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陽だまりの中で
朱色の鳥居を潜り、参道に敷かれた石段を数えながら登り、藤井百合枝はハイヒールで神社の境内をゆっくりと歩く。
顔を上げれば、木々に囲まれた中で、桜が一本、陽の光に葉を閃かせながら佇んでいるのが見える。
「………ここは全然変わらないね」
涼やかな風が頬を撫でていき、木々のさざめきは耳に心地よい。
街の景色は時間とともにどんどん移り変わるけれど、この一角だけは当時のままの姿をとどめている。
そこにはかつて、大切な年上の友人が座っていた。
自分の能力をコントロールする術を待たないままに孤立していた小学生の自分。
いつも胸に棘を抱えていたあの頃。
彼は変わらぬ笑顔で、柔らかな陽射しの中、猫たちとともにそんな学校帰りの百合枝を迎えてくれた。
あの頃の記憶をなぞるように、かつて老人とともに過ごした時と同じ場所にそっと腰を下ろす。
*
百合枝はよく、ランドセルを背負ったままこの神社に遊びに来ていた。
登下校はいつもひとり、自分に声を掛けてくれる友達などいない。
「………どうしてあんなこと言っちゃったかな」
物心つく前から、百合枝の翠の瞳は、周囲の人間たちに炎を重ね見ていた。
怒っている時は赤く激しく燃え盛り、楽しいときには赤味がかった黄色となってやわらかく揺らぐ。幸せそうに微笑み木陰で休んでいる人の色は穏やかな緑色だった。
だが、それを不思議と思い、他の人にはどんな風に見えているのかと、誰かに尋ねたりしてはいけなかったのだ。
(何言ってるの)(そんなの見えないよ)(嫌だ)(気持ち悪いこと言わないで)(うそつき)
友達だと思っていたあの子たちの突き放す言葉が、今も痛くてたまらなくなる。
なかなか抜けない、心に突き刺さった言葉の棘たち。
自分の見ているものが人の心を映す炎なのだと気付いたのは、祖母が目の前でゆっくりと息を引き取った時だった。
こんな力なんていらないとなくなってしまえばいいと、幾度となく考える。
落ち込んでいく自分を持て余し、気持ちを切り替えるためにお気に入りの場所へと続く石段を数え始めた。
ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ…………
「あ」
石段を登りきったところで、思わず百合枝は足を止めてしまった。
自分の特等席である神社の隅には、今日に限って既に先客がいたのである。
足元に猫を纏わりつかせ、日向ぼっこでもしているのか、ただ何もせずぼんやりと座り込んでいる老人。
彼の心に揺らぐ炎はあまりにも弱々しく頼りなかった。今にも消え入りそうな青の色彩。どこまでもどこまでも静かで、見ているこちらの方が寂しくなってくる。
「………こんにちは」
気付くと自分から声を掛けていた。
「おや……」
ゆったりとした動作で老人は顔を上げ、そして百合枝の姿を認めると、優しく笑みを浮かべた。
「こんにちは、お嬢さん」
彼の足元と膝上で、猫たちもぴくりと耳を動かす。
顔なじみの百合枝に、1匹がすとんと老人の膝から飛び降りて、挨拶がてら彼女の足に体を摺り寄せた。
「……あんたもこんにちは」
少しだけぎこちない笑みを浮かべてその猫を抱き上げると、百合枝は老人のいる場所までゆっくりと近付いた。
「………となり、座ってもいい?」
「ああ、いいとも」
彼がふんわりと笑顔で頷き、手招きしてくれるので、ちょこんとその隣に腰掛けた。
さらさらと風が木々を渡り、草葉が足元をくすぐる。
「…………」
「……………」
神社を囲む森の緑の中、桜の幹を背に2人きり。特に話すこともなく、ただ穏やかな時間だけが過ぎていった。
だが、不思議と気まずさは感じない。
ふかふかころころとした猫の背中を撫でたり、指先で喉や鼻先をくすぐりながら、自分に刺さった棘の痛みがやわらいで行くのを感じていた。
手の中の猫たち、そして、隣に座っている老人から何となく暖かいものが伝わってくるせいだろうか。
自然、百合枝の口元もほころんでいく。
「………そういえば」
