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<東京怪談ウェブゲーム 草間興信所>


フォーマルハウト・アルファ


■序■

 ポンペイを1日にして滅ぼし、すべてを石と変えたあの山が目覚めた。
 ヴェスヴィオ火山が60年ぶりに活発な活動を始めたというニュースは、ヨーロッパを震撼させ、世界の東の果てにある日本にも届いていた。
 すでに地元住民は避難を終えている。あとは――噴火を待つばかりという、絶望的な状況だ。それほど、観測隊が弾き出した噴火の可能性は高かったのである。噴火を待っている者など、誰もいないだろう。それが一般的な考えであり、至極もっともな言い分である。
 だがこの世界の陰で爪と牙を研ぐ、異形の神の下僕たちに、その常識は通用しなかった。
 かれらは、ヴェスヴィオの噴火を心待ちにしていたのだ。

  フングルイ ムグルウナフ
  クトゥグァ フォウマルハウト
  ンガア・グア ナフルタグン
  イア! クトゥグァ!

 リチャード・レイが再生してみせたそのテープは、ヴェスヴィオのふもとの村で録音されたものだという。硫黄の臭いがたちこめる夜になると、きまってこの呪文じみた絶叫が、風に乗って運ばれてきたのだと――
「今回はまだ、一般の方々に被害は及んでいません。住民は避難済みですからね」
 レイの表情は、言っていることとは打って変わって、陰鬱だった。
「ですが、A.C.S.の報告によると……この祈祷は今も続いているそうです。儀式を執り行っている人々は、あの『キングダム』のメンバーだったそうです。もしこの祈りが、天より向こうの世界へ届いたとしたら……」
 きっと、隣町に避難したくらいでは生き延びられないほどの災厄が起きる。
 祈祷がヴェスヴィオを呼び起こしたか、ヴェスヴィオの目覚めに乗じての行動かどうかは、まだはっきりわからないと――リチャード・レイはいう。
「A.C.S.は協力を要請しています。何でも、この度の調査でメンバーを数名失ったとか。欠員は一刻も早く埋めたいようなことも言っていましたね。……祈りを神に届けさせては、こまるのです。何とかしなければ。降臨して奇蹟を起こして下さるような神ではありませんからね」
 彼はそれから目を細め、溜息をつくと、ほぞを固めたかのように続けたのだった。
「わたしからもお願いします。A.C.S.の一員として……」


■旅の仲間■

「ふむ」
「何が『ふむ』だ、愚か者が! 目的地はイギリスではなかったのか」
 御母衣今朝美が日本語以外に操ることの出来る言語は精霊語くらいのものだったが、航空機を降りた先が英語圏ではないことは何となく察しがついた。尤も、今朝美と同行した彼の友人夏比古雪之丞は、自分たちが乗りこんだ便がヒースロー空港行きではないことにはだいぶ前から気がついていた。彼もまた今朝美のように長く生きているが、今朝美よりも現代社会に精通していたのだ。そしていま、(忙しかったからとはいえ)井の中の蛙に搭乗手続きを任せた自分に嫌と言うほど腹を立てている。
 雪之丞が見る限り、自分たちが今いるのはナポリ国際空港であった。
「……いや、愚か者は私も然りだな。おまえに任せた自分は、きっと頭がどうかしていたのだ」
「すみません。空港の窓口の近くに居る幸福の木が言った通りにやったはずなのですが」
「木に聞かず人に聞け!」
「謝っているではありませんか……」
 空港ロビーの大型テレビは、ヴェスヴィオの動向を伝えていた。


