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<東京怪談ノベル(シングル)>


黒い運転手


 台風13号が東京湾をかすめているこの夜は、まったくひどい雨だった。わたしが蔵から持ち出したものは忌々しいことに水に弱く、同じ蔵の中で忘れられていた古い油紙を幾重にも巻きつけて、その上バスタオルで包まねばならなかった。ただでさえかさばるものが、二周りは大きくなった。わたしはそれを大きなナイロン製のバッグに入れ、豪雨降りしきる夕暮れに、自宅を後にした。
 幸いにも、すぐにタクシーを捕まえることが出来た。個人タクシーであるようだった。アンドンは見たこともない形だった。円の中にねじくれた星があり、さらにその星の中央には、燃え上がる炎のような、目のようなものが描かれていた。文字らしきものはなかった。
「神保町まで」
「了解」
 運転手はおどけたつもりなのか、軍人じみた妙な返事をした。
 わたしは急いでいたせいで、その運転手にある奇妙な点は、何もその返事だけではないことに気がつかなかった。
 運転手は、全身黒ずくめだったのである。シャツはどこまでも黒に近いグレーで、ハンドルを握る手袋まで黒かった。
 しかしわたしは、車窓を殴るが如くに降りしきる雨を眺めながら、一心に荷物を抱きしめていたのである。それほどに、大切な荷物であり――金づるであった。
 運転手はひどく陰気な男だった。愛想笑いのひとつどころか、話さえしようとはしない。こんな夜であるから、車内の空気は重くなる一方だった。ラジオでもつけてくれればとも思った矢先、運転手がすうと伸ばした手は、空調の調節をしただけで終わった。
 わたしは、いつもならばタクシーの運転手とよく喋る方なのだ。しかしこの夜は――いや近頃は、誰かと明るく話をする気になどならなかった。わたしはここのところ毎日雨に降られているようだった。激動の時代に生まれ、大戦を経験し、数々の苦労を乗り越えてきたわたしではあったが、戦後の平和に呑まれすぎてしまっていたようだ。久し振りに迎えた危機はこたえた。一代で築き上げた会社が傾きかけている。わたしはこうして、神保町の古物商に、蔵にあったものを手当たり次第に売ってまで金を工面しなければならなかった。
 今夜もまた、蔵の中で古いものを見つけた。
 それにまつわる話などは思い出したくもなかったし、それがまだわたしの手元に残っていたことでさえ、わたしは半ば信じられなかった。
「……よく降りますね」
 不意に、運転手が口を開いた。わたしは不覚にも飛び上がってしまった。運転手はわたしのそんな様子を知ってか知らずか、静かに言葉を続けた。
「台風――13号だったか、14号だったか――ま、上陸しないのは幸いか」
 ひどく陰鬱な声だった。抑揚がないわけではなかったが、その低い声はどこか冷徹で、ぞっとするものだった。
「ひどい雨といえば、ある話を思い出します」
 運転手は急に、話を切り出した。
 わたしは知らず、荷物をいっそうきつく抱き寄せていた。


