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<東京怪談ウェブゲーム 草間興信所>


闇響


<序>

 台風が過ぎ、厳しかった残暑もようやく和らいできたその日。
 どこか浮かない顔で机に座り、くわえ煙草で珍しく書類の整理などをしていた草間武彦は、ふと、その机上端に置かれた一枚のメモに気づいた。
 そこにはどこかの家の周辺地図が、ひどく簡略化された形で描かれている。
 そういえば、と煙草を灰皿に移しながら思い出す。
 入院している知人の元へ尋ねて行った時、偶然そのメモが彼のスーツの上着のポケットから滑り落ち、自分の足元に飛んできたのである。
 何かと拾い上げて目を通せば、どこかの地図と箇条書きのメモ。
 どうやらそれは、仲介屋をやっている知人が自分の所へ持ち込む予定の依頼のメモだったらしい。

・深夜二時頃、遮断機が下りる音。
・車椅子の青年。
・外見、二十歳前後。
・踏切内で助ける。
・青年は見知らぬ者。

 以上が、箇条書きの内容である。
 そしてそこに描かれた地図は、どうやら依頼人の自宅周辺らしい。
 メモ書きから推察するに、おそらくは深夜の二時頃に遮断機が下りる音がしてうるさいから何とかしてくれ、という類いの依頼なんだろうが……地図を見たところ、依頼人の家の近くには踏切などない。
 大体、午前二時などという時間帯に、電車は走らないだろう。
 寝台列車などでもない限りは。
 メモの横に書かれていた住所周辺をもう少しまともな地図で調べてみたが、やはり付近に線路はなく、寝台列車が通っているというようなこともなさそうだ。
「……まあ、俺の所へ持ってくるつもりだったなら、やはりアレなんだろうが……」
 本人の望む望まざるを別にして、ここに集まる大半は怪奇関連の依頼。
 とすると、これもおそらくは例外ではないのだろう。
 自分の足元に落ちてきたのもきっと、何かの思し召し。とある事情で眠り続けている知人の代わりに、先に手を回しておいてやっても感謝されこそすれ文句を言われることはないだろう。
 草間はメモを片手にしばし何か考え込むような眼差しをしていたが、やがて灰皿に置いた煙草をもう一度くわえなおし、その手を電話へと伸ばした。


<白い部屋で朝食を>

 季節はすっかり秋へと移行したのか――東京、今朝の気温は二〇度を少し越えたくらいだった。
 上に一枚何か羽織らなければ、思わず両腕で自分の身体を抱くような仕草をしてしまう。
 吐く息こそまだ白くはないが、そうなる日も近いかもしれない。
「そうなるまでに起きてくれればいいんだけど……」
 呟きながら、シュライン・エマが足を踏み入れるのは、巨大な白い建物。
 都内の総合病院だ。
 受付の前を素通りし、慣れた足取りで向かう先は、知人が入院している部屋。
 ちょうど朝食の配膳中だったのか、配膳車が廊下の真ん中に置かれている。てきぱきと動くヘルパーらしき女性たちの邪魔にならないようにその脇を通過し、最奥にある個室のドア前で足を止め、軽くノックする。
 中から返事は、ない。
 短く吐息をつき、シュラインは無言のままドアを開ける。
 その部屋のネームプレートには、
「鶴来 那王」
 そう、書かれていた。

 室内は、悲しいほどに白かった。
 シュラインがその部屋の白さに耐えかねて持ってきた、ベッドの脇に置かれたサイドボードの上にあるバスケット入りの花アレンジメントが、その場に唯一彩りを添えている。
 薔薇、ヒペリカム、カーネーション、吾亦紅、ブプレ、ガーベラ。
 暖色で纏められた秋の花束は、まるで室内に太陽を連れて来たかのようだった。
 ……鶴来が倒れたのは、夏。まだ暑い盛りの雨の日。
 あれからずっと、彼は眠ったままだった。
 手に持っていた箱を、あらかじめサイドボードに置いてあった箱の横に置き、シュラインはスーツの上着を脱いで椅子の背にかける。その青い瞳は、ベッドの横に置かれている心電図へ向けられていた。
 規則正しく、波形を写すモニター。
 それだけが、唯一今彼が生きていると証明しているもののようだった。
 毎日、同じように波打つ線。単調に、単調に。
 その変化のなさが良い事なのか悪い事なのか、今はなんとも言えない。
「…………」
 無言のまま、細い吐息を漏らした。
 連日、シュラインは事務所へ行く前にここを訪れている。今日は一度事務所に顔を出してきた後だ。
 自分の目の前で倒れてしまった、彼。
 一体、いつ目覚めるのか――…。
 それが気にかかり、毎日のように見舞いに訪れていた。彼の好きな甘いお菓子を手土産にして。
 モニターから鶴来の顔へと視線を移動させる。
 ――夏の日から比べると、少し、髪が伸びただろうか?
 そっと手を伸ばし、前髪をかき上げる。さらりと指先に絡む、癖のない髪。
「早く起きてくれないと、鶴来さんが食べてくれないお菓子を代わりに食べ続けるから次に会った時ぶくぶくに太っちゃってるわよ? 私」
 穏やかに眠る彼に向けて話しかける。
 医者の話によると、そうやって何気ない事でも話しかけてやることが、今の彼には大事かもしれないというのだ。昏睡状態に陥っている原因が不明な以上は、些細な事でもいい。目覚めるという可能性が少しでもあるのなら、それを実行してやるまでだ。
 けれど――彼に反応は微塵も見られない。
 額にそっと手を置くと、その手のひらに確かなぬくもりが伝わってくる。
 生きている。
 今はただ、それだけの事で安堵できる。
 いや、「それだけの事」ではない。
 命がある。それはきっと、何よりも尊い事。
「お、やっぱり来てたのか」
 いきなり遠慮呵責なく病室のドアが開かれた。驚いて振り返ると、そこからひょいと顔を覗かせたのは草間武彦だった。ドアを後ろ手に閉めながら、シュラインの傍らへと歩み寄ってくる。
「毎日ご苦労だな」
「大したことできないもの。顔見に来るくらいしか」
 言いながら鶴来から手を引き、今日持ってきた箱の横に置いてある、昨日持ってきた箱を手に取った。
「武彦さんも食べる? 抹茶のロールケーキなんだけど」
「ああ、朝飯まだだしな」
 持ち込んだコーヒーカップにインスタントコーヒーを淹れ、草間に差し出す。そういえばこんな時間に彼がここに来るのは珍しい。事務所はおそらく零に任せてあるんだとして……一体どうしたのだろう?
「何か鶴来さんに用だったの? それとも私に?」
「あー、ほら、こないだここでコイツの服からメモが落っこちただろ」
 誰かの依頼が書き付けられたメモの事である。思い出し、シュラインは切り分けたケーキを紙皿に乗せて草間に差し出しながら頷く。
「それがどうかしたの?」
「さっきその依頼を任せて来たから、報告にな。寝てるから来ても意味はないとは思ったんだが、まあ一応な」
「あのメモ書きの依頼を任せたの?」
 あまりにも情報が少なすぎるアレを、一体誰に振ったというのか。
 心配そうな顔つきになるシュラインに気づかず、ロールケーキを口に運びながら草間はあっけらかんとした顔をしている。
「ま、何とかしてくれるだろ」
「何とかって……いい加減なんだから」
 苦笑し、ちらりと鶴来を見る。
 しばらくその顔を眺めて、シュラインは草間へと顔を向けなおした。
「私も行くわ、その依頼の調査」
「え? ああ、それは別にいいが」
 所長の許可を取り付けると、シュラインは気合を入れるように軽く拳を作った。
「よし、それじゃ仕事仕事! ……とその前に」
 今はとりあえず、ここにあるロールケーキを全て片付ける方が先である。
 もしかしたら、甘い匂いに誘われて彼が目を覚ます……なんて事があるかもしれないから。
 それも、今となっては欠かすことが出来ない日課の一つなのである。