 東京はからりと晴れ上がっていたが、リチャード・レイたちの心は陰鬱なほどに重く湿っていた。東京の人間たちは、地球の裏側の火山がどうなろうと、多くの場合知ったことではない。それは無理もないことだ。それをいちいち責める気にはならない。地球で起きているあらゆる災厄をすべて気に留めていたら、胃に穴が開くか、小心者だと嘲笑われるが落ちである――
 リチャード・レイの元に集まった調査員は、9名だった。そのうちの4人――武神一樹、ステラ・ミラ、御母衣今朝美、夏比古雪之丞が、レイとともにイギリスへ向かう路を選んだのだった。御母衣今朝美と夏比古雪之丞はすでに日本を発っており、ステラは一樹がイギリスへ持ちこもうとしていた銘刀を預かって、姿を消していた。あの不可思議な女性は、いつもレイが居る応接間を出た次の瞬間には消えていたのである。ステラは一樹が珍しく武器を携えてきた理由を、一樹が沈黙していたにも関わらず知っているようだった。
「おまえは来るなと言ってもついて来るんだろうな」
 一樹は、黒いレインコートの少女に苦笑を送った。
 じっと黙ってレイと一樹を見上げているのは、先月からこの応接間の『仲間』になった――蔵木みさとだ。
 少女は一樹の言葉に、真顔で頷いたのだった。
「イギリスは雨だそうですよ。イタリアは――何でも、雹が降っているとか……」
 白王社ビルを出て、からりとした日本晴れを見上げ、レイがぽつりと呟いた。
 ひどく暗い声だった。
 3人は体よくビル前で停まっていた黒いタクシーに乗りこみ、一路成田空港へと急いだ。……タクシーのアンドンの形に気がつかなかったレイは、またしてもうっかりしていたのだろうか。


「4名様で?」
 黒ずくめの運転手が、乗りこんだ『3人』にそう声をかけてきた。
「え?」
 助手席のレイが灰の眉をひそめて、わざわざ人数を確認した。
「3名ですが」
 その言葉に運転手が振り向いて、自らも人数の確認をした。帽子をひどく目深にかぶった運転手で、陰気な印象を持っていた。陰の奥の瞳に射抜かれて、みさとが硬直した。一樹は黙って、ダッシュボード上のネームプレートに目をやる――

『ありがとうございます 本日も安全運転です
 運転手は    影山 軍司郎    です』

「失敬した。気配はともかく、見えるのは3名だ。……成田までだな」
 運転手が、そのとき笑ったように見えたのは錯覚か。影山軍司郎はぴくりとも笑っていなかったはずなのに。
「安心しろ。看板に偽りはない。安全運転だ」
「そういう問題か? おまえは一体何なんだ」
 一樹は露骨に顔をしかめて、そう吐き捨てた。軍司郎はにこりともせずに前に向き直ると、アクセルを踏みこんだ。
「警告をもたらす者、禁忌の門を守る者――まあ、リチャード・レイ、貴君と同じような『人間』だ。禁忌には触れざるが最良の策だと、愚か者どもに説教をして回るのが勤めだな」
「味方と考えてもいいか?」
「どちらの立場に着くか、今はまだ決めかねている」
 軍司郎は一樹の思惑などどちらでもいいような素振りであった。今の状況では、誰が味方で誰が敵なのかがはっきりしないのは、最も厄介な因子である。
「……欧州は管轄外だが」
「来るのか?」
「それも決めかねているところだな。韓国語と北京語と日本語しかわからんのだ」
「『しか』? 俺は日本語しかわからんぞ。『しか』はこういうときに使う言葉だ」
「ふむ、……随分と嫌われたな」
 黒ずくめのタクシーはしかし、安全運転ながらもちゃんと急いでくれた。50分後には、レイたち3人は軍司郎に律儀に金を払っていた。
「リチャード」
「はい?」
 軍司郎は降りようとするレイを呼びとめて、おもむろに手を伸ばし、レイのネクタイを掴んだ。
「何をす……」
「英吉利紳士たるもの、身だしなみには気をつけることだ」
 冷静な顔をしているが、レイは意外とうっかり者だ。しかし特にこの日は忙しかったために、誰もレイのネクタイが少し曲がっていることを指摘しなかったのである。軍司郎の手が、曲がったネクタイを直した。
「……心得た。忠告痛み入る」
 レイの目は紫色に輝き、むっつりとした渋面になって、唸り声のような感謝の言葉を呟いた。軍司郎はそれでも、愛想笑いひとつしなかったのである。


