いいえ、あたし、力ありますから。気にしないでください」
 そうしてみなもは、腹痛の紳士に肩を貸して、重い足取りで住宅街のはずれまで歩いてきていた。数時間の部活のあとなので疲れてはいたが、愚痴をこぼせるほどみなもは人が悪くなかった。
「お礼にお茶など、いかがかね?」
 住まいだという大きな洋館が見え始めたとき、紳士は唐突にそう言ってきた。
 いつものみなもならば、恐縮して丁重に断っていただろう。それに夜も遅い。今日も家には両親が居ないから、もう帰宅しているであろう妹の面倒を見なければならないのだ。
 だがこの夜は、薄暗い中で覗きこんだ、紳士の茶色の瞳を見たとき――みなもは頷いてしまっていたのである。
 紳士は心底嬉しそうに微笑んだ。
 その微笑みは本心からのものであるようだった。


 屋敷に招かれ、気がついたときには、みなもは紅茶どころか食事をもてなされていた。本当に、気がつけばこんなことになっていたのだ。紳士に肩を貸して歩き始めた頃から、記憶と意識は曖昧なものになっていた。何かに無理矢理韜晦されているようなもどかしさ、そして軽い倦怠感――これはきっと、久し振りの部活の疲れだ。そうに違いない。
 すがるような視線を感じて、みなもは我に返ったのである。
 イギリスは茶こそ素晴らしい味をしているが、食事はとても誉められたものではないという。
 だがこの紳士の家は、日本にあるイギリスのようなものであって、やはりイギリスではなかった。出された夕食の味は素晴らしいものだった。みなもはちょっとしたセレブ気分を味わえた。
「……あ、素敵なお人形」
 ダイニングの片隅から向けられていた視線は、人形のものだったようだ。
 みなもはその人形に目をやって、息を呑んだ。まるで生きているような美しさの球体関節人形だ。気だるげなガラスの瞳、うっすらと開いた唇、今にも口に手をやってあくびをしそうなほどの生気を持っている。
 深く愛でられてもいるようで、着ている衣服もひどく豪奢であった。散りばめられた白い輝きは、ラインストーンではなくダイヤモンドかもしれない。
「おお、そうか。そう言ってくれるかね。それは、私の大切な友人なのだよ」
 紳士は屋敷の前で見せたものと同じ、嬉しそうな微笑みを浮かべた。
「昔から、球体関節人形が好きでね――ハンス・ベルメールについての論文も書いたし――天野可淡や片岡佐吉の作品もいくつか持っているのだよ――しかし、最近手に入るようになった人形は、本当に素晴らしいものばかりなんだ」
「まるで生きているみたいです」
「そうだろう。生きているのだからね」
 みなもの視線の先にある人形に、紳士は近づいた。やさしく黒髪をなでてやりながら、うっとりと彼は語り続けた。
「可淡が早くに死んだのは、己の作品に己の命を吹き込みすぎたという噂もある。人形とはそうであるべきなのだ。人を模したものであるならば、生命をも模すべきだ。だがわたしの人形はさらに上をいくものだよ。模しているのではなく、持っているのだから」
 茶色の瞳には、ひどく優しい光が満ちていた。
 みなもには――そう見えた。
 球体関節人形の知識など、みなもは持ち合わせてはいない。紳士の話はよくわからなかった。いや、紳士が語り始めた頃には、話どころか――すべてのものがよくわからなくなってきていた。
 紡がれる言葉がうたのように聞こえてくる。
 子守唄か……鎮魂歌か……ともすれば禍々しい、安らかで、矛盾した色彩と調べを持つ、美しい旋律であった。
「きみは美しい。青い髪の人形は初めてだ。居間に置いてあげよう。月の光がきみを照らせば、きっとその髪は水面のように輝くだろうな――」
 指を動かすと、きしり、と音がした。
 肘と膝を動かせば、ぎしりぎしり、と。
 それでも、なにもわからない。
「ああ、うっかりしていた。きみの名前を聞いていなかった。私がつけてしまっても、構わないだろうか?」
 力がからんころんと抜け落ちて、
「みなも、という名前はどうだろう?」
 からん、
 最後に意識がこぼれ落ちた。
 それがどういうことなのかすらも、『みなも』はすでにわからなくなっていた。



 なにもおぼえていない。



 ただ、聞いたのは、『うた』だ。
『こちらの方が、ずっと美しいです』
 優しく儚い声に、みなもははっと目を覚ます。

 悪い夢でも見ていたのだろうか?
 みなもが倒れていたのは、自宅の前だった。
「そんな……いくらあたしだって、外で寝るほどおとぼけてないよ……」
 それに、口の中に残っている紅茶の味は、確かなものなのだ。

 だが、なにもわかっていない。
 記憶を頼りに、みなもは後日住宅街のはずれまで足を運んで、あの屋敷を見たのだ。
 門は開きっぱなしだった。玄関の鍵すらも閉められてはいなかった。
 そして、誰もいなかった。
「何があったんだろう……」
 そう言えばワイドショーで、この辺りで行方不明になっていた少女たちが無事な姿で家に戻ってきたことが報道されていた。
 みなももそのうちのひとりなのだ。きっとそうだ――

 だが、みなもはなにもおぼえていないのだ。


<了>