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<東京怪談ノベル(シングル)>


生き死に行くこと


 白き月光が輝く。幾多もの星が煌く。
 その美しい夜の光景とは対象に、どす黒い鮮血がポタリ、ピタリ……と、鮮明すぎるほどの音を立て、きしんだ床を――古い洋館の一室を濡らしていた。
 これは、若い女性の血。血は、鋭利な包丁という名の刃物から休むことなく落ちてくる。
 女性は怯えた目で、目の前で嫌な笑みを浮かべている男を捉えていた。
 男の手には、その包丁が握られている。そしてその矛先は、しっかりと女性に向けられていた。
 生きたい……!
 女性は、強くそう望む。
 生きたい、生きたい、生きたい――!
 そのときだ。
 女の前に、男の背後に、ぼんやりと影が見え始めた。
 その影は次第に人の形を取って行く。
「あなたの……望みを叶えに…来ました……」
 妖艶な旋律を帯びたテノールの声が其処に響く。
 今宵の月と同色の金の髪。目前の血の如き深紅の瞳。気味が悪いくらいに白い肌。
 男だった。長身の。
「私の名は、キリート・サーティーン。しがない出来損ないの吸血鬼ですよ」
 キリートと名乗った自称出来損ないの吸血鬼は、感情すらなく笑った。
「さぁ、願いを…おっしゃってください……」

 月夜の晩。
 キリートは、とある女の望みを叶えてやるべく動き出す。
「怯えることなど、ありません……」
 すでに女の血で全身を濡らしていた男の身体を、キリートはさらに赤く染める。
 男の身体を右手で貫くその動作は、まるで人形を弄るような手つきだった。
「残念、でしたね。私は一度に一人の望みしか叶えられないもので。あなたには……」
 恐怖・絶望・悲しみ・落胆――。
「感情が、足りなかったようです」
 スッと、あまりに自然にキリートは男を手放した。
 不思議なことに、キリートの腕からは鮮血はただ一滴すらも零れ落ちない。
 バタリとその場に倒れ込む男の姿は、よもや本物の壊れた人形同然であった。
「私は裏切らない、嘘をつかない……」
 夜の気配がある限り。
 四つの感情の何れかが誰かの心を支配している限り。
 死の臭いが、その場に存在する限り。
「あなたの願いを、叶えて差し上げましょう」
 キリートは、それだけ言い残してその場から姿を消した。
 この洋館にはもう、女が抱いていた尋常ならぬ恐怖心も、死の足音もない。
 キリートが女に服従する理由は、この館どころか、世界のどこにもありはしないのだ。
「800年……」
 夜の街に溶けながら、完璧になれなかった吸血鬼は呟く。
「800年の…月日が流れましたか……」
 長いはずのその月日を、吸血鬼は決して長いとは感じない。
 全ての吸血鬼にとって、時というものは平等で、生まれたときから――生み出されたときから、永久に不変のものなのだ。
 きっと、いつかキリートが死するときが来たとしても、彼は極自然にそれを受け入れるのだろう。
 今日の生きたいと願った女の生への執着、そしてそれから来る恐怖心は、キリートには一生理解し得ないものだ。
「人間とは…じつに、不便なものです。けれど、それ故に美しい」
 自分にはないものだからこそ、美しいと思えるし、尊いと感じられる。
 キリートが人間の願いを叶えるのは、そのようなところに理由がないとも言い切れない。
「また、出会いたいものです……」
 その言葉を最後に、キリートの身体は完全に闇へと消えた。

 彼が次に地上へ現れるのは、一体何時になるだろうか?
 吸血鬼が認めるまでに強い感情を弾き出せる者は、ほんの一握りしか存在しない。
 それも、きっかけがなければ発動することはなく、そのまま死に至る。
『楽しみに、しています……。あなたのその心と、邂逅を果たせる日を。そしてそのときは……是非、迷うことなく、私の願いを告げてください』
 吸血鬼の現れ夜。
 その日、この街にいた人間の臓器を集めていた殺人鬼が殺された。
 発見されたのは、無人の古い洋館の一室。
 殺された殺人鬼の隣には、夜が明けた今もなお意識不明のままの、身体中を傷つけられていた女がいた。彼女の臓器は、無事だった。
 この洋館での出来事を知る者は、いないと言ってもいいだろう。
 けれど……。
『さぁ、願いを、望みを……おっしゃってください――』
 キリートは、今もこの地球のどこかにいる。
 姿は見えない。だが、決してこの地球から、消えてなくなることはない。
 だって、ほら。
 夜は今日も、変わらずやって来るのだから。