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<東京怪談ノベル(シングル)>


雨垂れは憂鬱の上に降る

 人間の姿を得て、もう大分時間が経つ。彼の鋭い感覚は視力の弱さを補い得たし、脆弱な肉体を車椅子やステッキで支える事にも慣れた積もりだ。
 ──だが、時々、身体と空気との境界が重く感じられる事がある。
 そう、……例えば、こんな不意に目覚めた早朝などに。
 天蓋に覆われた寝台の上で、感覚に流れ込んで来た騒々しい気配に目を覚まさせられたセレスティ・カーニンガムはゆっくりと目蓋を開けた。──光を通さない青い瞳。透徹した、水を湛えたような。

──雨……、

 青く沈んだ世界の中に彼は、絶間ない雨垂れの優しい音を感知した。

 徐ら、セレスティは真っ白なリネンの中に広がった白銀色の髪を掻き上げ、もう片方の手を寝台の脇へ伸ばした。
 イギリス製の重厚な置き時計は、視力の弱い彼でも暗闇の中で時間を知れるよう、特殊な造りになっている。露出した文字盤に指先を触れた。

──5時、26分。

 何ともまあ暁時から。

 だが、そんな早朝にも関わらず、階下には殺気立った気配や慌てふためいた人間の右往左往する騒々しい足音が聴こえる。
 未だ就寝中の総帥に無礼はならない、とその物音をセレスティの寝室に響かせない為の気遣いは感じられるが、──仕方あるまい。

 ──朝は、苦手だ。
 明晰な彼の頭脳は何時でも冷静な判断力を発揮するが、……身体の方は意志の力ではどうにもならない。
 重力に逆らえない低血圧の身体は気怠さで以て抗議するが、何事が起きたかという関心が僅かに勝った。
 セレスティは指先を、時計からその横に据え付けた通信機へ移した。
 自分だけの時間へ他人が干渉するのを好まない為、基本的には使用人も部下も部屋には入れない。自分の身の回りの事は自分でする。然し仕事に尽いての報告を求める時や非常時の為に、自室には内線の専用通信機を備えてあった。
 回線を繋いだ相手は、リンスター財閥の内でも特に彼が信頼を置き、相手もまたセレスティにこの上無く心を砕いて呉れる優秀な部下の青年だ。 
「何事です?」
──総帥、朝早くに申し訳ありません、トラブルです。例のコンサートの件で……。
 構いません、お入りなさい、と答え、彼は緩慢な動作で寝台から起き上がった。部下に面会する以上は財閥総帥としての威厳も保たなければ不可ない。寝台の中から天蓋越しに、と云う訳には行かない。
 セレスティが寝台の傍らに置いて在る車椅子に身体を移動させ、ローブを羽織った所でドアが丁重にノックされた。

 リンスター財閥は本拠地をアイルランドに据え、創設時から総帥として君臨して来たセレスティ・カーニンガムは水霊の力で以て未来を占い、長きに渡って財閥を統治して来た。
 本国アイルランドをも巻き込んだ2002年の新欧州単一通貨ユーロへの移行、長引く世界的な不況と云った経済界の荒波にも、世界の行く末を全て見通せる彼が統治するリンスター財閥が揺るがされる事は無かった。
 そのリンスター財閥から、総帥であるセレスティの音楽への愛情に依て殆ど好意で資金的な援助を受けて開催された、アイルランド移民系イギリス人ピアニストのコンサートが失敗に終わったと云うのだ。
 今から約2時間程前、丁度現地時間の午後7時に開演された直後の事だった。
 それも、不評であったとかそんな程度問題では無い。上流階級の客に埋め尽くされた客席を前に本番中、そのピアニストは緊張からか指を縺れさせ、終いには演奏を途中で止めてしまった。スタッフの機転で一旦彼はステージを退き、短い休憩を挟んだ後再びプログラムを再開する旨がアナウンスで告げられたが、怖じ気付いた彼は会場から逃げ出して仕舞い、取り残された客の怒りようは無かった。
 表立ってスポンサーの名前が公表されては居なかったが、リンスター財閥の援助は独自の情報網を持つイギリスの上流階級の人間には暗黙の内に知れて居た事だ。
「──全く、総帥の顔に泥を塗るような真似を、」
 朝に弱いセレスティをこんな時間に叩き起こしてしまった非礼を恐縮して詫びつつ、詳細を報告した後彼はそう息巻いた。
 然し、その報告を黙って聞いていたセレスティ本人は穏やかに微笑を浮かべたままで、静かに呟く。
「それは残念ですね。……あのピアニストは気に入って居たのに」
「総帥のお手を煩わせるような事ではありません。私の方でこの責任は取らせます」
 
 ──残念、とセレスティが云ったのは、彼の助成が結果的に失敗に終わった事ではない。
 そんな事はどうでも良い事だ。
 ただ、セレスティ自身が気に掛けて居たお気に入りのピアニストがこれを境に恐らくは演奏恐怖に陥り、暫くピアノから離れてしまうだろう事、──それだけが、残念だった。
 だが目の前の彼はそう穏便には行かない。
 
