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<東京怪談ウェブゲーム 草間興信所>


フォーマルハウト・アルファ


■序■

 ポンペイを1日にして滅ぼし、すべてを石と変えたあの山が目覚めた。
 ヴェスヴィオ火山が60年ぶりに活発な活動を始めたというニュースは、ヨーロッパを震撼させ、世界の東の果てにある日本にも届いていた。
 すでに地元住民は避難を終えている。あとは――噴火を待つばかりという、絶望的な状況だ。それほど、観測隊が弾き出した噴火の可能性は高かったのである。噴火を待っている者など、誰もいないだろう。それが一般的な考えであり、至極もっともな言い分である。
 だがこの世界の陰で爪と牙を研ぐ、異形の神の下僕たちに、その常識は通用しなかった。
 かれらは、ヴェスヴィオの噴火を心待ちにしていたのだ。

  フングルイ ムグルウナフ
  クトゥグァ フォウマルハウト
  ンガア・グア ナフルタグン
  イア! クトゥグァ!

 リチャード・レイが再生してみせたそのテープは、ヴェスヴィオのふもとの村で録音されたものだという。硫黄の臭いがたちこめる夜になると、きまってこの呪文じみた絶叫が、風に乗って運ばれてきたのだと――
「今回はまだ、一般の方々に被害は及んでいません。住民は避難済みですからね」
 レイの表情は、言っていることとは打って変わって、陰鬱だった。
「ですが、A.C.S.の報告によると……この祈祷は今も続いているそうです。儀式を執り行っている人々は、あの『キングダム』のメンバーだったそうです。もしこの祈りが、天より向こうの世界へ届いたとしたら……」
 きっと、隣町に避難したくらいでは生き延びられないほどの災厄が起きる。
 祈祷がヴェスヴィオを呼び起こしたか、ヴェスヴィオの目覚めに乗じての行動かどうかは、まだはっきりわからないと――リチャード・レイはいう。
「A.C.S.は協力を要請しています。何でも、この度の調査でメンバーを数名失ったとか。欠員は一刻も早く埋めたいようなことも言っていましたね。……祈りを神に届けさせては、こまるのです。何とかしなければ。降臨して奇蹟を起こして下さるような神ではありませんからね」
 彼はそれから目を細め、溜息をつくと、ほぞを固めたかのように続けたのだった。
「わたしからもお願いします。A.C.S.の一員として……」


■現代地球での『旅の仲間』■


 東京はからりと晴れ上がっていたが、リチャード・レイたちの心は陰鬱なほどに重く湿っていた。東京の人間たちは、地球の裏側の火山がどうなろうと、多くの場合知ったことではない。それは無理もないことだ。それをいちいち責める気にはならない。地球で起きているあらゆる災厄をすべて気に留めていたら、胃に穴が開くか、小心者だと嘲笑われるが落ちである――
 リチャード・レイの元に集まった調査員は、9名だった。そのうちの4人――武神一樹、ステラ・ミラ、御母衣今朝美、夏比古雪之丞が、レイとともにイギリスへ向かう路を選んだのだった。御母衣今朝美と夏比古雪之丞はすでに日本を発っており、ステラは一樹がイギリスへ持ちこもうとしていた銘刀を預かって、姿を消していた。あの不可思議な女性は、いつもレイが居る応接間を出た次の瞬間には消えていたのである。ステラは一樹が珍しく武器を携えてきた理由を、一樹が沈黙していたにも関わらず知っているようだった。
「おまえは来るなと言ってもついて来るんだろうな」
 一樹は、黒いレインコートの少女に苦笑を送った。
 じっと黙ってレイと一樹を見上げているのは、先月からこの応接間の『仲間』になった――蔵木みさとだ。
 少女は一樹の言葉に、真顔で頷いたのだった。
「イギリスは雨だそうですよ。イタリアは――何でも、雹が降っているとか……」
 白王社ビルを出て、からりとした日本晴れを見上げ、レイがぽつりと呟いた。
 ひどく暗い声だった。
 3人は体よくビル前で停まっていた黒いタクシーに乗りこみ、一路成田空港へと急いだ。