<合流>

 膝の上に置いた地図帳にしばらく視線を落としていたシュラインは、その青い双眸を正面にあるパソコンのモニターへと移動させた。そして素早く片手でキーを叩く。
 今シュラインは、被害社宅近くにあった図書館に来ていた。調べ物の為である。
 いつもは胸に下げている眼鏡をかけたシュラインは、口許に手を置いて静かに吐息をもらした。
「……ないわね」
 マウスを操りながら検索を繰り返すが、結果は同じだった。
 調べていたのは、この辺りに昔、線路があったかどうかということである。被害者の訴えにあるのは「遮断機の音」だけであり、電車の音については書かれていない。確かに遮断機のあの音はやかましいが、それと同じくらいに電車が走る音もうるさいと思うのだ。だが、それについては何も言っていない、ということが気になったのである。
 調べてみたが、線路は今現在走っているものしかないようだ。
 また一つ吐息をつくと、シュラインはインターネット閲覧を終了し、地図帳を閉じて立ち上がった。
「さて、と。それじゃ次にかかりますか」
 呟きと共に、なるべく音を立てないように気を使いながら椅子から立ち上がった。

「この近くに踏み切りなんてないもの。遮断機の音なんてするわけないじゃないの」
 いやあねえと手を振り豪快に笑うおばさんに、シュラインは片手を頬に当て、浮かべそうになる苦笑をどうにか微笑へとすり替えた。
「それじゃこの近辺で車椅子の青年を見かけたことは?」
「んー……見たことないと思うわよ?」
「そうですか……夕飯前のお忙しい時にどうもスミマセンでした」
「あらあらいいのよー。今日のうちのご飯はくりごはんなんだけどねー」
 いとまを告げて去ろうとするシュラインに構わず、聞いてもいないことをまたペラペラと喋りだす主婦。
 逃げるに逃げられない。まるで何かの罠のようだ。
 図書館を出たシュラインは、他にも遮断機の音を聞いた人がいないか、車椅子の青年を見かけた人はいないかどうかなどを被害者宅周辺で聞き込んでいたのだが。
 最後の最後の家――被害者宅の隣家で、おしゃべりなおばさんに捕まってしまったのだ。
「それでね、うちの子ったら……」
 おばさんが更に口を開きかけたところ。
「シュラインさん?」
 割り込むように艶やかなバリトンが耳に届き、思考に沈んでいたシュラインは顔を声の方へと向けた。
 薄暗くなった空を背に、端正な足取りで歩いてくる長身の青年が二人。二人とも顔見知りの青年だった。
 ヴァイオリンケースを手にしている方が、香坂蓮。そしてもう一人、こちらに手を上げているのは湖影虎之助だ。さっき声をかけてきたのも彼である。
「あら、湖影くんじゃない。この依頼請けてたのね、やっぱり」
「やっぱりって……」
「鶴来さんの依頼だものね」
 参ったなと呟きながら苦笑を浮かべる虎之助。この様子だと武彦さんにも何か言われたのかもしれないと思い、それ以上つっつくのはやめにしておく。そんな彼女の代わりに、横合いから突っ込む声が一つ。
「あらあらあら、もしかしてモデルの湖影虎之助じゃないの?! まあまあこんなところで会うなんて! サインもらっちゃおうかしら!」
 なにやら興奮気味にはしゃいでいる主婦。虎之助はこのおばさんから逃げるに逃げられない状態に陥っているシュラインを救出する気持ちで声をかけたのだが、この調子では巻き込まれてしまいそうである。はあ、と苦笑まじりに、シュライン同様適当に相槌を打つことになる。
「うちの娘も大ファンなのよ! それにしてもこれだけ美男美女が揃えば壮観よね! もちろんあたしも含めてよ」
 言って、何が面白いのか分からないが大笑いする。どうしたもんかとシュラインと虎之助は目配せしながら、引きつったような笑いを浮かべた。シュラインにしてみたら、普段ならこういう場合いい加減にしてくれときっぱり言える性格なのだが、今回は一応調査に協力してくれたのだから邪険に扱うわけにもいかないというところ。虎之助にしてみたら、歳を経ていても女性は女性。邪険に扱うのはポリシーに反する、と言うところだ。
 が。
 そんな思いやりなどまるで無視した冷淡な声が、今まで黙って様子を見ていた蓮から発せられた。
「悪いがアンタのくだらない話に付き合っている暇はない。暇つぶしの相手なら他を当たれ」
 虎之助ほど低くはないが、よく通る声だった。ただ、愛想というものを見事に削ぎ落とした、冷めた声音である。
「こ、香坂くん」
「お、お前……」
 まさしく言いたかった事を代弁してくれた彼にシュラインと虎之助は同時に視線を向けたが、有難うなどという言葉を今ここで吐く訳にも行かず、すぐさま主婦の方へと取り繕うような微笑を浮かべながら顔を戻した。
「す、すみません、本当にありがとうございました」
「サインはまた今度ということで……」
 それではと言い置き、二人は無表情な蓮を引きずるようにしてその場から素早く移動した。

