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<東京怪談ウェブゲーム アトラス編集部>


フォーマルハウト・ブラボー


■序■

 ポンペイを1日にして滅ぼし、すべてを石と変えたあの山が目覚めた。
 ヴェスヴィオ火山が60年ぶりに活発な活動を始めたというニュースは、ヨーロッパを震撼させ、世界の東の果てにある日本にも届いていた。
 すでに地元住民は避難を終えている。あとは――噴火を待つばかりという、絶望的な状況だ。それほど、観測隊が弾き出した噴火の可能性は高かったのである。噴火を待っている者など、誰もいないだろう。それが一般的な考えであり、至極もっともな言い分である。
 だがこの世界の陰で爪と牙を研ぐ、異形の神の下僕たちに、その常識は通用しなかった。
 かれらは、ヴェスヴィオの噴火を心待ちにしていたのだ。

  フングルイ ムグルウナフ
  クトゥグァ フォウマルハウト
  ンガア・グア ナフルタグン
  イア! クトゥグァ!

 リチャード・レイが再生してみせたそのテープは、ヴェスヴィオのふもとの村で録音されたものだという。硫黄の臭いがたちこめる夜になると、きまってこの呪文じみた絶叫が、風に乗って運ばれてきたのだと――
「今回はまだ、一般の方々に被害は及んでいません。住民は避難済みですからね」
 リチャードの表情は、言っていることとは打って変わって、陰鬱だった。
「ですが、A.C.S.の報告によると……この祈祷は今も続いているそうです。儀式を執り行っている人々は、あの『キングダム』のメンバーだったそうです。もしこの祈りが、天より向こうの世界へ届いたとしたら……」
 きっと、隣町に避難したくらいでは生き延びられないほどの災厄が起きる。
 祈祷がヴェスヴィオを呼び起こしたか、ヴェスヴィオの目覚めに乗じての行動かどうかは、まだはっきりわからないと――リチャードはいう。
「A.C.S.は協力を要請しています。何でも、この度の調査でメンバーを数名失ったとか。欠員は一刻も早く埋めたいようなことも言っていましたね。……祈りを神に届けさせては、こまるのです。何とかしなければ。降臨して奇蹟を起こして下さるような神ではありませんからね」
 彼はそれから目を細め、溜息をつくと、ほぞを固めたかのように続けたのだった。
「わたしからもお願いします。A.C.S.の一員として……」


■現代地球での『旅の仲間』■

 東京はからりと晴れ上がっていたが、リチャード・レイたちの心は陰鬱なほどに重く湿っていた。東京の人間たちは、地球の裏側の火山がどうなろうと、多くの場合知ったことではない。それは無理もないことだ。それをいちいち責める気にはならない。地球で起きているあらゆる災厄をすべて気に留めていたら、胃に穴が開くか、小心者だと嘲笑われるが落ちである――
 リチャード・レイの元に集まった調査員は、9名だった。そのうちの5名――九尾桐伯、武田一馬、賈花霞と蒼月支倉の兄妹、海原みたまが、厳戒体制極まるヴェスヴィオ火山の麓に向かうこととなった。地元の警察や軍がすでに災害対策本部を設置しているために、本来ならば周辺に近づくことはすでに適わないのだが――みたまとレイ、それぞれの後ろについている力が何かをどうにかしたようで、5名+α程度がポンペイ入りすることは可能になっていた。その根回しについて桐伯は驚き呆れたし、兄妹は無邪気に喜び、一馬も密かに喜んだ。謎の組織の力が味方についているということは、面白くもあり、呆れることでもある。
 レイは二・三気にかけることがあったようだったが、5人にナポリ国際空港行きのチケットを手渡すと、イギリスへ発っていった。レイが気にかけていたのは、あの星間信人が姿を見せなかったことと、イタリアで一行を待っているはずのA.C.S.メンバーと連絡がつかなくなってしまったことだった。
 そして、イタリアでは季節外れの雹が降り始めていたことだった。