「4名様で?」
 黒ずくめの運転手が、乗りこんだ『3人』にそう声をかけてきた。
「え?」
 助手席のレイが灰の眉をひそめて、わざわざ人数を確認した。
「3名ですが」
 その言葉に運転手が振り向いて、自らも人数の確認をした。帽子をひどく目深にかぶった運転手で、陰気な印象を持っていた。陰の奥の瞳に射抜かれて、みさとが硬直した。一樹は黙って、ダッシュボード上のネームプレートに目をやる――

『ありがとうございます 本日も安全運転です
 運転手は    影山 軍司郎    です』

「失敬した。気配はともかく、見えるのは3名だ。……成田までだな」
 運転手が、そのとき笑ったように見えたのは錯覚か。影山軍司郎はぴくりとも笑っていなかったはずなのに。
「安心しろ。看板に偽りはない。安全運転だ」
「そういう問題か? おまえは一体何なんだ」
 一樹は露骨に顔をしかめて、そう吐き捨てた。軍司郎はにこりともせずに前に向き直ると、アクセルを踏みこんだ。
「警告をもたらす者、禁忌の門を守る者――まあ、リチャード・レイ、貴君と同じような『人間』だ。禁忌には触れざるが最良の策だと、愚か者どもに説教をして回るのが勤めだな」
「味方と考えてもいいか?」
「どちらの立場に着くか、今はまだ決めかねている」
 軍司郎は一樹の思惑などどちらでもいいような素振りであった。今の状況では、誰が味方で誰が敵なのかがはっきりしないのは、最も厄介な因子である。
「……欧州は管轄外だが」
「来るのか?」
「それも決めかねているところだな。韓国語と北京語と日本語しかわからんのだ」
「『しか』? 俺は日本語しかわからんぞ。『しか』はこういうときに使う言葉だ」
「ふむ、……随分と嫌われたな」
 黒ずくめのタクシーはしかし、安全運転ながらもちゃんと急いでくれた。50分後には、レイたち3人は軍司郎に律儀に金を払っていた。
「リチャード」
「はい?」
 軍司郎は降りようとするレイを呼びとめて、おもむろに手を伸ばし、レイのネクタイを掴んだ。
「何をす……」
「英吉利紳士たるもの、身だしなみには気をつけることだ」
 冷静な顔をしているが、レイは意外とうっかり者だ。しかし特にこの日は忙しかったために、誰もレイのネクタイが少し曲がっていることを指摘しなかったのである。軍司郎の手が、曲がったネクタイを直した。
「……心得た。忠告痛み入る」
 レイの目は紫色に輝き、むっつりとした渋面になって、唸り声のような感謝の言葉を呟いた。軍司郎はそれでも、愛想笑いひとつしなかったのである。


「君は往かぬのか」
 影山タクシーは、まだ空港前のタクシー乗降所に停まったままだ。軍司郎がバックミラーを見上げて、後部座席に声をかけた。
 ころん、と鈴の音が車中に満ちた。
 後部座席には、紅い振袖の少女が乗っていた。足を遊ばせて、下駄についた鈴を鳴らしている。
「あの眼鏡の男は見て見ぬふりをしていたな。レインコートの少女は居づらそうにしていた。リチャードも時折振り返っていたな。姿は見えずとも、気配が強すぎるのだ」
「昂ぶるのじゃ」
 ころん、
「悪しき魂を前にするとな」
「それは私か?」
「はは。御主とリチャードはすでに滅びておる故、我が導くまでもない。あの雨合羽の女子も然り。我を昂ぶらせるは、目覚めゆく天の『炎』、其れを奉る者どもぞ」
 ころん……
 軍司郎は、そのときようやく振り返った。
 紅い振袖の少女の姿など、どこにもない。
 九耀魅咲と云う名を、彼が知る由もないのだ。

「何だかちょっとあのタクシー、乗り心地悪かったです」
 みさとの顔色が悪いのは、何も影山タクシーだけが原因ではないのだ。しかし、ロビーでぽつりと漏らしたその愚痴に、一樹は思わず笑ってしまった。乗り心地が悪かった原因を、一樹は知っているのだ。運転手が陰気だっただけではなく――みさとと一樹の間に、振袖の少女がひとり座っていたからだろう。
 だが一樹は、黙っておいた。
 ――俺も人が悪いかな? だが、「見えないやつがいた」なんて言ったら、みさとは怖がるかもしれないか。
 幽霊とはわけがちがう、九耀魅咲があそこに居たのだ。