「香坂くん……あんた言いたいことハッキリ言いすぎ」
 主婦が自宅に引っ込んだのを見てから、シュラインは苦笑しながら小声で言った。虎之助も呆れたように肩をすくめる。
「女性に対しアレはな……」
「あの女のどうでもいい話より仕事の方が優先だろう? 時間の無駄だ」
 あっさりと言う蓮に、罪悪感は微塵もないらしい。
 と、その時。
「シュラインさん、香坂さん」
 またしても誰かに名を呼ばれ、シュラインと、そして蓮は声の方を見やる。
 蓮は特に何を言うでもなかったが、シュラインはよくよく覚えのある顔に笑みをこぼした。
「あら、今野くんじゃない」
 青いパーカーを羽織った穏やかな表情の背の高い、少年とも青年ともつかない年代にいる彼の名を呼ぶ。声にこたえるように、彼――今野篤旗は手を振る。
 その傍らには、濃紺のブレザーに白いセーラーカラーが覗く制服姿の、物静かそうな楚々とした少女がいる。砂山優姫だ。長い黒髪が吹いて来る冷たい風に揺れている。視線に気づき、彼女は小さく会釈する。
「今野くんたちもこちらにご用かしら?」
 シュラインは肩越しに親指で依頼人宅を指した。
「そうです。直接話聞こ思て」
「じゃあ丁度よかったわね。それじゃ全員揃ったところで」
 代表するように、シュラインが門柱に取り付けられているインターホンを押した。
 が、待てども待てども返答はない。それに、優姫がぽつりと言った。
「電気……消えているようですが」
 確かに、家の電気は全て消えているようだ。どうやら家人は留守にしているらしい。
 しばらく待ってみようかという意見も出たが、とりあえず今日は約束も入れていなかったし仕方ないということで、また明日出直す事になった。


<遭遇>

「寒くなってきたわね」
 依頼人宅からの帰り道。
 シュラインはすっかり暗くなった空に、ぽつんと炎を灯したように光っている赤い星――火星を見上げながら、共に歩いている篤旗と優姫に声をかける。
 蓮と虎之助は帰る方向が違ったため、今ここに居るのは三人だけである。
「空気が澄んでいるから……星がよく見えますね」
「そう言うたら今年は火星がえらい地球に近づいとる年らしいですね」
「こないだ月と火星のランデブーとかニュースでやってたわね、そういえば」
「ロマンチックですね……」
 ぽつりと呟いた優姫に、篤旗が顔を向ける。それに、シュラインが口許に手を当てて笑った。
「私、お邪魔だったかしら?」
「そそ、そんなことあらしませんよ!」
「こんな時間に女性一人で歩くのは危ないですし」
 わずかに頬に朱を散らせながら慌てて答える篤旗に対し、いつもどおりに落ち着いた様子で、優姫は淡々と言った。だがわずかにうつむいた事で、彼女もそれなりに照れているのだと察したシュラインは、微笑ましいその二人に目を細める。
 駅に向かう途中の踏み切り前。遮断機は下り、カンカンと警報機が鳴り響いている。
 まだ依頼主に会っていない今、一体何処の踏み切りで青年を助けたのかは不明だったが――踏切前に立ち止まった時、三人は同じところに視線を留めていた。
 それは踏切内。遮断機の傍に設置されたライトで四方から照らし出されているのは。
 青いパジャマに片足にギプスをはめ、車椅子に乗った、青年。
「嘘やろ……!」
 驚きに目を見開きながら、篤旗が叫ぶ。そしてその直後、何かを考えるより先に踏切内に駆け込んだ。シュラインと優姫も、一瞬驚きに動きが止まったが、すぐさま篤旗と同様、彼の救出に向かう。
 理屈ではない。人の命が目の前で危険にさらされている以上、黙って見過ごす事はできなかった。
 何かに引っ掛かって動けないのかと思ったが、押してみると車椅子は容易く動いた。すぐにシュラインと優姫が遮断機の竿を手で押し上げる。
「早く!」
「篤旗さん……!」
 電車のライトが迫り来る。篤旗は車椅子を押して思い切り駆け出す。
 篤旗が車椅子と自分を踏切外に置き、シュラインと優姫も踏切から抜け出したその直後、その後ろを電車が走り抜けて行った。
 間一髪、だった。
「……どういう理由があるんかは知らへんけど」
 車椅子の取っ手から手を放し、篤旗は厳しい顔で青年の横から顔を覗き込む。
「轢死したら、その死体片付けるんがどれだけ大変なことかて知ったはるか?」
 篤旗のその顔には、怒りの色が滲んでいた。
「死体の一欠けらも残さんように、大勢の人がかり出されるんや。どんだけの手間がかかる思てますん? 死体片付けるんかて気分ええもんやあらへんでしょ」
 自分の命を自分で断とうとしたと言うことについてと、他人の迷惑を顧みなかったということ。将来医療に関わるべく現在大学で勉強をしている彼にとって、それは許せる事ではなかった。
 青年は、ただ黙って深くうなだれている。
「……どういう事情があるのかは知らないけど、確かに彼の言うとおりよ。ここで死ぬと、たくさんの人に迷惑がかかるわ」
 死体を片付ける人、電車が止まって困る人、鉄道会社の人。
 そして。
「貴方を知る人にも、もちろん迷惑かかる。迷惑だけやない、悲しませる事にもなるんやで?」
 シュラインの言葉の後を継ぐように、篤旗が言う。
 優姫は、そんな篤旗を黙って見ていた。
 普段はとても穏やかな彼だが、命に関わることになるとそんな彼からは想像できないくらいに激昂したりする。いつだったか、自分もこうして彼を怒らせた事があったと思い出し、何も言うことができなくなっていた。
「こないなとこで自殺なんかしたあかん。畳の上で死ぬんが、一番人に迷惑もかからへんし……」
「誰が自殺?」
 その時、それまで無反応だった青年が弾かれたようにぱっと顔を上げて篤旗を見た。その顔には怪訝そうな表情が浮かんでいる。
「あんたら誰? っていうか、ここどこ? 俺、何でこんなとこにいんの?」
「へ? なんでて……自殺しようとしてたんちゃいますん?」
「あのな。俺はただ足骨折してるだけだ。それだけなのになんで自殺なんかしなきゃなんねえんだよ」
「貴方、自分の意思でここに来たんじゃないの?」
「は?」
「……踏切の中におられました……。遮断機の下りた、踏切に」
 シュラインの問いに不思議そうな顔をした青年は、続いた優姫の言葉に目を見開いた。そしてパニックに陥ったように頭を振る。
「なに言ってんだよ、俺は、トイレに行こうと思って病室出て……こんなとこに来るつもりなんかなかったよ!」
 どういうことだ?
 青年が嘘を言っているようでもない。大体、さっきまでの黙り込んでいた青年と今のこの青年とでは、雰囲気が違いすぎる。
 わけわかんねえよと叫ぶ青年を、三人は険しい表情で見た。


