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<東京怪談ノベル(シングル)>


蜘蛛の揺籠


 細い細い糸を束ね、絡めて、夢の世界で子守唄を歌う。
 好奇心で生まれたゆりかごは、取り返しのつかない罪の象徴――――



 懐中電灯のまっすぐ伸びた細い光を頼りに、そろりそろりと、海原みなもは夜の校舎をひとり歩く。
 思いのほか響く自分の足音に、過敏になった神経がぴりぴりと反応しているのが分かる。
 非常灯がぽつぽつと光を落とす廊下。ピッタリと閉ざされた教室の扉。静まり返った階段。そこかしこにわだかまる闇。
 校舎が見せる表情のどれもこれもが、昼間の存在である自分を拒絶し、排斥しようと動きだしているように感じられてならない。
 何よりみなもの神経をさざめかせているのは、肌に纏わりつく、この不穏な空気だった。
 季節は既に残暑を終えて確実に秋へと傾いている。
 だが、この場所に満ちているものは、真夏時以上の湿度に、何かが腐食していくような濁った異臭をないまぜにして不快な色を帯びていた。
 自分はこれが『何か』を知っている。
 既に幾度となく接してきた、禍々しい闇の気配だ。
「やっぱり……」
 慎重な足取りで、1階から階段を伝い2階へと進みながら、みなもは記憶を遡る。



 陰鬱な濃い影を、丸めた背に落とした中年の生物学教師が黒板に延々と教科書の内容をチョークで羅列していく。
 生徒に背を向けたまま、教科書と黒板しか見ない彼の退屈な講義を聴くものはほとんどいない。
 注意されないことをいいことに、生徒達は漫画を読んだり、放課後の約束を友人に取り付けたり、携帯メールを送るなど好き勝手な行動を取っていた。
「聞いてよ〜。昨日、思い切り蜘蛛の巣にかかっちゃったの」
「うわっ、悲惨〜!で?どこで?」
「特別教室。掃除ん時だったんだけどさ、最悪……」
 最前列で真面目にノートを取っていたみなもの後ろでは、教師の陰口をひそひそと囁き交わす女生徒の声も聞こえてくる。
「なんかアイツさぁ、最近やたら気持ち悪いよねぇ」
「前からちょっと根暗っぽいとか思ってたけど、別方向に磨きがかかったって感じ?」
 極力授業に集中しようと努めても、みなもの意識はどうしても背後の声に引き摺られる。
「それ言ったらさぁ、隣のクラスのあの子も、なんかアイツに似てきてない?」
「あ〜そうかも。やっぱさ、アイツが顧問やってるせいで、根暗もうつったんじゃないの?」
 『あの子』が誰を指しているのかみなもには分からない。
 だが、自分にも思い当たる人物が1人いるのだ。
 小学校の頃にクラスメートとなってから4年。最近、日常の繰り返しの中でふとした拍子に引っ掛かる、奇妙な違和感。陰の性質を引き寄せ、変化というよりはむしろ変質していくように感じさせるあの友人と同じ現象が、他の生徒にも起こっているのか。
 これは、どういうことなのだろうか。
 別の場所では、男子生徒たちの噂話が飛び交っていた。
「うわっ、それ、マジ?」
「野球部の連中から聞いたんだって。間違いねえよ。部活で遅くなったヤツがさ、学校で変な足音を聞いたらしいんだよ」
「お、俺もそれ、知ってるわ。やたらたくさんの足音が聞こえてくるんだけど、姿は見せないって話だろ?」
「うわ。何、それ。七不思議が八不思議になっちまうじゃん」
 視線は黒板とノートを往復し、もくもくとシャープペンを走らせて板書を続けながら、みなもは聞こえてくる声たちを心の中に溜めていく。
 6時限の授業終了を知らせるチャイムが鳴り響くと、教室内はさらにざわめきだち、もう誰の言葉も聞き取れなくなった。
 何事かをぼそりと呟き、俯いたまま後は何も言わずに、生物教師が授業用資料を抱えて教室を出て行くのを見送りながら、みなもはひとつの決意を胸に抱く。

 掛け持ちの部活どちらにも顔を出さないまま一旦帰宅したみなもは、夜の訪れを待って、小さなカバンを手に、再び家を出た。
『学校にいってきます』
 家のリビングテーブルに置かれたきれいな文字の手紙は、簡素にして簡潔だった。
 それがどういう意味を持つものなのか、一読しただけでは伝わらない。
 だが、みなもの家族ならばおそらく、そこに込められた意思を汲んでくれるだろう。



