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後編C/孤独の居場所〜縛鎖
反射的に動こうとした真咲を遮るように、汐耶は自分の前方に、ただ、手を伸ばした。
表情は、厳しい。
真咲はそれを見て、動くのを止める。彼女の為したそのモーションは、彼女自身の持つ『封印能力』の発動。そう察し、真咲は、ふ、を視線を移動した。黒服ふたり。長髪の方がスツールから腰を浮かす。体格の良い方が続くよう視線を汐耶に。紫藤は更にその後に――遅れて状況を把握した。
そこに至る前に、ぼそりと真咲が告げている。
「綾和泉さんを護って下さい」
――警戒して下さい。そこに居る邪妖精を。その召喚主の存在を。
低い声。
厳しく音域を選んで発されたような。
それは一番通りの良い音――IO2捜査官の耳にとっては受け取り易い音域で。
反射的に黒服ふたりは動いていた。
IO2では。
外部への感覚にそれぞれ、適した伝達手段が用意されている。
視界が奪われたなら聴覚を使用し。
聴覚が奪われたなら視覚を使用し。
どちらもが奪われたなら特定の刺激で。
触覚を。
嗅覚を。
勘の良い同士であるなら当然の如くに阿吽の遣り取りを望まれ。
僅かなりと異能力を持つ者ならば――それなりの感覚を使い。
情報伝達を行う。
ある程度は機材に頼らずとも行えるよう、訓練させられる。
――常識を遥かに超えた連中が相手なのだから。
そのままで使える能力は、片っ端から使えるようにしておく。
特に、何の異能も持たぬ者――捜査官の大方の場合は。
潰しが利くように。
普通の話し言葉で、暗号で、信号で、合図で。
互いだけに通じる、様々な方法を。
…その中で。
今真咲が発した『声』の音域は――正にその『聴覚』に真っ直ぐ飛び込んで来るもので。
ざわめく音の中であってさえも、『彼ら』にとっては聞き取り易い声。
それを発したのが曲りなりとも元・統括代行である真咲である事実、そして汐耶の行動、邪妖精の動きから素早く判断し、黒服ふたりも真咲同様の結論に達した。――狙われているのは汐耶。故に素直にその言に従い、動く方が先になる。
何も答えなくとも。
汐耶の伸ばされた手のその先の。
邪妖精の群れが凍り付いたように動かなくなる。
それを確認したかしないかの内に、汐耶の側に黒服ふたりが移動した。すぐ脇。汐耶を背に庇い、警戒するように周囲を窺う体格の良い方、汐耶の行動を援護するよう、先程とはやや違った形の拳銃のような代物を邪妖精の群れに向けている茶の長髪の方。
汐耶の表情はまだ固い。
周囲の空間ごと閉じ、邪妖精の『封印』は為されたと言うのに。
「真咲さん」
汐耶は前方――邪妖精たちの居るその封じられた空間――から視線を外さないまま、口を開く。
「…命に代えても私たちを守ろうなんて、思ってないでしょうね」
「そのくらいの覚悟で、この場所を守るつもりではありますが」
汐耶の言葉を否定せず、真咲は紫藤へ視線を移動する。
「俺を受け入れてくれた皆さんに恩返しをする必要はありますからね。ここを守るのは――俺の務めです」
言いながら、ただ、じっと。
紫藤を。
そして。
「『解いて』、下さい」
「――」
はっきりと言ってのけた真咲のその科白に、紫藤は黙り込む。
それは絶句にも近い反応で。
何故なら。
『もう二度と解除する気は無い。だからこそ貴方に頼むんだ――』と。
過去に告げたその唇で。
全く逆の事を、紡いでいたから。
「お願いします」
