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<東京怪談ウェブゲーム 草間興信所>


闇響


<序>

 台風が過ぎ、厳しかった残暑もようやく和らいできたその日。
 どこか浮かない顔で机に座り、くわえ煙草で珍しく書類の整理などをしていた草間武彦は、ふと、その机上端に置かれた一枚のメモに気づいた。
 そこにはどこかの家の周辺地図が、ひどく簡略化された形で描かれている。
 そういえば、と煙草を灰皿に移しながら思い出す。
 入院している知人の元へ尋ねて行った時、偶然そのメモが彼のスーツの上着のポケットから滑り落ち、自分の足元に飛んできたのである。
 何かと拾い上げて目を通せば、どこかの地図と箇条書きのメモ。
 どうやらそれは、仲介屋をやっている知人が自分の所へ持ち込む予定の依頼のメモだったらしい。

・深夜二時頃、遮断機が下りる音。
・車椅子の青年。
・外見、二十歳前後。
・踏切内で助ける。
・青年は見知らぬ者。

 以上が、箇条書きの内容である。
 そしてそこに描かれた地図は、どうやら依頼人の自宅周辺らしい。
 メモ書きから推察するに、おそらくは深夜の二時頃に遮断機が下りる音がしてうるさいから何とかしてくれ、という類いの依頼なんだろうが……地図を見たところ、依頼人の家の近くには踏切などない。
 大体、午前二時などという時間帯に、電車は走らないだろう。
 寝台列車などでもない限りは。
 メモの横に書かれていた住所周辺をもう少しまともな地図で調べてみたが、やはり付近に線路はなく、寝台列車が通っているというようなこともなさそうだ。
「……まあ、俺の所へ持ってくるつもりだったなら、やはりアレなんだろうが……」
 本人の望む望まざるを別にして、ここに集まる大半は怪奇関連の依頼。
 とすると、これもおそらくは例外ではないのだろう。
 自分の足元に落ちてきたのもきっと、何かの思し召し。とある事情で眠り続けている知人の代わりに、先に手を回しておいてやっても感謝されこそすれ文句を言われることはないだろう。
 草間はメモを片手にしばし何か考え込むような眼差しをしていたが、やがて灰皿に置いた煙草をもう一度くわえなおし、その手を電話へと伸ばした。


<仕事中の邪魔者>

 突如鳴り始めた携帯電話の着信メロディに、香坂蓮は今まさにヴァイオリンの弦の上に滑らせようとしていた弓を下ろし、目の前の車椅子に腰を下ろしている優美な雰囲気の老婆に目でわずかに伏せて非礼を詫びた。そしてヴァイオリンケースと共に置いていた携帯電話を手に取る。
 ディスプレイで相手を確認する前に、一瞬そのまま電源を切ってやろうかと思った。
 だが、老女は優しい眼差しでゆっくりと頷く。
 取りなさい。
 無言のまま、そう言っていた。
 今度は小さく頭を下げて、蓮は銀色の携帯電話のフリップを開く。
 画面には「草間」と表示が出ている。
 蓮は通話ボタンを押した。
「……何だ?」
 はい、とか、もしもし、ではなく、いきなり発せられたそのひどく不機嫌な声。けれども電話の向こうの相手――草間武彦は、まったく気にしないようだった。相手の心理の機微に疎いのか、それともあえて気にしないようにしているのかはわからない。
『よう、仕事の話なんだが請ける気あるか?』
「仕事?」
 大体、この男から回ってくる仕事は大して儲かりもしない話ばかりである。たまにまとまった金が入ったかと思えば、一ヶ月の食費にも満たない仕事もある。当たりはずれが大きいのだ。
 だが、塵も積もれば何とやら。
 短く吐息をつくと、蓮はちらりと老女の方へと青い眼差しを向けた。彼女は話を聞かないようにと気を使ってか、テーブルの上にあったティーポットを使い、典雅な手つきで紅茶を入れ直している。
 慌てて電話を耳から離し、通話口を指で押さえて言う。
「俺がやりますから」
 その言葉に、老女は柔和な笑みを浮かべ、緩く首を傾げた。
「お電話の最中でしょう? 相手の方に失礼よ」
「でも」
「あまり老人扱いしないでちょうだい。これくらい私にもできるわ」
 柔らかい口調ながらもぴしゃりと言われてしまい、蓮はそれ以上言を継げなくなる。その様子に、老女はまたあどけない少女のようにクスリと笑う。
 やむなく視線を戻し、蓮はさっき老女にかけたのとはまったく違う、低く冷めた声を紡ぐ。
「……いくらだ?」
『いきなり金か? まあとりあえず依頼内容を聞いてくれよ』
 苦笑を帯びた草間の声。時間の無駄かもしれないが、まあ聞くだけ聞いてみてもいい。なんとなくそう思い、蓮は先を促した。なるべく手短に、と。
 その注文どおり、草間は簡潔に依頼内容を説明した。どうだと尋ねる草間に、ん……と短く蓮は呟いたきり、しばし考え込むように手を口許に当てていた。
 仲介人が仲介屋としての仕事を果たせない依頼らしいが、まともに金が入るのだろうか?
 しかし、草間には数多く異能力を持つ知人がいるはずだ。そちらに回さずわざわざ口を開けば「金」ばかり言っている自分に振ってきたと言うことは、それなりに金になると踏んでの事だろうか?
 そう問うと、草間は笑いながら言った。
『いや、パッと浮かんだうちの一人がお前だっただけだ』
 ……そこまで配慮の行き届いた男ではなかったか。
 失望というよりは呆れに声が一瞬詰まる。
「…………。まあ、別にいいが。今日の仕事が終わったらしばらく時間は空いている予定だし、アンタにはいつも世話になっているしな。今回は手を貸してやる」
『そうか、助かる』
「役に立つかどうかは別だが……とりあえず、今は仕事中だ。できればその地図とメモ、後で家にファックスしておいてくれ」
『何だ仕事中だったのか。それは悪かったな』
「そういうことだ。じゃあな」
 そっけなく言うと、蓮はさっさと通話を切った。そしてすぐさま踵を返すが、老女はすでに紅茶を二人分入れ終えていた。
「……すみません」
 謝罪を述べる蓮に、老女は首を傾げた。そして小さく笑う。
 蓮は電話をマナーモードにしてヴァイオリンケースの傍らに置き、改めてヴァイオリンと弓を手にし、老女の傍に戻る。
「すみません、本当に。失礼しました」
「いいのよ。その代わりいつもの曲と、あともう一曲何かサービスしてくださるかしら? 曲はなんでもかまわないから」
「ええ。わかりました」
 普段は滅多に見せる事のない穏やかな微笑をその容貌に浮かべ、蓮はヴァイオリンを構える。
 奏でるのは、モーツァルトのレクイエムの中の一つ、「Lacrimosa」――涙の日。
 蓮は月に一度、彼女の元を訪れてこの曲を奏でている。
 彼女の夫の月命日に、いつも。
 それは夫の魂の安らぎを願っての事なのか。それとも、彼女自身の心の安らぎを得るためなのか。
 よくはわからない。
 自分の奏でる音色は、人前だと極端なまでに機械的になってしまう。それがわかっているから、蓮は最初、この依頼を断ったのである。「便利屋」としての自分は引き受けてもよかったが、本職である「ヴァイオリニスト」としての自分が、どうしてもそれを許せなかったからだ。
 大事な人の命日に大事な人を偲びながら聴く曲が、機械が奏でるような音色なんて……あまりにも申し訳なくて。
 だが彼女は一度自分の演奏を聴き、再度依頼してくれたのである。
 なぜかはわからない。わからないが、強く希望されてはかえって断るのも申し訳なくなり、蓮はこの仕事を毎月続けている。
 機械的な音色しか奏でられないのは、相変わらずだ。
 だが、それでも、こんな自分に演奏させてくれるこの人のために。
 今はただ全ての事を忘れ、この曲にのみ集中する。
 込められるだけの精一杯の「熱」を、この音色に乗せて。