<怪・音>

 その夜。
 眠りについていたシュラインは、はたと何かの気配を感じて目を覚ました。
 なんだろうと身体を起こす。
 と、どこからか、かすかに何かの物音が聞こえてきた。
「何……」
 最初は、シュラインの超聴覚でもよくわからなかった。けれど、それは次第にはっきりと聞こえるようになってくる。
 ……ん、かん、かん、かん……。
 一定のリズムで鳴り響く、聞き覚えのあるその音にシュラインは目を瞠る。よくよく周囲を見渡してみるが、そんな音を発するものはここにはない。
 自宅近くにあることはあるが、と思い、闇の中、文字盤が蛍光加工されている目覚まし時計へと目を向ける。
 午前二時。普段こんな時間にこの音――遮断機の音などしないのに。
 いや、まて。
 ……午前、二時?
「っ!」
 かん、かん、かん、かん……。
 静かに耳を澄まして聴いていると、音は、やがてゆっくりと遠ざかって行った。
 ……残されたのは、深夜の静けさだけ……。


<その違いは>

 依頼人は、三〇代前半の男性だった。
 柔道でもやっていそうながっしりとした体格に、強い眼差しと太い眉、そして顔の輪郭が四角いせいか、ひどく頑固そうに見えた。が、笑うと頬にえくぼができ、がらりと印象が変わる。
 彼は、胡坐を組んだ膝の上に乗せた三歳くらいの娘の頭を撫でながら、草間興信所から突然依頼の解決に訪れたという五人組を、不思議そうな顔で見回した。
 それも当然だろう。
 見目麗しい女子高生に穏やかで優しそうな、人好きのする顔立ちの大学生、テレビで顔を見かけたことがある美形モデルに、秀麗な容貌のヴァイオリニスト。きりりとした中性的な美しさを持つ女性は「秘書だ」と言われれば納得できそうな雰囲気。
 そんな、一見なんの接点もなさそうな五人組が依頼解決にやって来るとは……驚かない方がおかしい。いや、驚きというよりは、胡散臭さを感じているのかもしれないが。
 けれど、いい加減毎夜の如く起きる怪奇現象に疲れているのか、彼は助けて貰えるのならなんでもいいと思ったらしく頭をゆっくりと下げた。
「どうかよろしくお願いします。依頼をお任せしたかたからもぱったり連絡がなくなって、途方にくれていたところだったんです」
「ああ……彼、ちょっと事情があって今連絡が取れないんですよ。代わりに私たちが、もう少し詳しいお話を伺いたくて来たんですが」
「ええ、それはかまいませんが……何からお話すれば?」
 シュラインの問いに、男は首を傾げる。
 今、彼らは依頼人宅の客間にいた。昨日のように入れ違いにならないよう、あらかじめシュラインが依頼人に電話をかけ、在宅の時間を聞いていたのである。
 現在、午後八時。
 近所に夫婦で弁当屋を出していて、帰りはいつもこれくらいになるのだという。昨日訪れた時には、まだ店のほうにいたらしい。
 シュラインから依頼人の在宅時間の連絡を受けた面々は、自然と午後八時にこの家の前に集まってきていた。ほぼ全員が同じ時刻に集まったので、揃って依頼人の前に現れた形になる。最初に玄関で応対してくれた夫人はにこやかに彼らを中に招き入れたのだが、主人は――先程の通りである。
 優姫が、草間から預かった仲介人のメモを丁寧な手つきで座卓の上に広げた。
「この……青年について、もう少しお聞きしたいのですが。ここに書かれている「青年」というのはすべて同じ人についてのことなんでしょうか?」
「ええ、そうです。全然知らない青年だったんだけど、知らないからって、電車に轢かれるのを黙って見てるわけにもいかないし……。車椅子だったから引っ掛かって動けないのかと思ったけど、どうもそうじゃなかったみたいで……」
「助けた時、彼は何か言いませんでしたか?」
 虎之助が問う。依頼主は少し考え込むように視線を宙へ向けたが、すぐに頭を振った。
「いえ、何も」
「お礼も言わへんかったんですか?」
「ええ。本当に何も言いませんでしたよ。まあ別に私も礼を言われたくてやったことではないですし、気にはしませんでした」
 その言葉に、篤旗は短く溜息をつく。
 優しい心の持ち主だ。本当なら、そこで毒づくくらいのことしてもおかしくはないのに。
「ただ」
 言を継ぎ、依頼主が苦笑を浮かべて娘を見下ろす。
「何も言わなかったんですけど、あの青年……去り際に物凄い目つきで私を睨んできて……。まるで助けたことが迷惑だったかのような……」
「……昨日のあの方はいろいろお話されていましたよね……」
 ぽつりと言った優姫の言葉に、シュラインと篤旗が頷く。あれとはやはり別人なのだろうか?
 そう思った所に、虎之助が怪訝そうな顔をして口を開く。
「もしかして三人も踏切で車椅子の男に会った?」
「え? 湖影くんも?」
「けど、俺が助けた男は一言も喋らなかったんだけど……」
 シュラインの問いに頷いて答えてから首を傾げる虎之助。俯いたまま何も喋らず、しまいにはするすると車椅子を自分で動かして無言のまま去ってしまった、陰鬱そうな青年。それはなんとなく、依頼主の言っている青年に近いような気がする。
「せやけど、僕らが助けた人も、最初は何にも喋らはらへんかったんです」
「そうね、今野くんが自殺はダメだって言ったら急に正気に戻った、って感じだったわね」
 ちらと、虎之助が、少し離れた場所で壁に背を持たせかけて座っている蓮を見やる。彼はさっきからずっと何を言うでもなく無言で、傍らに置いたヴァイオリンケースの上に置いた自分の手を見ていた。が、視線に気づいたのか、ふと顔を上げて四人の方を見やった。
「あんたたちが助けた男はどんな格好をしていた?」
「車椅子に乗ってて、青いパジャマを着てたわ」
「あと……片足にはギプスをしておられました」
「……俺たちが見た男は、車椅子に乗り、水色のパジャマを着ていた。膝には茶色のストール……」
「ギプスはなかったな、確か」
 虎之助の補足に、篤旗が首を傾げる。
「ちゅーことは、別人?」
「死んだ後に、自分が死んだ時と同じ状況を続けるという話はよく聞くが……それか?」
 青年が依頼人に助けられた後に、なおそこで自殺に挑んで事を成し、この世を去っていたとすれば、の話だが……どうなのだろうと虎之助は顎先に指を添えて篤旗同様に首を傾げた。
 人差し指を頬に当てて、シュラインがその言葉に眉を寄せる。
「でもそれなら、わざわざ遮断機の音を鳴らしに来るのはおかしくない?」
「その場合、踏切で亡くなられたとしたらその亡くなられた場所になんらかの影響が出るはずですが……」
 言って、優姫は顔を依頼人へと向けた。さらりと肩からまっすぐな黒髪が零れる。
「あの……突然で申し訳ないのですが、午前二時にここで様子を見せていただくわけにはいきませんか……?」
 解らないのなら、直接体験してみた方が早いだろう。シュラインも同じ事を考えていた。
「そうね、そのほうが早く原因を突き止められるかもしれません。音が聞こえてきたら、その音を追う事もできる。それに、霊などの仕業であれば」
 ちらりと、虎之助と蓮へと視線を送り。
「彼らになら、見えますから」