「君は往かぬのか」
 影山タクシーは、まだ空港前のタクシー乗降所に停まったままだ。軍司郎がバックミラーを見上げて、後部座席に声をかけた。
 ころん、と鈴の音が車中に満ちた。
 後部座席には、紅い振袖の少女が乗っていた。足を遊ばせて、下駄についた鈴を鳴らしている。
「あの眼鏡の男は見て見ぬふりをしていたな。レインコートの少女は居づらそうにしていた。リチャードも時折振り返っていたな。姿は見えずとも、気配が強すぎるのだ」
「昂ぶるのじゃ」
 ころん、
「悪しき魂を前にするとな」
「それは私か?」
「はは。御主とリチャードはすでに滅びておる故、我が導くまでもない。あの雨合羽の女子も然り。我を昂ぶらせるは、目覚めゆく天の『炎』、其れを奉る者どもぞ」
 ころん……
 軍司郎は、そのときようやく振り返った。
 紅い振袖の少女の姿など、どこにもない。
 九耀魅咲と云う名を、彼が知る由もないのだ。

「何だかちょっとあのタクシー、乗り心地悪かったです」
 みさとの顔色が悪いのは、何も影山タクシーだけが原因ではないのだ。しかし、ロビーでぽつりと漏らしたその愚痴に、一樹は思わず笑ってしまった。乗り心地が悪かった原因を、一樹は知っているのだ。運転手が陰気だっただけではなく――みさとと一樹の間に、振袖の少女がひとり座っていたからだろう。
 だが一樹は、黙っておいた。
 ――俺も人が悪いかな? だが、「見えないやつがいた」なんて言ったら、みさとは怖がるかもしれないか。
 幽霊とはわけがちがう、九耀魅咲があそこに居たのだ。


■灰かぶりの町■

 一時、イタリアは季節外れの雹に見舞われて大変な騒ぎになった。ヴェスヴィオ火山噴火の可能性が発表されたあとに、この異常気象――敬虔なカトリック信者たちが、神の怒りだと畏れおののいている。安ぶしんな建物の古いガラス窓ならば、割れてしまうほどの大粒の雹だった。
 今朝美と雪之丞は、雹を運んできた雲に不穏な『気』を感じながら、空港を出てナポリ国立考古学博物館に向かった。怪我の功名とでも言うべきか、ふたりはヴェスヴィオに滅ぼされたポンペイに関する情報に、一番近いところに居たのだった。
 ナポリに来ているというのに、今朝美の出で立ちは和装であった。顔立ちはこちらの人種のものに似通っているが、……浮いている。それに、きょろきょろと興味深そうに古都の街並みを見ているので始末が悪かった。とりあえずイタリアをはじめとしたヨーロッパ諸国には何度も来ている雪之丞なので、クロムハーツの特注レザーパンツのポケットに両手を突っ込み、むっつりと前だけを見て歩いている。レイバンのサングラスの奥から混乱する人々を見つめる狐目は、いささか冷ややかだ。
「しかし、長いこと生きてきましたか、日本を出たのは初めてですよ」
「おまえは日本と大陸が繋がっていた頃にもあの地に篭もっていたのか?」
「……そこまで年寄りではありません。何百万年前の話をなさっているのですか」
「おう、気を悪くしたか。これで貸し借りは無くなったな」
 微妙な喧嘩を繰り返しながらも、ふたりの風変わりな男は博物館に入った。雹の勢いはまだ激しく、ばらばらという銃声のような音があたりに響き渡っていた。今朝美は雪之丞の傍を離れることが出来なかった。こんな天気の下を歩くわけにはいかないが、今朝美は言葉がわからず、タクシーを呼ぶことすらままならないのだ。傘を探して買うことも出来ない。頼りは精霊だけである。彼らの言葉だけは万国共通だが、今朝美はすでに航空機の搭乗手続きを精霊に尋ねた時点で一度失敗していたので、今しばらくは精霊を信用する気にならなくなってしまっていた。
「今更訊くが、ポンペイが何であるのか知っているか?」
「いいえ、まったく」
「だろうと思った。……とりあえず、私が目をつけたものに宿る精霊を呼び出してくれるか。細かい説明はあとだ」
 最早呆れるのは意味がないことに、雪之丞は気がついているようだった。
 博物館の中でも、今朝美は雪之丞を頼るより他はなかった。雪之丞がすんなりとチケット売場を見つけたり、ポンペイ関連の展示物は2階にあることをすぐに突き止めたりする様には、ただただ感心するしかなかった。
 館内にはほとんど他に客がいなかった。雹とヴェスヴィオの動向を見守るのに忙しいのだろう。
 しかし博物館の2階に上がったふたりは、驚愕のあまりしばしの間硬直した。ふたりとも冷静なたちであったが、さすがに驚かされた。
 2階には陳列物がほとんどなかったのである。荒らされた痕跡はなかった。まるで始めからここには何もなかったかのようだ――ガラスケースや壁に掲げられた解説文はそのままに、出土品が消えていた。
「『赤い壁画』を、お前に見せてやりたかった。あの色は、きっとお前の心を打ったぞ。ヒトの創り出すものも、2000年以上その色彩を失わないこともあるのだと――」
 雪之丞は、目を伏せながら呟いた。その言葉が独白じみた呟きだったのは、少し照れ臭くもあったからだった。人間たちが生み出したものを素晴らしいと思うことはなかなかない機会だったし、今朝美がきょとんとして自分の言葉を聞いていたのだ。
「少し調べてくる。ここで待っていろ。気になることが……」
 その台詞を言い終わらぬうちに、雪之丞はすでに足早に歩き出していた。
 取り残された今朝美は、子供のように素直にそこに立ち尽くしていたが――ふと、壁に寄り添うようにして佇んでいる観葉植物に気がついた。イミテーションではないことにすぐに気づき、今朝美は袖に手を入れて、真新しい筆を取り出した――。