重ねて請う真咲の科白に、紫藤は黙ってその瞳を見返す。
その色は――何処からどう見ても、本気で。
今の状況では、まだ、不安が残る。
邪妖精の群れ、それ即ち虚無の境界の行動に通じる。…この残虐性の強く、扱い難い妖精を好んで使役するのはそこの召喚師くらいのものだ。
今はただそこに居るだけと言えども、何も無く済むとは到底思えない。
汐耶の封印能力。確かに持っている『力』は強い。それは間違い無くとも――その力を特定の制御方法に則って使わない限り、最大限まで有効利用できない場合は多々ある。そしてその『力』が戦いに向くかどうかと問われれば、そうとも限らない事もある。
そして汐耶のこの場合、明らかに戦闘向きではない。
…それに、今、邪妖精の群れを封じる事が出来ている割には――表情が固い。何か不安材料でもあるような、そんな表情に真咲には思えた。
今この場に居るのは――強い封印能力を持つ汐耶、そしてある程度水を操る事が出来、暗示能力に長けている――が、この暗示能力に関してはポリシーと言うより能力自体を忌避していて滅多に使わない――紫藤に、IO2所属とは言え一般クラスでしかない、大した特殊能力は持たない捜査官ふたり――それと自分、だけ。
だから。
昔、紫藤に『暗示を掛けて』――『縛って』もらった『心』の一部を。
結局、最後には『破壊する』しか能の無い、俺の持つこの唯一の『力』。
これは――武器になる。
…目的の為に使えるものは何でも使え。
大原則。
普通の人間である以上、基礎値が明らかに低いのだから。
持ち得る力は最大限活用せよ。
叩き込まれた。
IO2の捜査官として。
…それは、『発火能力』なんて普通の力ではないが。
俺の場合はたまたま――持っていた。
…何もなければ『解除』する気はなかった。否、過去形じゃない。今に至っても同じ。したくもない――だが、『手段』があるのに手をこまねいてただ見ている訳にも行かない。この場は――俺の守る場所。こんな自分を受け入れて、救ってくれた人たちの居る、場所。
…自分のエゴと大切な人たちの安全を天秤に掛けるなら――傾く方向は決まっている。否、そもそも天秤に掛けられるようなものじゃない。
「…マスター」
静かに。
それでいて有無を言わせぬ声。
紫藤は諦めたように押し殺した声で嘆息した。
一方。
汐耶は険しい顔のまま、持っていたバックから一冊のハードカバーの本を取り出した。
封印した邪妖精の群れから殆ど目を離さないまま、おもむろにページを捲る。…焦る理由。それは直に触れているなり適した媒体を使うなりしなければ封印の強度には不安が残るから。この邪妖精の群れ、今この瞬間は呪縛出来ていても…少ししたならどうなるかわからない。だからこそ次の一手を。
治癒の力、浄化の力、破邪の力――時折視線を本に落とし、探す。何処のページだったか。適した力は――邪妖精と言うからには破邪の力か。兄の持つ強過ぎる能力を『封じ』たこの本。以前、ふたりして面白がりながら試しに作ったものだから効果の程はわからない。だが――無いよりまし。それに、兄の能力はとにかく強い事だけは確か。
だから。
使えるかもしれない。
そう思ったのだ。
真咲が何かを始める前にケリを付けたい。
命に変えてもと問うて――否定しなかったあの人に手を出させたくない。
だから。
早く。
…もどかしげに汐耶は破邪の力、を封じたページを探す。
捲る。
指先で。
次々と。
ぱらぱらぱら。
――あった。
見つけるなり汐耶は開いたそのページを邪妖精の群れに向け、破邪の力を封じた――その封印を解いた。
