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<PCシナリオノベル(シングル)>


水浸しの女

『逃走のひき逃げ犯、出頭。「すまなかった」と猛省』
 どこか色褪せたようなブラウンの髪を弄りながら、漁火汀(いさりび・みぎわ)は優雅な動作で新聞を閉じ、丁度目に付いたその見出しに目を細めた。
「猛省するくらいならば、最初から素直に罪を認め、逃走しなければ良いと思うのですが…。それが人間というものの性なのでしょうか」
 テーブル以外にはめぼしい物の見当たらない部屋で、汀は「ふう」とわざとらしい溜息を吐く。ギリシア生まれの彫りの深い造詣を持つ汀の顔が顰められると、いかにも憂鬱を絵に描いたような表情になる。
「などと、自分よがりな批評をしていても心は満たされませんね。さて、今日は何をしましょうか。全ては風の向くまま…。とは言え、こうやって新聞にいちいち感想を漏らしていても退屈…というか馬鹿みたいですし」
 やけに長い独り言だった。
 あるいは、ヒマに窮した彼なりの打開策かもしれない。
 汀は一応画家でもある。一人でヒマなら仕事でもすれば良いように思うが、絵を描こうにも最近は心惹かれるモチーフがない。見飽きた新聞を、元からそうするつもりだったように畳み、薄いコーヒーだけが乗ったテーブルの上に伏せる。
「…何か良いモチーフがあれば良いのですが…」
 いよいよ沈黙が支配した彼の部屋に草間からの救いの電話が鳴ったのは、それから5分後の事だった。


「ひき逃げ犯が逃走中に撥ねた物…ですか?」
 草間からの電話は、いつも通りというか、詰るところ調査依頼だった。しかし、その内容はいつも通りとは言い難い。汀は興味をそそられた。
 草間の元に現れた依頼人は、古めかしい着物を羽織った、ずぶ濡れの女だったというのだ。彼女は呆気に取られる草間の前で、こう言った。
「あんたに助けてもらいたいんだよ。えらい勢いで突っ込んできたヤツがいてねえ。おかげであたしは跳ね飛ばされて水の中さ。周りの連中に訴えだんだけど、誰も気づいちゃくれなくてね」
 それから、机の上の新聞に気が付いて、キセルでビシッと新聞を指して言う。
「そう、これこれ。近頃、人情の無いヤツが増えたもんだよ、全く。礼は払うからさ。寒いし臭いし…。早くなんとかしておくれ。このままじゃアタシを頼りに歩く連中が迷っちまう。それじゃ頼んだからね」
 それだけ言うと、女はくるりと踵を返し事務所を去ったそうだ。女の背には、達筆な字でこう書かれていた。

『嘉永元年──寄贈』

「ふむ」
 あらましを聞き終えた頃には、汀の中で既に答えは出ていた。
「恐らく彼女は道しるべの道祖神か何かではないでしょうか。つまり、彼女はひき逃げ犯が跳ね飛ばした道しるべを探せと仰っているのでしょう。なんにせよ、この依頼はお引き受けしますよ」
 二つ返事で依頼を引き受けると、彼は電話口に向かってこう付け足した。
「もしかすると、意外に大きなものかもしれません。その際は草間さんにこちらから連絡を入れます。報酬は僕はその道しるべが直った時にでも絵を描かせていただけるのならそれでいいので、草間さんに」
 草間が電話口で何か言い掛けたが、待たずに電話を切る。
 降って湧いた話に、汀は知らず笑みを浮かべている自分を認識する。満足げに口元を正すと、くたびれたコートを羽織ながら、呟いた。
「どうやら、良いモチーフが見つかったようです」


 仮に『依頼人が道祖神である』という差し当っての推理が正しければ、汀が解決するべき問題はただ一点。指針がないと行動出来ないし、行動できなければ何も見出す事は出来はしない。なので汀は、仮定を素直に指針とする事にした。
 従って、今回はただその一点を解決すれば良いという事になる。
 ひき逃げ犯の逃走経路から、道しるべのあった位置を特定する。それが出来れば、依頼は解決したも同然だ。
「さて、どうしますか…」
 一瞬だけ考えて、汀はまず、もっとも手っ取り早い方法を選択する。
 今現在留置所に身柄を拘束されているだろうひき逃げ犯に直接聞くのだ。川沿いに周辺の住民に聞き込むという手もないではないが、逃走経路はどぶ川沿いの比較的広い道路を北西から南東へとかなりの距離に達していた。犯人が道しるべを跳ね飛ばした事を覚えているなら、直接聞いた方が何倍も早いに決まっている。
 汀は無駄足も覚悟しながら、まずは留置先を知るため、ひき逃げ犯が出頭したという警察署へ向かった。