 雪之丞はがらんどうにも等しい博物館の2階をざっと歩き回った。
 ポンペイの出土品だけではなく、エルコラーノの出土品も消えている。無くなっているものは、ヴェスヴィオの火山灰の下になったことがあるものだけのようだった。だけ、とは言っても、それがこの考古学博物館の主な展示物であるわけで――すっかり情景が寂しくなっているわけだが。
「しかし……何故だ。学芸員が気づいていないとは……」
 博物館の人間だけではない。まばらな観光客たちも、出土品が消えていることに何の疑問も感じていないようだった。
 不意に聞き慣れない大声が上がって、雪之丞は振り向いた。2階展示室の入口に置いてきた今朝美が、何かと向かい合っているのが見えた。

『<パルタス>! <パルタス>! <パルタス>!』
 今朝美が水彩紙に描き、呼び出したのは、若いオーガスタの精霊だった。
 精霊は現れるなり、狂ったように叫び出す。
『<ウンブラ>! <ウンブラ>! <ウンブラ>!』
「どうした! 精霊は何と言っているのだ」
 駆けつけてきた雪之丞に、今朝美は困り顔を向けた。
 パルタス、ウンブラが何を示すのか――今朝美にはわからなかった。若い精霊は絶叫し続け、今朝美が命じるよりも先に消え失せた。
「錯乱しているようです。精霊ですらも恐れる何かがここに……」
「<パルタス>と<ウンブラ>だな」
 脳裏に刻みつけるために、雪之丞は反芻した。
 そして、携帯電話を取り出した。
 日本を発つ前にメモリーに入れたばかりの連絡先にダイヤルする――リチャード・レイは、出てくれた。
『……ナツヒコさんですか! 今、どちらに?』
 運良く、航空機を降りたばかりであるようだった。ナポリに到着したらしい。
「考古学博物館だ。来てもつまらんぞ。……尋ねたいことがある」
『何でしょうか』
「<パルタス>と<ウンブラ>という単語が意味することは何だ?」
 息を呑むような沈黙。
 電話口の向こうが沈黙してくれたおかげで、外がどんな騒ぎになっているかを把握できた。
『――すぐにそちらに向かいます』
 天井から恐るべき翼が生えたのは、雪之丞が一方的に切られた電話に睨みをきかせているときだった。
 博物館の入口付近で、ひどい音がした。今朝美が何事かと窓から下を覗いていたが、さすがの彼も振り向いた。
 翼は今や完全に天井から抜け落ち、巨大な猛禽の姿をさらけ出していた。