刹那。
視力を奪うような凄まじい光が、破裂するよう溢れ出た。
きゃ、と短い悲鳴が上がる。高い声――それらは邪妖精のものと思しき。
ぱしゅ、ぱしゅ、と空気でも抜けるような音が連続する。
やがて光が薄らいで来ると、ぱらぱらぱら、とページがはためき。
本は勝手に、ばたん、と閉じた。
封じてあった破邪の力を出すだけ出し切ったのか。
封じられていた力を放出した反動と、勝手に閉じた勢いに押されて、汐耶の身体が僅かよろめく。
思わずぼやいた。
「…まだ改良の余地ありかしら」
「気を付けて下さい。援護します」
いつの間に来たのか真咲の声がすぐ後ろで響く。
…何処か、纏う気配さえ違って見えるその姿が――背後に滑り込んで汐耶を支えていた。
気のせいか、瞳の色も赤みが強くなっているような気がする。
「真咲さん?」
訝しげに響いてしまった声。
…今までとは何となく様子が違う真咲を見て。
「詮索は後に。貴方のお兄さんの力も確かに――相当に強力なようですが…方向性がいまいち定まっていないようですね、その『本』の場合」
焦点が定まらない。
だから最大限の効果が期待できない。
邪妖精の粗方は『本』に封じられていた破邪の力で消し去れたが、まだちらほら残っている。
と、更に数匹が長髪の黒服の持つ霊撃銃で灼かれた。
が、まだ足りない。
一同は周囲を窺う。
…今、邪妖精の群れがここに居た。
と、なれば。
召喚主は何処に居る?
窺う間にもひらひらと羽ばたく蛾の羽が。
――汐耶の為した封印は既に解けている。
ふよふよと漂い、消されなかった邪妖精はバラバラに動き始めた。
得意とする幻覚を使ったか、分身のような物を続々と作り出し。元の数に近く、見えるだけは見える。
そして――絶望を感じるような幻覚を、そこに居る人間、それぞれに向けて見せようと。
精神的なダメージを狙い。
…複数の邪妖精で協力しなくても、ある程度はそれができる、と。
「く…ぁっ!」
叫び、唐突に、がくり、と崩れ落ちる体格の良い方の黒服。
真咲は、ち、と舌打ちした。
…彼に関してこうなるのには心当たりがある。
弱点としてのトラウマが存在する。
幻覚でそこを突かれたなら。
「ち…何処だァッ!!!」
盲滅法撃つ訳に行かず、長髪の黒服は焦ったように銃口を巡らせる。
いつの間にか邪妖精の幻覚が効いている。そうなれば誰が誰とも付かない。自分以外は信用ならない。
否、自分自身も信用ならない。
敵と信じて撃った先が――敵ではない可能性すら考えられる。
不用意に動けない。
と。
「…動くな――任せろ」
低い声。
統括代行。
その声に長髪の黒服は俄かに落ち着きを取り戻す。
先程の『聴覚』に真っ直ぐ滑り込んで来る声。
統括代行であった『白梟』に幻覚の類は――余程でなければ、効かない。そう知っていたから。
空気が動く気配。真咲が片腕を振り上げるモーションを。そして次には。
細い矢のような紅蓮の炎が。
ひゅ、ひゅん、と数ヶ所に向け飛んでいった。
幻覚を切り裂く。
…残っていた数匹の邪妖精の本体を。
「…ァ」
虚ろな声が体格の良い黒服の口から発される。
だがその目には力が戻っていた。
「…大丈夫か」
押し殺した声が響く。
真咲の。
「…代行」
「潰し、切れたか」
周囲を窺う。
幻覚を払われ、はっ、と我に帰った汐耶は思わず真咲の姿を探す。
そして。
カウンターの横。
影。
黒いリボンでそれぞれ飾られた、ツインテールの黒髪が見えた。
――そこには誰も居なかった。
