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■小さな恋の芽■
古き街は、今日もゆったりと時間が行き過ぎる。オープンカフェで一人コーヒーを味わいながら、結城二三矢は待ち人を視線で捜した。
彼は人を待たせたりしない人だから、きっとそろそろ来るはずだ。まだ一五歳の結城が一人カフェで視線を泳がせる光景は、誰か恋人でも待っているかのようだった。
残念ながら、結城が待っているのは彼の恋人ではない。彼女は今日本に居るはずだから。結城はふと通りを駆けてくる人影に視線を止め、カップを置いた。
「ヨハネさん!」
結城の声が聞こえたのか、ヨハネ・ミケーレは足を止めた。そして立ち上がって手を振る結城を見つけ、笑顔を浮かべた。
いつもの神官服にクロスを胸から下げ、まるで愛読書でも持つかのようにさりげなく聖書を片手に抱えたヨハネは、カフェで少し浮いている。
しかしここローマ市内では、特別珍しくは無い職種だ。
「ヨハネさんがヴァチカンに戻っているって聞いて、連絡してみたんですけど‥‥ご迷惑じゃなかったですか?」
「とんでも無い、こんな所で会えるとは思って無かったんで、嬉しいですよ、二三矢くん」
ヨハネは結城に答え、店内で売られているジェラートをちらりと見た。ここで売られているジェラートは有名だ。
「‥‥僕、ジェラート食べていいかな」
「あ‥‥本当は俺も欲しかったんです」
結城は恥ずかしそうに微笑した。男一人でジェラートを食べるのが、結城は少し恥ずかしかったから。きっと、彼女が食べていたなら、彼女に勧められて食べるのだろう。
ヨハネと一緒だと、そういう背伸びをしなくてもいいので安心出来るというか‥‥。彼はそういう雰囲気を持っている。
美味しそうにジェラートを口に運ぶヨハネを、結城はじっと見た。今回彼を呼びだしたのは、お互い会う機会が少ないから会いたかったというのもあるが、実は彼女から聞いていたある話しが気になっていたからだった。
「ヨハネさんは‥‥ここずっと東京に居たのに、どうして戻って来たんですか?」
「師匠に頼まれて‥‥重要な任務を任されたんです。飛行機の機内でも、ずっと緊張しっぱなしだったよ」
今はその任務から開放されたのか、ヨハネの顔色から緊張は見てとれない。
「でも、すぐにまた東京に戻るんだけどね。師匠も居るし」
「やっぱり、東京に居たい‥‥ですか。大切な友達も居ますしね」
はい、と小さく答え、ヨハネは顔をやや俯いた。
結城はヨハネの様子を、伺う。
「誰か‥‥気になる人でも?」
「えっ? き、気になる人なんて‥‥」
じゃあ、どうして声がうわずったりするんだろう。結城はくすっと笑い、聞き返した。
「別に特別な事じゃ無いですよ。誰か、好きな人とか‥‥友達とか居るでしょう?」
「特別‥‥というか。もっと仲良くしたい友達は居ますよ」
そわそわと視線を動かしながら、ヨハネは言葉を続けた。
「クラシックコンサートにご招待されたり、一緒にお食事をしたり‥‥時々会うのは会うんだけど‥‥」
彼女は結城の友人で、素晴らしいピアノの腕前を持っているという。音楽が共通の趣味である為、よくクラシック音楽のコンサートに行ったり、話しをしたりしているらしい。
「彼女とは、これからも仲良くしたい、っていうか‥‥」
「それじゃあ、その気持ちをきちんと伝えた方がいいですよ。だって、相手にその気持ちが伝わっているかどうか、分かりませんもの」
ヨハネは黙って、聞いている。結城がヨハネに伝えたいのは、彼と彼女が親友になる事では無い。彼がきちんと自分の気持ちに気づいているか確かめ、それを彼女に伝えるべきだという、その事だ。
“お願いね、二三矢”
そう恋人に頼まれた事でもあるし、恋に関して奥手であるヨハネを放っておく事も出来ない(お節介だとは、自分でも思うけど)。
「そう‥‥かな」
「そうですよ、ヨハネさん。俺だって、そんな時がありますよ。ちょっとした事なのに、相手に伝わらなかったり、誤解があったり‥‥」
「二人とも仲がいいから、そんな風に見えないな」
ヨハネは結城の話を聞いて、微笑した。そう、周囲からはいつも仲がいいように見えるようだが、決していつも順風満帆という訳ではない。喧嘩をしたり、嫉妬したり‥‥。
「大切に思っているから、喧嘩しても仲直り出来るんです。彼女は、俺にとって特別だから。ヨハネさんは、彼女の事‥‥特別だと思っているんでしょう?」
「特別といっても‥‥二三矢くんが考えているような事じゃ‥‥」
と慌てた様子で反論する、ヨハネ。しかし顔は真っ赤に染まっている。言葉で否定しても、顔色はそれを肯定している。
「だって‥‥彼女には、憧れている人が居るみたいなんです。僕には言ってくれませんけど‥‥」
「それじゃあ、なおさらちゃんと言わないと」
「いいんです、本当に僕は‥‥僕は聖職者ですから」
「ヨハネさんっ!」
結城は怒鳴りながら立ち上がった。
「今日び、お寺のお坊さんだって結婚します。大切な人とデートしたり話したりするのが、そんなにいけない事ですか!」