「もう昔の話ですがね。実際にあったことなのですよ。まだ中国に満州があったときの話です。あの頃の日本は、破竹の勢いで勢力を拡大しておりました。その頃に日本の軍人たちが大陸で何をしていたか――今では、ひた隠しにされている。教科書にすら載っていないのですからね。今の子供たちの中には、日本が戦争をしていたことさえ知らない子供もいるそうです。これでは中国人や韓国人が怒るのも無理はない。
 ああ、話がそれましたな。
 私が知っているのは、そういった歴史の影に葬り去られてしまった話のひとつですよ。ま、私が聞いていない話も山ほどあるのでしょうが。
 満州に近い辺りの日本軍の駐屯基地に、ひとりの若い士官がいたのです。あの頃は大尉だったか、すでに少佐だったか……忘れたな。ともかく、その士官は生真面目で、少々神経質ではありましたが、若い軍人からは人望を集めていたようです。
 しかし、若かったものですから、少し年かさの軍人たちは反感を持っていたらしいのです。あるときとうとう、30代の准尉が、一小隊を引き連れて、士官命令に背きましてな。ちょうど今晩のような大雨が降っているときの戦闘でした。件の若い士官は無用な殺戮を好まぬ性分でしたが――弾と時間が勿体無いという理由でね――准尉は違った。戦闘区域を離れたところにある辺境の村を襲撃して、それは惨たらしい虐殺を行ったのです。掠奪も行われました。だが当時は、戦闘に続く戦闘で忙しく、准尉のその日の行動は士官の耳に入ることがありませんでした。
 准尉が襲った村は、変わった風習を持つ海辺の村だったそうです。その土地だけの神を奉っていたとか。准尉たちの目には、その村の祭器や教典や神像が、珍しく、貴重なものに映ったのでしょう――彼らは村人の心の拠り所まで奪い取って行きました。
 その後、村はどうなったと思います?
 滅びたのですよ。
 規律に反した小隊が滅ぼしたのではない。村人が祈祷を捧げられずにいるうちに、神が怒り、神罰を下したのです。今では村は水の底です。降っていた大雨が原因だと考えることも出来る。しかし、村が出し抜けに襲ってきた津波に呑まれて、虐殺のわずかな生き残りをさらっていったのは確かなことなのです。
 恐ろしい話ですな。これが事実だと言うのですから。まあ、こんな恐ろしい話は、歴史の陰に隠れているべきなのやもしれませんがね」


 わたしは、生きた心地がしなかった。
 心臓が早鐘を打ち、息がつまり、荷物を抱える手はじっとりと汗で湿っていた。
 ――そうとも、事実だ。この運転手は事実を語っている。
 かつてわたしは少年兵として、満州に行っていた。鬼のように恐ろしかった准尉……子供だけはと哀願する母親……何かに祈りを捧げている老人……見たこともない神の彫像……すべてをわたしは知っている。
 そして、持っている。
 ナイロンのバッグの中、バスタオルの下、油紙の下で、それはおぞましくも蠢きだしているかのような錯覚を覚えた。
「おや」
 運転手が、不意に横顔を見せた。
 黒い瞳で、わたしの顔を伺っていた。
「顔色がよろしくないようですな――」


『顔色がよくないな』
 少佐はわたしの顔を覗きこみ、眉をひそめた。
『雨で風邪でも引いたか。明日も出撃だぞ。今日はもう休め』
 少佐などとはめったに言葉を交わせるものではない。わたしは緊張のあまり口の中がからからに渇いていた。准尉は、若い若いと言っていたが――わたしから見れば、少佐はずっと大人であった。
 切れ長の目の中で光るのは、黒曜石のような黒い瞳。薄い唇。こけた頬。
 厳しさと鋭さを帯びた顔立ち。
『お、お気遣い光栄であります、影山少佐!』
 わたしはつっかえながら礼を言い、まだ慣れない敬礼をしてみせた。


「――大丈夫ですか?」
 切れ長の目の中で光るのは、黒曜石のような黒い瞳。薄い唇。こけた頬。
 厳しさと鋭さを帯びた顔立ち。
 あのとき渇いた口の中を気にしながら見上げた顔、そのものだ。
 わたしは今になって、ようやくダッシュボードの運転手のネームプレートに目をやっていた。
『ありがとうございます 本日も安全運転です
 運転手は    影山 軍司郎    です』

「気がついたな」
 影山少佐は囁いた。
「ずっと探していたぞ。きみではない。きみが今抱いているものだ。それが何であるのか知らずに持っていたとはいえ、今までよく生きてこられたものだ。准尉は――終戦を待たずに死んだのだぞ。河に落ち、生きながら魚に食われてな」
 タクシーが止まった。
 だがここは神保町ではない。
 見知らぬ山奥だ――
「それを渡してもらおう。なに、……命など取らないさ」
 少佐はにこりともしなかったが、
 確かに、
 そのとき、
 嗤っていた。



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 本日未明、御前山中腹にて80歳代の男性を発見。
 服装はシャツ、スラックス。持っていたナイロン製のバッグには何も入っていなかった。
 この男性は昨日午後から行方がわからなくなっていた東京都の運送会社社長であると見られる。
 なお、この男性は深刻な錯乱状態にあり、事情を尋ねるのは難しい。
 『カゲヤマグンジロウ』なる人名を叫び続けているが、この男性の名前である可能性は極めて低い。
 精神科医の診断を必要とする次第。

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<了>