 階段を上りきったところで、みなもは現実に立ち返る。
 2階は思った以上に闇が深い。
「……あまりひとりでは動きたくないんだけど……」
 みなもにはひとつのジンクスが生まれつつある。
 曰く、ひとりで調査に向かった際には必ず被害者になるという。
 正直、歓迎したい内容ではない。
 もしかしたらそのまま永久に自分は家に帰ることが出来なくなるかもしれない。
 もしかしたら『無言の帰宅』という結末だって考えられないことではない。
「でも……放っておけないじゃない」
 ペットボトルを詰めたカバンを左腕で抱きしめ、口の中で、小さく呟く。
 友人の変化は『学校』にあるのかもしれない。
 ソレが一体なんであるのか、自分は知っている気がしたし、原因を取り除くことで、友人だけでなく生物教師や他の生徒達も何とか助けることが出来るかもしれない。
 その可能性を思いついたら、実行せずにはいられない。
 これはもう気質とか性分とかそう言われるものに起因しているもので、どうしようもないものなのだと、どこか開き直りにも似た気持ちで納得し始めている自分がいる。
 
 結局のところ、みなもは優しすぎるのだ。

 闇の支配が強くなった世界を、神経を研ぎ澄ませ、慎重に進む。
 長い長い廊下。曲がり角の隅でポツリと灯る防犯ブザーの赤い光。窓には自分の姿がはっきりと反射される。
「?」
 不意に、かさりと、自分以外の存在が音を立てる。
 鋭敏な聴覚に伝わる、不自然な足音。
 けしてひとつふたつではない。足音らしきものはいくつもいくつも重なり合い、増殖していく。
 訝しげに向けた懐中電灯の光の筋が、不審な足音の正体を細く照らし出す。
「――――!」
 一瞬、悲鳴を上げかける。
 異様な光景。
 どろりと濁った無数の瞳が、暗闇の中からみなもをねめつける。
 がさぎしがさぎしと奇妙な音を立てて、四足でにじり寄って来る。
 廊下の端から、角から、教室から、窓から、一体どれだけいるのかと気の遠くなるほどに増殖し、溢れてゆく奇怪な人間たち。
「…いや……」
 押し寄せてくる異様なもの。
 中には明らかにヒトの姿をやめたものが混じっている。
 足が多い。
 胴の辺りから余分なものが生えているのだ。
 逃げなくてはいけない。
 あれほどの数に埋もれてしまったら、たとえ霊水で作り上げた鎧『水の羽衣』を纏っても逃れられるものではない。
 みなもは冷たい床を蹴り、唯一開かれていた1階へと続く階段を駆け下りた。
 硬質な反響だけが耳に届く。
 1階に辿り着けば、玄関付近には既に異形と化した生徒達がひしめいていた。
 手すりを軸に身体を方向転換し、廊下を曲がり、追いすがるものたちの攻撃をかわしてさらに奥へと走る。
 行き止まりの扉には生物教室の表示が見える。
 とっさに手を伸ばし、わずかな引き戸の隙間に指を掛けて身体を滑り込ませた。
 
 そして、みなもはJOKERを引き当てる。

 むっと押し寄せてくる瘴気と腐臭。目眩がする。一瞬意識が呑まれる。
 仄暗い教室。細い懐中電灯の明かりに反射するものが、この部屋一面に張り巡らされた蜘蛛の巣だと気付くのに、みなもは些か時間を要した。
 懐中電灯を向ければ、そこに浮かび上がるのは床や巣の中に散乱する繭玉であり、見上げれば、糸によって天井に繭が吊り下げられているといった異様な光景だった。
「これ、なに……?何が起きたの?」
いくつかの繭は既に割れている。
 まるで懐中電灯の光に反応するように、ぐにゅりずるりと這いずる、粘着質な水音が奥の方から聞こえてくる。
 闇の向こう側で蠢く気配が何であるのか確認しようと視線を上げた瞬間、戦慄が走る。
 蜘蛛の巣に係り、並べられた机のその下で蹲る奇怪な物体。廊下にあふれ出していた8本足の異形がここにいる。
 それらが纏うのは自分と同じ制服だ。そして、その躰を覆うのは、まるで産み落とされたばかりの嬰児のように糸を引くねっとりとした液体だった。
 ざわりと足元から全身に這い上がってくる不快感に、思わず身体があとずさる。
 締め付けられた喉からひゅうっと息が漏れた。
―――――アレは、あの生徒達は、ヒトから異形へと孵化したのだ。
 全身から汗が噴出す。
 嘔吐感を催すほどにおぞましい光景。
 生理的嫌悪にさいなまれながら、みなもはさらに一歩後ろへ下がる。
 その時。
 不意に、ことりと爪先が何か固いものを軽く蹴飛ばした。
 神経はあの孵化したばかりの異形を捕らえたまま、視線だけを下に向ける。
 蓋の開いたビンが転がっているのが見える。
 そして、その先にあるものに気付いてしまう。
 ほんのわずか離れた場所に転がっているアレは、白い布を纏った人間の腕だ。
 悲鳴を飲み込む。
 引き千切られたか、喰い残しか、腕は肘から上の全てを失っていた。もう誰のものなのか判別することも出来ない。
 しかし、その手には紙のようなものがしっかりと握りこまれている。
 とっさにみなもは震える指で硬直した手の中からそれを取り上げた。
ぎちぎちぎちぎち―――――
 闇に遮断されたその向こう側、隣接する生物準備室からようやく姿を現したものが、みなもに真実の一部を垣間見せる。
 追いつめられ、この場所へと逃げ込んだ瞬間に、自分は罠にかかった獲物も同然だったのだ。
「……あれのせいで………」
 視界に、その全てを納めることは不可能だった。
 表面をびっしりと棘の様な体毛で埋め尽くし、不規則に蠢く幾本もの太い節足。
 毒々しい黒と黄色の縞を持つ、膨れ上がった巨大な腹。
 正面に赤く燈る無機質な6つの眼。
 その下では、粘りつく液体を滴り落としながら、鋭い狩猟者の牙が端からうねるように咀嚼を繰り返している。
 既に空となった繭を踏みつけ、孵化したばかりの子を乗り越えて、それは来るのだ。
 人間を糸で絡め取り、卵を産みつけ、おぞましい子守唄を奏でるそれの名は『女郎蜘蛛』――――
 瞬間的に悟る。
 勝てない。
 自分ではアレに勝てない。
 みなもは、カバンを抱きしめ、じりじりと間合いを広げていく。
 蜘蛛は天井に届くその身体を蠢かせ、獲物を捕獲しようとその八つの脚と赤く燈る眼をみなもへ向ける。
 巨体に擦られ、脚に押し潰され、薙ぎ倒されるガラスの棚。机。椅子。
 かしゃんがしゃんばりんっ―――と、いくつものビンが床に叩き付けられ、甲高い破壊音が準備室内に響き渡る。
 床に張り付いたようになって動かない竦んだ脚を無理矢理引き剥がし、みなもは背を向けて教室の扉に縋りつく。脱出しなければ。それだけを考える。
 だが、女郎蜘蛛はそれを許さなかった。
 粘着質の蜘蛛の糸が、束となってみなもを捕らえる。
 脚を、腕を、胴を、喉を、顔を。締め上げる。
 窒息してしまう。
「―――――っ!!」
 悲鳴が、締め付けられた喉の奥で掠れて消える。
 みなもの身体よりも太い蜘蛛の爪が、何かを突き破った。
 蜘蛛の糸を伝い、繭の中を抜け、部屋に流れ出ていくその粘ついた液体からはガソリン特有の異臭が立ち上る。
 だが、それを感じるより先に、腕に抱いていたカバンの中で弾けたペットボトルの霊水を浴びて、『海原みなも』の意識はふつりと途切れた。
 
