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<東京怪談ノベル(シングル)>


「チェック」

「……、」
 どうだ、とばかりに彼を見詰める来客の視線には勝ち誇った輝きが在る。
「……ナイトg8、f6」
 意外そうにその表情を崩し、向かいの麗人の言葉に従って駒を動かそうと手を伸ばした来客は目を見開いた。
「……ああ、降参です」
 キングを、彼の前に置く。
「適いませんな、あなたには」
「……、」
 昼過ぎから奪われっ放しの、黒のキングの向こうには白皙の美貌の青年が、安らかな眠りの中かと見紛う程に穏やかな微笑を浮かべて瞳を閉じていた。
 彼はその脆弱なまでに華奢な身体を、車椅子に預けている。彼の額から頬、首筋、肩に流れる白銀色のしなやかな長い髪は、深淵を流れる泉の水面のようだ。そして、彼が目蓋を開いたならば、そこには透徹した青い瞳が現れる筈だ。──その瞳は、光を殆ど通さない。そう、陽光の届かない、然し静謐な深い青色を湛えた深海の色、そのものだ。
「降参ですよ、──但し、ゲームの話だけですがね、カーニンガム総帥[commander]」
 挑戦的な客人の鋭い視線にも何ら恐れる事はなく、彼、──セレスティ・カーニンガムは軽く首を傾いで応えた。

 セレスティの統治するリンスター財閥はその本拠地をアイルランドに置くが、現在の所は総帥自らが東京に居る事もあり、主に日本での活動に重点が置かれている。
 そして、その日本は世界的にも最悪レベルの不況がここ数年間に渡って続いていた。
 世界の行く末を見渡す彼の君臨するリンスター財閥は、何らその煽りを受ける事は無い。が、その傘下に在る日本の企業はここ数年慌ただしい激変期を迎えていた。
 ──商事もその例に漏れず、多額の不良債権を負い、大幅な人事移動基い社員の首切りや何やらでようやく露命を繋いで来た、と云った体たらくである。元々、独立系企業がバブル期に力を得て肥大化したような商社だったもので今迄はどこの勢力下にも属していなかったのが、覚悟を極めたかリンスター財閥の傘下として事実上吸収されたのも生き残りを懸けた苦肉の策である。
 ──それと同時に、彼の商社はトップの不信任が可決され、最近後身をアメリカから迎えた。
 昨日の夜、一日の報告を終えた後にリンスター財閥総帥補佐とも云える青年がセレスティに告げた。
「──商事の社長ですが、一度総帥に面会したいと仰っています」
「吸収合併にあたっての基本方針は既に決定済みでは?」
「そうですが、……何でも、一度会議では無しにゆっくり総帥とお話がしたいとか」
 そう云って青年はセレスティの顔色を伺うように手許の書類からちらりと視線を上げた。そのアメリカ人新社長と云えば合理主義に徹底したやり方で有名で、──商事の一連の転落も自分の就任以前の問題であって自らに非は無し、とばかりに大人しくしては居ず、リンスター財閥総帥たるセレスティにも随分と噛み付くような発言としていると有名である。セレスティもこれまでに何度か事務的に顔を合わせているが、商社のトップに相応しく五十代も半ばを過ぎた、自信家らしい彼は最初にセレスティを見た時の驚き──彼のあまりの若さに対する──から反発心が解けないらしく、常に威嚇するような、軽蔑するような目を向けていた事を覚えている。居丈高に振舞う事で、自らの自尊心を守りたいのだ。セレスティは好きにさせておいた。
「プライベートな申し入れですから、忙しいと云ってお断りすることも可能かと思いますが」
「いえ、……御会いしましょう。日中であれば私の都合は何時でも構いません。あなたの方で取次ぎを願います」
「良ろしいんですか」
 青年は、自分は反対だ、と云うような視線をセレスティに向けた。
 無論、如何にこの書斎にはセレスティと彼の二人しか居ないとは云え、あんな合理主義者の不粋者などセレスティが時間を割いて面会する価値も無い、などとは口には出来ないが、純情と云っても良い程に彼の態度が不満を示していた。
 然し、こうして穏やかな微笑を浮かべたままセレスティが応と云えば自分は従うしか無い。──総帥も物好きですね、と苦し紛れに口の中で呟いてから、「承知しました、……多分、明日にでも、と云って来そうな気はするのですが」と答えた。
「一対一で向き合ってお話するのは悪くないと思いますよ。……確か、彼はチェスがお好きでしたね」
「……はあ、アメリカのアマチュア上級者の大会では成績を残していると云うことですが」
「面白いではないですか? ……ゆっくりとお茶でもしながら、ゲームを交えてお話するとしましょう」

