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<PCシチュエーションノベル(ツイン)>


子供の色彩、迷路

 もう、限界だ。
 俺には出来ない。
 この仕事は決して本業じゃない。だが、人一倍プライドの高い彼は一旦仕事として請け負った以上、どんな事であれ「依頼は完遂」をモットーとして器用さと気力で鮮やかにこなして来た。
 ──この時、その完璧神話が音を立てて崩れ落ちようとしていた。
 残された道は、──奴しか居ない。
 
「……、」
「……、」
「……、」
「……、」
 佐和・トオル(さわ・とおる)は目を細め、突然来訪した友人の仏頂面と、彼の肩辺りに在る可愛らしい幼女の顔を見比べた。
 三歳位だろうか、手放しで可愛い赤ん坊の時期を過ぎ、大分顔立ちに個性が現れて来る年齢だが、将来の美貌が約束されたような、──特に大きな二重のぱっちりした目が、西洋人形のように良く出来た女の子である。
 そしてトオルがドアを開けて以来挨拶の一言も無しに押し黙っているその友人、香坂・蓮(こうさか・れん)はと云えば、どこか西洋的で、やや中性的な程の繊細さがその端正な顔にまで現れた青年だ。
「……、」
 確か、──とトオルは顎に手を当てて思案する。
 蓮は28の自分より4歳年下だから、24だった筈だ。この際、年上であるトオルに向かって挨拶も無し、などという礼儀的な事は問題では無い。型通りの礼儀などにこだわるのは内面的な人間関係に鈍い人間だけだ。相手の感情の色合いの変化に敏感なトオルはそんな事を気にしているのではない。
 問題は、つまり、蓮が「そうであっても」おかしくない年齢だ、と云うことだ。

「──……君の子か?」
「……、」
 勿論、本心では無い。彼の事だ、「冗談じゃ無い」と即答が返ると思った上での軽口だったのだが、然し尚も蓮が押し黙っているのでトオルは流石に不安になった。
 触り気無く伺った蓮の感情は単調なまでに真っ白で、全く考えが読めない。──ただ、ヴァイオリニストである蓮の繊細な腕の筋肉が、三歳児の重みに耐えかねて悲鳴を上げている事は、補色が点滅するように時々瞬いた事から推し量れた。
 トオルは「Virgin-Angel」というホストクラブのオーナー兼ナンバーワンホストである。一般的には誤解され易い職業だが、本当は接客業、それも水商売ともなれば相手への気遣いと機転に長けた、「精神科医にもなれる」程の人間でなければプロにはなれないのだ。
 ──にも関わらず、ホストの中にはそんな事に頭を使いもせず「出来ちゃった」と女に云わせてしまう連中が居る。 
 然し、まさかこの青年が──。
「……香坂……、まさか本当なのか」
「……、」
 二度目には、恐る恐る問い掛けた。そこへ来て始めて蓮は何か云おうと口唇を半ばまでは開いたが、その青い瞳に物云いた気な色を浮かべたままトオルを見詰めている内に、結局また黙り込んでしまった。
「……何とか云おうよ。一体、何があったんだ? この娘は?」
「……、」
「俺を訊ねて来たからには何かあるんだろ、……云ってみろよ」
 こうも訴えるような目で蓮に直視され、しかも黙って居られるとやや御節介な言葉であっても何か声を掛けて居ないと落ち着かない。然し、蓮は頑ななまでに黙りこくって居る。
「……、」
 どうしろって云うんだよ、一体、俺に。トオルが匙を投げかけた時だ。
 それまで蓮とお揃いにむっつりと押し黙っていた幼女が、急に腕を伸ばしたと思うとその小さな手で蓮の髪を引っ張ったのだ。
 ──あ。
 ぐら、と反動で頭を傾かせた蓮の感情が、相変わらず真っ白なまま、限界を迎えたものか激しく点滅したのが分かった。
 とうとう、流石の蓮の口から掠れた言葉が洩れた。
「……頼む、助けて呉れ」

 ──。
「……ク、……」
 ともかく部屋に招き入れた蓮が事情を説明すると、彼の深刻極まりない顔を前にトオルは思わず吹き出した。
「……、」
 蓮はじろり、とそんな彼を睨み付ける。
 だから、云いたくなかったのだ。あの、一言を。
 便利屋のプライドに懸けて、依頼の手伝いを友人に頼むのが厭だったと云うのもある。が、特に「一日三歳児の子守を頼まれてしまって、でも子供などどう扱って良いのか分からない」という詳細をトオルが聞けば、間違い無く笑われるだろう事は目に見えて居たのだ。