■雹は止まる■

 そしてそのとき、ヨーロッパに降りしきる雨と雹とが、ぴたりと静止したのである。
 ステラ・ミラが、九耀魅咲が――それぞれの場所で、きッと空を見上げた。
 人間たちは、すべての水滴と雹がとまったことに気がついていない。ただ、「上がった」と考えていた。誰もが傘を下ろし、手を広げ、ステラと魅咲のように空を仰ぐ。
 桐の箱に入った一樹の長光を抱きながら、ステラがゆっくりと視線を前に戻した。彼女は愛想笑いも会釈もしなかった。だが、彼女の前にはひとりの小柄な紳士が居て、黒い傘を差し出しているのだった。
「貴方は……」
「ジュリアス・シーマ。待っていたよ。今日はいやな天気だね……リチャード君たちはそろそろ着くかな」
 雨が止んだというのに、紳士は傘をさしたままだった。天気のことを口に出すのは、さすがイギリス人といったところなのだろうか。彼は小脇にまだ数本の傘を抱えていた。
 シーマと名乗るその男が、傘を心持ち後ろに傾けたおかげで、顔立ちを見て取ることが出来るようになった。シーマは濃いグレーの髪と、金眼を持った白人だった。声は若いが、その様相ではこの男が青年なのか中年なのか判別しかねた。ステラと同じように、不可思議な人物である。
 ステラは黙って、紳士から傘を受け取った。
「さあ、傘をさして。雨が『落ちる』」
 日本からの便が、ステラとシーマが見守る中、無事に着陸した。滑走路を走る航空機の速度が完全に落ち、ステラが素直に傘をさした頃だ――
 どさっ、という擬音がぴったりな勢いで、止まっていた雨が『落ちて』きた。
 傘を下ろしていた道行く人々は、たちまち濡れ鼠になった。
「そう。貴方がA.C.S.の……」
「一応ね」
「人間ではないのね」
「一応ね」
「雨と雹を止めたのも、貴方ですね」
「まあ、一応ね」
「お尋ねしたいことがあります」
 シーマがステラを見上げた。答える気はあるようだ。
「A.C.S.とは何でしょうか?」
「ははは、はっきりと訊かれる方だな」
 愉快そうに笑って、ゲートを見ながらシーマは話しだした。
「Absolute Counter Spell, この世を護る唯一無比の呪文。目的はひとつ、人と神と魔が共存するこの世を維持することだ。すべてが一度に消滅する恐れは常につきまとう。それは神と魔を存在させているのが人だからだ。人は核やらウイルスやら多次元からの力の介入で容易く滅んでしまうからね。……この星の神と魔は人の心が創り出したものだ。君や別の宇宙の存在はともかくね」
「人が滅びれば、人の心に在ったものも滅びると」
「そう。……長い間、我々は『人』ではなく『世』を護っていると主張してきた。でも私はどうにも納得がいかなくてね。やっていることはIO2と何ら変わりはないんじゃないかと……要は『人』を護っているのではないかと」
「最近総帥が代わって、考え方が柔軟になったと聞いておりましたが……そういうことでしたか」
「納得はしてもらえたかな? 我々は君の力を借りることは出来るのかい?」
 ステラは答えず、顔を上げた。ゲートから、見知った顔が出てきていた。
 武神一樹、リチャード・レイ、蔵木みさと――紅い瞳と黒い軍服を垣間見たのは、ステラだけであったか。
「リチャード君はメンバーではないのだが、パ=ド=ドゥ=ララ君とA.C.S.は長い付き合いだよ」
 シーマは灰色の男を見て愉快そうに微笑んだ。
「もうひとつ、お尋ねしたいことがあります。みさとさんを、どうされますか?」
 それはみさとだけにとる対処を尋ねているのではない。
 みさとという名前を介して、ステラはもっと広いことを訊いているのだ――
「我々はパ=ド=ドゥ=ララ君を受け入れているが、それは答えにならないかい」
「……そうでしたね」
「我々の敵に回ろうとする者は、今まで等しく、この世の敵だった。我々に手を貸してくれるか、我々を頼ってくれる者たちは、これからも等しく『友人』だよ」
 それが、A.C.S.の答えだった。
 シーマは微笑み、小脇に抱えていた傘を、雨の中走ってきた3人に差し出した。
「さ、状況が変わってしまった。本当は私の屋敷で1日ばかり皆をもてなそうと思っていたんだが、一刻を争う事態になってね。急ぎイタリアに飛ぼう。疲れているだろうが、すまないね」
 サー・ジュリアス・シーマの金眼をそのとき初めて覗き見た、武神一樹と蔵木みさとが驚くのは――後になって思い返したときだった。シーマの話す言葉はスコットランド訛りのある英語に他ならなかったというのに、言っていることが『理解できた』のだ。
 シーマが持ってきた傘は、まだ2本余っていた。シーマはレイから、4人の連れがいると連絡を受けていたらしい。ふたり足りないことにシーマが首を傾げるのは間もなくだ。


