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<PCシナリオノベル(シングル)>


書物魔女−黄泉路へ続く物語−

I

「未だ読み終わっていないのか、それとも、何か呪いのようなものなのか――もしくは、終わりのない本なのか」
 学院の緑の、木漏れ日を彩るその中を、
「あたしも気になるな〜……それにしても由美子ちゃん、本当に心配そうな顔してたね」
「ええ、友人がそんな状態でしたら、そうなって、当然でしょう」
 穏かな会話と共に、歩みすぎる、二つの影があった。
 まるで全てを包み、労わるかのような声音で言葉を続けた青年の座る車椅子を押す少女、瀬名 雫(せな しずく)と、
「それにしても、それとも読み続けるよう呪いのようなものなのか、興味があります」
 雫の声に振り返る、椅子の上のセレスティ・カーニンガム――波銀色の長い髪を光に遊ばせる、海色の瞳の青年と。
 二人は、外とは隔離された、紙一枚違えた自然の世界を満喫しながら、しかしある事件への思いを巡らせ、様々な予感に心配ともつかぬ感情を覚えていた。
 ――全寮制霧里学院。
 かつてから不思議な噂の絶えないこの学校は、雫の持つ怪奇現象ばかりを取り扱うホームページでも、何度となく話題とされてきている。今回二人がこの場所を訪れていた理由も、その噂の内の一つの真相を確かめる為であった。
 本を読み続ける、少女の噂。
「でも、明日までにどうにかしないと、本当にまずいかもしれないよね。今日は休みだから良いけど……授業がはじまったら、さすがに先生達だって、ほってはおけないだろうし」
「ええ、それもそうですね……に、しても」
 セレスは、雫のホームページに事の一部始終を書き込んだ、噂の友人、神原 由美子の言葉を思い出す。
『里穂を――友達を、助けてください!』
 雫達が学園に訪れるなり、涙ながらに叫んだ由美子の話による所、
「私も、読んでみたいような気がします」
「ん、あたしも読んでみたいかも知れないなぁ……確かに、どんな本なんだろ」
 その少女は文字通り、本の世界に引き込まれてしまったかの如くに、そこから一瞥も視線を逸らさないのだと言う。その上、由美子が本を取り上げようとしても、頑なにそれを拒み、彼女のものとは思えない程の力で本を奪い返してくるのだとも言っていた。
 そうしてもう一つ、由美子の付け加えた言葉がある。
「それに――」
 数日前のニュースでも、トップとして扱われていた霧里学院高等バレー部集団失踪事件。
「本当に、関係あるのかな」
「やはり、里穂さんに会ってみないと……色々と、わからない事が多すぎますね」
 その少女が本を読み始めるその直前、バレー部の失踪事件のその日――転がり込むようにして寮に帰って来た時口走った言葉によると、彼女はその事件にも、深く関与しているのだと言う。