そして今まで、そんな頭の、人間は――。
「真咲さんっ」
召喚主が、居た。
汐耶が叫ぶように呼んだ時には既に真咲が動いていた。
…但し、別の場所に。
召喚主に近い方、少し離れたボックス席にいつの間にか座っていた、文句の付けようがない程の美貌の男。そのすぐ後ろに。
「…まさか貴方のような方がテロリストの手先になっているとは思いませんでしたよ」
背後からその首を右手で掴み、空いた左手を右側斜め上に振り上げる形に――即座に発火可能な形で構えつつ真咲が言う。
「…こちらも驚いたね。まさかお前如きに後ろを取られるとは」
美貌の男は静かに静かに言い放つ。
何も動じていない。
「さすが春のお気に入りってところか。真咲御言サンよ」
「…やはり」
春――春梅紅と。
同じ――否、非常に近しい気配を持つ存在。
人外の。
…鬼家の仙人。
面識は無くとも存在自体の気配が――間違えようも無い。
「俺の名前は湖藍灰(ふーらんほい)。そこに居るリカと共に少々様子見にね」
遊びに来させてもらったよ。
しれっとして告げる。
全然危機感は無い。
それどころか。
平然と後ろを向いた。
真咲は躊躇い無く腕を振り下ろす。
手加減も何も無く。
灼き尽くそうと。
が。
何気無く差し出された湖藍灰の手に、真咲の腕が掴まれるのが先だった。
…火が生じていない。
「物騒だねえ。ま、虚無の境界に所属してる俺たちが言う筋合いじゃないか」
くっくっ、と喉を鳴らし笑いつつ、湖藍灰は椅子から立ち上がる。
掴んだ腕を簡単に捻り上げると、その耳元で囁いた。
「…邪魔すんなよ。お前程度にゃ俺はどうにもできねえんだからな」
言うだけ言って、あっさりと押し退けるよう突き飛ばす。
そして悠然と歩き出した。
自身がリカと呼んだ黒いツインテールの少女――リカテリーナ・エルのところまで。
「怖かったか?」
首を傾げ、優しく問う。
リカテリーナはふるふると頭を振った。
彼女の背には羽がある。
飾り物の。
皮肉にしか思えない『天使の羽』。
「怖くない。リカだって虚無の境界の邪妖精召喚師だもん」
誇らしげに言う。
だが、ただ…と自信無さげに科白を続けていた。
「今ここであの女殺しちゃわないとダメなんだよね、湖ちゃん…どうしよう」
邪妖精たちみんなやられちゃって少ししか居ない。
次を呼ぶにも…契約数がまだ少ないから、大した力にはならない。
だからこそ――撤退。その二文字が浮かぶが、連れである湖藍灰の能力を考えるとそれ以外でも何とかなりそうな気がする。リカテリーナはそう思う。
自分に目を掛けてくれているこの男、ただの呪物使いでは無い――そのくらいは疾うに察しが付いている。
そして今回のこれは――別に自分の能力を見る為のテストでは無く、作戦の一環だった筈。
ならば自分がダメであっても、この男の方が手を出して、差し支えは無い筈――。
リカテリーナはそこまで込めて、湖藍灰を見る。
と。
優しい微笑みがリカテリーナに向けられた。
細い身体を抱き寄せられる。
「リカはどうしたい?」
「仇…取って欲しいけど、あの男、気になる。今は止めた方が良い気もする」
恐る恐る湖藍灰を見上げつつ。
湖藍灰は安心させるよう、リカテリーナの頭をぽんぽんと叩いた。
リカテリーナが『止めた方が良い気がする』、そう思った理由は――実は湖藍灰の方に感じている。
男――真咲の力では無く、湖藍灰の方の、何かが引っ掛かって。
「だから、だから…」
リカテリーナは何とかわかってもらおうと言葉を探す。