■灰かぶりの町■

 一旦止んだ雹が再び降り始めた。ジュリアス・シーマは、無邪気にも見える表情で、季節外れの雹を見ている。
 ナポリ国際空港は、一行が利用した便を最後に、すべての便のフライトを休止した。ヴェスヴィオの動きがいよいよ深刻なものになってきたらしい。空港は間もなく閉鎖されるし、ナポリの住民は避難を始めているのだ。彼らが空港を出たときには、ナポリの街はいつもにも増して物騒になっていた。シーマが言っていた一刻を争う事態とは、このことを指していたようだ。
 混乱極まる中、レイの携帯が着信した。
「誰からだ?」
 一樹がディスプレイを覗きこむ。
「まさかまだ携帯の使い方がわからないとか言い出すんじゃないだろうな、パ=ドゥ」
「レイです」
 こんな事態でも『パ=ドゥ』という単語に関してだけはそう切り返す、リチャード・レイの中に宿る魔術師は、一体冷静なのか慌て者なのかよくわからない。
 レイは渋面で電話に出た。
「……ナツヒコさんですか! 今、どちらに?」
『考古学博物館だ。来てもつまらんぞ。……尋ねたいことがある』
「何でしょうか」
『<パルタス>と<ウンブラ>という単語が意味することは何だ?』
 危うくレイが携帯を取り落としそうになっていた。一樹はその瞬間をまざまざと見てしまっていた。
「……考古学博物館に向かいましょう」
 張り詰めた面持ちのレイを見やっていたシーマは、言葉を受けて傍らのステラを見上げた。ステラはシーマから受け取った蝙蝠傘が妙に気に入っていた。雹がぶつかる、ぱらぱらという音も好きになれそうな気がしていた。
「フロンサック・リトルが2日前にローマ南部で目撃されたんだよ」
 シーマは暗い微笑を浮かべた。
「あの街は古い。三千年近くもの間『キングダム』とともに在るんだ」
 それまでずっと黙ってついてきていた蔵木みさとが、それを聞いていた。彼女はぴくりと反応して、振り向いた。
「じゃ、やっぱりローマに『キングダム』が……」
「ローマにも、と言ったところだがね」
「行ってきましょう」
 ステラの答えが、シーマにとっては意外だったらしい。
 心持ち見開かれた金眼が、ステラを見た。ステラは――雹の歌を聴きながら、慌しいナポリの街並みを見つめていた。
 彼らが慌てているのは、危機が迫っているからだ。自分たちの生活が自然によって脅かされようとしている。実際、ナポリに着いたそのときから、地面は小刻みに震え続けていた。古い街並みのあちらこちらで、雹以外にぱらぱらと音を立てながら落ちているものがある。石造りの建物が地震で崩れ始めているのだ。
 ステラはA.C.S.の考え方について、今すぐ答えを出そうとは思わなかった。だが、今自分はこの国を救ってやりたいと思った。自然が人間を滅ぼそうとしているのならば、それは致し方のないことだ。だがこの件の裏では、山を目覚めさせようという悪意が働いている。少なくとも、悪意によって普通の生活が破られるのは、理不尽なことだ――ステラは、世界でいちばん親切な心を持っているのである。
「とりあえずは、この街を助けるために」
「なるほど。返事は待つとするよ」
「ステラさん、あたしも連れていって下さい!」
 レインコートのフードの奥にある死人の顔は、必死なものだった。身を乗り出したみさとの肩を、一樹が厳しい顔で掴んだ。
「さっきお前、『やっぱり』って言ったな――ローマに奴らの支部があること、どうして知ってたんだ?」
 みさとが、ぐっと口篭もった。濁った金の瞳は、どこか一樹を非難しているようであった。一樹はそれ以上追及しないことにした。問い詰めると、きっとみさとはつめたい涙を流しだす。代わりに、シーマに声をかけた。
「シーマ卿、『キングダム』の連中は、このみさとの一族を受け入れている可能性が高いんだ。みさとの話だと、こいつのように信仰心が無い人間もいる。俺はそいつらを助け出したい!」
「……助ける、というのは」
 一樹の視線から逃れるように、シーマはナポリの街並みへ目を移す。
「救いを求めている者に手を差し伸べることだ。少なくとも、そこに安寧を感じる者を引っ張り出すことではないよ。リチャード君の要請で、先月から接触を試みているのだが……我々を助けだと思ってくれた人はいなかった」
「みさとはどうなるんだ? たったひとりだ!」
「ミサト君だけが、我々に救いを求めてくれた。他の人々にとっての救いは『キングダム』なのだよ」
 一樹は、何も言えなくなった。
 ステラは、行こうとしている。
「待ってくれ、ステラ。行くなら俺とみさとも連れていってくれないか」
「構いませんが――」
 ステラの闇色の瞳は、レイを見た。
 レイは頷いた。
「わたしはシーマ卿と考古学博物館へ向かいます」
「うっかりするなよ、リチャード」
「大丈夫です」
 一際大きな揺れが起き、10メートルほど向こうの通りで、タクシーと乗用車が事故を起こした。雹が、止んだようだった。南の空が、赤紫色の異様な雲に覆われ始めている。一行はその空を見つめて、黙りこんだ。ナポリの南東には、あのヴェスヴィオがある。
 もう、ここに留まっているほどの時間はないようだった。
「気をつけてくれ。ローマに行ったメンバーは、戻らなかった……」
 シーマの沈痛な声を聞いたとき、ナポリの街並みが歪んだ気がした。次の瞬間に一樹とみさとが立っていたのは、石畳の街道ではなく、埃くさい古びた煉瓦造りの建物の中だった。ふわりと浮き上がっていたステラの長い黒髪が、しばらくの間空間に溶けているのを、一樹は見た。
 一樹は長光を抜き放った。肌を刺す悪意と邪気が、彼らを包んでいたのである。