 チケットと時間が無駄になってしまったが、5人はとりあえず日本を発っていた。
 5人が乗っているのは、物騒な迷彩ペイントの施された高速輸送機だ。桐伯は驚き呆れ、兄妹は無邪気に喜び、一馬も密かに喜びながら、少し座り心地の悪い座席に腰を下ろしていた。輸送機を用意したのはみたまだった。季節外れの雹が意味することを、みたまは察したのである――他の4人も、同様に、薄々と。
「来るなと言ってる国に無理矢理突っ込むのは危ないからね」
 みたまはからりと笑いながら、操縦席についていた。
「空からが駄目なら、海から行こう。少し時間はかかるけど、噴火までには間に合うさ」
「我々は噴火を見に行くわけでは……」
「運転中は運転手に話しかけないようにね」
 尤もな意見を述べた桐伯に、みたまはにっこりと笑いかけた。運転手は、誤魔化しようのないよそ見をしていた。
 何を言っても無駄であると見た桐伯は、それ以上何も言わずに座席に座り直した。桐伯の隣席では、一馬がしかめっ面で古い洋書を読んでいた。桐伯は何気なくそのページを覗きこみ、一馬がフライト中の暇潰しに読書しているわけではないことを知った。
「お勉強ですか、武田さん。ダーレスですね」
「予習もしたんスよ。何か回りくどくて改行少なくて読みづらいですね、この人たちの話」
 一馬は、大きく溜息をついた。
「今回の相手の名前も……これ……ク、クス……クスグア……?」
「クトゥグァと、ファンや研究家は発音しているようですがね」
「発音? こんな綴り、発音できないスよ」
 一馬は再び溜息をついた。
 彼が広げているのは、オーガスト・ダーレスの『闇に棲みつくもの』だった。花霞が後ろの座席から身を乗り出して、話題の本を覗きこんでいたのだが――彼女は無言で顔をしかめた。中華生まれで長いこと眠っていた花霞にとっては、CthughaもDarkも同じくらいの謎であった。むうと頬を膨らませる花霞の服の裾を、隣席の支倉が引っ張った。
「花、席立っちゃ危ないよ」
「平気だよぅ。みたまさんのうんてん、上手だもん」
「運転じゃなくて操縦。……どうしたのさ、今日は朝から落ち着かないね」
「えへへー、わかる? 花霞、意大利はじめてなんだー。ぽんぺいって世界い産でしょ? ちょっと楽しみなの」
「……僕ら、観光に行くんじゃないんだよ……」
 困ったような言いにくそうな支倉の諌言に、前の座席の一馬までもが肩をすくめた。実は一馬は、ラヴクラフトやダーレスやブロックの著書とともに、『イタリア観光ガイド:1 ローマ』と、『イタリア観光ガイド:3 ナポリ』の2冊を携えてきていたのである。すべてが丸く収まって、「実は持ってきたんスよー!」とバッグの底から引っ張り出すその瞬間を、彼は望んでいた。
「わかってるよ。花霞、こどもじゃないもん」
 しかし、――花霞も、一馬同様にわかっているのだ。
「花霞たちががんばらなくちゃ、なくなっちゃうんでしょ? パパさんが写真見せてくれたけど、意大利、とってもきれいだったよ。花霞、きれいな意大利見たいの。ミハラ村みたいになってほしくないもん」
 その言葉を最後にして、機内はしばらく、陰鬱な沈黙に包まれた。
 桐伯の赤い瞳は憂いを帯びて、無愛想な窓の外に広がる雲海を眺めている。
 ひとり、みたまが悲しく微笑んでいた。
 彼女は、娘のひとりが搭乗者の全員と知り合いだということを聞いていた。おっとりとした天然系の娘であるから、敵と味方の区別もつかないままに付き合っているのではないかと危惧していたが――取り越し苦労であったようだ。
 少なくとも、今この機内にいるものたちは、素晴らしい仲間であるようだった。


■赤い山麓■

 地中海が見え始めた頃になって、一馬があっと声を上げた。操縦席のみたままでもが振り返る大声だった。
「そう言えばレイさん、現地でA.C.S.の人が待ってるって……」
「ああ、そう言えば」
「レイさんに電話したら?」
「フライト中の携帯電話は勘弁してね。もう少しで不時着するから」
「……不時着?」
 みたまがさらりと言った言葉に、機内の4人が硬直した。
「地中海の島に空港なんてないでしょ?」
 またしても、さらりとした声が返ってきた。
 どっかん。