<遭遇と合流>

 今日入っていた便利屋の仕事を全て片付けて、草間から回された依頼の調査に向かったのは、結局夕方近くになってからだった。一度自宅に戻り取ってきた草間からファックス送信されてきたメモの写しを右手に、そしてヴァイオリンケースを左手に持ち、蓮は駅前の小さなロータリーで駅構内から流れ出てくる帰宅途中の人並みをしばし眺めていた。
「しかし……」
 ぽつりと呟き、蓮は手元のメモの写しへと視線を落とす。
 五つ連なる箇条書き。
 それらに前後のつながりがあるのかどうか。
 思いつくままに相手が話したことを並べ立てた物か。
 それとも、順序立てて相手が話したことを並べた物か。
 依頼人から直接話を聞いて書いた本人が動けない状態である以上、より確かな情報を得るためには、直接依頼人に会うしか手はない。
 会って話を聞けば、全ての謎は解けるはずだ。
 それにしても。
「一体、これは誰の事を言っているんだ……」
 遮断機が下りる音が聞こえると言っている者。青年を助けたと言っている者。
 それは依頼主のことなのだろうか。それとも……例えば、青年を助けた人を見たということなのか。
 どちらにしても、その青年は何者だろう。
 見知らぬ青年を踏切内で助けようとしたその行為。
 それはまあ、一般的には褒めるに値する行為だろう。感謝されることはあっても、恨み事を言われる筋合いはないはずだが……。
 それとも、遮断機の音と青年を助けた事に関連性はないのだろうか?
「……なんにしても、ここにいるだけでは時間の無駄か」
 もう一度地図を一瞥して頭の中に叩き込むとその紙を片手で器用に折りたたんでポケットにしまい、蓮は帰宅の途に付くまばらな人波にまぎれて歩き出した。

 空気に、夜気が混ざり始めている。
 すでに日暮れに近い時間帯。身を撫でて行く風は日中よりも冷たさを増している。
 被害者宅に向かう途中にある踏み切りで、蓮はその遮断機の赤く点滅する目を眺めていた。
 交通量も人の姿もほとんどないその踏み切り。日中はどうだか知らないが、今ここにいるのは蓮と、あともう一人、背の高い青年だけだった。
 ゆっくりと降りてくる竿。鳴り響く警報機の音。静かなその場所では、それがあまりにも大きく聞こえて蓮はわずかに眉宇を寄せた。
 その時。
「おい……」
 少し離れた場所に立っていた青年が、不意に声を出した。何だと言うように訝しげに蓮が振り返る。青年は、切れ長の目で踏み切り内を見ていた。少し目が見開かれている。
 その眼差しにつられるように、蓮が踏み切りへと視線を戻す。
 そして、目を瞠った。
 いつの間に現れたのか、遮断機の竿が下りた踏切内に車椅子の青年がいたのである。水色のパジャマを纏い、茶色のストールを膝上にかけている。どこかの病院から抜け出してでもきたかのような姿だった。
 カンカンとやかましく鳴り響く警報機。けれども青年は、まるでそれが聞こえていないかのように静かな表情で、黙って空を見上げていた。
「ちょっと待て……お前、死ぬ気か!」
 青年が蓮の横をすり抜けて踏切内に駆け込んだ。一瞬、蓮も手を貸そうかと思ったが、その耳に電車の走行音が聞こえた事で足が止まる。
 音がしたのは、右方向。電車のライトが、徐々に下りてきた薄闇を裂くように周囲を明るく照らして行く。
 今から飛び込んだりしたら、自分まで巻き添えをくらう可能性がないとは言い切れない。
(……生憎、俺は聖人君子ではないしな……)
 車椅子の車輪が引っ掛かったんだか自殺しようとしたんだかは定かではないが、なんにせよ、そこで命が尽きたならそれがそいつの寿命だったということだ。
 蓮は冷めた表情で事の成り行きを見守る事にした。
 一方、果敢にも救助に飛び込んだ青年は車椅子を押し、踏み切り外へ向けて走り出す。どうやら何かに引っ掛かっていたとかいうわけではなく、ただそこに留まっていただけらしく、車椅子は容易く彼の手により踏み切りから外へと押し出された。
 直後、その後ろを電車が走り抜けて行く。
 間一髪、だった。
「……ったく、阿呆か貴様は!」
 電車が走り去ってから、いきなり青年が怒声を発した。だが、車椅子の青年は俯き加減のまま黙り込んでいる。
 罪悪感からくる沈黙……ではないようだが……。
 一つ深く呼吸して、青年は車椅子から手を離し、ゆっくりとその前髪をかき上げる。
 もう、声を荒げたりはしなかった。
「自殺したいんだかなんだか知らんが、死にたいなら俺の目の届かないところでやれ。こんなところでやるな。俺への迷惑になるだろうが」
 助けた割に思い切り自己中心的な発言だな、と半ば呆れるように蓮はその声を聞いていた。
 警報機の音は止み、踏み切り周辺は静けさを取り戻している。遮断機も上がっているのだが、なんとなく気になり、蓮はその場に立ち尽くしたまま彼らの様子を眺めていた。
 叱られた……というか文句を言われた車椅子の青年は、やはり何も反論する事もなくじっとしている。その俯いた横顔には、あまりにも生気がない。やけに頬が蒼白く見えるのは周囲が暗くなってきているせいか?
(……なんだ……?)
 青年も何か感じるところがあったのか、ちくちくとイヤミを言うのをやめてじっと後ろから車椅子の青年の頭を眺めている。ひどく真剣な眼差しだった。
「あ、おい」
 青年が黙り込んだのを機に、自らの手で車椅子の車輪を回しながらその場から無言で去って行く彼に、我に戻った青年が慌てて声をかけた。が、彼は振り返ることもなく、そのまま角を曲がり、闇の中へ消えていってしまった。
 ふと、蓮は口許に手を当てた。
「……もしかして、あれが依頼人の言っていた……」
 その呟きを聞きとめたのか、青年が蓮を見た。
「お前、もしかして草間興信所から依頼されて来たのか?」
「……という事はお前もか?」
 それに頷いた青年――湖影虎之助は、青年が去っていった方へともう一度視線を投げた。