 彼女は、便利屋としての蓮の常連客の子供だ。
 今日の午前8時頃だっただろうか。蓮はその常連客から予告無しの電話で朝一番叩き起こされ、東京駅の銀の鈴広場に呼び出された。常連客は割と気前の良い若奥様で、無碍には出来ない相手である。
 急ぎ待ち合わせ場所に駆け付けた蓮は、そこでやけに粧し込んだ彼女が小さな女の子を連れているのを見た。──つまり、先程蓮が抱いていた幼女だが。
「ごめんなさいね、急に呼び出して。あのね、私今日高校の同窓会があってこれから茨城まで行かなきゃ不可ないのよ、それで、一日この娘の面倒を見て欲しいの。出来るだけ二次会は止して帰ってくるけど、戻るのは夜になるわ。午後9時にこの同じ場所で待ち合わせでいい? ……あ、そろそろ時間だわ、急がなきゃ。必要経費は後で纏めて精算させて。じゃ、お願いね」
 身勝手ながらも簡潔に依頼内容の説明を終えた常連客は、幼女に「じゃ、いい娘にしてるのよ」と申し訳程度の注意を残して消え去った。
 ──そして三歳位の幼女と共に取り残された蓮は、通行人の不審な視線に晒されつつも数分間、彼女を前に途方に暮れていた。
 便利屋としての彼の自信が、完璧に崩壊した瞬間である。蓮は生まれてこの方、子供の相手など碌にした事が無かったのだ。

「それならそうと早く云えば良かったのにさ、深刻な顔して黙ってるから。何があったのかって心配したじゃない」
「……云えるか、そんな事」
 忌ま忌ましそうに吐き捨てた蓮は、そうして見遣ったトオルの背後に何時の間にか忍び寄っていた幼女が彼の顔の両側に手を伸ばしたと思うと、ぱっとその両目を塞ぐ瞬間を目撃して肩を竦めた。
「ばぁーっ!」
 ……最悪だ。
 そう、彼女は決して常連客、つまりは母親の「いい娘にしてるのよ」という云い付けを守りはしなかった。どうしたものかと途方に暮れていた蓮が、遠慮勝ちに手を引こうとすれば頑として動こうとせず、「ママは? ママは?」と舌の回っていない、声量だけは一人前の声で喚き散らして彼を慌てさせ、なんとか宥め賺してママは夜まで出掛けている、だから今日は俺と(「お兄ちゃんと」などという云い回しを思い付きもしないのが彼だ)一緒に大人しくしてような、と告げた途端「抱っこ!」と来た。
 巫山戯るな、大体お前はもう抱っこして貰う歳か、などとは客の娘相手に云えない。その頃には、まだ蓮にも便利屋としてのプライドが残っていたのである。
 この時、人当たりが好く、接客業だけあって他人への気配りに長けた友人、つまりは佐和トオルの顔が脳裏に点滅したのは天の教示と云って良い。辛うじて、仕事を放棄、基い彼女を投げ出して逃げ帰ると云う行動を思い留まった。
 ここへ辿り着くまでの間、思わず警戒してしまう程の甘いマスクながら天性の優しさが滲み出たトオルの笑顔だけが、重い荷物を腕にも精神にも抱えて歩く蓮の支えとなった。音には特に繊細な感覚を持つ蓮にとっての最大の慰めは、彼女が歳の割りには無口だった事だろうか。

