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Sweet Sweet Hell
休日の朝。
昨日までの台風がすべての雲を吹き飛ばしたのか、空はどこまでも青く、高く、遠く澄んでいた。
秋の始まりを告げる涼しい風がベランダを越えてリビングまで吹き込んでくる。
フローリングの床は、秋の陽光をうけてきらきらと光の飛沫を室内にはじけとばしている。
気持ちがいい午後だ。
瀬水月隼は一つのびをすると、部屋の隅の壁によりかかりノートパソコンを開いた。
TVもラジオもCDもいらない。ただ、時折かすかに聞こえる鳥の声と落ち葉の落ちるかすかな音、そして風の音があればいい。
蒼い空とは逆の、深い宵闇色の髪を書き上げてインターネットのブラウザを立ち上げる。
さて、今日はどのように電子の海を泳ごうか?
思案しつつ、猫科の獣ににた金の瞳でポータルサイトの一つを眺める。
と。
それまでごろごろと、ソファーに寝そべっていた同居人(いや、この場合はおしかけ居候と表現したほうが正しいのだろうか)の朧月桜夜と目が合った。
紅葉よりも鮮やかな紅の瞳がディスプレイの光で煌めく隼の瞳をとらえる。
「んふふ」
鼻の奥でかすかに笑う。
と、さして興味もなさげに再びノートパソコンに目をおとした隼に猫のしなやかさでよりそってきた。
そしてはふ、と小さくあくびをすると、薄い貝殻のようにきれいな爪で隼の頬をひっかいた。
香港の有名な建築家がデザインしたホテルでの、あの狂騒的な事件から一夜。
ホテルでゆっくりできなかった分、家でまったりも悪くない。
そう判断したのか、じゃれつく猫のように、頬をひっかいたあと、隼の髪の毛を一筋つまんでひっぱった。
「ねぇ、隼ぁ」
ちらり、と視線をあげてため息をつく。今日は一人静かに徹底してネットの海に静みたい気分なのだ、と目が語っていた。
「たまには、ちょっと、膝枕なんかいいなぁとおもわない?」
「……」
軽快な音をたてて、膝の上のノートパソコンのキーボードをはじく。
「そんな機械より、きれいな女のコが膝の上にいるほうが楽しいとおもうけどぉ?」
隼の肩に顔をのせる。どうかすれば息が耳にかかりそうだ。
しかし隼は相変わらずパソコンの画面に集中している。
「ふっふっふ……」
あまりにも豪快な無関心ぶりに、桜夜の長くはない忍耐袋の緒がきれかけていた。
手が、ノートに触れる。
刹那。
「ズルいゾ桜夜! あタシもー! アたシもパパに膝枕シてもらウー!」
空気が振動して、電波的なノイズが一瞬だけ室内を満たす。
とたんに桜夜が長い琥珀色の髪を乱雑に払って振り向いた。
ああ、どうしたことだろう!
先ほどまでそこには誰もいなかったというのに。
ただ、ぽつねんとスクリーンセーバーの幾何学的な模様を繰り返す、メタルカラーのパソコンが置かれていただけだったのに!
まるでその画面の奥から飛び出してきた、と言わんばかりに、栗色の髪をふわふわと風に揺らす一人の美少女がそこに立っていた!
美少女は、ぴょこん、と軽くジャンプしてみせると、背中にある羽付きリュックを二度はたいた。
だが何を驚く必要があるだろう?
いまあり得ない神出鬼没ぶりをみせた美少女、このミリア・Sに物理的な常識が必要だろうか?