 何となく一緒に依頼人宅へ向かう事になった虎之助と蓮は、何を話すわけでもなく無言で薄暗くなってきた道を歩いていた。
 虎之助には別に野郎と話すような事はないし、蓮はと言うと誰かと話す気自体が全くないようだった。
 そして無言で歩き続ける事数分。
 静かだった路上に、話し声が流れてきた。暗がりに負けないように目を凝らして声の方をよくよく見ると、そこにいるのはシュライン・エマだった。何やら、声の大きな婦人と話し込んでいるらしい。
 ……否。話し込んでいるのではなく、どうやら話相手として捕まっているようだ。
「それでね、うちの子ったら……」
 おばさんが更に口を開きかけたところ。
「シュラインさん?」
 割り込むように、虎之助が艶やかなバリトンを放った。くるりとシュラインが顔をこちらへ向ける。
「あら、湖影くんじゃない。この依頼請けてたのね、やっぱり」
「やっぱりって……」
「鶴来さんの依頼だものね」
 参ったなと呟きながら、虎之助は苦笑を浮かべた。と、その横合いから突っ込む声が一つ。
「あらあらあら、もしかしてモデルの湖影虎之助じゃないの?! まあまあこんなところで会うなんて! サインもらっちゃおうかしら!」
 なにやら興奮気味にはしゃいでいる主婦。虎之助はこのおばさんから逃げるに逃げられない状態に陥っているシュラインを救出する気持ちで声をかけたのだが、この調子では巻き込まれてしまいそうである。はあ、と苦笑まじりに、シュライン同様適当に相槌を打つことになる。
「うちの娘も大ファンなのよ! それにしてもこれだけ美男美女が揃えば壮観よね! もちろんあたしも含めてよ」
 言って、何が面白いのか分からないが大笑いする。どうしたもんかとシュラインと虎之助は目配せしながら、引きつったような笑いを浮かべた。シュラインにしてみたら、普段ならこういう場合いい加減にしてくれときっぱり言える性格なのだが、今回は一応調査に協力してくれたのだから邪険に扱うわけにもいかないというところ。虎之助にしてみたら、歳を経ていても女性は女性。邪険に扱うのはポリシーに反する、と言うところだ。
 が。
 そんな思いやりなどまるで無視した冷淡な声が、今まで黙って様子を見ていた蓮から発せられた。
「悪いがアンタのくだらない話に付き合っている暇はない。暇つぶしの相手なら他を当たれ」
 虎之助ほど低くはないが、よく通る声だった。ただ、愛想というものを見事に削ぎ落とした、冷めた声音である。
「こ、香坂くん」
「お、お前……」
 まさしく言いたかった事を代弁してくれた彼にシュラインと虎之助は同時に視線を向けたが、有難うなどという言葉を今ここで吐く訳にも行かず、すぐさま主婦の方へと取り繕うような微笑を浮かべながら顔を戻した。
「す、すみません、本当にありがとうございました」
「サインはまた今度ということで……」
 それではと言い置き、二人は無表情な蓮を引きずるようにしてその場から素早く移動した。

「香坂くん……あんた言いたいことハッキリ言いすぎ」
 主婦が自宅に引っ込んだのを見てから、シュラインは苦笑しながら小声で言った。虎之助も呆れたように肩をすくめる。
「女性に対しアレはな……」
「あの女のどうでもいい話より仕事の方が優先だろう? 時間の無駄だ」
 あっさりと言う蓮に、罪悪感は微塵もないらしい。
 と、その時。
「シュラインさん、香坂さん」
 またしても誰かに名を呼ばれ、シュラインと、そして蓮は声の方を見やる。
 蓮は特に何を言うでもなかったが、シュラインはよくよく覚えのある顔に笑みをこぼした。
「あら、今野くんじゃない」
 青いパーカーを羽織った穏やかな表情の背の高い、少年とも青年ともつかない年代にいる彼の名を呼ぶ。すると、声にこたえるように、彼――今野篤旗は手を振った。
 その傍らには、濃紺のブレザーに白いセーラーカラーが覗く制服姿の、物静かそうな楚々とした美しい少女がいる。彼女の名は、砂山優姫。長い黒髪が吹いて来る冷たい風に揺れている。
 視線に気づき、彼女は小さく会釈した。
「今野くんたちもこちらにご用かしら?」
 シュラインは肩越しに親指で依頼人宅を指した。
「そうです。直接話聞こ思て」
「じゃあ丁度よかったわね。それじゃ全員揃ったところで」
 代表するように、シュラインが門柱に取り付けられているインターホンを押した。
 が、待てども待てども返答はない。それに、優姫がぽつりと言った。
「電気……消えているようですが」
 確かに、家の電気は全て消えているようだ。どうやら家人は留守にしているらしい。
 しばらく待ってみようかという意見も出たが、とりあえず今日は約束も入れていなかったし仕方ないということで、また明日出直す事になった。