II

「里穂、しっかりして! 里穂!!」
 セレスと雫とが由美子に教えられた部屋のドアを開けた瞬間聞こえてきたのは、里穂の事が心配だから――と、先に部屋に戻っていた由美子の叫び声であった。
 雫がドアを開け、セレスの車椅子を押し、室内へと入る。ぐるり周囲を見回せば、そこには、
「……その子が、里穂ちゃん?」
 小奇麗な部屋の勉強机に、じっと机に向って背を曲げて腰掛ける、一人の少女の姿があった。由美子に肩を揺すられ、それでも少女は、身じろぎ一つしようとはしない。
 ――秋山 里穂。
「里穂!」
 里穂の異質な雰囲気に、雫が思わず息を呑む。里穂の手元に、分厚い書物。まるで少女の腕に守られるかのようにして読み開かれ、ゆるりゆるりと紐解かれていく。
 しかし、
「由美子ちゃん、来たよ〜」
「雫さん、セレスさん!」
 その中身は、あれほど里穂の近くにいる、由美子でさえも知らないのだ――里穂の見つめる世界は、白紙の世界なのだから。
 雫の言葉に初めて、由美子は二人の存在に気が付いたかのように振り返った。小走りに二人に駆け寄り、
「あれが――里穂です」
 俯き気味に、指を指す。
 途端セレスが、椅子の駆動輪握りに手をかけ、里穂の方へと椅子を前進させ始めた。
「あ、セレスちゃん……?」
 その後を、慌てて雫が追いかける。さして広くもない二人部屋、その頃にはもう、セレスは里穂の元へと辿り着いていたが。
 夕暮れ色の光が、秋の高い空を鮮やかに彩っていた。窓辺の黄昏に染められ、揺れるカーテンの影が里穂の顔に薄く影を落とす。
 セレスの髪が、その動きに、するりと輝きを反射した。
「はじめまして、里穂さん」
 波を従える色の瞳が、白紙を見つめる里穂の視界の隅に割り込んでくる。
 はた、と一瞬、里穂のページを捲る手に、戸惑いが現れたような気配を感じ、
「私は、セレスティ・カーニンガムと申します。セレスと呼んで下さって、構いません」
 セレスは流麗に言葉を続ける。里穂からの返事がまるでないのも気にせずに、そのまま、どこか学者めいた雰囲気の白いその手を差し出した。
「突然失礼かとは思いますが、宜しければその本を――私に、見せて頂けませんか?」
 刹那。
 里穂の反応を見守るかの如く沈みかえっていた世界に、ぱたん、と、本の閉じられる、軽い音が響き渡った。
 あまりにも意外すぎる展開に、まず驚いたのは由美子であった。
「ウソ……」
 どんなに説得しても、里穂は、本を手放そうとしなかったと言うのに。
「里穂!」
「待って!」
 しかし、沸き起こった喜びに、里穂の方へと駆け寄ろうとした由美子を制したのは、雫であった。
 ――何か、様子がおかしいと。
 真剣な瞳で、展開を見守る。
 ごくりと誰かが、息を飲んだ。
「……オハナシ、」
 そうして、里穂がセレスの方を振り返る。
「聞かせてあげる惨い話……聞かせてあげる」
 微笑みかけるかのように、歌うかのように――虚ろな瞳が、囁いた。古びた書物を腕に抱きしめ、里穂が、文字通り壊れた¥ホみと本とをセレスへと差し出す。
「里穂……」
 その姿を遠巻きに、思わず呟いたのは由美子であった。あんな笑顔を浮かべている友人の姿など、今までに一度も、見た事がないと言うのに――。
 ゾッとした。背筋が凍りつくような感覚に、部屋の空気までもが、冷えていくような錯覚に陥ってしまう。
 しかしセレスは、やわらかな微笑を崩さぬそのままで、
「惨いお話、ですか――そうですね、私も直接、拝見させて頂くと致しましょう」
 その本にそっと、その手を触れさせた。時間の流れに、こびり付いた埃の取れない、古びた本独特の感触に、その香り。
 その中に、微かな力を感じるセレスの手に、本が渡ろうとした――
 しかし、途端、
「ダメ! 絶対ダメ!」
 何の前触れもなく、里穂の瞳が光を取り戻した。それと同時に、セレスの手が、凄まじい力によって弾き飛ばされる。
 怯えきり、その瞳に涙を溜めすらしながらも、里穂は再び、床へと落ちそうになっていた本を素早く拾い上げていた。
「ダメだよ……絶対に、駄目――! 語り部は、あたし一人で十分……」
「――語り部?」
 だが、里穂はセレスの問いに、言葉を返そうとはしなかった。再び机の上で本を開くと、瞳も虚ろに白紙をじっと凝視し続ける。
 考え込むかのように、頬に手を当てたセレスに、
「里穂は……ずっとそう、呟いてました……語り部がどうとか、黄泉の、バンニン? とか何とか――」
 確かに耳を澄ませれば、微かに里穂が何かを囁いているのが聞えてくる。ふつり、ふつりとゆっくりと――繰り返される、意味のない言葉の螺旋。
 しかし、そこに何か、秘密があるような気がしてならなかった。
 セレスはゆっくりと息をつくと、静かに窓越しの赤空に視線を投げかける。闇を帯び始めた世界の色に、風の冷たさが緑のぬくもりを含み、沈黙の夜の到来をそっと告げているかのようだった。