 ……みたまのバックにある組織が何かをどうにかしたらしく、輸送機が不時着した島には真新しいクルーザーが停泊していた。不時着というよりは墜落と言ったほうがよかったのだが、怪我人は出なかった。
 地中海は晴れていたが、東の空はいやな黒さの雲に覆われていた。東の空の下にはイタリアがある。雹はまだ振っているらしい。
「空港に車を預けてあるのです」
 乱れた髪をまとめ直しながら、桐伯が言った。
「A.C.S.の方も待っているようですし、私は空港に行ってみます。ポンペイから空港までは40分ほどの距離ですから」
「あ、オレもそっち行きます。A.C.S.の人と話したいんで。……って、九尾さん、どうしてイタリアに車あるんスか?」
「それは秘密です」
 桐伯の涼しげな笑みに、一馬はなぜか、聞いてはいけないことを聞いたような恐怖感を抱いてしまったのだった。
 地中海は、陽気に晴れ渡っている。水平線を這う異国の漁船や、海面を時折跳ねる見たこともない魚に、支倉と花霞は束の間目を輝かせていた。ふたりは、東の空を見ないようにしていた。
 しかしナポリに近づくにつれて、甲板では雹が跳ねるようになってきた。
 海の上だというのに、風はひどく乾いていて、腐臭にも似た恐るべき悪臭を運んでくる。その風の気配を感じたとき、桐伯は眉をひそめた。
「……来ているのですね」
 呟いた桐伯に、またしても操縦手を勤めているみたまが反応した。
「誰が?」
「厄介な方が」
 答えのようで答えではなかったが――みたまには、それで充分伝わっていた。


 雹がやんでいた。
 みたま、花霞、支倉が辿りついた先は、まるで死に絶えたかのように静まりかえった観光地だった。黙って立っていると、地面がほとんど絶えず揺れていることに気づく。ポンペイ遺跡の近くには景気の良さそうな村があったが、人っ子一人居なかった。古いドアが開け放たれたままの家まであった。犬や猫、下手をするとゴキブリ1匹でさえも避難してしまったのかもしれない。
「へんな呪文が聞こえてきてたのって、ここだっけ」
 支倉は眉をひそめて、耳をそばだてた。
 乾いた周囲の荒野を吹き荒ぶ風の声が聞こえた。
 今にも噴き上がりそうな大地の怒りの声も聞いた。
 花霞が首を傾げて朗報を待っている。
「A.C.S.って組織のメンバーが消えたのも、この村だったようだね」
 M4やらM92Fやら物騒なものの具合を確かめながら、みたまが言った。
「音を辿るのもいいけど、この状況なら気配を辿って行ったほうが確実よ」
「あ、そっか。ふつうの人はみんなもうにげてるんだよね」
「残ってるのは、噴火が怖くない人たちだけだ」
 支倉と花霞は頷きあった。
 今度は、花霞が神経を研ぎ澄ませる番だった。

「なんだろう」

 花霞は、身体を強張らせた。

「この感じ」

 彼女はしろいほそい二の腕の撫でた。
 今の時期のイタリアは暑いというから、薄着だった。

「そこら中から、花霞たちを見てるの」

 そこは、ポンペイの遺跡の一部を利用した住居が建ち並んでいた。
 住民たちはここに住む代わりに、遺跡の状態を維持する役目を担っていた。観光客が残していくゴミを拾ったり、酸性雨で傷んだ石を修復したり、また火山灰の下に埋めたりしていた。2000年前のモザイク画や石畳は、彼ら村人の力も借りて、今に語り継がれる姿を遺していたのである。
 花霞が、息を呑んで振り返った。
「……こっち! だれかいる!」


 そこが2000年前には酒場だったことを、3人は知らない。
 ともかく、その石造りの建物には地下があった。ワインを貯蔵するための石室は、しかし、ぴっちりとつめたく閉ざされていた。
「おい」
 3人が階段を駆け下りたとき、中で張り詰めた声が上がった。
「お前たちが黒い指と爪を持ってるやつらじゃないなら、助けてくれ」
 その声は少なくとも命乞いをしているようなものではなかったが――
 とりあえず、困ってはいるようだ。