■ローマのフロンサック・リトル■

「ローマ観光は後回しかね?」
 不意に声が上がり、部屋に明かりがついた。
 一樹は目を疑った。この日のために観光ガイドブックで確認していた、ポンペイ出土品の全てが煉瓦造りのこの部屋に収められていたのである。
「貴方の気配を辿りました、フロンサック総裁。まだローマにいらしたのね」
 声を上げ、明かりをつけた初老の男に、ステラがそう話しかけた。
 一樹は眉をひそめ、一見するとレイやシーマのような紳士にしか見えないリトルを見つめた。それでも――その一見を当てにしてはならないことを、一樹は見破った。あの厄介な風の信者と同じで、リトルが浮かべている穏やかな表情は、とうに壊れてしまった心を巧みに韜晦しているだけのものだったからである。
「ここに在るのは、ポンペイとエルコラーノの出土品だな」
 紀元前の赤い壁画を睨みながら、一樹が一歩前に出た。
「噴火から重要文化遺産を守るつもりか? 結構なことだ」
「きみは感じないのか? 大いなる熱と炎を」
 みさとが悲鳴を上げた。
 一樹の前にあった彫像が、光を伴って爆発したのである。みさとは顔を覆って、ステラと一樹の背後に回りこんだ。彼女には、眩しすぎたのだ。
 彫像は粉々に砕け、彫像があった場所には炎が『居た』。
 炎はヒトのようにも、イヌのようにもネコのようにも、見たこともない生物のようにも見えた。炎は低く唸りながら、じりじりと3人ににじりよってくる――
「かわいそうに、眩しいのだね」
 リトルの声は、みさとに向けられたものだった。
「我々は光がない場所をきみに与えることが出来る。お爺さんやお父さんはきみを待っているよ――ミサト君」
 ローマ時代の彫像が、壁画が、火山灰によって殺され埋葬された数々の遺品が、禍々しい光とともに爆発して――炎を吐いた。煉瓦造りの部屋は、たちまち蒸し室のように暑くなった。
「みさと」
 一樹は咳き込みながら声を絞り出す。
「どっちに救いを求めるんだ……?」
 うずくまるみさとは、激しくかぶりを振るだけで答えなかった。