と。
「合格」
あっさりと。
湖藍灰は。
「え?」
リカテリーナはきょとんとした顔で湖藍灰を見上げた。
「武器が無くなったら逃げなさい。勝ち目が無いと思ったら逃げなさい。自分の直感を信じると良い。確実に事を為せる時じゃなかったら適当にボヤ起こして退くのも作戦の内。取り返しの付かない失敗をするより余程マシ。戦力が減ったら哀しむ人がいるからねえ」
今の時点じゃ、まだ、ね。
リカを育ててくれた人たちとか、さ。
にっこり微笑み、湖藍灰はリカテリーナの両肩に、ぽん、と手を置く。
「じゃあ、行こっか」
「…帰るの?」
「そう。帰るの」
頷いてみせる。
と。
「…黙って逃がせると思いますか」
あっさりと湖藍灰に突き飛ばされていた真咲が立ち上がっている。
言葉通り逃がさないとでも言いたげに、ドアを遮る形で。すぐ後ろに。
「思うよ」
湖藍灰は真咲の科白に間、髪入れずさらりとした声を返した。
真咲は視線に険を込める。
「そちらのお嬢さん――綾和泉汐耶さんって言ったっけ? 狙った…ったって、結局はまともに行動に移せてないじゃない?」
実際行動起こす前に邪妖精は封印されちゃったし。
「…明らかな殺意はありましたが」
邪妖精には。
「そりゃ邪妖精の元々の性質だ。誰にだって殺意のひとつやふたつは向ける。…理由にゃならないね」
「ならばそれを召喚させたのは何故です」
「賑やかな方が良いじゃない?」
「良くありません」
「そ?」
悪気の欠片も無いように、湖藍灰は無邪気に言う。
「幻覚はどう説明しますか」
「先に邪妖精を潰されたのはこちらだよ? テロリストは自分を守ってもいけないのかなあ?」
のほほんと嘯く。
「…そちらのお嬢さんが…彼女を殺すと言ったのはお忘れですか」
リカテリーナから汐耶に視線を流しつつ、真咲。
「忘れたね」
臆面も無く言う湖藍灰。
「…貴方たちは――特にこの召喚主の少女は、店内で騒ぎを起こしました」
「それは俺らが出て行けば問題無い話だろ? 危ないお客さんはお帰り頂ければ――違うか?」
…口が減らない。
「俺は、後に不安の種を残すつもりはありません――」
「おーおー、怖い怖い」
に、と。
笑い、真咲の肩を軽く拳で叩く。
そして。
斜に構えるよう少し俯かせた顔から、真っ黒な視線を真咲に向けた。
それに――と意味ありげに続ける。
密やかに。
すれ違い様に、耳許で。
「――リカを殺せるのは俺だけだ。お前らにはやらせんよ」
ごく小さな声で、告げた。
伝えるべき相手にだけ、聞こえるような囁き声で。
真咲は思わず湖藍灰を見上げる。
見せ付けられたのは不思議な笑み。
すぐに消える。即座に身を翻す。
だが。
明らかに視界に残った。
…なんだ、今のは。
――リカを殺せるのは。
科白に反し、奇妙に優しさを感じた声と表情。
その一拍の隙を突き、湖藍灰もリカテリーナも店内から消えている。
真っ先に気付き後を追跡しようとした長髪の黒服が、彼等の消えたドアにがん、と張り付く。が、そこから外を見た時には既に、当然の如くふたりの姿は無い。後を追うにも気配も何も残っていない。
長髪の黒服は、ち、と舌打つ。
が。
真咲の様子が変だった。
そもそも今の立ち位置で何もせず黙って見逃す訳が無い。
本来なら。
「…代行?」
同様の疑問を感じたのか、体格の良い方の黒服が訝しげに真咲を見た。
真咲は何か考えを巡らせているように、止まっている。
やがて。
「…今この時この場所で――綾和泉さんを殺したら何なんだ?」
問う。