■山麓の戦■

 フランス訛りの英語を話す男だった。
 彼は、ケイオー・ピトフと名乗った。黒髪碧眼の壮年で、黒ずくめの服は埃や血や泥で汚れており、3人が石室を開けた直後はがんじがらめに縛られていたのだった。彼の話によれば、3日前に『キングダム』なる組織に捕らえられ、この石室に放り込まれてしまったらしい。
「あの、ひょっとしてリチャード・レイさんって知ってます?」
「仲間だな」
 支倉の問いに、ケイオーは無愛想に答えた。
「レイは調査段階で何人か死んだって言ってたよ」
「俺はきっとそのうちのひとりだ」
「れんらくがつかなくなったら、すぐ死ぼうあつかいなんだね」
「イギリス人は基本的にいい加減でな」
 ケイオーは皮肉屋であるらしい。それにしても、3日飲まず食わずだったわりには元気だ。
 華のない会話をしてから、ようやく花霞は不思議に思った。
 ケイオーが話しているのはフランス訛りの英語だというのに、花霞にも支倉にも、ケイオーが言っていることが『理解できた』のだ――。
「眼鏡をかけた優男に会わなかったか」
「残念ながらね」
 みたまが肩をすくめると、ケイオーは溜息をついて立ち上がった。その溜息はひどく沈痛で、聞いた3人の胸が痛むほどに重いものだった。溜息とケイオーの質問とみたまの答えが導き出す答えは、『死』だ。
「やつらが儀式の間に使おうとしてる場所は見当がついてる。急ごう。そろそろフォーマルハウトがいい位置につくからな」
 とても三日間転がされていた身の上とは思えない足取りで、ケイオーは石段を駆け上がっていった。
 そして今や、支倉でも感じるほどに、『そこら中からの視線』の力は強くなってきていた。


 ケイオーについて走った3人の目の前に広がったのは、ポンペイ遺跡の「フォロ」と呼ばれている場所だった。ヴェスヴィオを望める広場だ。枯れた芝が広がり、茫漠とした寒々しさを醸し出していた。
 そして今や、空は赤と紫に染まっていたのである。昼間のはずだというのに星が見えた。その星々は、一行が見上げる余裕はなかったが、動き始めていた。不動のはずの星が、ゆったりと旋回を始めている。
 しかも、耳をそばだてずとも聞こえるのだ。

  フングルイ ムグルウナフ
  クトゥグァ フォウマルハウト
  ンガア・グア ナフルタグン
  イア! クトゥグァ!

 広場の中央で奇妙な祭壇を作り、そこで祈りを捧げている者たちの手は、人間のものではなかった。鉤爪を備え、黒ずんでいて、皺だらけであった。
 ケイオーの身体から、ぱちぱちと紫色の火花が散り始めた。
「星が動き出している。手伝ってくれるか? あの祈りを止めたい」
「もちろん!」
「そのために来たんだもん!」
「こんなところ、娘たちに見せられないねえ」
 がチん、ヂャカッ、
 みたまが苦笑しながらM4を構え、
 引鉄を引いた。