「…あなたが…えーと、山田太郎さん?…没個性を通り過ぎて逆に斬新な良い名前ですね」
「大きなお世話だ。誰だ、あんた」
 汀が面会室の椅子に座りながら言うと、ひき逃げ犯は不貞腐れたように返した。
 根っから悪い人間という訳でもないのだろう。薄っぺらい窓越しに見える態度は警戒の色を浮かべているものの、留置所内の滞って濁った風も敵意を運んでは来なかった。
 ふ、と表情を緩めて、汀が「僕は漁火汀と申します」と自己紹介すると、男は可笑しそうに吹き出す。
「あんた、そのなりしてミギワ?似合わないな。あんたこそ斬新じゃないか」
「…そんな事言わないでくださいよ、これでも気に入ってるんですから。自分の名前」
 汀は困ったように眉を寄せると、男は更に口元を歪めた。
「で?そのミギワさんが何の用?生憎、全く身に覚えがないんだけど」
「…少々聞きたい事がありまして」
 相手を警戒させないようにわざとゆっくり喋る。せっかく和やかなムードになったのだ。わざわざ険悪にさせる理由はない。まぁ、険悪になったらなったで、『歌で魅了する』だけの話だが…、やはりそれは少し後味が悪い。
「あなたが逃走中に跳ね飛ばした、ある物についてです」
 男は眉根を寄せて、怪訝な顔をした。
「…あぁ、もしかしてアレの事かな」
「覚えてらっしゃいますか」
「なんか途中でえらく固い物を跳ね飛ばしたよ。俺も動転してたからさ、何かまでは気にしてられなかったけど。…それがどうかしたの。言っとくけど、人じゃなかったぜ」
「えぇ、そういうつもりではありません。それがなくなって、困っている方がいるのですよ。僕にはあなたを追及するつもりはありませんし、その義務もありません」
 言いながら、汀は柔らかに微笑む。
(どうやら、あっさりカタが付きそうですね)
 内心で呟くと、早速ひき逃げ犯の男から覚えている限りの場所の特徴を聞き出す事にする。汀が切り出すと、男は退屈をしていたらしく、聞いてもいない事まで微に入り細に入り教えてくれた。
 お陰で場所の特定はほぼ完璧だ。汀は聞きたい事を全て聞き出した後、お礼のつもりで少し男のお喋りに付き合ってから、面会室を後にしようとした。
「ところであんた、結局何者?」
 汀は背後から投げかけられたその問いに、少し考えてから「しがない画家ですよ」と答える。
「…とことん似合わないな」
 そう呟いた男の声は、あえて聞かなかった事にした。


 汀がそこに到着したのは、既に夕日が雲を滲ませながら、地平線に沈みかける時刻。視界は徐々に悪くなりつつある。急がないと道しるべの捜索は困難になりそうだった。
(緑色のフェンス。タイヤの跡がここで不自然に曲がっていますね。恐らくはこの辺り)
 汀がフェンスに目を遣るとあっさりフェンスが突き破られた跡が見つかる。まだ新しい。恐らく撥ね飛んだ道しるべによって穿たれたものだろう。そのフェンスの穴から顔だけ出して、どぶ川を覗く。意外と深いらしく、底は濁っていて見えない。
「ようやくかい。待ち兼ねたよ」
 声がして、汀ははっとそちらに目を向けた。
 川縁にずぶ濡れの女が立っている。水気を吸った着物は、ただでさえ深い色を更に深い色にし、周囲の風景に半ば解け込んでいた。
「さ、あそこだよ。さっさと引き上げとくれ」
 女が顎で指し示した場所を見ると、確かに水面から何かが顔を出している。汀はその場からふわりと飛び上がって、一蹴りでフェンスを駆け上ると、そのまま向こう側の狭い足場に着地した。
「あなたはこの場所で人々を導く役目を負った、道祖神ですね?本体は、石標か何かですか」
 道しるべの全容は暗くて良く見えない。木製の塚か何かであれば引き易いのだが…。汀はそう考えたが、女は首肯して、「そうだよ」と答えた。
「言ってなかったっけ?」
「言ってません」
 きっぱりと言い放って、汀は彼女に川の水深を聞く。
「水深?そうだねぇ。今は大体、半丈ってところじゃないかい。変な男だね。なんでそんな事を聞くんだい」
 半丈という事は、五尺、つまり約1.5m。それだけの深さにも関わらず水面から一部が見えている。それでいて石造だというのだから、川底にも幾分沈み込んでいるとして、かなりの重量だ。
「少々、自力で引き上げるには重過ぎますね…」
「何か言ったかい」
「いいえ、何でもありません」
 仮にも女性の体重を「重い」と言い切ってしまえるほど、汀は無神経ではない。ストレートに聞くのも失礼だろうと慮って水深を聞いたのだが、思わず失言してしまった。反省しながら、彼は改めて『彼女』の方を見る。
「どうだい。引き上げられるかい?」
 水面に浮かぶ道しるべの一部を見詰めながら思案顔の汀に、道しるべの道祖神は、初めて不安そうな様子を見せながら聞く。
 汀は「無理ですね」即答した。


 後日、草間に連絡を取り、道しるべをクレーンで引き上げて貰った。彼女は草間が道しるべを引き上げた際に時価数百万円の小判を渡したそうだが、汀はそれを辞退した。
「さて、それじゃあ描かせて頂きますよ」
 邪魔にならないように道路を挟んだ向こう側の空き地にイーゼルを立てると、キャンバスの向こう、元通り据えられた石碑に喋りかける。
 夕日と川と年月を背負った石碑は見る者が見れば、まごう事無く価値のある物だった。満足そうに頷く汀。木炭を取って、当りをつける。

「…似合わないね」

 どこからか風に乗って聞こえてきた声は、やはり無視する事にした。