<無・音>

 その夜。
 寝る前にほんの少しでもヴァイオリンの練習をしておこうと、蓮は慣れた手つきで調弦していた。室内には防音加工が施されている為、夜間にヴァイオリンを弾こうが何をしようが、隣人から文句を言われる事はない。
 時計の針は、午前二時前を差している。
 そういえば、依頼人が言っていた「音が鳴る時間」はそろそろだ。
 実際に、自分も踏切内に居る青年を見たわけだが――まさか、な。
 などと考えている内に、かちりと、針が動いて午前二時ちょうどを差す。
 なんとなく耳を澄ませてみるが、職業柄、音に関しては研ぎ澄まされた感覚を持つ蓮のその聴覚に触れる音は、何もなかった。ただ淡々と、秒針が時を刻む音のみが聞こえる。
 霊的感覚にも、触れてくるものは何もない。
「……あの男は無関係、か……」
 踏切で虎之助が助けた青年を思い出す。
 それとも。
「依頼人にしか、聞こえないのか……」
 真相は、まあ、明日依頼人に直接会えばわかることだろう。
 考えると、蓮はヴァイオリンをゆっくりと構えた。


<その違いは>

 依頼人は、三〇代前半の男性だった。
 柔道でもやっていそうながっしりとした体格に、強い眼差しと太い眉、そして顔の輪郭が四角いせいか、ひどく頑固そうに見えた。が、笑うと頬にえくぼができ、がらりと印象が変わる。
 彼は、胡坐を組んだ膝の上に乗せた三歳くらいの娘の頭を撫でながら、草間興信所から突然依頼の解決に訪れたという五人組を、不思議そうな顔で見回した。
 それも当然だろう。
 見目麗しい女子高生に穏やかで優しそうな、人好きのする顔立ちの大学生、テレビで顔を見かけたことがある美形モデルに、秀麗な容貌のヴァイオリニスト。きりりとした中性的な美しさを持つ女性は「秘書だ」と言われれば納得できそうな雰囲気。
 そんな、一見なんの接点もなさそうな五人組が依頼解決にやって来るとは……驚かない方がおかしい。いや、驚きというよりは、胡散臭さを感じているのかもしれないが。
 けれど、いい加減毎夜の如く起きる怪奇現象に疲れているのか、彼は助けて貰えるのならなんでもいいと思ったらしく頭をゆっくりと下げた。
「どうかよろしくお願いします。依頼をお任せしたかたからもぱったり連絡がなくなって、途方にくれていたところだったんです」
「ああ……彼、ちょっと事情があって今連絡が取れないんですよ。代わりに私たちが、もう少し詳しいお話を伺いたくて来たんですが」
「ええ、それはかまいませんが……何からお話すれば?」
 シュラインの問いに、男は首を傾げる。
 今、彼らは依頼人宅の客間にいた。昨日のように入れ違いにならないよう、あらかじめシュラインが依頼人に電話をかけ、在宅の時間を聞いていたのである。
 現在、午後八時。
 近所に夫婦で弁当屋を出していて、帰りはいつもこれくらいになるのだという。昨日訪れた時には、まだ店のほうにいたらしい。
 シュラインから依頼人の在宅時間の連絡を受けた面々は、自然と午後八時にこの家の前に集まってきていた。ほぼ全員が同じ時刻に集まったので、揃って依頼人の前に現れた形になる。最初に玄関で応対してくれた夫人はにこやかに彼らを中に招き入れたのだが、主人は――先程の通りである。
 優姫が、草間から預かった仲介人のメモを丁寧な手つきで座卓の上に広げた。
「この……青年について、もう少しお聞きしたいのですが。ここに書かれている「青年」というのはすべて同じ人についてのことなんでしょうか?」
「ええ、そうです。全然知らない青年だったんだけど、知らないからって、電車に轢かれるのを黙って見てるわけにもいかないし……。車椅子だったから引っ掛かって動けないのかと思ったけど、どうもそうじゃなかったみたいで……」
「助けた時、彼は何か言いませんでしたか?」
 虎之助が問う。依頼主は少し考え込むように視線を宙へ向けたが、すぐに頭を振った。
「いえ、何も」
「お礼も言わへんかったんですか?」
「ええ。本当に何も言いませんでしたよ。まあ別に私も礼を言われたくてやったことではないですし、気にはしませんでした」
 その言葉に、篤旗は短く溜息をつく。
 優しい心の持ち主だ。本当なら、そこで毒づくくらいのことしてもおかしくはないのに。
「ただ」
 言を継ぎ、依頼主が苦笑を浮かべて娘を見下ろす。
「何も言わなかったんですけど、あの青年……去り際に物凄い目つきで私を睨んできて……。まるで助けたことが迷惑だったかのような……」
「……昨日のあの方はいろいろお話されていましたよね……」
 ぽつりと言った優姫の言葉に、シュラインと篤旗が頷く。あれとはやはり別人なのだろうか?
 そう思った所に、虎之助が怪訝そうな顔をして口を開く。
「もしかして三人も踏切で車椅子の男に会った?」
「え? 湖影くんも?」
「けど、俺が助けた男は一言も喋らなかったんだけど……」
 シュラインの問いに頷いて答えてから首を傾げる虎之助。俯いたまま何も喋らず、しまいにはするすると車椅子を自分で動かして無言のまま去ってしまった、陰鬱そうな青年。それはなんとなく、依頼主の言っている青年に近いような気がする。
「せやけど、僕らが助けた人も、最初は何にも喋らはらへんかったんです」
「そうね、今野くんが自殺はダメだって言ったら急に正気に戻った、って感じだったわね」
 ちらと、虎之助が、少し離れた場所で壁に背を持たせかけて座っている蓮を見やる。彼はさっきからずっと何を言うでもなく無言で、傍らに置いたヴァイオリンケースの上に置いた自分の手を見ていた。が、視線に気づいたのか、ふと顔を上げて四人の方を見やった。
「あんたたちが助けた男はどんな格好をしていた?」
「車椅子に乗ってて、青いパジャマを着てたわ」
「あと……片足にはギプスをしておられました」
「……俺たちが見た男は、車椅子に乗り、水色のパジャマを着ていた。膝には茶色のストール……」
「ギプスはなかったな、確か」
 虎之助の補足に、篤旗が首を傾げる。
「ちゅーことは、別人?」
「死んだ後に、自分が死んだ時と同じ状況を続けるという話はよく聞くが……それか?」
 青年が依頼人に助けられた後に、なおそこで自殺に挑んで事を成し、この世を去っていたとすれば、の話だが……どうなのだろうと虎之助は顎先に指を添えて篤旗同様に首を傾げた。
 人差し指を頬に当てて、シュラインがその言葉に眉を寄せる。
「でもそれなら、わざわざ遮断機の音を鳴らしに来るのはおかしくない?」
「その場合、踏切で亡くなられたとしたらその亡くなられた場所になんらかの影響が出るはずですが……」
 言って、優姫は顔を依頼人へと向けた。さらりと肩からまっすぐな黒髪が零れる。
「あの……突然で申し訳ないのですが、午前二時にここで様子を見せていただくわけにはいきませんか……?」
 解らないのなら、直接体験してみた方が早いだろう。シュラインも同じ事を考えていた。
「そうね、そのほうが早く原因を突き止められるかもしれません。音が聞こえてきたら、その音を追う事もできる。それに、霊などの仕業であれば」
 ちらりと、虎之助と蓮へと視線を送り。
「彼らになら、見えますから」