■羽根を斬る刃■

<さても――さても>
 泡立つ翼を持った禿鷹が、白い男たちを見て嘲笑った。
<我が幻を、幻と見定めるか。この星にも、骨の有る者が居たものぞ。結構、結構>
「……貴方は……」
<自ら名乗る霊は居まいて>
 問う今朝美に、禿鷹は嘲笑を返した。
 禿鷹の姿は、ひとときたりとも留まろうとはしなかった。泡立ち、波打ち、うねり続け、歪んでいた。脚は2本であり、3本であり、100本であり、また1本であった。つまりは、禿鷹のように見えるだけで、この地球上のどの生物の姿でもなかったのである。
 雪之丞はちろりと薄い唇を舐めながら、禿鷹のどこともつかぬ眼を睨み続けた。隙あらば八つ裂きにしようと機を伺っていた。今朝美もまた然り。この禿鷹が自分たちどころか、世界に害なすものであるということは――その『気』が教えてくれる。

 ひゅう、と風が吹いたようだった。

「<パルタス>だ」
 不意に、雪之丞と今朝美が知らない声が上がった。そして、それは日本語であった。
「ベスビオ山の噴火警報が発令されたぞ。諸君は退避せんのか」
 風もないのにはためく黒装束は、軍服であった。言葉には苦笑が含まれていたが、血色の失せたその顔は無表情のまま凍りついていた。
「<パルタス>、見事な幻術だ。尤も、それだけが貴様の能なのだが」
<ほほう、己は>
 禿鷹は名をあばかれてもなお嗤うのだ。
 今朝美と雪之丞は――この黒い軍服の男が、少なくとも敵ではないことを信じようとしていた。これ以上敵が増えるのは面倒だ。禿鷹だけでも未知の相手なのだから。
「……この星に向かっているあの焔が……私もろとも、全てを焼き尽くしてくれるのなら……私は貴様を見逃したのだがな。主の元に帰ってもらおう」
 男は、ぬうと古い軍刀を抜いた。
 そこでようやく、男は視線を今朝美と雪之丞に向けたのだった。
「影山軍司郎だ。訳あってこの禿鷹を持ち主に返品したい。援護を要請する」
「いいだろう、『手伝え』」
「いいですね、面白そうです」
<痴れ者めが!>
 禿鷹はようやく嗤うのをやめ、羽ばたいた。
<≪ウンブラ≫! 手を貸せ! うぬら、門の彼方へ叩きこんでくれるわ!>
 耳障りな声に応じて、石造りの博物館が揺れた。巨大な手が天井を引き剥がし、3人の日本人がいる2階を、赤く染まった空の下にさらけ出した。先ほどまで雹が降っていた空は、今や上せるほどに熱く、うねる赤と紫を帯びて喘いでいた。今朝美は一瞬、その空の色に心を奪われた。恐怖心はなかったが、歓喜もなかった。この色が不吉で、禍々しいものであると感じていたからだった。
 空に大きく影を落とす、巨人がいた。
 巨人が鉤爪のついた手を振り回した。雪之丞の姿は瞬時にして、熊よりも大きな狐へと変じた。白銀の妖狐は、空を見ていた友人を救った。巨人の爪は、1秒前まで今朝美が立っていた箇所の床を抉り取った。
「いたた、嫌な音がしましたよ」
『阿呆めが、ぼんやり空を見る奴があるかッ!』
「ぼんやりとは、失礼です」
 今朝美はむっと眉を寄せて、いつの間にやら色が乗っていた筆を雪之丞の鼻面につきつけた。
「先に謝っておきましょう」
『何をするつもりだ』
「絵を描くのです」
 今朝美の筆が、有無を言わさず、雪之丞の美しい毛並みをキャンバスにした。