「はい?」
「お嬢さん、喉は渇いていないかい?お茶でよければ、持ってきてるんだが……」
老人は小さな水筒を持ち上げて、首を傾げる。
一瞬、彼の炎が緊張と不安に揺らぐのが見えた。
百合枝はとっさにこくこくと頷いていた。
「あ、はい。ありがとうございます。もらいます!」
安心したように、彼は笑った。
そして2人は他愛のない会話をポツリポツリと交わし始める。
「そうかい。お嬢さんはあの小学校に通ってるのかい」
水筒のコップにおかわりのお茶を注いでもらいながら、こくりと頷く。
だが、学校で話したいことなど、今の百合枝にはほとんどなかった。
だから、代わりに家族のことを話す。
「妹がいるの。3つ下で、来年小学校にあがる。毎日一緒に通うんだって約束した」
「ほう。妹さんがいるのかい?かわいいだろう?」
目を細めて老人は笑う。
「おじいちゃんは?兄弟いないの?」
「ん?いたとも。私は7人兄弟だった。とにかく大家族で、毎日毎日とっ組みあいのけんかだの、おやつやご飯の取り合いだのをしていたよ」
だが今はもう誰も自分の元にはいないのだと、心の炎が百合枝に告げる。
「妹さんを大事にしなさい、お嬢さん。お互いに助け合って、ね。大事に大事に可愛がっておやんなさい」
諭すように繰り返す彼の言葉は切ない。
「じゃあね?おじいちゃんの子供の頃ってどんなことして遊んだの?ここにも来た?」
悲しく揺らぐ青の炎を少しでも暖かい色に変えたくて、百合枝は懸命に別の話題を探し出す。
「私の子供の頃かい?」
「おもちゃとかたくさんあった?」
「そうだなぁ……おもちゃは自分で作ったんだよ。今みたいになんでもある時代じゃなかったからねぇ」
老人は懐かしそうに、そしてきらきらとした目で、この神社で遊びまわった子供の頃の自分を語り始める。
「首にマント代わりの風呂敷なんて巻いてね、こう…新聞紙を丸めて作った剣を握ってチャンバラごっこだ」
身振り手振りを加えながら、次第に生き生きと動作も大きくなっていく。
「えいっ、やっ、とおっってね!ヒーローになりきってこの神社を走り回ったんだ。簡単に折れないように工夫を凝らすことも忘れちゃいけない。勝負はいつだって真剣だからね」
思わず立ち上がっての大熱演に、百合枝だけでなく、昼寝中の猫も思わずビックリしてしまう。
「それからねぇ、木に登っては神主さんに叱られてぱぁーっと蜘蛛の子を散らすみたいに逃げてみたり」
それでも楽しそうに、そして一生懸命に話し続ける彼に引き込まれて、百合枝は声を上げて笑った。
時折老人はふと照れたように笑いを浮かべたが、『それから?』『次は?』という声につられて、また熱演を繰り返す。
楽しくて嬉しくて、こんなふうに笑ったのはすごく久しぶりではないかというくらい、百合枝は心の底から笑った。
陽だまりの中で紡がれていく、猫と老人と少女の時間。
神社の隅っこは実にステキな空間になっていた。
「おや、もう日が暮れる。さて、お嬢さんはお帰りなさい」
やんわりとした声音で促す老人に、百合枝は素直に頷きを返した。
彼の炎が少しだけ大きさを増したように感じた。あの寂しくて胸がキュッとするような青も消えて、そこで揺らめいているのは、黄色と赤の暖かくも弾んだ色彩だった。
それがたまらなく嬉しくて、百合枝は明日の約束を交わす。
そして、百合枝自身もまた、いつのまにか心に突き刺さっていたはずの棘はすっかりと抜け、落ち込んでいたはずの気持ちが跡形もなく消えていた。
毎日、百合枝は神社までの山道を駆け上る。石段の数はもう数えていない。
今日は何を話してくれるだろう。どんな発見があるのだろう。
好奇心で胸がいっぱいになった自分を、老人はいつも同じ場所で出迎えてくれた。
「お嬢さんは知らないだろうなぁ」
そういいながら、彼は目を細めて笑う。
「昔はね 祭りがあると、白い幕を張って映画の上映会もやったんだよ」
「映画館じゃないの?」
「あの頃の映画館はまだまだ高くて、子供なんかが見れるもんじゃなかったのさ。かわりに、幻灯機の光を使ってね、映写機をカタカタカタカタと回して白い幕に映すわけだ」
「……へえ」