<相容れない思い>

 依頼主は、あっさりと彼らの滞在を承諾してくれた。
 一応男性陣と女性陣の部屋を分けて寝床の用意をしようかとも申し出てくれたが、目的はあくまでも目的は午前二時の怪音の調査である。調査が終わり次第帰宅するからということで、依頼主の申し出を断った。
「さて」
 依頼人の家族にはいつもどおりの生活を送ってもらうことにし、五人は和室の客間に詰めていた。広めの部屋には中央に座卓、床の間には秋の花が生けられた花瓶と、流麗な文字が描かれた掛け軸と本物かどうかはわからないが美麗な鞘に収められた日本刀が大小二本、飾られている。
 夫人が持ってきてくれたインスタントコーヒーの用意一式で面々にコーヒーを淹れながら、シュラインが座卓の上に置かれた目覚まし時計へ視線を送った。
 針は、一時四五分(もちろん午前である)を差している。
 依頼人たちはすでに眠りについていて、邸内にはしんとした空気が満ちている。
 わずかに耳を澄ませ、類い稀なる鋭い聴覚で妙な音がしないかと気を配るが、居間のところまだ変化はない。
「もうそろそろのはずだけど」
 シュラインが淹れたコーヒーをそれぞれに配りながら、優姫がふと思い出したように口を開いた。
「そういえば……昨夜の二時に、私も遮断機の音を聞いたんです」
 その言葉に、あ、とシュライン、篤旗、虎之助が反応した。その三人も、同じように音を聞いたのである。
 ただ一人、蓮だけが無反応だった。
「……お前は?」
 虎之助が尋ねると、口をつけかけていたコーヒーカップを下ろして蓮は緩く首を振る。
「いいや、俺は何も聞かなかった」
「聞き逃しはったとかやなくて?」
「その時間、俺は防音の効いた部屋にいたが、そのせいで聞き逃したとは思えない。事を起こしているのが霊の類いであるならなおさらな」
「……どういうことかしら」
 聞いた者と聞かなかった者。そこに一体どういう差があるというのか。
 その時ふと、何か思いついたように虎之助が座卓に頬杖をついて蓮を見やった。
「そういやお前、あの時助けようとしなかったよな?」
「……ああ」
 答えた蓮から視線を外し、その黒い瞳でシュライン、篤旗、優姫を見る。
「そっちは全員で助けたんだよね?」
「ええ。実際に助けたのは今野くん、私と砂山さんはその手助けみたいな感じだったわ」
「なんで香坂さんは助けはらへんかったんですか?」
「電車が迫っていた。見も知らぬ、しかも自殺しようとしているとしか見えない者を命がけで助けるほど、俺はお人よしでも聖人君子でもない」
 感情をあまり覗かせない、冷めた声で蓮は言い放つ。わずかに篤旗が眉を寄せた。が、特に何も言わなかった。
 確かに、普通ならそうするかもしれない。そう思ったのだ。
 人と人とのつながりが薄くなってきた昨今、自分の命を懸けてまで他人に何かしてやろうとする人間の方が、少ないのかもしれない。
「……もしかして、それが鍵なんやろか……」
 ぽつりと呟いた篤旗の声に、篤旗の前にコーヒーを置いた優姫が目を瞬かせる。
「篤旗さん……?」
「あ、いや……香坂さんは助けへんかった。僕らは助けた。助けた時、みんなどない思てはりました?」
「私は……目の前で危ない目に遭っている人を放ってはおけない、助けないとって……」
「私も同じような感じね。理屈じゃないもの、人の命を助けるのって」
 コーヒーカップを両手で包み、シュラインが優姫に同意する。
「俺も……まあ男だったからちょっとやる気は減ったけど、それとこれとは別だし。人の命の前ではやっぱり、理屈なんて二の次だろうし」
 どこかの誰かはそうじゃないみたいだが、と棘のある声で言い、虎之助はコーヒーをすする。言われた蓮の方はというと、一向に気にする様子もなく片膝を抱えて伏目がちに畳の上に視線を落としている。
 三人の意見を聞き、篤旗は頷いた。
「僕も、とにかく助けなあかん思て飛び込みました。人の生き死には、その人自身がどうにかしてええことちゃう思てましたし」
 けれど。
 その「助けなくては」という思いが助けた青年にとって、邪魔なものだとしたら。
 押し付けがましい思いでしかないとしたら。
「助けなかった香坂さんは、自分の意思を尊重したと……彼はそう思ったということですか……? だから香坂さんには音を聞かせなかった、と?」
 優姫の言葉に、再び篤旗は頷く。そして蓮を見た。
「電車来るまでに余裕あったら香坂さんも助けに行かはったでしょ?」
「……多分な」
「だが自殺しようとする奴が電車が来るまでに余裕がある時に線路に入り込んだりはあまりしないよな。邪魔されるの目に見えてるし」
 頬杖をついたまま呟く虎之助に、シュラインが頷く。
「だからわざわざ彼は電車が来る直前に姿を見せる。そして、それを見たほとんどの人はきっと、香坂くんと同じ態度を取るでしょうね」
 だから、他に踏切の音を聞いている者がいないのだ。そんな彼を助けようとするものはごくわずかだろうから。聞いて回ったところで、見つかる確率はごくわずか。そして今回はその確率から外れてしまったのだろう。
 だが。
 すると依頼人が助けた青年は、すでに死した者だったのか、それとも生きている者だったのか?
 ……と、その時。
 ぴくりとシュラインが何かに反応したように顔を上げる。彼女の超聴覚が何かの音を捉えたのだ。
 続いて、蓮も抱いていた片膝を放し、何かを探すように視線を動かす。
 ――空気を震わせている、微音。