 果たして、部下の青年の予想通りに客人は翌日、つまりは本日の昼過ぎに、リムジンを飛ばしてセレスティの許へやって来た。
「これはこれはカーニンガム総帥、御機嫌は如何ですかな」
 アメリカ式に、大仰、且つ馴れ馴れしく両手を広げて彼は入って来た。
 取り付いだ部下の青年が非常に迷惑そうな、厭そうな顔で、──恐らく内心ではこの来客がセレスティに無礼を働かないか監視の為に留まりたかったのだろう──然し自分の立場で同席する訳にも行くまいと、渋々と云った感じで退室したのにセレスティはくす、と笑みを浮かべた。
「今日も大変美しくて居らっしゃいますな、……男性にこのような事を申し上げるのは失礼でしたか、然し悪気あってでは無いのです、どうぞ御容赦を」
 ……これが嫌味で無くて何だと云うのだろう。暗に、否、あからさまな迄に「ただ顔がきれいなだけの子供に自分は敬意を払う積もりは無い」と主張しているようなものだ。
 だが、セレスティは何ら感情を逆立てる事は無い。丁寧に客人を迎え、足労を詫びた後で「チェスでもしませんか」と持ち掛けた。
「ほう、チェスと! 流石は財閥総帥で居られる。トップに立つ者、軍師[commander]としての要素が必要なゲームですからな、これは。……実は、私もチェスは少々得意でしてね、母国ではアマチュアの間で、だがいい所まで行ったものですよ」
 来客は、俄然勢い付いた。既に勝利を信じて疑わない。小癪な年若い(実は、そうでも無いのだが)財閥総帥をやり込め、実力を誇示する絶好の機会、更にはゲームの進め方に依ってセレスティの手の内までも探ろうという魂胆だ。
「お噂は予々伺っていますよ。楽しみです。……失礼ですが、私はこの通り視力が良く無いので、駒を動かして頂けますか?」
「御安い御用で。……では早速、始めるとしますか」

「ポーンe7、e6」
「……ナイトg1、f3」
 盤を見ることも無く、口頭での進行だけでセレスティは淀み無く駒を動かす。
 ゲーム開始直後には余裕のあった客人の額には、時間が経つにつれてじっとりと汗が滲んで来た。苛立ちと共に焦りが顔に見え始め、途中使用人が運んで来た紅茶は手を付けられる事無く冷め切った。
「ナイトb8、d7」
 ──とん、
「ビショップf1、d3」
 ──とん。
 セレスティは客人とは対照的に、頭の中のゲーム盤を淡々と見詰めて手を出し、カップに口を付けた。
「ポーンd5、c4」
「……、」
「……おや、どうされましたかな、総帥?」
 黙ったままのセレスティに、客人は極限状態の中で挑発的に言葉を促す。
「ああ、失礼。……雨が、降って来たと思いまして。ビショップd3、c4」
 舌打ちの音が聞こえた気がした。奪われたポーンを退けながらセレスティの視線に従って窓の外を見遣った客人は、今始めて気付いたらしいが、──今彼の頭の中はそれ所では無い。
「差し支え有りませんか」
「お構いなく、運転手を下に待たせてありますので」
「……そうですか」
 長雨となりそうな空に意識を傾けているセレスティと、目の前のゲームに躍起になっている客人の間で、ゲームは続いていた。
 ──雨垂れのバラバラと云う鈍い音が、セレスティに一つの運命の不幸な行方を告げた。

「……全く驚いた、一杯喰わされましたな。……総帥も中々人が悪い。これ程までにゲームの(あくまで!)達人で在られながら黙って居られたとは」
「そうでもありません。正直な所、暫く振りですね、チェスなどやったのは」
「またまた、」
 ──当然である。気紛れにやってみたチェスで自分が負けては彼の存在意義に関わるのだ。
「だとすれば、教えて頂けますかな? ……一体、どうした戦略を以てこれほど鮮やかにゲームを進められたのか」
 彼は、途端に狡猾な表情を浮かべた。ゲームには負けても、手の内位は手土産に探って行こうという算段らしい。
「読めませんでしたか、」
「──残念ながら、全く!」
 セレスティはそんな見え透いた彼の挑発や口車に惑わされはしない。──こんな殺気立った相手との遣り取りさえ、彼にとってはゲームに同じ、──それは、駆け引きとさえ云えない。
 簡単な事だ。
「未来を、見るのです。目先の事だけに捕われては不可ない」
「……お言葉ですが、私も先の展開は読んでいる積もりですよ」
 いえ、とセレスティは目を閉じて微笑んだ。
「未来、それは、明日までの事では無い。一年先でも、十年先でも無い。では五十年、いいえ、或いは1世紀、それだけでも在りません。年月の枠に捕われず、この世界に創世時から流れる時の流れを感じる、その中に見えるものが未来です。──……そう、流れ、が在る。決して、単位と云う枠を嵌めて視界を限定しては不可ません。見極めようとするのでは無い、──感じる、それが大事です」
「哲学がお好きなようですな。……なるほど、若者らしい」