<相容れない思い>

 依頼主は、あっさりと彼らの滞在を承諾してくれた。
 一応男性陣と女性陣の部屋を分けて寝床の用意をしようかとも申し出てくれたが、目的はあくまでも目的は午前二時の怪音の調査である。調査が終わり次第帰宅するからということで、依頼主の申し出を断った。
「さて」
 依頼人の家族にはいつもどおりの生活を送ってもらうことにし、五人は和室の客間に詰めていた。広めの部屋には中央に座卓、床の間には秋の花が生けられた花瓶と、流麗な文字が描かれた掛け軸と本物かどうかはわからないが美麗な鞘に収められた日本刀が大小二本、飾られている。
 夫人が持ってきてくれたインスタントコーヒーの用意一式で面々にコーヒーを淹れながら、シュラインが座卓の上に置かれた目覚まし時計へ視線を送った。
 針は、一時四五分(もちろん午前である)を差している。
 依頼人たちはすでに眠りについていて、邸内にはしんとした空気が満ちている。
 わずかに耳を澄ませ、類い稀なる鋭い聴覚で妙な音がしないかと気を配るが、居間のところまだ変化はない。
「もうそろそろのはずだけど」
 シュラインが淹れたコーヒーをそれぞれに配りながら、優姫がふと思い出したように口を開いた。
「そういえば……昨夜の二時に、私も遮断機の音を聞いたんです」
 その言葉に、あ、とシュライン、篤旗、虎之助が反応した。その三人も、同じように音を聞いたのである。
 ただ一人、蓮だけが無反応だった。
「……お前は?」
 虎之助が尋ねると、口をつけかけていたコーヒーカップを下ろして蓮は緩く首を振る。
「いいや、俺は何も聞かなかった」
「聞き逃しはったとかやなくて?」
「その時間、俺は防音の効いた部屋にいたが、そのせいで聞き逃したとは思えない。事を起こしているのが霊の類いであるならなおさらな」
「……どういうことかしら」
 聞いた者と聞かなかった者。そこに一体どういう差があるというのか。
 その時ふと、何か思いついたように虎之助が座卓に頬杖をついて蓮を見やった。
「そういやお前、あの時助けようとしなかったよな?」
「……ああ」
 答えた蓮から視線を外し、その黒い瞳でシュライン、篤旗、優姫を見る。
「そっちは全員で助けたんだよね?」
「ええ。実際に助けたのは今野くん、私と砂山さんはその手助けみたいな感じだったわ」
「なんで香坂さんは助けはらへんかったんですか?」
「電車が迫っていた。見も知らぬ、しかも自殺しようとしているとしか見えない者を命がけで助けるほど、俺はお人よしでも聖人君子でもない」
 感情をあまり覗かせない、冷めた声で蓮は言い放つ。わずかに篤旗が眉を寄せた。が、特に何も言わなかった。
 確かに、普通ならそうするかもしれない。そう思ったのだ。
 人と人とのつながりが薄くなってきた昨今、自分の命を懸けてまで他人に何かしてやろうとする人間の方が、少ないのかもしれない。
「……もしかして、それが鍵なんやろか……」
 ぽつりと呟いた篤旗の声に、篤旗の前にコーヒーを置いた優姫が目を瞬かせる。
「篤旗さん……?」
「あ、いや……香坂さんは助けへんかった。僕らは助けた。助けた時、みんなどない思てはりました?」
「私は……目の前で危ない目に遭っている人を放ってはおけない、助けないとって……」
「私も同じような感じね。理屈じゃないもの、人の命を助けるのって」
 コーヒーカップを両手で包み、シュラインが優姫に同意する。
「俺も……まあ男だったからちょっとやる気は減ったけど、それとこれとは別だし。人の命の前ではやっぱり、理屈なんて二の次だろうし」
 どこかの誰かはそうじゃないみたいだが、と棘のある声で言い、虎之助はコーヒーをすする。言われた蓮の方はというと、一向に気にする様子もなく片膝を抱えて伏目がちに畳の上に視線を落としている。
 三人の意見を聞き、篤旗は頷いた。
「僕も、とにかく助けなあかん思て飛び込みました。人の生き死には、その人自身がどうにかしてええことちゃう思てましたし」
 けれど。
 その「助けなくては」という思いが助けた青年にとって、邪魔なものだとしたら。
 押し付けがましい思いでしかないとしたら。
「助けなかった香坂さんは、自分の意思を尊重したと……彼はそう思ったということですか……? だから香坂さんには音を聞かせなかった、と?」
 優姫の言葉に、再び篤旗は頷く。そして蓮を見た。
「電車来るまでに余裕あったら香坂さんも助けに行かはったでしょ?」
「……多分な」
「だが自殺しようとする奴が電車が来るまでに余裕がある時に線路に入り込んだりはあまりしないよな。邪魔されるの目に見えてるし」
 頬杖をついたまま呟く虎之助に、シュラインが頷く。
「だからわざわざ彼は電車が来る直前に姿を見せる。そして、それを見たほとんどの人はきっと、香坂くんと同じ態度を取るでしょうね」
 だから、他に踏切の音を聞いている者がいないのだ。そんな彼を助けようとするものはごくわずかだろうから。聞いて回ったところで、見つかる確率はごくわずか。そして今回はその確率から外れてしまったのだろう。
 だが。
 すると依頼人が助けた青年は、すでに死した者だったのか、それとも生きている者だったのか?
 ……と、その時。
 ぴくりとシュラインが何かに反応したように顔を上げる。彼女の超聴覚が何かの音を捉えたのだ。
 続いて、蓮も抱いていた片膝を放し、何かを探すように視線を動かす。
 ――空気を震わせている、微音。