「こら、」
 蓮は思わず眉を吊り上げて彼女に怒鳴る。この被害者が蓮であれば悲劇が勃発していただろう。だが当人であるトオルは、驚いた、と大袈裟に肩を竦めてニコニコと優しい笑顔を彼女に向けている。
 顧みた幼女のむくれた気配は、鮮やかな色彩に満ちている。蓮の云う通り、歳の割りには大人しく口数の少ない子供のようだが、遊びたい、構って欲しい、という欲求を抑制できる歳ではないのだ。別に悪意など無い。ただ、蓮とトオルが話し込んでいて、放置されていた時間が退屈だったからトオルの気を引こうとしただけだ。
「吃驚したなあ、参った、降参だよ」
 そう云って幼女の頭を撫でてやるトオルには不自然さも躊躇いも感じられず、蓮は天の教示に従った事で果たして救われた事を実感した。
 然しその直後、また蓮の神経が一本切れそうになった事には、それほどの暖かい待遇を受けながら尚も彼女が物珍しいのかトオルの明るい金色の髪を引っ張っていた事だ。
「きらきら、きらきら」
「そうだなあ、お嬢ちゃんの髪とは大分違うよな、珍しいかな?」
「……いっしょ!」
 彼女の触手が、右側の一筋だけに金色の一筋を持つ蓮の髪に伸びる前に危険を察知して蓮はさっと立ち上がって後ろへ引いた。間一髪だ。
「……」
 幼女は不満気に物欲しそうな目で蓮を思いきり見上げている。
「あはは、逃げられたなぁー、残念」
 ──何故、こいつはこうも寛大で居られるんだ。
 蓮には不思議で仕方ないが、トオルにしてみれば何でもない事だ。
 ホスト業をやっていれば、如何に穏やかなトオルでさえ憤りを覚えるような客も居る。が、それを顔に出さず、相手の望む言葉を読み取って応えてやるのが仕事だ。然も、トオルはそれを嫌々やっている訳ではない。あくまで、自分が好きでやっている仕事だ。結局人を相手にするのが好きなのだろう、と自分でも思う。
 そうした事に比べれば、どれほど姦しかろうと無邪気な子供の相手など何の苦痛でも無い。
「で、今日一日、預かればいいんだろ? つまりは」
「そうだ」
「……いいよ、どうせ仕事は夜からだし、多少遅れて入ったって大丈夫だしさ、ま、オーナー特権だよね。付き合うよ」
「……頼む」

 小一時間後、蓮とトオルと幼女の3人はトオル宅から少し歩いた場所にあるファミリーレストランに居た。
 子供は、とにかくじっとして居ては呉れ無い。
 トオルが暫く他愛の無い遊戯に付き合って遊んでやっていたにも関わらず、彼女は直ぐに飽きて喚き出した。元々、シンプルで余分な家具も、勿論子供用の玩具なども無いトオルの部屋で子供が退屈に耐えられる筈はない。どうしようか、色鉛筆かクレヨンでもあれば「お絵描き」でもして遊べるが、そんなものすら無い部屋でどうしたものかと思案していると今度は「おやつ!」と来た。
「いいのかな、勝手に間食させて。割と良い家なんだろ、躾なんか厳しそうだよね」
「構わないだろう、一日位」
 こっちだって予定外の面倒事なのだ。一日、習慣を破った位。
 トオルの食習慣は崩壊している。若い男性の一人暮らしに加え、偏食が嵩じて最近では専らアルコールと甘い物とビタミン剤でカロリー摂取しているトオルの部屋になら菓子類の一つも在りそうなものだ。
「何か、無いのか」
 放っておけば泣き出してしまうかもしれない幼女を前に、蓮はともかく先手を打とうとトオルに訊ねた。が、首を捻っていたトオルは冷蔵庫を覗いて首を振る。
「チョコレートがあるにはあるけど、これ」
 一緒になって見事な程さっぱりした冷蔵庫を覗いた蓮は納得した。ウィスキーボンボンだ。
「ドイツのお土産だって、お客さんから貰ったんだけど。大量にあるからここの所他には何も買って無くてさ。まさか、ちょっととは云えこんな小さい子に食べさせていい量じゃないし、アルコールが」
「チョコレート、チョコレート食べる!」
 ああ、全く! 素早く二人の間に割り込んで来てウィスキーボンボンの食べ掛けの箱を見咎めた幼女が騒ぐのに蓮は悲鳴を上げたくなった。
「駄目だよ、これはお酒が入ってるんだ。君にはちょっと早いね、大変な事になっちゃうよ」
 そう云ってトオルが宥めるが、彼女は「チョコー……」と恨めし気に二人を見上げてまだぐずる。
「……もしかして、朝食が未だじゃないかな。……大分お腹が空いてるみたいだ」
「……あの母親、失格だ」
 蓮は舌打ちして悪態を吐く。苛立つばかりの蓮と幼女を二人纏めて宥めたトオルの提案で、そしてともかく近くのファミリーレストランにでも、と云うことになったのだ。
「それに、この分だと半日もこの部屋で大人しくしてやしないよ。どうせ待ち合わせは東京駅なんだろ? だったら時間に間に合うようにして、どこか遊べる場所にでも連れて行った方が良いんじゃないかな」
「……、」
 遊べる場所、つまりはデパートだとか遊園地だとか。この我侭な娘を連れてそんな人込みへ乗り込む、と想像しただけで頭痛を覚えた蓮に、トオルは明るく「大丈夫だって、俺も付いてるから」と笑った。