 雪之丞の毛皮から、狂える空の精が飛び出した。
 ナポリの空は、迫り来る恐怖と邪気を浴びて、気がふれてしまっていた。今朝美は描き終えると同時に、身体を伏せた。
 空の精は、目についた禿鷹と巨人に、咆哮を上げながら食らいついた。

「よくやってくれた、両名とも」
 カ、と軍司郎の軍刀が床から離れた。
 古い石の床に刻まれているのは、左手と眼の印。
「カルドゥレク、」
 空に咬みつかれていた巨人と禿鷹が、息を呑んだ。
「ダルマレイ、」
 ひょん、と軍刀の切っ先がふたつの霊を指した。
「カダト!」

 世にもおぞましい断末魔が、ナポリを駆け抜けた。
 しかし同時に起きた凄まじい縦揺れの地震は、その悲鳴がもたらしたものではない。風が空へと飲みこまれていき、どこか遠くで重い門が閉まる音がした。
 ナポリ国立考古学博物館は崩壊したが、天井がすでに取り払われていたおかげか、2階にいた数名の男たちは軽傷ですんだ。
 雪之丞はヒトの姿に戻ると、厄介な邪霊を退けられたことに喜ぶ暇もなく、南東の空を見上げて歯噛みした。
 あの空の下には、同志がいるはずなのだ。
 もくもくと煙る赤黒い空の下、ヴェスヴィオのふもとには!

「大丈夫だ。少なくとも、ニッポンから来てくれた友人たちは」
 その若い声が紡ぐのは、スコットランド訛りの英語であったが――
「あの辺りには今頃大雨が降っているから」
 言葉の意味を、軍司郎と今朝美はなぜか理解できたのだった。


 ヴェスヴィオが吐いた火山灰と溶岩流は、1800年の眠りから覚めたポンペイやエルコラーノを、再び飲みこんだ。ナポリは震災に見舞われた。だがそのときの風向きと、局地的に発生した低気圧のおかげで、溶岩流や火山灰の多くは地中海に流れ込んだ。イタリアという国も、ヨーロッパも、地球も、変わらずそこに在り続けた。人々はヴェスヴィオの噴火に驚愕し、神に祈りを捧げることが出来た。
 炎の神は、ヴェスヴィオを狂わせるだけの時間しかこの星に留まってはいられなかった。眠りから覚めた途端に傷つけられた従者を集め、大人しく己が在るべき監獄へと戻ったのである。戻らざるを得なかったのだ。
 笛の音が鈴の音とともに、長く尾を引いて消えていく。


「<パルタス>が、この博物館に幻術をかけたのでしょう。一般人には、いつもと変わらない展示物を見せていたのです。<ウンブラ>は、ものを一瞬にして移動させる力を持っています。ここにあったものの行方は、彼らを召喚した者が知っているでしょうね。比較的簡単に召喚できる霊なのですよ」
 どこかうんざりした顔でレイは言った。なぜ、あの霊に会ってもいないのに、彼がこんなにも露骨な嫌悪感を示すのか――傍らの小柄な紳士が、それとなく示唆してくれた。
「パ=ド=ドゥ=ララ君という我が組織の名誉会員は、彼らの同族に呪われていてね。この場に居たら、きっと不機嫌になっているだろうなあ」
 そうして、崩壊した古都の中で――御母衣今朝美、夏比古雪之丞は、サー・ジュリアス・シーマという不可思議な紳士と出会ったのである。
 影山軍司郎は、レイのネクタイの柄を誉めてから、何処ともなく立ち去っていった。軍刀をどうイタリアに持ち込んだのか、そもそもヨーロッパ圏の言葉がわからないというのにどうやってここまで辿りつけたのか、一切の真実を語らぬままだった。
 だが、彼がレイのネクタイを誉めたとき、そのネクタイが――蛇のようにひとりでに動いて、シシシシと愉快げに笑い、また単なるネクタイに戻ったのを――その場に居た全員が見た。
 煤けたレイが言葉を失っていたところを見ると、彼はネクタイが笑い出すとは露にも思っていなかったようだ。
 変わった術を使う軍人だと、今朝美と雪之丞は頷きあった。
 ふと、今朝美が視線を落とした。
 シーマ卿という男は、小柄なイギリス人だった。彼はにこにこ微笑みながら、新品の蝙蝠傘を差し出していた。
「必要なくなったようだけど、必要になるかもしれない。私は雨男なんだ。とびきりのね」
 彼は濃いグレーの髪と、金眼を持った白人だった。声は若いが、その様相ではこの男が青年なのか中年なのか判別しかねる――そんな、不可思議な男だった。
 そして雪之丞と今朝美が見たその金眼は、蛇か黒猫のように、縦に裂けた瞳孔を持っていたのである。
 しとしとと、雨が降り始めた。
 傘が四つ、瓦礫の中で咲いた。