 生ける炎は、ゆらめき、形を変えながら、音も立てずに3人を包囲した。煉瓦造りの部屋に窓は見出せなかった。炎は酸素を食らい、煉瓦を焦がし、空間を煮だたせる。
 一樹は顔をしかめ、いちど激しく咳をした。硫黄が放つものよりも不快な悪臭に、気が遠くなりそうだった。炎に目などなかったが――ひとつの塊が、一樹と確かに『目』があった。炎は咆哮を上げて跳躍した。
 一樹が振りかぶり、炎の攻撃を受け流した備前長船長光は――
 赤く色づいたと思いきや、どろりと溶け落ちてしまった。
「冗談はよせ、1500万だぞ」
 一樹が思わず悪態をついたとき、彼が斬りつけた炎が身を翻して、再び襲いかかってきた。
 ここは一樹が愛してやまない日本ではない。
 あの地をたゆたう霊の御息吹を使う一樹に、最早炎を防ぐ手だてはなかった。

 ステラの闇色の瞳がひらめき、
 闇の中で赤い双眸がひらめく。

 手鞠が跳ねる音と、下駄が煉瓦造りの床を歩く音は、一樹に届いていた。
 手鞠が跳ねるたびに、炎に穴が穿たれた。下駄が鈴を鳴らすたびに、炎が溶ける。
「ステラ、穴を穿て! 一樹、女子に降り積む光を妨げい!」
 部屋の片隅の暗黒で上がった幼い声に、一樹は返事をしなかった。彼は素早くみさとに覆い被さった。
 ステラも返事もせずに煉瓦造りの天井を一瞥した。煉瓦の天井がフと消え失せ、たちまち空気と光が飛び込んできた。
 生ける炎たちはゆらめきながら、闇色と緋色の視線から逃れようと、翼のような翅のような形を取りながら、次々になくなった天井から空へと飛び立っていった。外からは、建物の一角が爆発を起こしたようにでも見えていることだろう。
「奴らを逃がしたのか!」
 イタリアの夕陽は一樹をかっと照りつけていた。もし一樹が動かずにいたら、うずくまっていたみさとが夕陽を浴びていた。
「主の元へ戻りました」
 ステラが答え、部屋の入口に目をやった。
 フロンサック・リトルの姿はどこにもなかった。
「つまらぬものを相手にしてしもうた」
 夕陽も届かない部屋の隅で、手鞠をつきながら少女が呟く。手鞠に刺繍されているのは、地獄絵図だった。鬼と焔と死が、鞠に縫いつけられていた。
「あの『炎』でも、お前には物足りなかったか」
 一樹は苦笑したが、手鞠の少女は首を振った。
「我が指したは、あの男ぞ。滅ぼそうにも魂を持っておらぬ。まるで『器』じゃ。『リチャード・レイ』を見ているようだった。まったく、つまらぬわ」
「ああ、あのおっさんか……。ステラ、あいつが『キングダム』の総裁なんだな」
「ええ。フロンサック・リトル様」
 一樹は改めて室内を見回した。
 広大な部屋に集められていたすべての出土品が、粉々に砕けていた。溶けて、また凝固し、結晶になっているものもあった。紀元前の遺物はすべて失われてしまったのである。
「『生ける炎』は……眠っていたんだな。奴らは従者だ」
「2000年前にも、かれはここに来たのね。――クトゥグァ、貴方がいるべき場所はフォーマルハウトではないの?」
 恐ろしい縦揺れが、一瞬だけ起きた。ひどい地鳴りも聞こえた。
「……まさか!」
 一樹は悲鳴にも似た大声を上げて、赤く染まる南東の空を見つめた。
 手鞠をつく音、からんころんという鈴の音が、消える。
「大丈夫」
 ステラが目を細めて囁いた。
「かれが以前の仕返しをするつもりのようだから」