「一言だけ、申し上げて置きます」
「何でしょう?」
 客人はぞんざいに応えた。
 セレスティは車椅子に身を委ね、瞳を閉じたまま穏やかに告げた。
「──お帰りの際、車にはお気を付けなさい。出来れば、御足労ですが公共交通機関を御利用になった方がよろしいかと」
「……それは、あなたには、私に何か不吉な未来が見えて居る、とでも仰るんですかね? カーニンガム占帥[fortune-teller]」
 嘲りの響きが、彼の返事には含まれていた。
「何とでも仰って頂ければ結構ですが、──これは、忠告です」
「──莫迦々々しい!」
 憤った彼が一度、強く床を踏み鳴らした。間髪を入れずにドアが丁重ながらも躊躇い無くノックされ、「失礼致します、総帥、何事ですか」とセレスティの優秀にして忠実な部下の青年が顔を出した。
 不粋な暇際の来客の態度に、青年はあからさまに不快感を示した。勿論、懸命な彼はそこでリンスターの傘下とは云え自分よりは身分の高いこの客人相手へ不用意に「お引き取り下さい」などとは云わない。
「……これは失礼しました。お帰りですか、でしたらお見送りします」
 そう云って来客とセレスティの前に立ちはだかる。
「……私は、あなたの云う事など信じないぞ、何一つ! この際無礼はお互い様だ、はっきり云わせて貰う、私に云わせれば、君など小賢しい青二才に過ぎん、そして私はその君の世迷い言のようなお告げとやらに付き合う程酔狂でも無い。──私は車で帰る、無事帰社した曉には電報の一つでも打とうじゃないか、」
「お静かに。そうで無ければお引き取り願う事になります」
 青年は冷静に、然し酷い侮辱の言葉への怒りを湛え、腕を真直ぐ伸ばして来客を制止した。
「頼まれんでも引き取らせて貰う、──全く不愉快だ。……本当にお送りしよう、『Check!』とでも書いた電報を!」
 部下はもう遠慮の必要性を認めず、半ば強引に来客を部屋の外へ連れ出した。──彼の手に依って静かに閉じられたドアの先を見詰めながら、セレスティは不意に思惑在り気な微笑を口許に浮かべて呟いた。
「──お待ちしていますよ」

 夕刻を過ぎ、一層激しくなった雨は雷光を伴った嵐へと変わった。セレスティは窓辺に車椅子を寄せ、静かに、──その思考の中までも非常に穏やかに、嵐の外を眺めてぼんやりと時を過ごした。
 激しく響き渡る雷の残響と雨音の中、──こんこん、とセレスティの意識を現実へと繋ぐノック音が鳴る。
「総帥、失礼します」
「どうぞ」
 青年は、一本の書類を手に入室し、真直ぐに立って背筋を伸ばした。
「──商事の社長が、お亡くなりになられました。つい先程です。……此処からお帰りになる途中でした。この雨でタイヤがスリップして、リムジンがガードレールに。暫く意識不明だったそうですが、たった今、」
 青年は淡々と事務的な口調で報告した。
「──それはそれは。……──商社と、御家族に御悔やみを」
「畏まりました。……総帥、これはどちらへ置きましょうか」
 恭しく頭を下げてから、青年は手にした物を軽く掲げて訊ねた。セレスティはロールトップデスクを示し、「そこへ、」と告げる。
「は。……では、私はこれで」
「御苦労様です」
 青年が去った後、オーク材の重厚なデスクの上には、昼間の客人の弔書が残された。
「……あれ程申し上げたのに」
 セレスティは細い指を伸ばしてそれに重ね、──然し、と微笑を浮かべた。

「電報ですね……。──ちゃんと、約束を守って下さったとは、誠実な方です」