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<東京怪談ノベル(シングル)>


タリシオの呪い -the Violin mania-

 香坂・蓮(こうさか・れん)はピアノを前に、腕と足を組んで無表情に腰掛けていた。大きな窓から差し込む陽光は明るく、反響の良い広い部屋だ。
 ピアノの譜面台に立てた楽譜越しには、この部屋に見合った仕立ての良いサマードレスを着た少女がヴァイオリンを弾いている姿がぼんやりと見える。
 徐ら、蓮はピアノの縁を鉛筆でこんこん、と叩いて演奏を止めた。
「……さっきと指遣いが違うぞ」
「……、」
 楽器を下ろし、振り返った少女には反抗的な表情が浮かんでいる。顔立ちは非常に可愛らしい。が、その苦労を知らず甘やかされて育った事がありありと伺える白い貌。それは、その環境で以て彼女を生意気で我侭極まりない性格に育ててしまった。
「結局、どっちにするんだ。フィフスで取るのか、ファーストで取るのか」
「どっちでも同じでしょ」
 溜息が洩れた。蓮は仕方なく立ち上がり、少女の前へ立って楽器を構えさせ、彼女の左手をフィフスポジション、丁度親指がネックの付け根に当たる場所に置かせた。
「いいか」
 そして人さし指から一本一本、弦を押さえて指板の上へ置く。細い眉を吊り上げて蓮を睨み付ける彼女に応じる事なく、蓮は淡々とその作業を行った。
「これが、フィフスポジションだ。親指を怠けるな、ちゃんと位置を覚えろ。フィフスとファーストでは同じ運指は使えるが、場所は全く違う。それに、指の間隔もな。この間隔を完全に覚えていなければ、本番になってその時にフィフスで取ろうったってそうは行かないぞ。必ず外す。覚えられないなら、始めからファーストに決めろ。いずれにせよ、今悩むような事じゃないんだぞ」
「もうちょっと考えてから極めるわ」
「駄目だ。今ここで極めろ。……後3日しか無いんだぞ、そんな時にまだ暗譜も出来てない、運指もどっちつかずで極めてない、じゃ話にならん」
 
 ──そう、後3日しか猶予は無いのだ。彼女がこの曲を弾く本番まで。
 彼女の両親は資産家で、父親は海外出張を繰り返し、母親はスノッブ気取りで愛娘にヴァイオリンを習わせていると云った典型的な中流階級家庭だ。
 コンクールまでの限られた日数の間に、技術的にクリア出来ない部分を教えて呉れるヴァイオリン教師を求めている、と彼女の母親は仲介人を通して蓮に依頼して来た。情感の面では完璧なので、本番までにこの曲が弾けるようにして貰いたい、と。
 話を聞いた時から妙だとは思っていたのだ。コンクールに出す程のレベルまで習わせているなら専属の教師が付いているか、或いはどこかの門下に入っている筈だし、親が資産家であればレッスン料の高くつく高名なヴァイオリニストに師事する事も可能な筈だ。なのに、コンクールの一週間前になって教師を探し、然も教える立場としてのコネクションは持っていない蓮に依頼に来た辺りが。
 それでも基本報酬も高額だったし、コンクールで成功すれば追加報酬も支払うと云う事なので蓮はともかくこの屋敷へ赴いた。そこで話を聞き、且つ実際に彼女の演奏を聴き教えてみて初めてその疑問が解けた。
 何とも奔放で我侭で生意気な少女なのだ。小学校6年生と云う事だが、精神的な成長は幼稚園児で止まっていると蓮は確信した。母親の態度を見ていれば分かる。娘には才能があると信じ込み、好きなだけ甘やかして練習をサボっても天才には努力等必要無いのだと気にもせず、教師から見放されればそれは教える側に問題が在ったのだと都合良く信じ込む。情感面に優れていると云うのも、少女のそんな奔放な性格が顕われただけに過ぎない。
 そうしてあらゆる門下から弾かれて師事する先を転々とした結果、意地でも出演させたいコンクールの直前になってとうとう受け入れて呉れる先が無くなったのだ。
 蓮が模範演奏をすれば、問題にしている音程や手の形など見もしないで「詰まらない弾き方するのね、あたしならそこはもっと華やかに弾くわ」などと生意気且つ一丁前な意見を述べる少女を相手に、蓮は仕事だと割り切って淡々とレッスンを続けて来た。
 技術的な事であれば、基本に基づき、ちゃんと理論立てて教える自信はある。が、教えられる側がこの態度では進歩のしようが無い。
 課題曲と云うモーツァルトの協奏曲を前に、時間は無為に過ぎて行った。