■そしてローマの1日は、明日も成る■

 ヴェスヴィオ噴火と古都ナポリ震災のニュースは未だに日本の各メディアを騒がせている。ことが起きてからはすでに1週間が過ぎていたが、イタリアに赴いた調査員たちの記憶に穿たれた爪痕は、生々しいままだった。
 サー・ジュリアス・シーマから武神一樹、御母衣今朝美、夏比古雪之丞、ステラ・ミラ、影山軍司郎にエアメールが届いたのはその頃だ。
 内容は非常に紳士的な謝辞が(今のご時世にご丁寧にも肉筆で)長々と綴られたもので、「これからもA.C.S.が名誉会員パ=ドゥを介して厄介な話を持ちこむかもしれないがそのときは見捨てずにどうかよろしく」「ついでに勝手ながらA.C.S.のデータベースに『会員候補』『協力者』として登録しておきました」といったものだった。
 追伸は、「傘は差し上げます」――その一言だった。
 ただし勿論全文は英文であり、『櫻月堂』では武神一樹が、森の中のアトリエでは御母衣今朝美が、タクシーの中では影山軍司郎が、書面を睨んだまま黙りこんでいた。
 地蔵のように動かない一樹の手の中にある手紙を、赤い着物の少女が、やはり黙りこくったまま見つめていたのだった。
 書いた文字には、シーマの不可思議な力は宿らないらしかった。

 今日の日本は、からりと晴れている。




<了>

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   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)
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【0173/武神・一樹/男/30/骨董屋『櫻月堂』店長】
【1057/ステラ・ミラ/女/999/古本屋の店主】
【1662/御母衣・今朝美/男/999/本業:画家 副業:化粧師】
【1686/夏比古・雪之丞/男/627/白狐asアクセサリーデザイナー】
【1943/九耀・魅咲/女/999/小学生(ミサキ神)】
【1996/影山・軍司郎/男/113/タクシー運転手】

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               ライター通信
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 モロクっちです。お待たせしました! 10月期クトゥルフ大イベント『フォーマルハウト・アルファ』をお届けします。しかし……こちらは平均年齢が高いですね……(笑)
 とんでもない分量になってしまったので、分割してあります。
 書くにあたってポンペイやナポリについて色々調べました。もともとイタリアはモロクっちが一番行ってみたい国でもあります。しかし今回は博物館をが壊れたり重要文化財が被害に遭ったりして観光なんか出来る状態ではなくなってしまった(と思われる)ので、PCさんたちはまっすぐ帰国していただいてます……。
 今回で、レイ(の中の人)がA.C.S.メンバーであることが判明しました。それと、総裁から手紙が届いた方は、A.C.S.の準会員と思っていただいて結構です。A.C.S.との連絡がちょっと楽になってます。総裁には日本語が通じるのでご安心下さい(笑)。

 今回も楽しく書かせていただきました。
 皆様にとっても楽しいノベルであれば幸いです。
 それでは、また!