 ヴェスヴィオが吐いた火山灰と溶岩流は、1800年の眠りから覚めたポンペイやエルコラーノを、再び飲みこんだ。ナポリは震災に見舞われた。だがそのときの風向きと、局地的に発生した低気圧のおかげで、溶岩流や火山灰の多くは地中海に流れ込んだ。イタリアという国も、ヨーロッパも、地球も、変わらずそこに在り続けた。人々はヴェスヴィオの噴火に驚愕し、神に祈りを捧げることが出来た。
 炎の神は、ヴェスヴィオを狂わせるだけの時間しかこの星に留まってはいられなかった。眠りから覚めた途端に傷つけられた従者を集め、大人しく己が在るべき監獄へと戻ったのである。戻らざるを得なかったのだ。
 笛の音が鈴の音とともに、長く尾を引いて消えていく。


「あいつらはうまくやったかな。博物館に行った連中も……ヴェスヴィオに行った班も」
 一樹はみさとに陰を提供してやりながら、もくもくと曇る南東の空と、刀身がすっかり溶け落ちた長光を交互に見た。どちらも肩を落とすには充分な有り様だった。
「充分に頑張ったようですよ」
 ステラの口元がひどくかすかに綻んだ。一樹やみさとには、それが笑みだとはわからなかった。
 彼女は、何故だかとても、今の気持ちがいとおしく感じられていた。ずっとさしていた蝙蝠傘を、くるりと上機嫌に回してみせもしたのである。


■そしてローマの1日は、明日も成る■

 ヴェスヴィオ噴火と古都ナポリ震災のニュースは未だに日本の各メディアを騒がせている。ことが起きてからはすでに1週間が過ぎていたが、イタリアに赴いた調査員たちの記憶に穿たれた爪痕は、生々しいままだった。
 サー・ジュリアス・シーマから武神一樹、御母衣今朝美、夏比古雪之丞、ステラ・ミラ、影山軍司郎にエアメールが届いたのはその頃だ。
 内容は非常に紳士的な謝辞が(今のご時世にご丁寧にも肉筆で)長々と綴られたもので、「これからもA.C.S.が名誉会員パ=ドゥを介して厄介な話を持ちこむかもしれないがそのときは見捨てずにどうかよろしく」「ついでに勝手ながらA.C.S.のデータベースに『会員候補』『協力者』として登録しておきました」といったものだった。
 追伸は、「傘は差し上げます」――その一言だった。
 ただし勿論全文は英文であり、『櫻月堂』では武神一樹が、森の中のアトリエでは御母衣今朝美が、タクシーの中では影山軍司郎が、書面を睨んだまま黙りこんでいた。
 地蔵のように動かない一樹の手の中にある手紙を、赤い着物の少女が、やはり黙りこくったまま見つめていたのだった。
 書いた文字には、シーマの不可思議な力は宿らないらしかった。

 今日の日本は、からりと晴れている。




<了>


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   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)
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【0173/武神・一樹/男/30/骨董屋『櫻月堂』店長】
【1057/ステラ・ミラ/女/999/古本屋の店主】
【1662/御母衣・今朝美/男/999/本業:画家 副業:化粧師】
【1686/夏比古・雪之丞/男/627/白狐asアクセサリーデザイナー】
【1943/九耀・魅咲/女/999/小学生(ミサキ神)】
【1996/影山・軍司郎/男/113/タクシー運転手】

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               ライター通信
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 モロクっちです。お待たせしました! 10月期クトゥルフ大イベント『フォーマルハウト・アルファ』をお届けします。しかし……こちらは平均年齢が高いですね……(笑)
 とんでもない分量になってしまったので、分割してあります。
 書くにあたってポンペイやナポリについて色々調べました。もともとイタリアはモロクっちが一番行ってみたい国でもあります。しかし今回は博物館をが壊れたり重要文化財が被害に遭ったりして観光なんか出来る状態ではなくなってしまった(と思われる)ので、PCさんたちはまっすぐ帰国していただいてます……。
 今回で、レイ(の中の人)がA.C.S.メンバーであることが判明しました。それと、総裁から手紙が届いた方は、A.C.S.の準会員と思っていただいて結構です。A.C.S.との連絡がちょっと楽になってます。総裁には日本語が通じるのでご安心下さい(笑)。

 今回も楽しく書かせていただきました。
 皆様にとっても楽しいノベルであれば幸いです。
 それでは、また!