 支倉と花霞は、相手が人間であるならば、手加減が必要だと思っていた。
 だが今目の前で広がっている光景は何だ。
 みたまとケイオーの頭に情けという言葉はないらしい。
 血飛沫と稲妻で、たちまちフォロは惨渦の只中に落ちた。ケイオーが発する稲妻が何ボルトなのか何万ボルトなのか定かではないが、紫の稲妻に貫かれた者は、たちまち消し炭になった。みたまが撃ち放つ弾丸は、銃声よりも先に命中し、頭を粉々に吹き飛ばす。みたまは笑ってはいなかったが、その整った顔は整ったままで、それが逆に修羅のような恐ろしさを醸し出していた。彼女にとっては、相手が『キングダム』という組織の人間であり、すべての外なる神を信仰していて、いままさに外宇宙の『火』を呼ぼうとしていることなどは、些細な情報に過ぎなかった。情報は結果をもたらさないのだ。みたまは空になったマガジンを捨てて、腰のベルトから新たなマガジンを引き剥がすと、慣れた手つきで装填した。この場で彼女に結果をもたらすのは、パラベラム弾だった。
 フォロに飛び込むのは別の意味で危険だった。花霞と支倉は冷静に判断し、無数の視線に注意を向けた。殺戮は、大人に任せておくことにした。
「僕らの相手……」
「ふたりで、ぜんぶやっつけられるかなぁ……」
 ふたりが唇を噛み締めたとき、
 遺跡が震え、
 壁画が、石畳が、柱が、彫像が、爆発した。
 眩く禍々しい炎が踊り出た。それらは恐るべきエネルギーであり、ほとんど無数に近い頭数だった。ポンペイそのものに宿っていたと言っても過言ではない。未だに火山灰に埋もれている箇所からも、意思と感情持つ炎たちは、ときの声を上げて飛び出した。
「なに? ちょっと!」
 みたまが顔をしかめた。
「次はなに? 私は今、機嫌悪いよ!」
 みたまが壊れたM4を捨ててイングラムに持ち替えたときには、妖狐と風が炎を薙ぎ払っていた。
 妖狐の毛皮すらぢりりと焦がす炎の皮膚は、妖狐の牙を受けても変化するだけで滅びなかった。狐火はきっと逆効果だ。支倉は顎に力を込めたが、自分の口の中が逆に焼け爛れるだけのような気がして、
「哥々、さがって!」
 飛び退いた。
 髪と風が支倉の頭上を薙いだ。
 飛びかかってきていた炎は真っ二つに断たれたが、地面に落ちたふたつの炎の固まりは、枯れた芝を糧にしてそれぞれが燃え上がった。
 嘲笑うかのように、ふたつの炎が立ち上がった。
 今や祈りを上げているのは、死んだ黒い手の男たちではなく、炎たちだった。

 星は赤い空に溶けていた。
 詠唱と祈りが唸りに溶けている。
 大地が揺るごうとしていた。
 眠っていた従者たちが、爆発とともに目を覚ます。
 炎の揺らぐ音が祈りに力を与えた。
 来るのだ。
 火が来る。
 フォーマルハウトから地球へと。
 もはや旧き印は旧きものでしかない――


「そんなのいや、ぜったいやだよ!」
 溶けた星が火口に吸い込まれていくのを見て、花霞が声を上げた。
 鋼鉄製の身体も、溶けてしまいそうだ。
「賈花霞をとかせても、『花霞』はしなないよ! 火なんかに、何ができるの?!」
 花霞の髪の一筋一筋が、炎をばらばらに切り刻んだ。
 その炎が、枯れた芝に着く前に――
 支倉が、はあッと息をついた。芝は狐火によって焼き尽くされた。残ったのは、イタリアの赤い土だけだ。土に落ちた炎の欠片は、しばらく生贄をもとめてもがいていたが、やがて力を失って、燃え殻も残さずに消えていった。
 同胞が滅ぼされた様を見て、無数の炎たちが息を呑んだように見えた。
『火は何でもできるものなんだ。だから火は、自分を持っちゃいけないはずだ』
 支倉が、軽く火傷した口中を舐めながら呟いた。
『火が考えたり動いたりして、たまるもんか――』
 ヴェスヴィオが咆哮した。


 ヴェスヴィオが吐いた火山灰と溶岩流は、1800年の眠りから覚めたポンペイやエルコラーノを、再び飲みこんだ。ナポリは震災に見舞われた。だがそのときの風向きと、局地的に発生した低気圧のおかげで、溶岩流や火山灰の多くは地中海に流れ込んだ。イタリアという国も、ヨーロッパも、地球も、変わらずそこに在り続けた。人々はヴェスヴィオの噴火に驚愕し、神に祈りを捧げることが出来た。


 だが、恐ろしい縦揺れと轟音、蠢く太陽そのものが姿を見せたとき――赤い空に黒インクが落ちたのだ。ぶわりと広がった黒い染みの中心で、赤く輝く三つの目が開き、笛の音がもたらされた。

 炎の神は、ヴェスヴィオを狂わせるだけの時間しかこの星に留まってはいられなかった。眠りから覚めた途端に傷つけられた従者を集め、大人しく己が在るべき監獄へと戻ったのである。戻らざるを得なかったのだ。
 ――監獄の外で派手に戦をしてみろ、やつらがたちまち居場所を嗅ぎつけ、再び自分を戒めにやってくる――まこと、忌々しい混沌、忌々しい絶対善めが。