III

 あの後。
 セレスの水を――つまりは血液の流れを操るその力による沈静と、雫と由美子との努力によって、半ば強制的ではあったが、里穂から無理やり本を奪い取り。
『雫さんと由美子さんは……もしかしたら、この場を離れるべきかも知れません』
 何があるかもわかりませんからね、と本を手にしたセレスの言葉に従い、雫と由美子とは、学院巡りへと出かけているはずであった。セレスの後ろで昏々と眠る、里穂を心配ながらに残したままで。
 里穂はあれから、ずっと眠り続けていた。
 ……無理もない、ですよね。
 ふと少女の気配を一瞥し、セレスは小さく微笑してしまう。由美子の話によれば、里穂は数日前からずっとあの状態だったと言うのだ。延々と本を読み続け、眠る事すら忘れてしまった少女。
 ――引き込まれたその先が、お伽の世界であったのなれば、まだ良かったのかも知れない。
 しかし、
 こんな世界に、引き込まれていただなんて――。
 闇の中、蝋燭の光一つすらもない空間。月の光の細光に、しかしセレスは、本を読むのを止めようとはしない。
 否、
 止める必要が、ないのだから。
「黄泉の番人――異形、それから、語り部……」
 セレスの瞳では、世界の全てを見つめる事は叶わない。それでも、世界の全てを、感じる事はできる。
 そこに隠されているのは、いつでも星の数程の想いだ。たった一冊の本にしても、何にしても、そこには必ず、何かの、誰かの残した想い≠ェ存在している。
 この本に関しても、決してその例外ではなかった。むしろ、霊的な力を帯びているからこそ、その想いが、強く、強く流れ込んでくる。
 ――そう。
 この本は間違いなく、何らかの力を帯びている書物であった。
 蒼い月の闇。揺れるカーテンの影。闇の中にするりと溶け込むセレスの姿が、薄い光にそっと揺れる。
 より深く本の中身を感じようと、本を開いていたその手が、音も立てずに表紙を閉ざす。最後のページ、最後の小話。そこでセレスは、今回の事件の真相を全て知る事となった。
『黄泉路へ続く物語』
 表紙に綴られた文字は、確かにこの内容を如実に示しているものであった。短編に程近い話が幾つも幾つも綴られる物語集は、しかしその全てが、例外なく『黄泉の番人』に見入られた『異形』達の、朽ち果てて行く話であったのだから。
 最後は、全寮制霧里学院高等部バレー部の話で締めくくられていた。遊び心の肝試し。そうして、体育館B舎の"ある筈のない地下探し=\―そこでバレー部の面々は黄泉の番人へと連れ去られ、現実では、これが失踪事件となったのだ。その時唯一偶々、語り部としてこの世に残される事となった里穂を、ただ一人の例外として。
 しかしその里穂も、どうやらもはや、黄泉の番人に魅入られてしまっているらしい――
「そうして私も、ですか」
 詩を読むようにゆるりと間を置き、呟かれるセレスの言葉。
 読みながら、薄々それは感づいていた。この本を読む事もまた、つまりは、この本を読めてしまう事もまた、黄泉の番人に魅入られてしまっている証拠なのだ、という事を。
 つまり、里穂も自分も、もう引き返せない所まで来てしまっているのだ。黄泉の番人に魅入られてしまえば、選べる道は二つしかない。
 一つ、黙ってその意に従い、本の中で新たなる犠牲者を求める『朽ち果てた者』となるか。あるいは――、
「その手を逃れるか、ですね」
 ――呟いた頃合を、見計らうかのように。
 不意に、セレスの耳に、やわらかな雨の音が届き始めた。
 月の光が、空の雲に遮られる。
 深遠なる闇の中に、里穂の寝返りを打つ声が必要以上に鮮明に残されては消えていった。
 セレスは、溜息をつく。
 バレー部の面々が連れ去られていったB舎の、ある筈もない地下への階段。そこへのパスポートともなるものがこの本だと考え、そこまで出向いてみようとだが――。
「どうやら、その必要もなさそう、ですね」
 先ほどから、気配がある。誰かの、この部屋をじっと見つめている気配が。
 何の前触れもなく、里穂が飛び起きた。
「……え……?」
「里穂さん、一先ず逃げますよ」
 セレスが椅子を進めた途端、部屋中が、赤い光に包まれる。闇夜に浮かぶ、幾対もの目のような。
「あ――!」
 長い、長い夢の中でずっと見て来た光景に、里穂は目の前の見知らぬ男に説明を求めるより先に立ち上がっていた。乱れた髪を気にする事もなく、状況的に味方だと判断したセレスの椅子のグリップを何の前触れもなしに握り、勢い良く押し進める。
 焦りに足を縺れさせそうになりながらも、里穂は必死で見慣れた廊下へと飛び出して行く。
 めまぐるしく流れる風を受け、それでも。まずは里穂を落ち着かせようと、セレスが口を開いたのはもう間もなくの事であった。
「大丈夫です、必ず、戻れます。キミも、私も、たとえどれほど、番人がキミを求めていたとしても、ね」
 海は、永遠に空を求める。空は、永遠に海を見つめる。しかしその二つは、決して相容れる事のない存在なのだ。たとえ海がどれほど空の色を映し出したとしても、空と海とは、永遠に交わる事のない――、
 空から降り注ぐ水の、建物を強く打つ音が響き渡る。
 セレスは揺れる椅子の上で、少女の親友の言葉をふと思い出し、もう一言付け加えていた。
「それに由美子さんも、キミを待っていますから」
 夜の迷路に、二人の姿が溶け込んでは迷い込んで行った。