 二人の反応に、篤旗と優姫、虎之助も押し黙る。優姫が目を時計に向けた。
 午前二時。
 近づいてくる、音。
 ……ん、かん、かん、かん、かん……。
 蓮を除く四人にとっては、昨夜も聞いた音――遮断機の音だ。
「来よったか……」
 呟く篤旗の声。その声よりも音は大きくなっている。遮断機の本体に耳を当てているかのようなボリュームだ。
 痛そうに顔をわずかにしかめながらシュラインが片耳を手で覆う。蓮も左耳を押さえて目を眇める。
 だが、両耳共は覆わない。ゆっくりと立ち上がり、二人は片耳で音の出所を捉える。
「外からじゃなかったのね」
「ああ。……いるな」
 二人の青い瞳が、部屋の片隅を射抜く。
 虎之助も、同時に同じ場所を見た。そこから気配を感じたからだ。
 昨日の青年から感じたのと同じ気配を。
「そこにいるんですか……?」
 視線を同じ位置――何もない場所に止めたまま動かない二人に、優姫が尋ねる。小さく頷いて、虎之助が静かに問いかけた。
「なんでこんなことするんだ? ここの家の人はお前を助けようとしたんだろ?」
 虎之助の黒い瞳には今、一人の青年の姿が映っていた。車椅子には乗っていないが……白いパジャマ胸の辺りが血の色に染まっているのが気になる。
 問いかけに、青年は目を見開く。そこには憎悪が宿っていた。口を動かし、物凄い形相で激しく怒鳴る。
 その気に誘発されたかのように、近くにあった花瓶が倒れた。がたりというその音に、優姫が小さく肩を揺らせて振り返る。と、ふわふわと活けられていた花が宙に浮いているのが目に入る。水を吸いやすくするために斜めにカットされた茎側が、そろってこちらを向いていた。
 慌てて、優姫は右の手のひらを花の方へと向ける。と同時に花が彼らの方へと飛んでくる!
「優姫ちゃん!」
 茎が鋭い切っ先となり、飛来する。すぐさま篤旗が優姫をかばおうとするが、彼らに届く寸での所で、全ての花が空中制止する。
 優姫の長い黒髪が、水に浮くようにゆうらりと宙に浮かび上がっている。
 開かれた手のひらから発されるのは、優姫の力――念動力。
 その力で、花は動きを止められているのだ。
 まっすぐに、妖しくも神々しく、紫水晶のような色に染まった瞳で花を見据える。
 篤旗とシュラインは、優姫の力が効いている内にその空中で止められている花を両手で引っつかんで捕らえていく。
「で、何て言ってるの?」
 すべて花を握り終えると、シュラインは虎之助と蓮に声を飛ばす。優姫が念を止めると、その花はまるで生き物のように手の中でうねうねと動き出した。かなり気持ち悪いが、手放すわけには行かない。篤旗が鋭く舌打ちした。気持ち悪いが、耐える。
 シュラインの問いに、蓮が冷めた眼差しで振り返った。
「誰も助けてくれとは頼んでいない、だと」
「むしろ助けたせいで自分がどれだけ苦しんだかお前らにわかるか、だって」
 虎之助も青年の言葉を代弁し、小さく肩をすくめた。
「そんなこと言っても、あの状況だったら助けるだろ。コイツは別だけどさ」
 年下の男にコイツ呼ばわりされた事にわずかに眉を寄せたが、構わず蓮は叫び続けている青年の声を代わりに唇に乗せる。
「助けられた事で自殺できなくなった。自殺を計ったと知られて、自分は監視されるようになり、死ぬに死ねなくなった。あの時死ねていれば、一瞬で楽になれたのに」
 きぃん、と。
 異質な力が働いているのか、空気がわずかに音を立てる。はっと篤旗が優姫の腕を引いて自分の方へと引き寄せた。
 刹那。
 優姫が居た場所を、花瓶が宙を飛びながら横切っていった。もしそのまま優姫がそこに立っていたら頭にぶち当たっていただろう。
 どうやら、青年の怒りが周囲にある物を動かしているようだ。鴨居の辺りにかけられていた額縁が外れ、また宙を走る。さっき飛んでいった花瓶も、Uターンして戻ってくる。
 双方から挟み打ちにされ、篤旗が腕の中に優姫を抱き込んだ。
 が、その腕の中で、優姫は双眸を見開き、両手をそれぞれ飛んでくる物の方へと向けた。
 双方に、念を放つ。
 何かがはじけるような音がして、花瓶と額縁が畳の上に叩きつけられた。
 ――力では、優姫の方が圧倒的に上らしい。全力を注ぐ事もなく、飛んでいる物は優姫の力の前に屈する。
 一方、シュラインの方にも物は飛来していた。一つはコーヒーカップだ。背で束ねた黒髪を揺らせながら慌てて身を翻してかわすが、執拗に追ってくる。
「このっ!」
 思わず座卓の上にあった丸盆を手に取り、思い切りそれを、ハエタタキの要領で叩き落す。硬質な音がしてカップが割れた。
 が、ほっとするのも束の間。
「シュラインさん!」
 虎之助の声に顔を上げると、別のコーヒーカップがシュラインめがけて飛んで来ていた。突然の事に反応できず、頭を腕でかばって目を閉じる。
 が。
 シュラインの顔に当たる手前で、虎之助がそれを蹴り飛ばした。カップは別の方向へとくるくる回りながら飛んで行く。
「あ……ありがと、湖影くん」
「どういたしまして」
 こんな時でも余裕の笑みを浮かべる虎之助。
 が。
「余裕ぶっている場合か?」
 静かな声が間近で聞こえた。声のほうを見ると、蓮がいつのまにか飛んで来ていたらしい鞘に入ったままの日本刀を引っつかんで立っていた。
 冷めた眼差しのまま、顎先で青年がいる方を示す。
「話が通じる相手じゃないが、どうするんだ? 説得してみるか、それともさっさと片付けるか」
「何でその人は亡くならはったんですか?」