 二人の反応に、篤旗と優姫、虎之助も押し黙る。優姫が目を時計に向けた。
 午前二時。
 近づいてくる、音。
 ……ん、かん、かん、かん、かん……。
 蓮を除く四人にとっては、昨夜も聞いた音――遮断機の音だ。
「来よったか……」
 呟く篤旗の声。その声よりも音は大きくなっている。遮断機の本体に耳を当てているかのようなボリュームだ。
 痛そうに顔をわずかにしかめながらシュラインが片耳を手で覆う。蓮も左耳を押さえて目を眇める。
 だが、両耳共は覆わない。ゆっくりと立ち上がり、二人は片耳で音の出所を捉える。
「外からじゃなかったのね」
「ああ。……いるな」
 二人の青い瞳が、部屋の片隅を射抜く。
 虎之助も、同時に同じ場所を見た。そこから気配を感じたからだ。
 昨日の青年から感じたのと同じ気配を。
「そこにいるんですか……?」
 視線を同じ位置――何もない場所に止めたまま動かない二人に、優姫が尋ねる。小さく頷いて、虎之助が静かに問いかけた。
「なんでこんなことするんだ? ここの家の人はお前を助けようとしたんだろ?」
 虎之助の黒い瞳には今、一人の青年の姿が映っていた。車椅子には乗っていないが……白いパジャマ胸の辺りが血の色に染まっているのが気になる。
 問いかけに、青年は目を見開く。そこには憎悪が宿っていた。口を動かし、物凄い形相で激しく怒鳴る。
 その気に誘発されたかのように、近くにあった花瓶が倒れた。がたりというその音に、優姫が小さく肩を揺らせて振り返る。と、ふわふわと活けられていた花が宙に浮いているのが目に入る。水を吸いやすくするために斜めにカットされた茎側が、そろってこちらを向いていた。
 慌てて、優姫は右の手のひらを花の方へと向ける。と同時に花が彼らの方へと飛んでくる!
「優姫ちゃん!」
 茎が鋭い切っ先となり、飛来する。すぐさま篤旗が優姫をかばおうとするが、彼らに届く寸での所で、全ての花が空中制止する。
 優姫の長い黒髪が、水に浮くようにゆうらりと宙に浮かび上がっている。
 開かれた手のひらから発されるのは、優姫の力――念動力。
 その力で、花は動きを止められているのだ。
 まっすぐに、妖しくも神々しく、紫水晶のような色に染まった瞳で花を見据える。
 篤旗とシュラインは、優姫の力が効いている内にその空中で止められている花を両手で引っつかんで捕らえていく。
「で、何て言ってるの?」
 すべて花を握り終えると、シュラインは虎之助と蓮に声を飛ばす。優姫が念を止めると、その花はまるで生き物のように手の中でうねうねと動き出した。かなり気持ち悪いが、手放すわけには行かない。篤旗が鋭く舌打ちした。気持ち悪いが、耐える。
 シュラインの問いに、蓮が冷めた眼差しで振り返った。
「誰も助けてくれとは頼んでいない、だと」
「むしろ助けたせいで自分がどれだけ苦しんだかお前らにわかるか、だって」
 虎之助も青年の言葉を代弁し、小さく肩をすくめた。
「そんなこと言っても、あの状況だったら助けるだろ。コイツは別だけどさ」
 年下の男にコイツ呼ばわりされた事にわずかに眉を寄せたが、構わず蓮は叫び続けている青年の声を代わりに唇に乗せる。
「助けられた事で自殺できなくなった。自殺を計ったと知られて、自分は監視されるようになり、死ぬに死ねなくなった。あの時死ねていれば、一瞬で楽になれたのに」
 きぃん、と。
 異質な力が働いているのか、空気がわずかに音を立てる。はっと篤旗が優姫の腕を引いて自分の方へと引き寄せた。
 刹那。
 優姫が居た場所を、花瓶が宙を飛びながら横切っていった。もしそのまま優姫がそこに立っていたら頭にぶち当たっていただろう。
 どうやら、青年の怒りが周囲にある物を動かしているようだ。鴨居の辺りにかけられていた額縁が外れ、また宙を走る。さっき飛んでいった花瓶も、Uターンして戻ってくる。
 双方から挟み打ちにされ、篤旗が腕の中に優姫を抱き込んだ。
 が、その腕の中で、優姫は双眸を見開き、両手をそれぞれ飛んでくる物の方へと向けた。
 双方に、念を放つ。
 何かがはじけるような音がして、花瓶と額縁が畳の上に叩きつけられた。
 ――力では、優姫の方が圧倒的に上らしい。全力を注ぐ事もなく、飛んでいる物は優姫の力の前に屈する。
 一方、シュラインの方にも物は飛来していた。一つはコーヒーカップだ。背で束ねた黒髪を揺らせながら慌てて身を翻してかわすが、執拗に追ってくる。
「このっ!」
 思わず座卓の上にあった丸盆を手に取り、思い切りそれを、ハエタタキの要領で叩き落す。硬質な音がしてカップが割れた。
 が、ほっとするのも束の間。
「シュラインさん!」
 虎之助の声に顔を上げると、別のコーヒーカップがシュラインめがけて飛んで来ていた。突然の事に反応できず、頭を腕でかばって目を閉じる。
 が。
 シュラインの顔に当たる手前で、虎之助がそれを蹴り飛ばした。カップは別の方向へとくるくる回りながら飛んで行く。
「あ……ありがと、湖影くん」
「どういたしまして」
 こんな時でも余裕の笑みを浮かべる虎之助。
 が。
「余裕ぶっている場合か?」
 静かな声が間近で聞こえた。声のほうを見ると、蓮がいつのまにか飛んで来ていたらしい鞘に入ったままの日本刀を引っつかんで立っていた。
 冷めた眼差しのまま、顎先で青年がいる方を示す。
「話が通じる相手じゃないが、どうするんだ? 説得してみるか、それともさっさと片付けるか」
「何でその人は亡くならはったんですか?」