 ファミリーレストランでお子さまランチを半分以上残し、勿論そこで大人しくなる訳の無い彼女を連れて今度は遊戯場のあるデパートへ入る。
 遊園地など、あまりに広く混み合う場所は流石に避けた方が無難だ。──そう、判断したものの結果は同じだ。子供向けの遊戯施設を設けたデパートの屋上で、乗り物だとか何だとか、次から次へと敏捷こく動き回る彼女に付いて回るだけで一苦労だ。
「……今、何時だ」
 彼女をメリーゴーランドのかぼちゃの馬車の中に押し込んでしまうと、蓮とトオルはそれが見渡せる近くのカラフルなパラソルの下のテーブルに落ち着いた。
「3時」
「……俺の身体の方が持たん」
 蓮はぐったりと突っ伏す。トオルは「そろそろおやつの時間かな?」と全く平気そうな様子で時計を眺めている。
「まあまあ、結構楽しいじゃないか、こっちの方も」
「どこがだ。全くお前の気が知れん」
 遊戯場は、無邪気に駆け回る子供達で溢れている。其処此処で、子供達の歓声とその名前を呼んで追い駆ける親の声が響いた。よく晴れた陽射しは視界を白く煌めかせ、目に眩しい程だ。
「……こういう記憶、無いじゃない、……俺」
 トオルは、気楽そのものの口調をややしんみりさせて呟いた。
「……、」
 蓮は顔を上げ、そんな友人の横顔を眺めた。
 敢て、俺、とトオルは云ったが、──こうした記憶、親に連れられて遊戯場で遊び回った記憶など無いのは同じ境遇に育った二人には共通だ。別にそれを恨むでも無い、気にしている積もりは無いが──。……暫し、沈黙が流れた。
「……、あ」
 やや重くなりかけた空気を察知して、トオルは殊更明るい声を上げた。彼の視線の先にはアイスクリームやドリンク類を売るスタンドが在る。
「丁度おやつの時間だし、きっと彼女が戻って来たらまた騒ぐよ。俺、何か買って来るからここで待って」
「……ああ」
 静かにメリーゴーランドを見詰めている蓮に見張りを任せる事にして、トオルはスタンドへ向かった。

「……いつ?」
 スタンドから戻ったトオルはソフトクリーム2つと缶コーヒーを持ったまま、やや緊迫した調子で蓮に訊ねた。
 ソフトクリームを買って戻った、ほんの一瞬の事だった。メリーゴーランドの前に居たのは呆然と立ち尽くしていた蓮独りだけだった。
「分からない、ほんの一瞬だ」
 蓮も、しっかりと見張っていた積もりだった。メリーゴーランドが運転を終え、彼女が降りて来たらすぐに掴まえようと待ち構えていたのだが、予定外の誤算がそこに生じた。
 運転を終えた直後の乗り物からは、待つことの出来ない子供が一斉に溢れ出す。そしてそれを迎える親も入り乱れ、その周囲は一瞬間無茶苦茶な混乱に包まれるのだ。
 あまりの騒々しさに辟易しながら彼女を探そうとした蓮だが、すぐに見分けられるだろうと思っていた彼女の姿が無かった。そんな筈はない、冷静になれ、どこかに居る筈だ、という気持と、もしかしたら何かの弾みで運転中にどこかへ行ってしまったか、或いは小癪にも意図的に蓮の目をくらましてどこかへ隠れたのかも知れない、という焦りが同時に沸き起こった。
「済まない、ちゃんと見ていた積もりだったが」
「……でも、ここはそう広くはない。どこかに居る筈だ。取り敢えず手分けして探そう」
「外に出てやしないだろうな、建物の外に出られたら絶望的だ」
「とにかく中を探して、俺は係員にも頼んで来る」