ウィルスプログラムの悪意あるいは、神意から偶然生み出された意志体である彼女に、時間と空間のどれほどが意味を持つというのだ。
彼女は身にまとうフリルのワンピースと同じ軽やかさで、ふわふわと二人に近づくと、両手を腰にあてて、これでもかと叫んだ。
「アたしモ、パパに膝枕ぁー!」
その声に顔をしかめる隼と、桜夜。
さすがに電子生命体。普段は人間とまったく同じ声でも、大声を出すと、どこか電子的ノイズがかかるのは否めない。
「おまえら、たまには俺を……」
と、隼が口をひらきかけたのを制して、桜夜が立ち上がり、ごていねいにふふん、と鼻でわらってからミリアをにらんだ」
「アタシのが先だっての! ってか恋人同士のスキンシップを邪魔すんな!」
放っておけば、ああん? という凄みまでひっつきそうな勢いでいうが、ミリアも負けてない。
「親子のスきんシップのほうが大事ーっ!」
「あン? 誰と誰が親子だって?」
「そッチだって! 誰と誰が恋人同士ナんだぁ!」
「……本当に、おまえら」
台風は過ぎ去ったはずなのに、とため息をつきながら隼がうめく。
今日ぐらいはゆっくりしたいのに、なんでこう、騒ぎが次から次に起こるのだろう?
「アタシのが隼をいっぱい一杯いっぱーいいっぱい好きなンだからねっ!」
「あタしのが、桜夜より一杯一杯一杯…………好きなンだもん!」
「それよりアタシのが一杯いっぱいいっぱい世界より宇宙より、隼を」
「あタしなんて土星より火星より金星より宇宙よりブラックホールよりパパが好きなんだかラっ」
「何よ!」
「ナによッ!」
「何よ!」
「「とにかく膝枕はアタシがしてもらうのにふさわしいんだからねっ」」
もはや収集がつかない。
三度目のため息をつく。
「お前らなぁ、俺は疲れてるんだ。たりぃんだよ」
だから静かに放置しておいてくれ、と言おうとした。が、すぐにそれが大きな過ちだということに気がついた。
「ほら、アンタの性で隼疲れちゃってるじゃないの」
「あタしの性じゃないモンっ! 桜夜の性ダもンっ!」
「だいたい、隼が疲れてるのも気づかないで膝枕ねだるなんて」
自分の事は棚どころか、ビルの屋上ぐらいまでにあげて、桜夜がミリアをみる。と、ミリアは唇を一度だけ引き締めた後で頬を膨らませた。
「疲れてるのに何もシない恋人よリはマシ!」
「な、何もしてない訳無いじゃないの! こうして、恋人同士の肌の触れ合いが何よりも「癒し」になるのよっ!」
「チがうモン! あタし知ってルもん! 疲れタ時は甘いモノの方がいいんダもんっ!」
ネットのどこで仕入れてきたのか、ミリアが叫ぶ。
「ふっふふふふふ。甘いモノ? いいわ。じゃあこうしましょう。疲れを癒すような甘いモノを作った方が、膝枕の権利を得るって事で」
「いイよ! あタしこの間一流パてぃシえのほーむペェじでレシピもってきタもん! 負けなイっ!」
「お菓子はレシピより、心よ。それをわからせてあげるわっ!」
見えない火花が飛び散る。
というよりむしろ、どこでどう間違ったのか、甘いモノ対決になっている。
もはや隼の意見など、どこ吹く風である。
「こうなったら善は急げよ!」
「そうヨ!」
妙なところで妙に意気投合しながら、台所へ消える二人をみて、隼は額に手をあてた。
「っあー」
甘いモノ……。
何をつくるか果てしなく気になるが、まあ、たまにはケーキの一つ位いいかもしれない。
何より二人が台所にいる間は邪魔されずにすむ。
「これはこれでいっか」
来たときと同じようにあっというまに過ぎ去った二個の美少女台風を横目でみると、隼はふたたびキーボードの上の指を動かした。
それが大きな過ちである事に気づくのは、数時間後である。
「何だコレ」
甘い匂いは、していた。
生クリームのにおい、カスタードの濃密なヴァニラのにおい、パイが焦げるにおいに、リンゴを煮詰める甘酸っぱい香り。
予想はしていたのかもしれない、予想していた故に、においを無視してコンピューターの世界に逃避していたのかもしれない。
過去の自己心理を分析しながら、隼は呆然としていた。
ああ、ああ!
なんということだろう。
ダイニングの四人用テーブルは、これ以上ないまでにお菓子の連合軍に占領されていた!