「それに、右手のこのフォームは何だ。親指を反らすなと最初に云わなかったか。これだから指弓が使えないんだ。ほら、持ち直せ。弓は親指と人さし指と小指の3点で支える。あとは乗せるだけだ、……そんなに指を突っ張るな、力を抜け、」
「──……、」
 蓮の手を振り払った少女の右手が乱暴に振り下ろされた。ボウがその手を離れ、かしゃん、と音を立ててフローリングの床に落ちた。
「……、」
 蓮は自分でも血の気が引き、表情が一瞬で冷めて行くのが分かった。
 落ち方が良かったのか折れはしなかったが、この衝撃を華奢な木の身体は覚えているだろう。乱暴な打撃は、消耗品であるボウの寿命を確実に縮める。演奏家なら誰でもその事を弁えているからこそ、念には念を重ねて楽器は丁寧に扱う。 
 反抗の意思を示したかったのかストレスが極限に達したのかは分からないが、間違っても楽器を床に放るなど、──、もう何と云おうと知った事か、勝手にしろ、と蓮は心の中で怒鳴った。
 黙ってボウを拾い上げ、流石にばつの悪そうな表情になった少女に押し付ける。
「……俺は少し休む。その間、鏡に向かって開放弦のボウイングをやってろ」
 少女は流石に黙って大人しく云う通りにした。どうせ、すぐに飽きて止めるのだろうが。

「……、」
 応接間のソファで額を覆っていると、母親が脳天気な表情でコーヒーを運んで来た。
「香坂さん、あらごめんなさい、先生、どうです? コンクールでは上手く行きそうですか」
「……彼女次第でしょうね」
 無難ながらも核心を突いた返事を返した蓮の言葉の意味を考える様子もなく、彼女は、どうだあの娘は天才だと思わないかとか、技術面ではまだまだだがあの音楽性はプロのヴァイオリニストにもちょっと居ないだろうとか、あの娘は3歳の時にピアノの音を判別できたのだ、天才的な絶対音感だとか的外れな事ばかりを捲し立てる。あまりにも矢継ぎ早なので、相槌を打たずに聞き流していれば良いのは有り難かった。
 そろそろレッスン室に戻ろうかと蓮が重い腰を上げかけた時だ。インターホンが鳴った。蓮が視線を向けた母親は、あら、帰って来たわ、と呟き、さも自慢そうな表情を向けた。 
「主人ですわ、仕事でイタリアに行ってたんですの、帰って来たんですわ」
 そして、レッスン室の少女にも「パパが帰ったわよ、」と声を掛けながら応接間を出て行った。
「……」
 やや手持ち無沙汰になった蓮はどうしたものか、とコーヒーをゆっくり啜った。
 ──と、暫く親子3人は姦しく騒ぎながら応接間へ移動して来たが、触り気なく距離を置こうとした蓮の腕を、あの母親が「先生、良い所へ居らして下さったわ、さ、お願いします」と強引に引いて身装の良い、如何にも実業家ですと顔に書いてあるような父親の前へ押し出した。
「……は?」
 俄に矢面に立たされた蓮と、彼を知らない父親は怪訝な表情を向け合った。
「……どちらだね?」
「あなた、新しいヴァイオリンの先生よ。香坂先生」
 またか、と父親は眉を顰めた。
 蓮は、雇い主の主人であり資産家でもある彼には一応作り笑いを取り繕って丁寧に挨拶した。……内心、鼻持ちならない一家だ、とは思いつつ。
「また、先生を変わったのか。コンクール前だと云うのに」
 母親は娘が悪いとは思いもしない。
「だからこそ、よ。あんな先生は駄目だわ、コンクールの半月前にもなって課題曲を教えられないなんて。……所で、早く。丁度先生も居らっしゃるんだから、見て頂きましょうよ」
 
