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<東京怪談ノベル(シングル)>


呪樹


 日本が全国的にぐずついた天気に見舞われていた日、みたまは発った。向かった先はイギリスだった。みたまは夫の代わりに任務を果たすことになっていたが、彼女はいつも通りふたつ返事で引き受けたため、今回の仕事の内容をよく把握しないままの出発となっていた。もし事前によく内容を聞いていたら、みたまは断っただろうか。たとえ愛する夫の頼みでも。
 みたまがうんざりするほど長い空の旅を終えてヒースロー空港に降りたときも、空はどんよりと景気が悪かった。
 その頃には、みたまは夫から渡されていた資料を読み終えていたため、気分は空同様に陰鬱なものになっていた。
 森が絡んでいる仕事だったとは。

 訛りの強い現地人から話を聞けば、町をすっぽりと囲むように広がっている森で、失踪事件が相次いでいるとのことだった。
 ――そんなこと、警察に任せなさいよ。
 みたまはむかむかとこみ上げるやり場のない怒りに、思わず整った顔を歪めた。金はすでに夫が受け取ってしまっているようで、ここで任務を放棄して帰るのはプロとしてどうか……みたまはこのときばかりは夫が恨めしかった。いや、訂正だ。こうしたことでみたまが一瞬夫を恨むことはままある。
 この町は長いこと森と共存していくかたちで細々とつましく存続していたのだが、最近町長が若い者に変わり、方針もまた変わってきているのだという。仲良くやっていた森を切り開き、町はここ10年で大きくその範囲を広げた。
 異変が起きたのは1年前からだそうだ。森を流れていた小川よりも北へ開発の手を伸ばした頃に、失踪事件が相次ぐようになったという。
「何か変な遺跡とかそんなものが出てきたなんて言い出すんじゃないでしょうね?」
「そ、それは……」
 恐ろしい顔で詰め寄るみたまに、役所の男は小さくなった。
「ひとり、小川の北に行って帰ってきた人間がいます。ですが、その……」
「会わせてくれる?」
「え、あ、まあ……」
 男は言葉を濁すと、みたまから目を逸らし、ぽつりと付け加えた。
「無駄だと思いますよ……」

 役所の男が「無駄だ」と言った理由は、すぐにわかった。
 『生還者』は病院にも入らず、自宅で人目を避けて介抱されているらしい。古びた風情あるイギリスの家の奥に入って、みたまは途端に頭痛を覚えた。
「き、き、キ、きき、ひっ」
「……もういいわ」
「き、樹、キ、ひっ、木――」
 みたまは出された紅茶にも口をつけずに、その家を出た。
 ベッドに横たわる男の皮膚は、がさがさに乾いていた。乾ききって、土色になっていた――指は長く節くれだって――髪はぱりぱりになっており――まるでその姿は、『指輪物語』のエント族であった。
「彼が森の入口で発見されたのは4日前です。発見されたときは、ちゃんと『人間』だったんですよ」
「彼はどうして森なんかに?」
「開発責任者ですよ。森の中に入ったら二度と出られなくなる、という噂が噂であることを証明しようとしたんです」
「それであれか。……魔女か呪術師でも呼んだら? 正直ちょっと専門外なんだけど」
「う、し、しかし……」
「冗談よ。引き受けたからには最後までやるわ。小川の北……だったわね?」
 町を囲むようにして生い茂る森だけに、火は使えない。風向きによっては、炎が町を舐め尽くす。
 思案に暮れるみたまのもとに、道に迷いに迷った荷物が届いた。日本からのその小包の消印は、1週間近く前のものだった。
「なに、これ」
 夫からの支援物資が届いて包みを開ければ、大抵みたまの口からはこの台詞が飛び出す。いつも通りの展開ならば、いつも通り順調に仕事は片付くはずだ。
 みたまは何が書かれているのかさっぱりわからない古い『本』と、使用方法の気おくに自信がない『火縄銃』を手に、森へ入った。
 森はぱくりとみたまをくわえて、一息で飲み下してしまった。