 飛んできた火の粉にみたまが首をすくめようとしたとき、飼葉桶をひっくり返したかのような大雨が降ってきた。火の粉が飛んできても悲鳴を上げなかったみたまが、「ひゃ」と小さく声を上げるほどの勢いがあった。体重が軽い花霞はバランスを崩して倒れた。支倉の抗議の声はものの見事にかき消された。
 大雨はフォロ周辺だけに降ってきていた。究極の局地降雨だった。一行が頭をかばいながらよろよろと逃げ出しても、雨は追ってきた。ヴェスヴィオの火を消そうともせず、一行を飛び散る火の粉から護るようにしてついてくるのである。
 ともあれ、不可思議なその雨のおかげで、一行は燃え盛る火山弾やら火の粉やらに燃やされずにすんだ。
「乱暴だな、総裁」
 ケイオーが投げやりに呟いた。
 花霞はポンペイを出るとき、『視線』を感じた。
 支倉も気がついたらしい。
 ヴェスヴィオから飛んできた火山弾のひとつが、地面に衝突すると同時に踊った。
 そして五肢を生やし、悪意を持った視線を、向けてきたのである。
 不意に雨がその炎の上に降り注いだ。
 炎は、悲鳴を上げて走り去っていった。


■そしてローマの1日は、明日も成る■

 ヴェスヴィオ噴火と古都ナポリ震災のニュースは未だに日本の各メディアを騒がせている。ことが起きてからはすでに1週間が過ぎていたが、イタリアに赴いた調査員たちの記憶に穿たれた爪痕は、生々しいままだった。
 サー・ジュリアス・シーマなる人物から、海原みたま、九尾桐伯、武田一馬、蒼月支倉と賈花霞の兄妹にエアメールが届いたのはその頃だ。
 内容は非常に紳士的な謝辞が(今のご時世にご丁寧にも肉筆で)長々と綴られたもので、「これからもA.C.S.が名誉会員パ=ドゥを介して厄介な話を持ちこむかもしれないがそのときは見捨てずにどうかよろしく」「ついでに勝手ながらA.C.S.のデータベースに『会員候補』『協力者』として登録しておきました」といったものだった。
 追伸は、「風邪を引かれていたら謝ります」――その一言だった。
 はたして、5人は疲れと雨のために、風邪を引いて熱を出したり咳こんでいたりしているところであった。
 いや、6人か。
 星間信人も、くしゃみをしているところだ。

 今日の日本は、からりと晴れている。




<了>


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   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)
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【0332/九尾・桐伯/男/27/バーテンダー】
【0377/星間・信人/男/32/私立第三須賀杜爾区大学の図書館司書】
【1559/武田・一馬/男/20/大学生】
【1651/賈・花霞/女/600/小学生】
【1653/蒼月・支倉/男/15/高校生兼プロバスケットボール選手】
【1685/海原・みたま/女/22/奥さん 兼 主婦 兼 傭兵】

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               ライター通信
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 モロクっちです。お待たせしました! 10月期クトゥルフ大イベント『フォーマルハウト・ブラボー』をお届けします。
 とんでもない分量になってしまったので、分割してあります。結果、NPCがふたり登場することになりましたが……A.C.S.メンバー、驚くべき頼りなさです(笑)。
 書くにあたってポンペイやナポリについて色々調べました。もともとイタリアはモロクっちが一番行ってみたい国でもあります。しかし今回は観光なんか出来る状態ではなくなってしまった(と思われる)ので、PCさんたちはまっすぐ帰国していただいてます……。風邪引いてますしね(笑)。何故突然雨が降ってくれたのか、手紙をよこしてきたシーマ卿とは誰なのか、合わせて『アルファ』を読んでいただければおわかりになるかと思います。
 シーマから手紙が届いた方は、A.C.S.の準会員と思っていただいて結構です。A.C.S.との連絡がちょっと楽になってます。総裁、ボックス、ケイオーには日本語が通じるのでご安心下さい(笑)。

 今回も楽しく書かせていただきました。
 皆様にとっても楽しいノベルであれば幸いです。
 それでは、また!