「やだ、何これボローい!」
 土産だ、と父親が娘に手渡したヴァイオリンケースの中身を覗き込んだ途端、彼女は手を触れるのも厭そうに眉を吊り上げた。
 父親は苦笑しながら云う。
「そう云うな、高かったんだぞ。見た目は汚いかもしれないが、ヴァイオリンは古い方が良いんだ」
「古ければ良いと云うものでもない」
 ぼそりと呟いた蓮だが、そのヴァイオリンを見遣り、また父親の次ぎの一言を聞いた途端に顔色を変えた。
「先生、ただのオールドヴァイオリンじゃありませんよ。……バルトロッティです」
「バルトロッティ……、──ガスパロ・ダ・サロ……」
 絶句した蓮に、父親は満足気且つ自慢気に頷いた。
「有名なの?」
 それでも矢張り触る気は無いらしく、手を後ろに組んだまま少女が蓮に訪ねた。
「当然だ、ヴァイオリニストなら誰でも知ってるぞ」
「でもストラディヴァリウス程じゃないんでしょ。……それにこれ、割れてるじゃない」
 普段なら、全くブランド嗜好のスノッブめ、と苛立つ所の蓮だが今はそれ所ではない。
 ガスパロ・ダ・サロ、──若し本物なら。
「鑑定書は?」
「勿論、ちゃんとした鑑定家のものが。何なら後でお見せしましょう」
 お願いします、と云い、相変わらず触れる気の無さそうな少女を一瞥して弾かせて貰っても構わないか、と断った。
「どうぞ」
 蓮は慎重に、その「ボロい」ヴァイオリンを取り上げた。ボロくて当然、バルトロッティだとすれば16世紀の作である。商品として売り付けたからには、修繕と調整は確りとされている。が、この作家の作で無傷のものは無い。「割れてる」と娘が云った通り、表板には木目に沿った亀裂が無数にあり、全体が煤でも被ったかのような黒ずみに覆われている。裏板が真二つに割れた跡も、二枚板なら致命傷だった。辛うじて一枚板なのが良かったと云う可きか。然し、それらの欠点も、これが本物であれば修繕しても弾くだけの価値はある。
 ともかく弾いてみれば分かる筈だ。鑑定書を見るまでもない。蓮は、やや緊張しつつ一度解放弦を大きく鳴らした。

「……、」
 
 解放弦の響きだけでは、ただのブランド嗜好一家には分かりようも無かったらしく無反応だが、当人である蓮は呆然として口唇を開いた。

──何て音だ。

 半ば夢中で、調弦を急いて楽器を構えた。
 蓮が、その名器で奏し出した美しい旋律の小品に、流石のブランド夫婦も感心したように聴き入っている。
「……、」
 それまで触るのも厭がっていた少女が、目を見開いて蓮の手許を見ていた。だが、蓮はそうした事にも構わず左耳から聴こえる深い音色と、右耳が捉える伸びやかな響きに集中した。