「い、いや‥‥そうだね」
普段大人しい結城の勢いに圧倒され、ヨハネは呆然と結城を見上げていた。結城とて、彼女とは決して正々堂々と名乗り会える状態にある訳ではない。しかし自分の気持ちに嘘をつき続けるのがどんなに辛いか、分かっているつもりだ。
「聖職者のヨハネさんじゃ駄目かどうか、彼女に判断してもらわないとね」
にっこりと結城は笑うと、ヨハネの手を取って立ち上がらせた。
ヨハネを連れて、結城はローマを移動した。まずヨハネの格好を何とかしなければならない。これが彼のスタイルだというのは分かっているが、プライベートな時間はプライベートなりの格好で居た方が、彼女も一緒に居てリラックス出来るんじゃないか。
「ヨハネさんは黒と白が似合うけど、私服はもっと華やかな色を着てもいいんじゃないでしょうか。暖色系も似合うと思います」
「そうかな? ‥‥男で赤とかってあまり着ないんじゃない?」
「着ますよ」
ジーパンもはいてみて欲しいな、と言いながら、結城はヨハネのサイズのジーパンを引っ張り出す。
ヨハネさんだったら、ローライズでも似合うんじゃない? 上はTシャツとジャケットで‥‥。
ヨハネが何も言わないうちに、結城はどんどんヨハネの衣装を決めていく。
「あ、ヨハネさん‥‥試着してみて下さいね」
「は、はい」
言われるままに、ヨハネは結城の用意した服を着てみた。
鏡に映った自分は、まだクロスをしていた。
「クロスはしたままでもいいです」
「これは‥‥これは外せません!」
「うん」
結城はこくりと頷いた。クロスが大切なものの一つだという事は結城には、ちゃんと分かっている。だから、それだけは取り上げる事は出来ない。
「それじゃあ‥‥後はプレゼントかな」
「僕、人に贈り物をした事が無いんです。‥‥何がいいかな」
大丈夫、それも考えているよ。結城は、その格好のままのヨハネを、ローマの街に連れ出した。
行き交う人々と同じ格好の、自分。人と同じ視線で同じように生きている‥‥そういう感覚が胸の中に芽生えた。
聖職者という特別な自分ではない、その外の自分。しかし最後の垣根を外すことは、ヨハネにはどうしても出来なかった。それが胸のクロス。自分がこの道を歩み始めた時から、誓った事だから。
誰かに尽くすのではなく、誰かに尽くされる。誰かに奉仕するのではなく、誰かを奉仕する。彼女が自分だけにほほえみかけてくれた時、これが特別な感情なのか、と心のどこかで喜びを感じた。
それに、ようやく自分で気が付いた。
「僕は‥‥聖職者としての道を、望んで選択した。だから、これを後悔なんてしません」
足を止め、結城が振り返る。
「だけど‥‥誰かを特別だと思って、相手にもそう思っていて欲しいと感じるんだ」
「素敵な感情じゃないですか。好きって事ですよ」
はっきりとした結城の言葉に、ヨハネは耳まで真っ赤になった。こういう恋愛ごとや話しに、慣れていないのだろう。
思わず結城が笑うと、ヨハネは困ったような顔をした。
あんまり突っ込んで困らせるのは、ヨハネに悪い。結城は話しを元に戻した。
「それで何がいいですか、贈り物は」
「花とか‥‥アクセサリーがいいのかな。あ、花は持っていけないよね東京まで」
ここから東京まで持っていくならば、移動させても痛まず、かつ飛行機に持ち込めるものがいい。間違っても生き物やジェラートは無理だ。
「ジェラートは美味しかったんだけどね‥‥彼女も喜んでくれるでしょうし」
「空輸するの‥‥無理じゃないかもしれませんよ」
「大変ですよ、それって」
いや、ジェラートを特別な贈り物にしたい訳じゃない。ヨハネはふるふると首を振った。あの店で、とても美味しいジェラートを食べた。それを伝えたかっただけだ。
それに、ヴァチカンやローマの街、ヨハネがよく行く店、通る場所、オペラ座‥‥。彼女にここを見てもらいたい。
「‥‥どうしました、ヨハネさん」
黙り込んだヨハネを、結城はのぞき込んだ。
ヨハネは、真剣な表情で、ぐるりとローマの街を見回し、やがて口を開いた。
「二三矢くん‥‥僕‥‥僕、彼女に‥‥」
「‥‥」
結城はヨハネの言葉を最後まで聞かず、一通の長便せんを差し出した。すうっと視線を落とし、封筒を手に取るヨハネ。何も言わない結城の顔をちょっとだけ見て、封筒を開いた。
それは、東京からローマまでの、飛行機のチケット。
「二三矢くん‥‥」
「ここが‥‥ローマとヴァチカンが本当のヨハネさんですものね。本当のヨハネさんを、見て貰いたい。そう言うと思いました」
じわりと目の端が熱くなるのを堪え、ヨハネは結城の手をぎゅっと握りしめた。
「二三矢くん‥‥ありがとう」
きっと、ヨハネはこのチケットを彼女に送るだろう。
そう遠くない日、このローマの街を歩く二人が見られるかもしれない。
(担当:立川司郎)
■コメント■
オチがついたかどうか分かりませんが‥‥高価なプレゼントになりましたね(苦笑)。しかし、物を送るよりも効果的じゃないかと思ったもので。
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