IV

 もはや、校舎であって、校舎でない空間。よじれる次元は法則もなく繋ぎ直され、そこにはこの世≠ニいう名の法の秩序の欠片すらも存在してはいなかった。
 廊下を、走る。教室のドアを、開ける。暗闇に並ぶ机に向って駆け出したと思った瞬間、
 世界が、歪んだ。
 刹那目の前へと出現する、踏み面を長く闇へと下ろす、階段。
 それから逃れるかのように踵を返したその先には、またどこ続くかもわからぬ廊下が延々と伸びていた。或いは、自分が車椅子を押していなければ、あの階段を下りてしまっていたのかも知れないという予感も、一方ではあることにはあった。しかし、そうは思えど、感じるのは。
 拭えない、恐怖がある。じわりじわりと迫り来る津波を知らぬ、陸の民のような。
「あたし、一体どこに行けば……!」
 しかしセレスは、里穂の問いへの答えを持ってはいなかった。空間のよじれを感じる事はできても、その先に何があるのかまでは予測し難い。さらにその上、この永遠の追いかけっこ≠ヘ――、
「近づいて……来て、ますね」
 車椅子の上で呟き、闇に流れる景色に、風に、じっと感覚を研ぎ澄ませる。
 確実に、何かが追いかけてきている。この本を読破した瞬間感じたのと似たような気配が、先ほどからずっと、セレス達に付きまとって来ていた。
 強い冷気に、聞えるはずのない足音を感じる。ひたり、ひたりと、決して離れぬ、黄泉の風。
「……里穂さん、止まっていただけますか?」
 不意に。
 セレスは銀細工の杖を、右の手にしっかりと握りなおした。
 その静かな、しかし強い意思を秘めた声音に、里穂が地面を強く踏みしめる。里穂の荒い息に、空間の静けさと、天井を打つ雨の旋律とが優しく重なった。
 水の音に、瞳を、閉ざして。
「私の傍から、離れないで下さいね」
 戸惑う里穂の肩に手を触れさせ、その息の穏かな流れを促しながら、セレスはふと、思い返す。
 いつも、そうだ。
 あの光を――星の数ほど輝く、赤い小さな光を見る度に、あの子どものような魔女≠フ悪戯に惑わされる。
「全く、悪戯が過ぎると、あれだけ、」
 申し上げましたのに。
 しかし、既視感に溜息を付くセレスの言葉が、ふつりと途切れた。
 刹那、風の歪みに、セレスの銀髪が靡きを描き、宙(そら)に舞う。青い瞳の見つめるその先に現れたのは――階段。
 否。
「――っ!」
 息を飲み込み、里穂が振り返る。かごの中のバレーボール、年期に汚れた運動用マット。壊れかけの跳び箱、バレーボールのネット。そうしてその先にあったのは、外へと続く見慣れた扉であった。
 B舎。
 忘れる筈もない。あの日友人達が、地下へと吸い込まれて行ったあの場所であった。
 里穂は、見ていた。ちょっとした学校の噂に遊び半分でここまでやって来ていた友人達が、自分一人を残して連れ去られて行ったその場面を。
 恐怖に脅える里穂を、無数の赤い光の瞳が取り巻いた。
「何なの……!」
「キミがお読みになった通りですよ……私達を、この下へと誘っているのでしょう」
 里穂の言葉に答えを返したのは、外へと続く扉の前に立つ気配を牽制する、セレスの静かな声音であった。
 本の中身を、思い出す。異形となり、朽ち果てた者達からの念の数々の木霊する、あの本の内容を。
 帰りたい。戻りたい。人に、人に――どうか私を、俺を、僕を。
「そうして、おそらく」
 俺達を、戻してくれ――。