──……、

「……え、……」
 ──何だ?
 蓮は慌てて演奏を止め、左耳を楽器の表板に近付けて耳を澄ました。
「……、」
 何も、聴こえない。
 だが、──確かに聴こえた気がしたのだ。このバルトロッティの持つ夢のように美しい音色の中に、何か、異質な音が。
 人間の声のような、──それも、歌声などではなく呻き声のような、或いは嘲笑する声のような、不快な音だった。
「……、」
 蓮はヴァイオリンを下ろし、今までとはやや違った感情で左手の中にあるそれを見詰めた。無数の傷を持ち、幾度の修繕を経てもオリジナルの透き通った黄金色のニスが幻想的な程の輝きを放っている。──だが、……。
 おかしいぞ、──蓮の脳裏に警鐘が響いた。ただの名器ではない。これは。そう蓮の霊的な直感が告げていた。それに、それを持つ価値もない小娘にこんな高額な楽器を土産と云って買い与えるような、莫迦のような金の使い方をする資産家とは云え、……バルトロッティだと? 一体、どうした経緯で流れて来たのだ。
「これは、何処で?」
 蓮は父親に訪ねる。彼が急に演奏を止めた事に両親は怪訝な表情をしていたが、その言葉で我に返ったらしい資産家ははっと真顔になった。
「クレモナの、楽器屋ですよ。出張でイタリアに行っていたものでね。この娘も最近フルサイズの楽器に替えたばかりで今のは量産品でしたから、今度の土産として良い物を探す事にしていたんです。小さな店だったが、ちゃんとした仲介者の紹介です。鑑定書もあるのだし、間違いはない」
「──……、」
 真贋とかそう云う問題では無く……。途端に気味が悪くなって、ネックの部分を持って蓮がやや身体から遠ざけていた楽器が、すい、と奪われた。
「あ、」
「ちょっと、弓貸して」
 憮然とした表情の少女が、左手に確りと蓮から取り上げたヴァイオリン、間違いようのないバルトロッティを手に右手を突き出している。今の蓮の演奏を聴いて、自分が弾く気になったらしい。蓮はボウを差し出した。
 そして楽器を構えると、その場で彼女は例の、この分ではコンクール迄に、どころか1年経っても完璧には弾けはしないと思われていたモーツァルトの協奏曲を弾き出した。
「……!」
「まあ……、」
 母親は感動したように両手を合わせて娘の演奏を見詰めている。
 生命力と歓喜に溢れた輝かしいト長調のメロディ、……音程すら覚束無い彼女では到底表現し得ないと思われて居た、モーツァルトの音楽そのものがそこには流れていた。
 少女は熱に浮かされたような表情で演奏を続ける。
 ボウの使い方が悪くて、最後にはいつも無理矢理節約したような音になってしまって居た16分のパッセージのスラーも、明るく伸びやかだ。先程、フィフスポジションで取るのかファーストに変えてしまうのか、と揉めていた部分でも、音程を外す事なく見事に確りとフィフスで弾き切った。
「……、」
 終止のト音を、大きなモーションで弾き切った少女を蓮はぼんやり見詰めていた。
 両親の喜びようは云い表しようもない。
「凄いわ、これなら入賞どころか最優秀にも選ばれてよ、あなた、……何て名前だったかしら? ……まあ、とにかくこの楽器のお陰よ、それと、香坂先生にもね、」
 ……はあ、とどうにも引っ掛かりの残る蓮は曖昧に返事した。
 然し、ともかくこの調子ならばコンクールは万全だろうと云う事で、後は本番を待つ事となった。

 ジュニア向けコンクールの当日、蓮は会場の客席に両親と共に座っていた。
 控え室へは、伴奏者以外の同伴は親でも認められない。今日の為に用意したブランド物のドレスを着せた娘に、ああだこうだ、と口煩く注意を並べ立てながらも両親はエントランスホールで少女と別れた。
 彼女の出演する小学校高学年クラスの課題曲は、モーツァルトのヴァイオリン協奏曲の内3番、4番、5番から選ぶと云うことだ。カデンツは自由。彼女は3番を選び、勿論蓮が雇われた時点であのレベルだったのでカデンツは弾かない事になっている。
 それなりに上手い子供も、たまに驚く程の技術を持った子供も、先日までの彼女と同じようなレベルの子供も居た。一人演奏が終わる度に母親は蓮に、「どう思います? やっぱりあの娘の演奏の方が断然素晴らしいですわよねえ、」と同意の言葉しか期待して居ない質問を耳打ちした。その度に蓮は「そうですね」、と丁寧且つ素っ気無く相槌を打った。
 彼女の出番になった。
 客席は満員だが出演者の身内が多い為、手放しでは無い微妙な拍手の響く中、彼女はあのバルトロッティを手に悠然と舞台に上がった。自信たっぷり、と云った余裕の笑みを浮かべ、高価なドレスに飾り立てられた彼女はそれなりに美しい。
「……、」
 蓮は両親が横に居るので儀礼的に拍手を送りながらも、冷めた観察眼でその背後に感じられるやや不吉な予感を察知していた。

──何も起こらなければ良いがな……。

 ──先日、少女がバルトロッティを手に嬉々としてレッスン室に引きこもった後、仕事の無くなった蓮は父親から鑑定書を見せて貰い、その写しを手に帰宅した。
 どうにも、釈然としない事ばかりだった。あの不吉な「声」の存在も、本当ならば音楽盲の一介の資産家などがそう簡単に入手出来る筈の無いガスパロ・ダ・サロのルーツも。
 そして家に着いてから、心当たりの資料を当たってみたのだ。グァルネリ・デル・ジェスを求める彼の手許にはオールドヴァイオリンに関する資料はいくらでも在る。今迄はグァルネリの系列から離れた作家には対して感心を払って居なかったのだが、──今現在、購入の可能なバルトロッティがどれ程残っているか?
 鑑定書自体は疑いようが無かった。だが、これと思われる楽器のルーツを調べて行く内、蓮は或る人名に行き当たった。

