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痛み
自分が兄の影武者として育てられていたことを知った一件を境に、御崎光夜は笑わなくなっていた。
周囲の人間――父親や一族の者たちの冷たい視線。
それを自覚するたびに、思い知らされる・・・・・・自分の存在価値。
自分として生きるためではなく、影として生きるために存在する――すなわち、『自分』はいらない存在だと言うこと。
ただ一人、兄だけは『自分』に話しかけてくれた。
けれどそれでも、光夜は笑わなかった。
・・・・・・ここには何もない。
在るのは冷たい空気と、痛むなにか。
何に痛みを感じているのかもわからないまま――ただ、過ぎ行く時間を見つめて。
今、光夜の世界は沈黙と闇に染まっていた。
大好きな兄を想って修行に耐えた日々はもう遠い。
兄が嫌いになったわけではなく、今でも兄のことは好きだ。
だが、遠い。
光夜の周囲で時と共に流れる毎日の営み、自身の感情。
それら全ての感覚が、まるで分厚いガラスを隔てた向こう側にあるようで、自分の身に起きていることだと認識できなかった。
今の光夜にとって、現実は酷く遠いものだった。
自分を傷つける冷たい視線から逃げるために――その時は自覚していなかったが、後から思えばあれは一種の防衛手段だったんだろう――耳を塞ぎ、瞳を閉じて・・・・・・。
現実から意識を切り離して。
一人きりでいる時だけ、感情の見える表情と言葉がふいと表にあらわれた。
「オレ・・・なんのために生まれたんだろ・・・」
ぽつりと呟いたその途端にズキンとどこかが痛む。重石がかかっているように、身体がだるい。
思いきり泣いてしまえば・・・・そうすれば、この痛みも流れて消えて行くような気がした。
それなのに、泣きたい気分であるはずなのに。涙は少しも零れなかった。
だから、ただただ痛みに耐えるしかない。
その痛みを遠ざけるために、現実世界すらも遠ざけて。
まるで意思無き人形のように、無為に日々を過ごしていくだけの生活――。
そんな生活に変化が起きたのは、とある満月の晩だった。
空は雲一つなく澄んでいるのに星は暗く。だがその替わりと言わんばかりに、月は夜空を明るく照らし、冴えた光を地上へ降らせていた。
「・・・・・・・・・?」
呼ばれているような気がして、窓の外を見上げる。
夜闇の静寂の中――光夜は家を飛び出して、誘われるままに歩き出した。
暗い夜道を月明かりが照らす。
風のない夜に、光夜が走った跡を示すようにザワザワと繁みが揺れる。
・・・・・・あの日からずっと、頼りない大地の上に立っていた。今にも崩れてしまいそうな覚束ない場所で、動くこともできずにただ立ち尽くしていた。
だけれど今は、今だけは違った。
しっかりと大地を踏みしめ、月に照らされた道を進む。
どれくらい歩いただろう・・・・・?
どこをどうやって歩いてきたのかも記憶になく、ふと気付いた時には目の前に大きな湖が広がっていた。
まるで、空が二つあるようだった。
いつのまにか、夜空には満点の星。
風一つ吹かない、虫の声もない、音の無い――湖面は、鏡のようだった。
夜空の月と星を映し込み、地上にもう一つの空を作り上げる、鏡。
いや、それだけではない。湖面には、空にはない煌きも映し出されていた。
月明かりを反射し、水がキラキラと光を放つ。満月と、星と、そして水の輝きと。
その美しさに、光夜は言葉を失った。
頭の中は真っ白で、光夜は知らず知らずのうちに一歩、また一歩と進む。
水音が跳ねた。
たいして大きくないはずの音は、他に音のない静寂の中で妙に大きく空間に響いた。
「・・光夜!?」
光夜自身は気に止めなかったその水音に反応するかのように、兄の声が聞こえた。
だがその声は、光夜の耳に届いてはいても、意識にまでは届いていなかった。
一歩。また一歩。
まだ春には遠いこの季節。
凍るような冷たさを持つ水に腰まで浸かっても、まったく気にならなかった。
「光夜、何してるんだ。戻れよ!!」
いくら呼ばれても、光夜は止まらない。
そこに兄がいることはわかっていた。けれど、止まる気にはなれなかった。
だって、自分はいなくてもいい存在なのだ。
ここには『自分』を保てるだけの居場所はなかった。
「光夜!!」
あと数歩。
・・・・・・・痛い――
ズキズキと刺すような胸の痛みと、靄のように頭に広がる鈍い痛み。
「戻って来いってば、光夜!!」
痛むなにか。
なにに痛みを感じていたのか――
ようやっとわかった気がした。
必要とされない自分。
それが辛くて、哀しくて。
「いいよ月兄ぃ・・・オレ、このままいなくなるからさ」
誰に聞かせるわけでもなく、ぽつりと言葉が漏れる。
目の端がじわりと熱くなった。
泣いたら痛みも一緒に流れてくれると思ったのに・・・・それどころか、痛みは強くなっていくようだった。
「そうすりゃ、ちょっとは楽になるだろ・・・」
冷たい水に浸かっている体は、もう麻痺してほとんど動かない。
それでも、一歩ずつゆっくりと、確実に。
光夜は先へ先へと進んでいく。
不意に、足元が消えた。
湖の中へと、一気に身体が沈み込む。
「光夜!!」
焦りを露にした兄の叫び声。
視界に入るのは、黒。
月明かりも届かぬ水の中は、一寸先も見えぬほどの闇だった。
自分の手さえも見えない暗さ。
冷たい水の中にいるはずなのに、目尻だけが、熱い。
流れる涙は、零れ落ちた先から周囲の水に溶けて消えた。
それがなんだか可笑しくて、少しだけ口の端が上がる。
自分の身体も意識も、こんなふうに水に溶けてしまえばいい。
胸の痛みはまだ健在だったが、息ができない苦しさはなかった。
・・・・・・瞼が重くなる。
これで、終わり。
この痛みとも、自覚してしまった淋しさとも。
大好きな兄とも・・・・・・・・・・・。
全部、お別れ。
落ちゆく視界に抵抗せず、ゆっくりと瞳を閉じ――
「!?」
意識を失う寸前。
光夜の目の前に見たこともない生き物が佇んでいた。
ゆるゆると水の中にたゆたう、巨大な蛇のような姿・・・・・・視界ゼロの暗闇のはずなのに、はっきりと見えた。
青い、龍。
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