ぷるりとコケティッシュな動きで風にゆれるのは桜夜特製のジャンボプリン。
香ばしさと甘酸っぱさがない交ぜになった、秋の香りを漂わせるミリアのアップルパイ。
ブルーベリーの紫が大人っぽいミルフィーユに、黄色い栗のモンブラン。
素朴この上ないドーナッツに、卵黄の照りもみごとなスィートポテト。
空いた透き間には、多種多様のトリュフチョコやリンゴ飴。イチゴ大福に水ようかん。
中華風ゴマ団子に、タピオカ、ナタデココ、やきたてスコーンにアマンドドラジェ。練り菓子。キャラメル、アイスクリーム。
テーブルだけではすまなかったのか、パソコンを乗せてるパソコンデスクの隙間にも、ホットケーキやきな粉餅が置かれている。
めまいが、した。
いままでどんな異形のモノをみても、どんなに血にまみれた現場をみても、めまいなんぞついぞ起こしたこと無い隼も、さすがにこのお菓子連合軍の壮大さとばかばかしさにはめまいせざるをえなかった。
だが、それを責める事が誰にできよう?
この世の男の誰にそれができよう!
彼らは少しも理解してない。女性のお菓子にかける情熱を。
砂糖の一粒、季節の果物一切れにかける熱い思いは、生まれたての赤子に見せる母性本能よりも強く、大きく、寛大である。
量が多すぎるなど、彼女らは考えない。
ただ、本能の命じるままに、指先が動くその自由そのままに、あらゆるお菓子を生み出していく。
食べきれない時など考えてはいけない。
甘いモノは別腹で、それは全世界全人類に適用されて当然の法律と彼女らは信じているのだから!
「これを、どう、食えと……」
もはや言葉がでない。
男はただ、神々しいお菓子の連合軍にひれふして、許しを請うしかできない。
「どれを、どう、食えと……」
そもそもコレは何がきっかけで作られたのか、それさえも忘れかけていた。
主眼は、俺の疲れをとる為じゃなかったのだろうか。
ぼんやりと想う。
これでは疲れをとる以前に、甘味で死ぬ。ぜってー死ねる。
心の中で三〇と四回繰り返す。
「隼、感激して言葉も出ないのねっ!」
「あタし達の愛に感動シてるんだネ!」
いつの間に手を結んだのだろう、和解がなったのだろう。
ミリアと桜夜が手と手をあわせて、ぴょんぴょんと隼の周囲を飛び跳ね回る。
「さあ」
「さあ」
ずずいと、ふたりが隼につめよる。
「ちょ、ちょっとまて……」
「待て?」
「ちょっと?」
うろたえた隼の言葉に、ミリアと桜夜が全く同じ動きで眉をあげてみせた。
「「アタシ達が愛情込めたお菓子が食べられないとでも?」」
見事なステレオ再生で両側から言われては、もう、観念するしかなかった。
(ああ、神様。俺、そんなに悪い事したんでしょーか)
天井を仰ぎながら、決意を固め、フォークを手にとった。
――男には、負けるとわかっていても挑まねばならない戦いがある。
どこぞの誰かが言った台詞が、何よりも深く、心にしみた。
食欲とは、恐ろしいモノである。
ついでにおしゃべりもである。
なんと、彼女らはテーブルを占領していたお菓子をものの見事に平らげた。
甘いモノが入る別腹は、どうやらブラックホールと通じてるらしい。
最後のトリュフを口の中に放り込んで隼は肩をすくめた。
のばした足の右の太股には桜夜が、左のふとももにはミリアの頭がちょこんとのっかり、満足した顔で二人とも寝ている。
こうしていれば、天使なのになぁ。とおもいながら、口の中でチョコレートを転がす。
甘みに麻痺した舌に、かすかなチョコレートの苦みがここちよい。
隼は二人を起こさないように気をつけながら、脇に置いていた紅茶のカップをとった。
琥珀とも栗色ともつかない液体がゆらゆら揺れる。
それはまるで自分の上で混じり合う二人の髪の毛のように、きらめき、ゆらぎ、眠りのまどろみのようにたゆたう。
二人の天使の軽やかな寝息をききながら、隼はくすん、と笑った。
まあ、たまにはこれでもいい。
たまにはこんな甘い地獄があってもいい。
毎日だったら、困るけど。
紅茶を片手に、隼がみた空には、枝から離れた一枚の紅葉が、まるで紅い天使のようにひらりひらりと舞っていた。
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