──ルイジ・タリシオ。

 1800年代の「ヴァイオリンハンター」の異名を取った弦楽器マニアである。ストラディヴァリウス作の「メシア」を巡る彼の曰くに付いては有名だ。死後、多額の財産と共に彼の弦楽器のコレクションはストラディヴァリウスやベルゴンツィを始め百挺以上、イタリアの巨匠の作で無い物は無かった、とある意味悪名高い。
 タリシオが、ガスパロ・ダ・サロで所有していたものはコントラバスが有名だが、他にも鑑定するのが一苦労な程に蒐集されたヴァイオリンの中には、名器であっても素性のはっきりしないものが多数含まれていた。それらは後に楽器商人ヴィヨームに因って悪どく売り捌かれ、各地に散った訳だが──、近年、その中にガスパロ・ダ・サロではないかと見られる物が含まれていたのではないか、という意見が飛び出したと云う。
 ──蓮に分かったのはここまでだ。が、今彼女が手にしている楽器も曰く有り気な経緯で流れて来たものには間違いない。……だとすれば、どうだろう? ──不吉な予感を禁じ得ない。

 果たして、事無きを得る事は叶わなかった。
 少女の演奏は重箱の隅を付くように粗捜しをしてやろうという気配の伺える審査員や聴衆を一瞬で惹き付けた。バルトロッティの音色で完璧なまでに輝かしく響き渡るモーツァルト。
 場内は一瞬ざわめき立ち、その後は水を打ったように静まり返った。
 異変が起きたのは、本来ならそこで演奏が終わる筈だった箇所からだ。
「……、どういう事だ」
 蓮は思わず腰を浮かせた。
 ト音で終止したかに思えた少女は、そのままカデンツを弾き始めたのだ。弾かない事に極めていたカデンツを教えた記憶は蓮には無いし、いくら何でもあの娘が3日の間にカデンツをマスターするとは思えない。
 ──然も。
 ある欠点から世間に認知されて居ないとは云え、プロのヴァイオリニストである蓮は定番過ぎるこの曲も飽きる程弾いて来た。当然、あらゆる版の楽譜も所持している。だが、こんなカデンツは聴いた事も見た事も無い。そもそも、彼女の使用していた楽譜に記載されていたカデンツは最も有名なフランコの物だが、似ても似つかない。
 元々が即興で、と指定されているカデンツだから、奏者のセンスに依て全く新しいカデンツが奏される事もあり得る。然し、今の彼女の演奏は常識を逸していた。
 その演奏は、まず同名調のト短調に変わった主題から始まったが、そのリズムは直ぐにインテンポを離れてやたらと引き延ばされ、そうかと思うと今度は超絶的な速度のパッセージに変わった。彼のクライスラーでさえそこまではやらないだろうと思われる複雑な重和音が連続し、仕舞いには、彼女の指では無茶な間隔の音程にまで達した。しかも、それが完璧に力強く指板に叩き付けられているのだ。
「無茶な、……指が裂けるぞ、」
 既に場内は演奏どころではない。あんなカデンツがあったか、知っているか、否知らない、そもそも彼女は何者だ、と其処此処で騒然とし、審査員も合図のベルを引っ切り無しに鳴らしてもう演奏を終了して下さい、と叫んでいる。舞台上のピアノ伴奏者も狼狽えて右往左往するばかりだ。
 蓮は席を立って舞台に駆け寄った。彼女に近い床板を叩き、もう止めろ、無茶苦茶だ、と怒鳴る。
「止められないのよ!」
 壮絶な演奏を続けながら、彼女の目には涙が浮かんでいた。
「あたしが弾いてるんじゃない、止められないの、弾かされてるの! もう厭だ、痛い、助けて!」
 元々碌に練習していなくて鍛えられていない彼女の左手は今、想像を絶する苦痛を訴えているらしい。
 チッ、と蓮は舌打ちした。矢っ張り、何かが憑いていたのだ。
 タリシオ、ヴァイオリンマニアだかそれとも歴代の持ち主の念だか分からないが、ともかく霊的な悪意だ。蓮は座席に駆け戻り、持参していた自らのヴァイオリンケースを掴んだ。
 その横では両親がおろおろと顔を見合わせている。ケースを開け、彼の愛器、グァルネリ・デル・ジェスのコピーに肩当てを嵌めてボウを張っている蓮に気付いた母親がその腕を掴んで泣きながら先生、何とかして、あの娘を助けて下さい、と取り縋った。
「今助ける、だから放せ!」
 雇い主もへったくれも無く蓮は怒鳴って手を振り払い、一度キッと眉を吊り上げて舞台へ向き直った。
 そして楽器を構え、彼女に無茶苦茶な演奏をさせている存在へ向かって告げる。
「──……本当のモーツァルトを聴かせてやる」
 そして楽器を構えた蓮は、大きくボウを振り上げた。後に、モーツァルトのレクイエム、──「怒りの日」の旋律が続く。
 ──やがてその旋律はホール中に響き渡り、舞台上の怨念に因る演奏をも包み込んで浄化させた。
 ようやく解放されて意識を失ったように身体を傾かせた少女の手の中で、バルトロッティ、ガスパロ・ダ・サロの表板に亀裂が走り、ボディはばらばらに分断された。──もう、修繕の仕様が無いのは明らかに。
「……、」
 最早コンクールどころでは無くなった、騒然とした場内で演奏を終えた蓮は楽器を下ろし、ふん、と喉の奥で吐き捨てた。
「……あの世には金も物も持って行けないと云うが……、……ちゃっかりと持って行ったらしいな」
 あの世でも、たった今生命を断たれた名器を愛でて居るが良い。
「おい、大丈夫か」
 蓮はデル・ジェズのコピーを丁寧に舞台上に置き、バルトロッティの残骸を前に座り込んでいる少女を助け起こした。ようやく恐怖から解放された事で線が弛んだのか、彼女は塞を切ったように泣き出した。彼女が初めて見せた素直な表情かも知れない。
「怖かった、……先生、本当に怖かった、」
「……、」
 ああそうだろう。蓮は宥めるように彼女の背中を叩いてやった。