 二人は必死で遊戯場内からデパートの中を係員と共に隅から隅まで探し回った。館内アナウンスの呼び出しを流して貰ってから連絡を待つまでは気が気で無く、果たして何件か寄せられた目撃情報からどうもデパートを出たらしい事が発覚した。
 蓮は、こうなっては仕方無い、母親に連絡して警察に届けるべきだと観念した。
 だが、蓮が電話に向かう直前、トオルが急に「こっちだ」と蓮の腕を引いて駆け出したのだ。
「分かるのか、」
 無言で頷いたトオルに蓮が続き、呆気に取られているデパートの職員や警備員を後に残して二人は夕闇に包まれ掛けた雑踏へ飛び出した。
「こっち」
 珍しく端的な口調で告げるトオルに倣い、蓮も黙々と彼に続いた。
 何故分かる、とは訊かない。勿論、こんな非常時に冗談や思い付きで適当な事を云う彼では無いし、ちらりと見遣ったトオルの横顔は何処か遠くの一点を見通している事が何となく蓮には分かったからだ。
 トオルなら、──彼女の意識の跡を辿れるのかも知れない。確かな直感で以て、蓮はその可能性を信じた。
 ……ただ。
「……、」
 スクランブル交差点の信号が点滅していたのに駆け込むと、丁度二人がその中央に差し掛かった所で車両が一斉に流れ出した。仕方無く立ち止まり、苛立ちながら再び信号が変わるのを待っていた時だ。
「……トオル」
「……、」
 蓮の呼び掛けに、トオルは答えなかった。その変わり、はら、と彼の頬を伝い落ちた涙が夕陽を透かして煌めいた。
「泣いてるのか、……何故」
「……、」
 トオルは指先でそれを払うと、仕方無い、と云うように穏やかに微笑んで見せた。
「……分かっちゃうんだよね、」
 再び前を向いたトオルは、もう泣いては居ない。が、どこか寂しそうな、遣り切れないような表情を漆黒の瞳に湛えていた。
「彼女、今泣いてるよ。寂しいし疲れたし、心細くて不安で」
「それはそうだろう、自業自得だ。全く、手間を掛けさせて」
 蓮は悪態を吐いたが、トオルは「でも仕方無いんだから」と微笑んだまま答えた。
「本当は、こんな想いをさせちゃ不可ないんだよ、あんな小さい子に」
「……、」
「……泣かせちゃ不可なかったんだけどね。……せめて、早く見つけてあげないと」
 信号が変わった。蓮はトオルを促す。
「行くぞ、こんどはどっちだ」
「……あっち。……近いよ、もう直ぐだ」

 その言葉に違わず、程無くしてビルの蔭で泣いていた幼女は、駆け付けた蓮が「一体どういう積もりだ、何故こんな所まで出て来た、どれ程探したと思ってる」と怒鳴り付けると一層激しく泣き喚き出した。
「香坂、怒るなって」
 仕様の無い、と蓮を宥めたトオルだが、もう彼には安心から来る余裕があった。……安心した。
 蓮に叱り付けられた事で余計に泣き出した彼女だが、彼女の意識は淡い暖色に色を変えていた。
 デパートの入口近くを探していた時に、雑多に入り乱れる色彩の中に感じた灰色の感情は、ようやく子供本来の鮮やかな色彩を取り戻し、安堵感で溢れていた。堰を切ったように声を上げて泣き出したのも、それまで不安の為に張り詰めていた緊張の糸が弛んだ反動らしい。