 そして、彼女の中に流れる妖の『血』が目を覚ます。
 
 人魚の血を受け継ぐ少女の、もうひとつの顔。
 彼女は水の中で力を得、内側から蜘蛛の糸を引き千切る。
 獲物の意外な抵抗に、蜘蛛は全身の神経で思考する。
 何をするつもりなのか。どうすればこの獲物を再び捕獲できるのか。
 だが、その答えより早く、自ら地に降り立った彼女は、そのままガソリンの海を駆け抜け、窓ガラスに腕を交差した状態で頭から突っ込んでいった。

 ガラスの破片が飛び散る。
 金属音がその後を追う。
 小さな火花が、追いすがる蜘蛛の足元で弾けた。
 生物教室から校内全体に張り巡らされた蜘蛛の糸が導火線に変わる。
 そして―――――



好奇心だった。純粋に。研修者としてそれを育ててみたかったのだ。
こんな結末になることを、私はもしかしたら予測できたかもしれない。
だが、その考えに至るより先に、手を伸ばしてしまった。
私は化物をこの学校に住まわせ、繁殖させてしまったのだ。
生徒を巻き込んだ。
あの子達はもう助からない。
私は取り返しのつかないこの過ちを自らの手で葬り去ろうと思う。



 ひどく熱い。そしてひどく眩しい。網膜の裏側を刺激する、揺らいで踊る強い光。これは一体なんだろうか。
 頬や手のひらに触れる、ざらついた感触。土の臭い。ここはどこだろうか。
 現実感覚を失ったままに、みなもは重い瞼を持ち上げ、気だるげに上半身を起こす。
 そこに見たものに、一瞬我が目を疑う。
「………燃えてる……」
 校舎が闇の中で燃え上がっている。それは勢いを増し、何度も膨張しては内側からガラス窓を破壊する。
 まるで生き物であるかのように、うねり、撒き上がり、炎はその一角を完全に支配していた。
 あそこには蜘蛛がいたはずだ。
 そして、寄生され、内側から食い破られた生徒達も。
 悲鳴は聞こえない。
 慟哭もない。
 何故自分だけがここに、このグランドに横たわっているのか、それすらも分からずに、みなもは呆然と光を見つめていた。
「………」
 あの転がっていた腕の主は、生物教師なのかもしれない。
 彼が、あの蜘蛛を学校に呼び込み、育ててしまったのかもしれない。
 そして彼は、『清算』を考えたのかもしれない。
だが、全ては憶測の域を出ないのだ。

 真実は闇に爆ぜる炎に飲み込まれ、生物教師の意思もまた誰にも知られることなく焼失し、そして事件は誰も何も救えなかったという事実だけを残して終焉を迎える―――――

 

END