 ──穏やかで、全てを見通す深い視野を持つ、その美しい白皙の美貌が象徴するように人を惹き付けて止まない彼、セレスティ・カーニンガム。
 損得感情も抜きに、ただ脆弱な身体を持つ彼を支えたいと願って日々、心を砕いて来た総帥。
 その総帥の期待を裏切るような真似をしでかしたピアニストが、彼には許せなかった。それだけの、純粋な感情である。ただ、企業人間である彼には悪意や怠慢な気持など無くとも、何かの弾みで、ふとした事で音楽の道を見失ってしまう人間の気持が推し量れなかった。忌ま忌まし気な表情を浮かべた彼の感情は穏やかで無い。
 そんな彼を見詰めるセレスティは、微笑みつつも小さく溜息を吐いた。
「……それには及びませんよ。寧ろ、事後処理として資金が必要であれば工面して差し上げなさい。ピアニストの彼にも力添えをしたい所ですが、今は誰からも干渉されたくない時期でしょうから。逆に重荷になっては不可ない。本人が自力で克服するまで、そっとして置いてあげましょう。但し、若しも彼から復帰の為に入り用が在ると希望があれば何時でも援助する、と伝えるように」
「総帥、それは甘やかし過ぎです。今回の事で、総帥がどれほどの迷惑を被ったかお分かりですか」
  どくどくどくどくどく、と激昂した彼の鼓動が聴こえる。
「一つだけ、質問を赦して頂けますか」
「……何なりと」
「私には総帥のように芸術を理解できる感性は在りません、だから、分からないのです。総帥が、何の見返りも無いのを承知であれほどの援助を為さって、しかもこの結果に寛大な態度を取られて居る事が」
「……ただ、好きなのですよ、音楽が」
「……、」
 ああ、──何故、これ程彼は苛立っているのだろう。
 時間が無いからだろうか。彼、──否彼だけに留まらない、人間という生き物は。
 一概に、長い年月を生きた自分が倖せとは云えない。だが、若しも生きられる時間が短いから、と云うだけでこれ程までに苛立ちながら日々を過ごさなければならないとすれば、──セレスティは物悲しい感情に陥った。

「──、」
 セレスティと視線の合った彼が少し、目を見開いたと思うと、その鼓動が俄にゆったりとした速度へ流れ出した。
 
 人間は、直ぐに感情に流されてしまう。──冷静に物事を俯瞰出来れば何という事ではないのに、激情に駆られた速い鼓動に合わせて事を急く。
 今、セレスティがこの忠実な部下へ対して行った事は、本当に何でもない事だ。
 ほんの少し、その血液の流れを穏やかに変えてやった、それだけだ。
 ──が、そうして再度セレスティが穏便に、と指示すると彼は大人しく従順に引き下がった。

「……、」
 彼の去った後、屋敷には再び静寂が訪れ、周囲は雨垂れに包まれた。
 ──まだ、気怠い。
 重い身体を支えながらも、淀みの無い、占い師としての彼の視界の先には全てが見えていた。
 朝はいつもそうだ。──これから、シャワーを浴びて身繕いをして、大半を書斎で過ごし、一日の終わりには報告を聞き、──。
 
──憂鬱だ。

 時々、身体と空気との境界が重く感じられる事がある。
 
 本来ならもう少し眠りたい所だが、今日はそうした気分でも無い。
 ローブの代わりにレインコートを羽織ると、セレスティは寝室を出た。

「Mdainn mhath. ──Ciamar a tha leibh ?」
 車椅子で姿を現したセレスティを認めた使用人が慌てたように挨拶をした。彼が何か云った訳ではないのだが、彼の周囲の人間にはアイルランド出身のセレスティに敬意を表してか毎日の極まり切った挨拶をゲール語で行う者が多い。
「Tha gu math. Tapadh leat.」
 にこやかに返事を返したセレスティを前に、まさか彼がこんな時間に起き出して来るとは思いもしなかったらしい彼女は恐縮したように頭を下げた。
「先にお食事になさいますか、実は準備が未だなのですが、急ぎ用意致しますので、それとも、後で?」
「いえ、結構です。少し外に出ますので」
「外へ!? 総帥、こんな雨です、お風邪を召されますよ」
 傘の用意を、と手空きの者を呼びに行きかけた彼女をセレスティは呼び止め、必要在りません、と手を振る。
「少し、独りになりたいのです。……気遣いの無いように」
 
 日本人は朝の天気予報で雨、と云われればその時には晴れていても傘を用意して出かけるが、ヨーロッパの多くの国──イギリスやフランス、特にアイルランドではそんな面倒はしない。
 常に、雨が降っているからだ。
 雨は、日常と共に在る。生活の一部、傘という不粋で鬱陶しいもので遮る必要など何処にも無い、日々の生活で鬱積した苛立ちや憂鬱を洗い流し浄化して呉れるものだ。
 特に水霊使い、セレスティにとって早朝の静かな雨垂れは、優しさ以外の何ものでも無かった。
 天を仰ぎ、それら自身までもが元が人魚であるセレスティに親愛の情を示して彼の額や掌の上で愛らしく踊る雨の滴を全身に受ける。
 ──人間は嫌いではない。それは非常に興味深く、時には彼を楽しませ、また信頼の於ける人間は彼に最大の誠意を以て接して呉れる。
 ……だが、時には全てが、自らの自由の利かない身体と外の境界線までもが重く、憂鬱に思える事がある。
「──矢張りあなた達と一緒に居る時が、一番落ち着きますよ」
 雨垂れは、彼の上に降る。彼の憂鬱を包み込んで洗い流すように。

──何故、何の見返りも無いのを承知で資金援助を行い、それほどまでに寛大で居られるのか。
 忠実な彼の疑問が甦った。

「……退屈なのです。……ただ、それだけです。……時々、あまりにも長い時間が苦痛になる事がある。……芸術はそんな空虚を満たしてくれます。……その事へのお返しと、……それと、私自身の娯楽ですね」

 ──そう、人間は未だ未だ興味深い。彼等にはセレスティの旺盛な知的好奇心を満たす要素が在る。
 そんな情景を見せ、力添えをして呉れる水霊の力がある限りは、私はここに留まるでしょう。