誰にとも無く――否、黒服ふたりに。
思えば彼らがここに来た事、そこからして偶然では有り得ない。
単純に、こんな訳ありげな黒尽くめの二人組が現れれば、警戒しない訳が無い。こんな水商売の店なら尚更。
幾ら何でもこの『黒服』と言う格好は…一般人の生活空間では――目立つ事この上ない。
それは彼ら自身もわかっている筈だ。
ならば何故それで動くか――それは敢えて一般人に『警戒させる為』と言う理由も僅かながら含まれている。
個性を消した兵隊の存在を。
尋常ならざる何かを潜ませた、正体不明の黒服の動きを。
知らしめる為。
何かが、あると。
「目的はわかりません。ただ…虚無の境界が、『霊的磁場の高い場所での異能者狩り』を初めている事だけは確かです」
ぽつりと、体格の良い方の黒服。
…霊的磁場の高い場所で、強力な異能者を殺したならば――その場の方向性は『負』に傾き、能力は器を無くし暴走する。オカルティックサイエンティストたちの計算の結果、それは明らかだそうだ。
そして虚無の境界はその…場の方向性の負への転換を必要とし、更にそれに伴い暴走するだろう力を使い、何かを企んでいるとの事。
「ここで、か」
「…はい」
この『東京』を狙って。
故に今、こちらのお嬢さんが狙われた。
体格の良い方の黒服は汐耶を見上げる。
「…顔を覚えられたと思われます。以後、身辺に気を付けて下さい」
「そんな事わかってるわよ。…でもそうじゃなくて」
ぶん、と頭を振る。
汐耶は焦燥に駆られ真咲を見た。
何か、違っている。
…発火能力を戻す為精神拘束を解いた故に変化した気配、と言う訳では無くて。
何処か色が変わって見える瞳のせいじゃなくて。
もっと芯の部分で何かが切り替わった――ように見えた。
邪妖精の召喚主と、共に居た得体の知れない男が消えてから。
その変化は汐耶にとって不安を煽る。
――まるで別人のように見えてしまい。
「真咲…さん」
恐る恐る、呼ぶ。
だが真咲は答えない。
ちらり、と汐耶に目を向け、じっと見つめるが――それまで。
すぐに目を逸らして何か考えるような素振りに。
…少しして。
「気になる事が、出来ました」
小さく、告げる。
そしてゆっくりと瞼を下ろした。
あの娘は。
俺と『同じ』かもしれない。
たまたま立場が真逆だっただけで。
俺が虚無の境界に拾われていたのなら。
あの娘がIO2に拾われていたのなら。
そう考えてしまえば彼女の為したその行動は――俺には何も否定出来ない。
…鬼家の末弟は。
春梅紅と共に人界に来た、と聞いた事がある。
一番近しい存在、と。
彼女、に直に聞いた事さえ、ある。
人界での立場は敵として紛れていても。
その本質は変わる訳は無く。
湖藍灰。
…貴方は、まさか。
黙り込む真咲。
ふと顔を上げた。
体格の良い方の黒服を見る。
何を言おうか考える前に口を開いていた。
「手は…足りているのか」
「え?」
黒服は突然振られ面食らう。
「俺はこの街で今まで…IO2の息が掛かった連中をそれ程は見ていない。『次がこの街』だと言う確信があるにしては――数が少な過ぎやしないか」
…それはIO2は表立って動く組織では無い。
捜査官をはじめそこのエージェント、となれば基本的に隠密行動を取るのもわかっている。
が。
他ならぬ真咲だ。
実際にそこらに『居る』のなら…気付かない訳が無い。
「…それは」
「他ならぬお前が…断定の形で『東京』と口に出している以上、まだ調査の段階だとは言わせない」
…標的がこの都市である事だけは確実なんだろう?