「ところがだ。こんな田舎でタダ見させてくれる頃には、フィルムもすっかり傷んでてね、こう…回してるだろ?そしたらいきなり」
「いきなり?」
「いきなり、いい所でぶちんっと切れちまう」
「ええ?」
思わず『嘘だぁ』と笑いながらも『本当に?』と聞き返してしまう。
『明日』の約束が毎日毎日かわされる。
今度の日曜日には妹も連れてくると約束もした。
春になったらお弁当を持ち寄ってお花見をしようとも約束した。
このままずっとずっと続くような気がしていた。
このままずっと、年上の友人とこの場所で過ごせるのだと思っていた。
百合枝は、自分が老人の中に見た、消え入りそうに弱いあの祖母と同じ形に揺らぐ炎のことを忘れていた。
「………あれ?今日はまだ来ていないんだ」
いつも自分を迎えてくれた優しい人の笑顔が、今日に限ってそこにない。
「何か用事でもあるのかな?」
特等席に腰掛けて、百合枝は猫たちを撫でたり、話しかけたりしながら、日が暮れるまでの時間ずっと友人を待ち続けた。
だが、とっぷりと日が暮れてしまっても、彼は石段を上がってこない。
「また明日会おうって約束したのに」
ほんの少し寂しい気持ちを抱えながら、百合枝は仕方なく、ランドセルを背負いなおして家に向かった。
それからも毎日百合枝は神社を訪れ、友人を待った。
だが、どれほど待ち続けても、彼は姿を現さなかった。
日増しに悲しさと寂しさ、そして恋しさが募っていくが、彼の名前も住んでいる場所も知らない自分には、ここで待つ以外どうすることも出来なかった。
何か自分は彼にひどいことをしてしまったのではないか。
何か気に入らないようなことを言ってしまったので、来たくなくなってしまったのではないか。
そんなことすら思うようになった。
そうしてどれだけの時間が過ぎたのだろうか。
「あれ、君は」
神社に酒を届けに来たのだろう酒屋の配達の青年が、百合枝に目を止め、声を掛けてきた。
「良くここでおじいちゃんと一緒にいた子だよね?いろんなお話してるところ、見かけたよ」
人懐こい笑みを浮かべる彼の炎は、ごく穏やかな澄んだ黄色だった。
「…あ、はい。そうです……」
おずおずとだが、百合枝は立ち上がって彼に言葉を返す。
「今日はどうしたの?もうすぐ日が暮れるよ?」
「ええと……おじいちゃんを待ってるの……」
不安に駆られながらも、何とか答える。
「あれ?しらなかったのか?」
「え?」
一瞬垣間見えた彼の微妙な表情と心の揺らぎが、不吉な予感をかきたてる。
その続きは聞きたくないと、耳を塞ぎたい衝動に駆られたけれど、彼の言葉は心の声と一緒になって百合枝に届いてしまった。
「あのおじいちゃん、確か先日亡くなったって聞いたんだけどな」
唐突に告げられた現実に、その言葉の意味をすぐには理解できなかった。
青年の『暗くなる前に帰るんだよ?』という言葉を遠くに聞きながら、呆然とその場に立ち尽くす。
なんともいえない喪失感が、自分を動けなくしている。
もう、あの友人はここには来れないのだ。
どれほど待っても、もう自分の前には姿を現せない。
「………亡くなったんだ……」
その事実に感情が追いつかない。
自分ははじめから知っていたはずだ。
祖母は既に亡くなっている。あの時、彼女の心の炎は弱く頼りなく、次第に小さくなっていって、最後にふっと消えてしまった。
あ、と思ったとき、祖母は医者によって『臨終』を告げられたのだ。
あの時、知ったはずではないか。
自分の見ているものがなんであるのかを。
「………でも、少しずつ大きくなってたから……」
誰に対するいいわけなのか分からないままに、ポツリと呟く。
もしかしたらずっとこのままいられるのではないか。そんな期待をしていたのだ。
*
かつて友人が座っていた場所を、そっと指でなぞってみる。
「あれから私、少し変わったわ……おじいちゃん……」
日が暮れるまでの時間、あともう少しだけ彼と過ごした想い出に浸っていたくて、百合枝は静かに目を閉じた。
END
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