 小川を越えた向こうに何があるのか、みたまは特に興味がなかった。
 森というのは、深淵である。
 癒し・安らぎ・マイナスイオンと、いまの日本では何かと美しげにもてはやされているが――みたまは森というものの本質は、恐怖と暗闇であると信じて疑わない。
 多くの人間が森をはじめとした自然に刃を向け、反発する道を選んで発展してきた。森を切り開き、山を削り、海を埋めてきた。
 自然は人間を拒絶しようとはしていない。いつでもぽっかりと口を開け、人間が入りこむのを待っている。暗闇に呑まれた人間が、光溢るる更地を望むか、その淵が持つ闇に魅入られるか――すべては人間の思い次第なのだ。
 みたまは森にあまりいい思い出がない。
 決して嫌われたわけではないのだろうと自分をなぐさめてはいるのだが、みたまはとりあえず、すすんで森の中に入ることはなかった。
 とにかく仕事を片付けて、早々に立ち去る――そのことでみたまの頭の中は一杯だった。午後2時のはずだというのに森は闇に閉ざされ、よくわからない虫の鳴き声や鳥の鳴き声が、どこからともなく聞こえてくる。
 森に入って1時間、さらさらと流れる小川に行きついた。
「これをまたいじゃいけないってこと?」
 みたまは微笑むと、ひょいと小川を飛び越えた。
 川は可愛らしくさらさらと流れつづけていたが、
 森は急にざわざわと騒ぎ始め、みたまは思わず背の高い木々の枝を見上げた。風が旧に強くなったのだろうか、芳しい香りがどこからともなく運ばれてくる。
 がさばさがさがさがさばさばさがさばきがさ――
 獣の気配はない。
 だが何かの気配がする。
 それも、無数だった。
 足を止めたみたまの金髪、紅い目、すらりとした体躯に、矢のように視線が突き立つ。その視線をみたまはいぶかしんだ。敵意あるものが多いが、中には救いを求めるかのようにすがりついてくるものもあったからだ。
 みたまは今一度顔を上げて目を凝らし、驚いた。
 生えている木々の幹には、人の顔のような瘤がついていたからだ。
 目にあたる穴から樹液がしたたり、唇にあたる節がぶるぶると蠢く。樹には声帯などないから、声も出ない。
 がさばさがさがさがさばさばさがさばきがさ――
「助けてあげるわ」
 アロマキャンドルの匂いにも似た香りを振り払い、みたまは『本』を広げた。『本』の表紙を開いたとき、みたまの指の間から、ハーブのように柔らかな葉が舞い散った。紅いマニキュアを塗ったはずの爪は、緑色に変わっていた。
 『本』のページに走るミミズとナマズのヒゲがのたうったような文字は、みたまにはやはり読めなかった。
 だが彼女の口をついて出たのは、旋律のような言の葉。
 みたま自身が知らない言語が、みたまの緑色になった唇の間から漏れる。
 囁きは大いなる力であった。
 ばきばきばきばきばきばきやめろばきばき――
 紡がれる旋律が、その程度の怒号で止むことはない。
 みたまの唇、爪が、紅へと戻る。ハーブの葉が金髪から抜け落ち、たちまち干からびて、風の中に溶けた。
 ばきばきやめろばきばきばきばきころすぞばきばき――
 溜息と涙が木々の間から漏れていく。
 みたまの手の中で『本』がひとりでに閉じた。
 ばぽん、というその音とともに、十数人の男女が草むらへと倒れこむ。
「ふぅ。シャネルの赤、気に入ってるんだから。緑はまた今度――」
 ヂャッ、
 ずばん!
「――気が向いたらね」
 みたまの手の中で、火縄銃が滅びる。
 その一寸先で、古い樹木が1本滅びた。振り上げた枝で、うろの中に植わった牙で、みたまの身体を今しも引き裂こうとしていた樹だった。火縄銃の弾丸を受けたその樹だけが、バッと炎を上げて燃え上がった。樹は無言で燃え続けた。芳しい香りが火と灰の臭いにかき消され、悪意に満ちた視線が恐れおののき、一斉にみたまから目を背けたのだった。
 炎はみたまのたてがみのような金髪をしばし照らした後、他の草木に燃え移ることも、倒れた人々を灼くこともなく――消えた。
 マイナスイオンをふんだんに含む涼しい風が、みたまの頬を撫でていった。

 この心地良さを垣間見ても、みたまはやはり、森はこりごりなのである。




<了>