先回りした真咲の科白に、体格の良い方の黒服は押し黙る。
真っ直ぐ見据えて来る朱金の瞳に、今度は長髪の黒服の方が口を開いた。
「その通りだ。既に調査の段階ではない。現在…我々に確認出来るだけでも…各国に散らばっていた虚無の境界構成員が続々とこの東京に集まっている。裏に回れば霊的なテロ活動も活発だ。それも…小さなものから大きなものまで節操が無い。更には連中の歌う今回のテロの大義名分さえ現時点では見付からない。霊的な騒ぎを頻発させる事、それ自体が目的に見える行動を取っている。
ただ、唯一共通しているのは…今回のテロは、明らかに異能者、そして霊的な磁場が高い場所を標的にしていると言う事だ。それだけは間違いが無い。だから我々はここに来た。いつ標的になるかわからない場所として偵察にだ。そこに貴方が居た事こそが予想外のアクシデント。虚無の境界が今ならずとも…いずれこの場所を狙う事はわかっていた」
連中はこの『東京』と言う都市を使って大規模な何かを企んでいると思われる。
だがそれが何かはわからない。
その『大規模な何か』の方は…漠然としたものでしかないが。
不安だけが散々煽られているような現状だ。
虚無の境界が大挙して乗り出して来ている以上、まともな事を為すとは罷り間違っても思えない。
更には――今回のテロには、新たに造り出した兵器が投入されている、とも聞いている。
長髪の黒服は淡々と告げる。
「正直な話をしよう。…手は、足りない」
――民間の術者・異能者の手を借りるべきだと言う話まで出ている程だ。
きっぱりと。
「…か」
真咲は短く応じる。
不安そうな汐耶の瞳がそれを見る。
「真咲…さん?」
…何処か遠くを意識しているような、真咲のその態度。
「俺の『爪』はまだあるか?」
「…代、行…?」
低く言われた科白に、茫然と見上げる黒いグラスの奥のその目。
真咲はそちらを見もしない。
考えるよう、自らの手に視線を落とす。指先。そこが血に染まった過去。共に歩いた小型ブレード付きのナックルガード。IO2を抜ける時に――置いてきた。
幼い頃から――IO2に所属するより以前からずっと砥いで来た、生きる為のその武器を。
もう二度と求める事など無いと思っていたその『爪』を欲するなど。
真咲は、ぎり、と奥歯を噛み締めた。
「…黙って見ていられる訳が無いだろう」
黒服ふたりは――ここの霊的磁場は高い、確実に標的になる場所だと言った。
汐耶は明確に虚無の境界に狙われた――それは、今のふたりは撤退したと言っても。
更に考えるなら、彼女と出会った場所――最早、異能者の堪り場となっている、草間興信所は。
――真っ先に警戒すべき場所だろう。
…壊させる気は毛頭無い。
ならば俺には出来る事がある。
ここでひとりで出来ない事が。
IO2の組織力を考えるなら…敵対さない限りは動き易い事は確実。
今更戻れた義理ではないが。
『向こう』にしても俺の力はまだ利用価値がある筈。
はっきりした目的があるのなら。
利害が一致するのなら。
――あの組織は、『それ』が可能だ。
知っている自分がそこに居る。
手酷い裏切り、そうは言っても。
…明確に敵として牙を剥いた訳じゃない。
余地はまだある。
俺次第で余地は作り出せる。
ならば。
今更何を恥と思えと?
「…協力して下さると…共に来ると言うのですね」
静かに。
長髪の黒服が確認する。
「ある程度の…制裁は免れませんよ」
「だろうな」
当然だ。
首肯する。
――やはり鎖に繋がれていたか。
離れたつもりはひとときの事。
俺の居場所は。
――逃れられない。
逃れる事ができない。
自惚れでも何でも無く、厳然たる事実として――俺にはその『末端』に値する力はあるから。
知ってしまえば――逃げる事など。
望まない。
護るには。
――ここより適した場所がある。
それに。
ツクリモノの天使の翼を背負ったあの少女。
湖藍灰の意図が気になる。
…放っておけないと思うのは、勝手な言い分だろうか。
真咲は汐耶と紫藤に視線を流す。
何処か諦めたような、それでいて決意を秘めた強い瞳で。
微笑む。
そして、きっぱりと。
「戻ります――IO2に」
――俺は、この人たちを護りたい。
だから。
【了】
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