 そうでなければ、もしくは。
「あれが、黄泉の番人でしょう」
 もしくは、俺達と一緒に、黄泉の国へ。
 不意に、セレスの瞳が、すっと細められる。
 雨音が、強くなる。
「無駄ですよ、このような事をしても――それに、里穂さんはまだ、そちらの住人になるのには早すぎますしね」
 里穂の視線も、その男をじっと見据える。修道服のような長いローブに身を包み、全くの無表情のまま、手に持つ襤褸布を握り締めている男を。
 修道士は身じろぎもせず、扉の前に、二人の行く手を阻むかのように立っていた。その周囲に、さながらオブジェのように呼吸すらも忘れた、数々の異形≠従えて。
 静々と告げるセレスが、そっと横に並ぶ里穂の肩を一叩きする。視線は全く、逸らさぬそのままで、
「窓を、開けて下さりませんか?」
「ま、窓……?!」
 この人は、こんな時に何を――!
 思う一方、
「お願いします、里穂さん」
「……わ、わかりました……!」
 何であたし、こんなにも落ち着いてるんだろ……。
 ふと、先ほどからの事を思い返す。見知らぬ男と一緒に、それでもなぜか、こんなにも落ち着いていられるのは。
 この人は敵じゃないと、出会った時から素直にそう感じていた。多分、それは――本の世界に引き込まれ、赤い瞳に脅えるその中で見た、
 あの青が、とても印象的だったから――?
 そっと、息を呑む。
 決意を決めたかのように里穂は右の手を握ると、後ろに向って駆け出した。
 途端、
「させませんよ――!」
 するりと長い上着の内ポケットから、セレスが小さな小瓶を取り出した。
 ガラスの蓋の落ちる音が、高く、高く響き渡る。
 同時に、修道士が、上げた腕を、
「あ、開かない――鍵が!」
 セレスの意思に従い、細い糸を紡ぐ水の鎖が、流麗な動きで縛り上げていた。動きを阻まれた男が、苦し気に身じろぎする。
 しかし、セレスは水を操る力を、決して弛めようとはしなかった。
 これは、早くしないと――
 まずいかも、知れませんね。
 根拠などない。ただの直感ではあった。しかし、
「里穂さん!」
 瓶の口から糸を紡ぐ水が、一滴、また一滴と、床に染みを作って行く。弱まり始めた束縛に、男の抵抗が大きくなっていた。
 セレスの心に、水のざわめきが訴えかける。
 外へ、
 早く外へと、
 水の言葉が、聞えてくる。
 駆け込んでくるのを待つかのように、後ろで深く口を開ける地下への階段の方を振り返りもせずに、セレスがもう一本、小瓶を取り出そうとした、その刹那の話であった。
「あ、開いたっ!」
 里穂の言葉と共に、荒れ狂った風が世界を吹き抜ける。
 鮮明さに、彩を鮮やかにした水の気配。風と共に吹き込んでくる水が、強い水の香りと冷気とで闇を切り裂いた。
 セレスは、瞳を閉ざす。降り注ぐ水の意思を全身に感じながら、杖を握るその手に力を込める。
 建物を取り巻く緑に優しさを教わり、自然の息吹を秘めたその流れに、
「さぁ、」
 手を差し伸べて、心の底で訴えかけていた。
 キミ達の、まだ空に登る前、雲となる前――空に揺蕩う月を、星を、ゆるりと水面に映し出していたあの頃の心(きもち)を、どうか、思い返して。
「波よ、」
 時に厳しく全てを押し流す、怒涛の波と化せ。
 ――セレスの、命を下した細い指先の流れにあわせ、修道士達の方へと水が押し寄せたのは、その直後の話であった。