 優姫から腕を引きながら、篤旗が問う。優姫を抱きしめるなんて、いつもなら照れまくっていたところだが、今は意識が完全にそんな方向から離れていた。真顔で蓮を見る。
「亡くなってはるから霊体でこんなとこに来てはるんでしょ?」
「不治の病というやつだ」
「治る見込みがなくて、生きてても痛いしつらいだけ。だったら死んだ方が楽だっていうんで踏切で自殺しようとしたら、依頼人に邪魔されたんだと」
 落ちたコーヒーカップを拾いながら、虎之助は呆れたような声で言う。蓮は天井近くに顔を見せている青年を見上げて目を細めた。
「腹いせに、助けた奴に自分の恨みの少しでも思い知らせてやりたくて、夜な夜なこんなやかましい音を立てに来ていたんだと。この音を聞かせれば、きっと助けた自分の事を思い出すだろうから、と」
 踏切で姿を見せたのは、彼らが邪魔をしにきたのだと察したため。
 虎之助と蓮が会った青年も、シュライン、篤旗、優姫が会った青年も、どうやら彼が乗り移るか操るかしていたものらしい。
 遮断機の音は、まだ鳴り響いている。
 ひゅんと、今度は掛け軸が外れて宙を飛ぶ。それを優姫があっさりと念で応じて叩き落す。が、また別の方向から、今度はインスタントコーヒーのビンが飛んできた。
「……こんなことをしても……」
 無駄なのに、とは口に出さない。相手をこれ以上激昂させるわけにはいかないからだ。小さく頭を振って、優姫はまた手を伸ばしてビンが飛ぶスピードに念を向け、働きかける。ビンは徐々にゆるゆると止まり、手を伸ばした篤旗の手のひらの上にすとんと落っこちた。
「……不治の病……」
 それがどんな病気だったかはよく解らない。けれど、自殺したいほどだったというのなら、すさまじい闘病生活を送っていたのだろうと想像はつく。篤旗はどう言葉を紡いでいいのかわからなかった。
 軽々しく「もっと頑張れば治ったかもしれない」とは言えなかった。医者を目指す彼には尚更、そんなことを言うことはできなかった。
 実際、おそらくは文字通り死に物狂いで頑張ったであろうのに、彼は死んでしまっているのだから。
 きつく唇を噛みしめる。
「けど、いくら不治の病でしんどかったゆうても……命助けてくれた人にこんなことするやなんて……」
 たまらず搾り出した声に、蓮がシュガースティックをかわしながら振り向く。
「死のうとした者を助ける事が必ずしも良い事だとは限らない。助けを望まないものもいる。望まない事をされたら誰だって腹が立つだろう。コイツにとっては余計な世話でしかなかったんだ」
 理屈無しで助ける、だなんて。
 それは助けた側の自己満足を満たすだけのことであり、自分にとっては良い迷惑でしかなかったのだ、と。
 そう青年は叫び続けているのだ。
「ったく、一旦俺の中に縛り付けてやろうか? 鬱陶しくてかなわん」
 虎之助が飛んできたプラスチック製のごみ箱をひょいと避けながら誰へともなく言う。先に蓮が言ったとおり、話が通じる相手ではない。霊媒体質でもある虎之助が自分の中に彼を縛せば、物を飛ばす事はできなくなるはずである。
「……浄化させるしかないわよね」
 シュラインが、頭を狙って飛ぶ物をかわすために身を低くしながら告げる。怒りに震えている彼を納得させる事など、もう無理だ。どんな言葉を尽くしても、彼には彼の真実しか見えていない。
 シュラインの言葉に応じるように、蓮が持ってきていたヴァイオリンケースに手を伸ばそうとした。ヴァイオリンでレクイエムを奏でれば、すぐに青年を浄化させられる。
 が、その手が止まる。
 いくら依頼だったとはいえ、こんな夜中に防音加工されていない部屋でヴァイオリンなど弾いたりしたら、たとえ見事な音色を奏でたとしても近所迷惑この上ない。
 どうしたものかと悩む蓮のその頭目掛けて、もう一本の短い日本刀が飛んできた。今度は鞘が抜けていて、銀色の刃がむき出しになっている。
「香坂くんっ、避けて!」
 シュラインが悲鳴を上げる。
 その声に反応して顔を上げた蓮は、いつもと変わらない冷めた表情で迫り来るその刃をじっと見ていた。
 が。
 ぴたりと。
 蓮に突き刺さる直前で、刀が止まった。
 優姫が、刀に向けて力を注いでいる。
「篤旗さん、あの刀を……」
「任しとき。おとなしぃしときや!」
 篤旗が、さっきの花たちと同じように両手でしっかりと日本刀をひっ捕らえる。
「どうする? お前、何か浄化の手段はないのか?」
 今しがた命を落としかけていた蓮に向けて、心配する色も滲ませずに虎之助が問う。蓮も、特に表情も変えずに顔を上げる。そしてゆっくりと立ち上がった。
「お前が中にアレを縛せば、そのまま斬ってやったのに」
「な……っ」
 わずかに唇の端をつり上げて笑った蓮を見、虎之助が双眸を見開く。が、すぐに「ケンカしてる場合じゃないでしょ!」とシュラインの声が飛んできた。
「……助かった」
 優姫の横を通り抜けざま、蓮は小さく呟くように礼を述べた。そして、手に持ったままだった日本刀を抜き放つ。
 さっき日本刀を見て思い出したのだ。自分の手の中にも同じものがあることを。
 銀色の刃が、次の瞬間には蒼白い光に包まれた。
 清浄な力が宿される。
 全員が、その刃を見る。
 抱く思いは同じだっただろう。
 もう鎮まれ、と。
 死してまでこんなに荒ぶることはない、と。
「眠れ、痛みも苦しみもない世界で」
 その場にいた者の思いを乗せ。
 全身全霊で自分の憎しみを叫び続ける青年に向けて、蓮は浄化の刃を振るった。