 優姫から腕を引きながら、篤旗が問う。優姫を抱きしめるなんて、いつもなら照れまくっていたところだが、今は意識が完全にそんな方向から離れていた。真顔で蓮を見る。
「亡くなってはるから霊体でこんなとこに来てはるんでしょ?」
「不治の病というやつだ」
「治る見込みがなくて、生きてても痛いしつらいだけ。だったら死んだ方が楽だっていうんで踏切で自殺しようとしたら、依頼人に邪魔されたんだと」
 落ちたコーヒーカップを拾いながら、虎之助は呆れたような声で言う。蓮は天井近くに顔を見せている青年を見上げて目を細めた。
「腹いせに、助けた奴に自分の恨みの少しでも思い知らせてやりたくて、夜な夜なこんなやかましい音を立てに来ていたんだと。この音を聞かせれば、きっと助けた自分の事を思い出すだろうから、と」
 踏切で姿を見せたのは、彼らが邪魔をしにきたのだと察したため。
 虎之助と蓮が会った青年も、シュライン、篤旗、優姫が会った青年も、どうやら彼が乗り移るか操るかしていたものらしい。
 遮断機の音は、まだ鳴り響いている。
 ひゅんと、今度は掛け軸が外れて宙を飛ぶ。それを優姫があっさりと念で応じて叩き落す。が、また別の方向から、今度はインスタントコーヒーのビンが飛んできた。
「……こんなことをしても……」
 無駄なのに、とは口に出さない。相手をこれ以上激昂させるわけにはいかないからだ。小さく頭を振って、優姫はまた手を伸ばしてビンが飛ぶスピードに念を向け、働きかける。ビンは徐々にゆるゆると止まり、手を伸ばした篤旗の手のひらの上にすとんと落っこちた。
「……不治の病……」
 それがどんな病気だったかはよく解らない。けれど、自殺したいほどだったというのなら、すさまじい闘病生活を送っていたのだろうと想像はつく。篤旗はどう言葉を紡いでいいのかわからなかった。
 軽々しく「もっと頑張れば治ったかもしれない」とは言えなかった。医者を目指す彼には尚更、そんなことを言うことはできなかった。
 実際、おそらくは文字通り死に物狂いで頑張ったであろうのに、彼は死んでしまっているのだから。
 きつく唇を噛みしめる。
「けど、いくら不治の病でしんどかったゆうても……命助けてくれた人にこんなことするやなんて……」
 たまらず搾り出した声に、蓮がシュガースティックをかわしながら振り向く。
「死のうとした者を助ける事が必ずしも良い事だとは限らない。助けを望まないものもいる。望まない事をされたら誰だって腹が立つだろう。コイツにとっては余計な世話でしかなかったんだ」
 理屈無しで助ける、だなんて。
 それは助けた側の自己満足を満たすだけのことであり、自分にとっては良い迷惑でしかなかったのだ、と。
 そう青年は叫び続けているのだ。
「ったく、一旦俺の中に縛り付けてやろうか? 鬱陶しくてかなわん」
 虎之助が飛んできたプラスチック製のごみ箱をひょいと避けながら誰へともなく言う。先に蓮が言ったとおり、話が通じる相手ではない。霊媒体質でもある虎之助が自分の中に彼を縛せば、物を飛ばす事はできなくなるはずである。
「……浄化させるしかないわよね」
 シュラインが、頭を狙って飛ぶ物をかわすために身を低くしながら告げる。怒りに震えている彼を納得させる事など、もう無理だ。どんな言葉を尽くしても、彼には彼の真実しか見えていない。
 シュラインの言葉に応じるように、蓮が持ってきていたヴァイオリンケースに手を伸ばそうとした。ヴァイオリンでレクイエムを奏でれば、すぐに青年を浄化させられる。
 が、その手が止まる。
 いくら依頼だったとはいえ、こんな夜中に防音加工されていない部屋でヴァイオリンなど弾いたりしたら、たとえ見事な音色を奏でたとしても近所迷惑この上ない。
 どうしたものかと悩む蓮のその頭目掛けて、もう一本の短い日本刀が飛んできた。今度は鞘が抜けていて、銀色の刃がむき出しになっている。
「香坂くんっ、避けて!」
 シュラインが悲鳴を上げる。
 その声に反応して顔を上げた蓮は、いつもと変わらない冷めた表情で迫り来るその刃をじっと見ていた。
 が。
 ぴたりと。
 蓮に突き刺さる直前で、刀が止まった。
 優姫が、刀に向けて力を注いでいる。
「篤旗さん、あの刀を……」
「任しとき。おとなしぃしときや!」
 篤旗が、さっきの花たちと同じように両手でしっかりと日本刀をひっ捕らえる。
「どうする? お前、何か浄化の手段はないのか?」
 今しがた命を落としかけていた蓮に向けて、心配する色も滲ませずに虎之助が問う。蓮も、特に表情も変えずに顔を上げる。そしてゆっくりと立ち上がった。
「お前が中にアレを縛せば、そのまま斬ってやったのに」
「な……っ」
 わずかに唇の端をつり上げて笑った蓮を見、虎之助が双眸を見開く。が、すぐに「ケンカしてる場合じゃないでしょ!」とシュラインの声が飛んできた。
「……助かった」
 優姫の横を通り抜けざま、蓮は小さく呟くように礼を述べた。そして、手に持ったままだった日本刀を抜き放つ。
 さっき日本刀を見て思い出したのだ。自分の手の中にも同じものがあることを。
 銀色の刃が、次の瞬間には蒼白い光に包まれた。
 清浄な力が宿される。
 全員が、その刃を見る。
 抱く思いは同じだっただろう。
 もう鎮まれ、と。
 死してまでこんなに荒ぶることはない、と。
「眠れ、痛みも苦しみもない世界で」
 その場にいた者の思いを乗せ。
 全身全霊で自分の憎しみを叫び続ける青年に向けて、蓮は浄化の刃を振るった。