 その後を、追いかけるかのように二人は駆け出した。セレスは里穂の手を借り、水の呼び声に扉の方へと歩みを進める。
 波の向こう、水の空間の向こうで、こちらを睨みつける修道士の動きを掻い潜るかのようにして、里穂が扉を開ける。
 そうして。
 輝いた光に、二人が外の世界へと倒れこんだのは、もう間もなくの話であった。


V

「語り部さんは、お家に帰ってしまったねっ!」
 魔女の笑顔を、見たような気がした。目的も、その正体も、姿さえも良くわからない、あの無邪気な魔女≠フ姿を。
 久しぶりに随分な運動をしたものだ、と、強い疲労感に襲われるセレスが、頭を抱えて溜息を付く。
 こうしてこの魔女が現れるのは、いつでも夢の終わりであった。夢の終わり、事件の終わり、まるで全てを傍観していたかの如くに総括する『書物魔女』――。
「ね、じゃあ、ありませんよ」
 おぼろげな気配に、顔を上げる。付け加えセレスは、立ち上がろうと銀細工の杖を握るその手に力を込めた。
 しかし、
「口ウルサい男は嫌いだよ? セレスちゃんは、いつでも私の遊びに付き合ってくれるって、私もとっても、楽しいんだけどなぁ」
 脱力感に負け、再びそのまま座り込む。ませた子どものような言葉を聞きながら、
「キミの目的は、一体何なんです?」
 ふと、前々から思っていた疑問を投げかけた。
 ――だが。
「まぁ良いや、お疲れ様、ね? また遊ぼうね。私、楽しみにしてるからっ!」
「待って下さい、一体キミは――」
 何がしたいと言うのです?
 しかしその言葉は、突然襲い来た深い睡魔の元でまどろんで行った。眠りの波に逆らいながら、それでも夢は、沖へ沖へと遠ざかって行く。
 気が付けば、遠い世界に手を伸ばそうとしていた。
 まるである筈のない真実を、追い求めるかのように――。

 そうして、目を覚ます。

 気が付けば、セレスは車椅子の上で、本を抱えたまま眠り込んでいたらしい。カーテンの隙間から差し込む銀の光も、眠り続ける里穂の気配も、その場所の全ては、何一つ変わってはいなかった。
 否。
 たった二つだけ、変わっていたものがある。
「真相は闇の中、ですか……」
 膝の上が軽いのに気がつき、手探りでそれ≠探す。しかしそこにあった筈の本は、まるで全てが終わった事を代弁するかの如くに、跡形もなく消え去ってしまっていた。
 そうして、もう一つ。
 雨の香りが、残されていた。
 あの時力を借りたのと同じ香りの、緑の、雨が。

 後日聞いた話によれば、その後里穂は、何事もなかったかのように学院での生活を満喫しているのだという。事件が起こる以前と同じ、普段通りの生活を。
 しかし、由美子からのお礼の手紙には、こうも付け加えられていた。
『里穂は、何も知らないらしいんです。あの時の事については、本を見つけたその時からの記憶が全く無いようで……バレー部の仲間達の失踪についても、改めてニュースで知ったと言って、すごく驚いていました。だから、』
 だから。
 ――事件の解決の一方で、それについての真相は、全ては黄泉の中なのだ。


Finis



☆ Dalla scrivente  ☆ ゜。。°† ゜。。°☆ ゜。。°† ゜。。°☆

 まず初めに、お疲れ様でございました。
 こんばんは、今宵はいかがお過ごしになっていますでしょうか。この度お話を書かせていただきました、海月でございます。
 今回はご指名の方、本当にありがとうございました。
 シナリオノベルの方は初めてでしたので、色々とお勉強させていただきました。大変な面もありましたが、とても楽しく書かせていただく事ができました。
 しかしある意味、根本的な所が解決していないような気も致します(汗)里穂ちゃんは救われたわけですが、バレー部の面々の失踪事件は……警察の皆さん、とても大変そうだなぁ、などと思ってみたりしております。
 では、短いですがこの辺で失礼致します。最後になりましたが、お届けの方が遅くなってしまい、大変申し訳ございませんでした。
 またどこかで会えます事を祈りつつ――。

13 ottobre 2003
Lina Umizuki