<終――目覚めの兆候?>

 少し、眠い。
 そんなことを思いながらも、彼女は今日もまた、いつもと同じように彼の病室を訪れていた。
 変化の乏しい、白い病室。
 今日もまた、心電図は同じような波ばかり映していて。
 今日もまた、彼はベッドで眠り続けていて。
 何にも変わらない、空間。
 朝の地獄のような出勤ラッシュにもまれてここに辿り着いた彼女にとって、ここだけまるで時間に取り残されているように感じられた。
 あまりにも、静謐すぎて。
「……というわけで、最後はちゃんと浄化させといたわよ」
 そのベッドの傍らにある椅子に腰掛け、シュラインは今回の仕事についての報告を行っていた。
 眠っているとはいえ、彼の依頼である。きっちりした性格のシュラインにとって、仲介屋にも報告を行うのはごく当然の事だった。
「でもお陰で家に帰りついたのが明け方近くでね、眠いのよものすごく。ちょっと鶴来さんの睡眠時間、分けてもらえないかしら?」
 組んだ膝の上で頬杖をついて、シュラインは小さく笑った。
 そんな笑い声も、病室の中に響くだけで誰も答えるものはなく……。
「……ねえ、鶴来さん」
 笑いを納めて、シュラインは目を細める。
「貴方が目覚めないのは、貴方の弟の呪詛をまともに食らったせいなの? それとも」
 そっと、布団の上に置かれている鶴来の手を握り。
「……もう起きたくないから……なの?」
 自分にもたまに見せていた、不安定なその心。眠りについていれば、心は揺らされる事もなく、常に平穏でいられる。
 もう、何もわずらわしい事も嫌なことも、考えなくても良い。
 だから、目覚めないのではないか?
 だとしたら、彼を起こしたいと思っているのは、彼からしたら他人の傲慢な思いやりでしかないのだろうか?
 深夜の青年の叫びを思い、シュラインは重く溜息をついてうなだれ、目を閉じた。
 人の心は、他人にはわからない。
 良かれと思ったことが、結局はその人からしたらただの迷惑でしかなかったなんて。
 ――自分が鶴来に「起きて欲しい」と願う事も、彼からしたら邪魔なものなのか?
「……なんてね」
 暗く沈みそうになる気持ちを跳ね飛ばすように、シュラインは笑みを浮かべた。そして椅子から立ち上がる。
「さて、今日もお仕事お仕事! また明日も来るからねっ。なるべくなら起きて、お菓子食べといてくれると嬉しいんだけどなぁ。今日も結局昨日の分、自分で片付けちゃったし」
 わざと明るい声を出す。誰が聞いているわけでもない。ただ、自分の中にある元気を引き出すために。
 よし、と片手で握り拳を作って気合を入れ、鶴来の手を放そうとした、
 その時。
 きゅっ、と。
 鶴来の手が、シュラインの手を握り返した。
 驚いてシュラインがベッドの上に身を乗り出して鶴来の顔を覗き込む。
「鶴来さん?!」
 だが、鶴来は固く目を閉ざしたままである。
 ……もしかしたら、自分が弱気になっているのを感じ取ったのだろうか?
「心配しなくても、今日も武彦さんをガツンガツンと仕事に追いたててしっかり働いてくるわよ!」
 そしたらきっと、彼は「そんなに草間をいじめていたら、気持ちが通じる前に恐れられてしまいますよ」と軽口を叩くのだろう。
 ――もしかしたら、そんな軽口をまた聞ける日は、そう遠くないのかもしれない。
「……早く起きてよね、鶴来さん」
 こつんと軽く額に拳を落として、シュラインは大きく伸びをする。
「さて、行きますか!」
 気持ちを入れ替え、じゃあまた明日ねと言葉を置いて、彼女は病室を後にした。

 今日もまた、忙しい一日が始まる。


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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【整理番号/      PC名     /性別/年齢/職業】

【0086/シュライン・エマ(しゅらいん・えま)/女/26/翻訳家&幽霊作家+
                             草間興信所事務員】
【0495/砂山・優姫(さやま・ゆうき)    /女/17/高校生】
【0527/今野・篤旗(いまの・あつき)    /男/18/大学生】
【0689/湖影・虎之助(こかげ・とらのすけ) /男/21/大学生(副業にモデル)】
【1532/香坂・蓮(こうさか・れん)     /男/24/ヴァイオリニスト(兼、便利屋)】

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■         ライター通信          ■
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 こんにちは。ライターの逢咲 琳(おうさき・りん)です。
 この度は依頼をお請けいただいて、どうもありがとうございました。
 少しでも楽しんでいただけましたでしょうか?

 シュライン・エマさん。再会できてとても嬉しいです。
 そしてうちのNPCへ毎朝の差し入れ、どうもありがとうございます(ぺこり)。
 すみませんホント…くれぐれも太られる事がないよう、お祈りしております(笑)。
 なんか、うちのシナリオ内ではよく、聞き込み中にやかましいおばさんに捕まってしまいますよねシュラインさん…すみません。なんでだろう?(笑)
 今回も細やかなプレイングを、どうもありがとうございました。
 なのに生かしきれなかった部分がちらほら…精進します。

 PC同士の関係についてですが、テラコン、もしくは過去の逢咲の依頼を土台に置いています。他ライターさんの依頼内での関係は、テラコンに反映されていないと基本的には採用していません。
 その旨ご了承ください(とはいえ鶴来と「親子」「飼主」の関係は微妙なので(笑)、ここでは採用していません(当然か(笑)))。

 もしよろしければ、感想などをお気軽にクリエイターズルームかテラコンからいただけると嬉しいです。今後の参考にさせていただきますので。

 それでは、今回はシナリオお買い上げありがとうございました。
 また再会できることを祈りつつ、失礼します。