<終――メビウスリング>

 依頼人に事の次第を報告し終えた面々は、それぞれに帰宅の途についた。
 だが、現在深夜四時。
 こんな時間に女性の一人歩きは危ないからと、虎之助がシュラインを送り、篤旗が優姫を送ることになった。
 だが蓮はそのどちらとも共には行かず、一人、帰宅の途についていた。
 ヴァイオリンケースを片腕に抱き、夜道を行く。
 あれだけ立ち回ったのだから、結局は近所に騒音は広がっていたかもしれない。
 それでもまあ、ヴァイオリンの音色を響き渡らせるよりはマシだっただろう。
 ふと、蓮は主人の月命日に自分の鎮魂歌を所望する老婦人が先日言った言葉を思い出した。
 今までずっと聞かずにいたが、どうしても気になり、蓮は問うたのである。
 どうして自分の、欠点のある音色を聴きたがるのか、と。
 彼女は、穏やかに微笑みながら答えた。
「貴方の音色には、感情的な所がない。けれど、手抜きなどではなくしっかりと心は込められている。だから貴方にお願いしているの。……私は主人を偲びながら、静かに曲を聴きたいの。あまりにも感情を込めすぎた音色だと、私にとってはその感情がうるさ過ぎて逆に邪魔なのよ」
 ……そういう考え方もあるのかと思った。
 込められた感情がうるさい、など。考えたこともなかった。
 自分には、それが欠点でしかないと思っていた。機械が奏でるようなその音色は、むしろ人に不快を与えるのではないかと。
 ヴァイオリニストとしては、確かに痛い欠点だ。
 が、そういう音色を求めている人もいる。
 本当に、人間の考えと言うのは千差万別だ。
 さっき浄化させたあの青年の考えを、蓮は理解しようとは思わなかった。だがきっと、彼と同じ考え方をする者もどこかにはいるのだろう。
 さらりと、彼の黒髪を秋の気配を濃く滲ませた風が撫でて行く。一部の金色の髪が、秋の稲穂の様に揺れる。
 澄んだ蒼眼を細め、一つ、疲れたような吐息を漏らす。
 と、ポケットで携帯電話が不快な振動を発し始めた。こんな時間に誰かと思いながらも、無視せずにそれを引っ張り出し、ディスプレイを確認してから通話ボタンを押す。
「はい」
 表示されていた番号は、見知らぬ番号。とすると、また「便利屋」への仕事依頼だろう。
 今からすぐに頼みたい事があるから日枝神社の稲荷参道に来いと言う。
 こんな時間にそんな場所に呼び出されるとは、きっと真っ当な仕事ではないのだろうなと思いながらも、それが金になる仕事であるのなら蓮に選択の余地はなく。
 了承の意を伝えて通話を切ると、片手で電話を閉じてポケットに突っ込み、歩き出す。
 休む間もなく、また仕事。メビウスの輪のように、一時も仕事から逃れる事は叶わず。
 まあ、それもいいだろう。どうせ今日の仕事はロクに金にならないものなのだから。
 少しでも早く目的に近づくためには、途切れず仕事がある方がありがたいのもまた事実。

 見上げた空は、まだ暗い。
 夜明けは、まだ遠いようだった。


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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【整理番号/      PC名     /性別/年齢/職業】

【0086/シュライン・エマ(しゅらいん・えま)/女/26/翻訳家&幽霊作家+
                             草間興信所事務員】
【0495/砂山・優姫(さやま・ゆうき)    /女/17/高校生】
【0527/今野・篤旗(いまの・あつき)    /男/18/大学生】
【0689/湖影・虎之助(こかげ・とらのすけ) /男/21/大学生(副業にモデル)】
【1532/香坂・蓮(こうさか・れん)     /男/24/ヴァイオリニスト(兼、便利屋)】

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■         ライター通信          ■
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 こんにちは、はじめまして。ライターの逢咲 琳(おうさき・りん)です。
 この度は依頼をお請けいただいて、どうもありがとうございました。
 少しでも楽しんでいただけましたでしょうか?

 香坂 蓮さん。初めてのご参加、どうもありがとうございます。
 …いや、初めてというか…前に一度シチュエーションノベル・シングルでお会いしましたね。再会できて嬉しいです。
 プレイングと絵等から、クールで多少皮肉屋?な青年を思い浮かべたので、そのように描写させていただきました。もしイメージと違っていたらスミマセン。
 プレイングではヴァイオリンを持って行くと書かれてい、実際に現場にも持って行ったのですが、作中にありますとおり、深夜に演奏するわけにはいかないと思い、今回はもう一つの方の能力を使用させていただきました。
 皆さんと揃っている所ではひどく口数が少ないですが…ラストで一応、存在感を出せているのではないかと…。ス、スミマセン(汗)。
 あと、湖影さんと仲悪げですが、気があわなさそうな感じがしたのでそういう描写になっています。別場所で会われた際には一つ、仲良くお願いします(笑)。

 PC同士の関係についてですが、テラコン、もしくは過去の逢咲の依頼を土台に置いています。他ライターさんの依頼内での関係は、テラコンに反映されていないと基本的には採用していません。
 その旨ご了承ください。

 もしよろしければ、感想などをお気軽にクリエイターズルームかテラコンからいただけると嬉しいです。今後の参考にさせていただきますので。

 それでは、今回はシナリオお買い上げありがとうございました。
 また再会できることを祈りつつ、失礼します。