 ──。
「本当に助かったわ、どうも有難うね、香坂君」
 午後9時、東京駅銀の鈴広場。
 幼女は、そうして母親、蓮の常連客へと引き渡された。
「じゃ、これが今日の御礼と、必要経費ね。領収書は要らないわ、多分、足りてると思うんだけど」
 そう云って報酬の入った封筒を蓮に手渡した彼女は、疲れ果てたらしく眠りこけた娘を代わりに腕に抱いていたトオルを見て「あら」と少し目を見開いて表情を緩め、やや年甲斐も無い媚びた恥じらいを見せながら「どちらかしら、……香坂君のお友達?」と訊ねた。
「……はあ、」
「あら、じゃあお二人に面倒見て貰った事になるのよね、どうしようかしら」
 いいんですよ、とトオルは気さくに手を振った。
「子供が好きで、勝手に手伝っただけですから。それに、本当に可愛い娘だし。 ……お母さんにそっくりだ」
 蓮はこっそりとトオルを軽く小突いた。──こんな時に接客術を発揮してどうする。
 その一言だけだったが、トオルの美貌や風体から大方の職業を察知したらしい彼女は、まだ腕の中で眠っている娘に聞こえないようにそっと彼の耳許で囁いた。
「……あなた、お店はどちら? ……今度、遊びに行っていいかしら」
 穏やかな笑みはそのままに、トオルは「『Virgin-Angel』って店です。奥様みたいにきれいな御客様はいつでも歓迎します、」──但し、とそこで言葉を切り、顔の前に指を一本立てて見せた。
「彼女を独りにして来ちゃ駄目ですよ。こんな可愛い娘が寂しがってたら、俺も悲しくなっちゃうから」

 ──幼女を連れて一旦デパートへ戻り、係員に礼と詫びを云ってから、再度「どうして離れたりした」と訊ねると彼女は、相変わらず舌の回り切っていない口で健気にも「ママ、ママ」と叫んだのだ。
「……母親に会いに行く積もりだったのか」
 どうも、彼女が午後9時にならなければ東京に戻らない事も知らず、朧気な記憶だけを頼りに東京駅、朝母親と離れた場所へ行こうとしていたらしいのだ。
「寂しかったんだよね。……仕方無いよ。逸れたからって、彼女を責められない」
「……、」
 優しく幼女を腕に抱き上げたトオルと蓮は、暫くの間ぼんやりと黙って時間を過ごした。──彼女が再び癇癪を起こして、「ママ、ママに会いに行く!」と好きなだけ喚き散らして眠ってしまう迄。

「──で、無事依頼完遂、と」
 トオルの甘いマスクと声でやんわり諭されては、流石にしゅん、となって反省の色を浮かべながら二人に頭を下げて去って行った、愛娘を腕に抱いた彼女の後ろ姿を眺めながら彼は呟いた。
「……ああ」
 有難うの一言も、助かった、という感謝の一言も無い蓮だが、トオルは気にしない。彼は言葉として伝えられる感情だけを信じている訳ではない。
 ──但し。
 このまま二人、多少の感傷を抱えたまま並んで歩くのも極まりが悪い。そうした雰囲気を、言葉で和らげるのがトオルの生来の性質でもある。
「……でもまあ、色々あったなあ。……ここまで付き合ったんだし、先刻の報酬、半分とは云わないけど何割かは俺にも貰う権利があるんじゃない?」
「それは、──」
 にやにやと口許に笑みを浮かべて手を差し出すトオルを前に、蓮は顔色を変えて言葉を詰まらせた。
「……そうかも知れないが、いや、でも、」
 それでは今日丸一日潰した時間が割りに合わない。何の為に本職たるヴァイオリンに触る事も出来ずに一日を子供の我侭に付き合って過ごしたのか、──。
 何とか云い逃れる方法を模索していた蓮の視界に、丁度閉店間際の明治屋の明るい店内照明が飛び込んだ。
「……、」
 瞬時に、材料費に掛かるであろう値段と、トオルの云い分通り報酬を分配した差額とを計算する。一瞬の後、蓮の頭は答えを弾き出した。
「……寄って行こう」
「え?」
 店員に無理矢理断って彼の腕を引く蓮に連れられて明治屋に入りながら、トオルは首を傾いだ。
 蓮はと云えば殆ど我武者らに、主に製菓材料の棚から取った商品をカートに放り込みながら店内を進む。
「香坂?」
 ものの1、2分の後にはカートをレジに通過させ、割合安上がりに済んだ精算を済ませながら蓮はトオルを見遣った。
「確か、ここの所は客の土産のウィスキーボンボン以外何も買って無かった、と云ったな? そして、それは大量に余っている」
「……はあ、」
「残りを使ってケーキを作ってやるから、今日の所はそれで勘弁して呉れ」
 ──しかも、トオルの冷蔵庫内の材料まで利用するのか。トオルは苦笑したが、憮然とした蓮の横顔に、勿論快諾の意を告げた。
「──楽しみだなあ、香坂のチョコレートケーキ」