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<東京怪談ノベル(シングル)>


降りしきる雨


 東京の雨はうんざりする。
 特に彼は、水という水を避けるようになっていた。いや、人間は水とともにあらねば生きてゆけず、人間の身体は水とタンパク質で出来ていることは心得ている。彼は、水とはつかず離れずといった関係を保ってゆくことにしていた。だから今夜のようなひどい雨が降ると、彼は自宅に篭もって本を開く。
 その彼が――星間信人が、今夜に限って外に居た。山吹色の傘をさし、どこか空虚な瞳で、向かいの信号を眺めている。
 チカチカと点滅する歩道の信号の『青』。何度あの『青』が点滅し、消え、また点く様を見守っただろうか――他に何も見るものがないのだ。彼はそれほど、何もない場所を待ち合わせの場所に指定した。
 東京は強い前線に飲まれていて、向こう2日は断続的に強い雨が降るという。
 風はとまっている。
 立っていればじっとりと汗ばむほどの気温がそれに重なった。
 東京の雨には、うんざりする。

 少女だけを呼び出すのは難しかった。
 彼女はよくアトラス編集部に来るのだが、いつも保護者がそばにいるので――と言うよりも少女がぴったりくっついて歩いているというか――少女だけに近づくことはままならなかった。それでも、少女がこの誘いに乗ってくるという確信はあった。確証はない。あくまで確信である。
 アトラスの記者に、信人は望みを託した。こんなときでなければ期待などされない人間のひとりだろうか。信人は心中で嘲笑いつつも気の毒に思うという、器用な思考をやってのけていた。その記者に手紙を託し、「少女がひとりだけのときに」手渡すよう釘を刺しておいた。信人の空虚で異様な目の輝きに呑まれたか、気の毒な記者は息を呑み、こくこくと頷いただけだった。

 ポク(ぴしゃ)、
 ポク(ぱしゃ)、
 ……ポク(ぴしゃ)、ポク(ぴしゃ)、ポクポクポク(ぴしゃぴしゃぱしゃ)……

 信人はその靴音に、ふと振り向いた。
 街灯の明かりを避けて、黒い人影が歩み寄ってきており――
 信人の5メートル手前で立ち止まった。
 黒いゴム長靴を履いた、黒いレインコートの、小柄な人間だった。

「何の用ですか、星間さん」
 レインコートのフードの奥から放たれた少女の声には、少しばかりの棘があった。信人が危険な人物であると信じているような口ぶりだ。信人はそれでも薄く微笑み、眼鏡を直した。あえて近づくことはしなかった。
「これはこれは。本当に来ていただけるとは思いませんでした。もう、約束の時間を10分過ぎておりますしね」
「……」
「お呼び立てして申し訳ありませんでした。しかし、ひどい天気です――レインコートは本来の役目を果たせて、さぞ喜んでいることでしょう」
 笑ったのは、信人だけだった。

 レインコートの少女がレインコートを着ているのは、雨を凌ぐためではない。
 光を凌ぐためである。
 信人は少女がなぜ光を嫌うのか知っていたが、考えたくもないことだった。信人が信じる神とは、相反する属性を持つ神が関わっているのだ。その神の名を、思い浮かべることすら信人は我慢ならなかった。

「イギリスへ行かれるそうですね」
「……はい。明後日です」
「それまでには、雨も落ち着くといいですねえ。……おっと、準備に忙しいようですから、早く用件を済ませてしまいましょうか。実は発つ前に、これをお渡ししようと思いまして」
 信人が3歩近づいても、少女は退かなかった。
 それは、受け入れだと判断した。
 信人はにいと微笑んで、紙片を少女に手渡した。
「ご家族の居場所ですよ」
 少女が、はっとしたように顔を上げた。
 信人の眼鏡のレンズと、黒い瞳に映ったのは――
 死んだ、白い顔だった。
 瞳はどんよりと濁っていたが、強い意思だけは――今は、驚愕の色も――あった。唇は震えてもいないのに、5時間水に浸かった人間のように青ざめていた。
「どうして、こんなこと……」
「お礼ですよ」
 信人は肩をすくめた。
「あなたのお爺様から、貴重な本をいただきましたからね。ああ、それと、単純な親切心です」
 信人は不意に、少女の顔を覗きこんだ。山吹色の傘の下に、少女の身体までもがすっぽりと入った。
 少女の顔を見つめる瞳に宿るのは、狂気のひかりだ。
 少女には見覚えがあったのだろう。ようやくそこで、彼女は一歩後ずさった。彼女の身体は傘の下からはみ出して、再びぱちぱちと雨を浴び始めた。
「僕はあなたを尊敬しているのですよ。あの忌まわしい神の心の呪縛を解き、育ててくれた親戚を捨ててまで神の元から離れたのですから。並みの意思では成し得ない業でしょうね。……どうです、その意思を、我らが風の神に捧げられては?」
 少女は信人が渡した紙片を握りしめ、のろのろと後ずさりながら、強く首を横に振った。
 信人はまたしても笑ったが、このときばかりは低く声も上げていた。
「はは。嫌われたものです」
「……わからない」
 少女はかすれた声で、ようやく言った。
「本当に、どうして、こんなこと!」
「おや、お気に障りましたか? ……そのわりには、メモを大事にされていますね。……ふふ、失礼。なに、どんな都も故郷に勝るものはありません。あなたもいつか『夜の世界』に戻りたくなるのではないかと、心配しているのですよ。――だから、親切心なのです」
 用は済んだ。
 信人はとりあえず、傘を心持ち高くして、『親切心』で言ってみた。
「お送りしましょうか? もう遅いですから」
 それは自分でも馬鹿馬鹿しいと思えるほどの社交辞令で、案の定、少女は激しくかぶりを振った。信人は肩をすくめると、ゆっくり踵を返す。
「またお会いしましょう。紳士の国で会うというのも、一興ですね――それでは、失礼致します」
 信人は二度と振り返ることがなかった。だが、ずっと笑みは絶やしていなかった。
 本物の狂気というものを知った人間ならば、気づくはずだ――信人の笑みは無貌の如くに偽りで、ひどく空虚なものであるということに。
 いやな雨に、いやな風が加わった。こんなに雨が降っているというのに、その風だけはからからに乾いていて、埃にまみれたミイラのような死臭を運んできた。
 点滅を始めた青信号の横断歩道を、山吹の傘の男がゆっくりと渡っていく。
 男が歩道を渡りきると、また、いやな雨だけが幅をきかせ始めた。


 雨の中に残された少女は、握りしめていた紙片に両手をかけた。震える指が、紙を破り捨てるひとこま前で止まる。
「……こんな雨降らなかったら、東京、すごく素敵な街なのに」
 呟いた少女は、紙片をポケットに入れた。
「イギリス、雨ばっかり降ってるって……ほんとかな……」
 仕方なく仲間を裏切った兵士のように、彼女の横顔はひどく雲っていた。今にも雨が降りだしそうなほどに、陰鬱だった。
 
  ……ポク(ぴしゃ)、ポク(ぴしゃ)、ポクポクポク(ぴしゃぴしゃぱしゃ)……

 そして信号は、また点滅を始めている。




<了>