「……本当に、何と御礼を申し上げたら良いのか分かりません」
 後日、少女宅を訪れた蓮へ両親は頻りに頭を下げ続けた。少女の頭にも父親が手を置いて、無理矢理礼をさせている。
 いいえ、別に。素っ気無くと蓮は答える。
「こちらが最初のお約束通りのレッスン料で……、あの、こちらは今回の御礼と云いますか、お詫びと云いますか……、……本当に、娘を助けて頂いて。……どうぞ、御笑納下さい」
 母親が余分に差し出した厚みのある封筒を、簡単に礼を述べて遠慮なく蓮は受け取った。
「……それでは、俺はこれで。今回はお世話になりました、こちらこそ」
 くるりと踵を返しかけた蓮に、「あの、」と少女が駆け寄った。一歩距離を置いて立ち止まった彼女は顔を俯け、云い難そうに手を何度も組替えながら口唇を動かしている。
「……これからも、レッスン、続けて貰えない?」
「……、」
 上目遣いに蓮を見上げた彼女からはあの生意気さが消え、頬に朱が差していた。
「……それはお断りだ」
「どうして、」
 慌てたように彼女は蓮に追い縋った。両親を振り返り、レッスン料なら高く付けさせて貰うわ、ねえ、ママ、出して呉れるでしょう? パパ、良いわよね、と甘えた声で訴える。
「……俺は、これでもヴァイオリニストだ。お嬢さんの道楽に付き合ってレッスンの飯事を続ける暇は無い」
 ──そんな、と呟いた少女に背中を向け、単調に蓮は告げた。
「……本当にヴァイオリンを続けたいのなら、……お前は先ず楽器を、音楽を理解する事から始めろ」
「そうしたらまた教えて呉れる?」
 ──どれだけ先になるか分からないがな、と蓮は苦笑した。

 外は、明るく陽光に溢れていた。──モーツァルトの良く似合いそうな、輝かしい昼下がりだ。