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死者のざわめき
「墓荒らし?」
小説の中でしか聞かなくなって久しいそのフレーズに、草間は思わず訝しげな声を上げる。
「……ええ、墓荒らしです。もう今月に入ってから何件も続いているんですよ……」
興信所のソファに座る熊谷信之は、膝の上で手を組んだまま、ここに来て何度目かの溜息とともに言葉を吐き出す。
「墓地を管理してるものが朝の巡回に出向くたび、卒塔婆が倒れ、墓がいくつも掘り起こされているんです……これがまたひどい有様で……」
疲れ切ったように、そして得体の知れないものへの怯えと苛立ちを含んで、熊谷はもう一度深く溜息をついた。
彼の村は土葬を習わしとし、医者の診断後、葬儀が執り行われる。
だが、その死者の眠りを暴き、あまつさえ遺体だけを持ち去るという事件が相次いで起こっているのだという。
現場は踏み荒らされ、抉られ、ほとんど不完全な足跡しか採取できていない状況だった。
遺留品と呼べるものも今の段階では見つかっていない。
地元の警官では捜査にも限界があるのだと熊谷は言う。
そして。
証拠は何ひとつ見つけられないままに、魔物の仕業だと言う噂だけが土葬を風習とするその村に伝染していく。
「こんな罰当たりなことが続けざまに起こって、村中が不穏な空気に満ちている。遺族だって……そりゃあ可哀想なもんですよ」
落ち着かない視線が、床や窓、机、そこに置かれた灰皿の上をさまよう。
「犯人を捕まえて欲しいと、そういうことか?」
「ええ……ぜひとも墓荒らしを見つけて…こちらに引き渡して頂きたいのです。もちろん、掘り起こされた遺体も我々の元へ。それから……」
男は草間を前に調査条件を上げてゆく。
「…それから、出来るならばこのような事件をあまり表沙汰にはしたくありません……それを踏まえた上で、どうかよろしくお願いします」
深々と頭を下げた男の瞳に一瞬閃く暗い色。
草間は何とも言いようのない不可解さをこの男に覚えながらも、静かに頷きを返す。
「わかった。こちらで調査を行う」
*
この躰は私のもの。この躰はあなたのもの。この躰は……だれにもあげない………
*
そこはけして美しいと呼べる場所ではなかった。
土葬を慣わしとし、いまだ古い因習が根強く生きるこの村には、陰鬱で閉鎖的な空気が満ちている。
村の入り口でバスを降りると、そこには小さな文房具屋がひっそりと建っていた。舗装されていない畦道を登り、雑多な樹木に囲まれたまばらな民家を左手に見ながら、一行は熊谷が示した地図を頼りに件の墓地へと向かう。
「……ん〜…あんまり歓迎されてないわよねぇ」
物陰から自分たちを観察するものたちの視線を受け、風祭真は軽く溜息をつき、苦笑を浮かべた。
着いた早々から居心地の悪い雰囲気が5人の調査員達を包んでいる。
特に肩を並べて歩く海原みなもとロゼ・クロイツは、その色彩ゆえに他の者達よりもさらに目立っていた。瞳の色ならば遠目から窺い知れることはあまりない。だが、彼女達の青、そして銀の長い髪が明らかに異端であると告げているのだ。
「出来れば色々詳しいお話を聞きたいんだけど……何だか大変そうね」
あらゆる状況を想定した上で、シュライン・エマはこの村で事情聴取を試みたい。だが、ソレが許されるような雰囲気とは思えなかった。
ここには無言の圧力のようなものが存在し、踏み込んできた余所者を拒絶する。
「多分、人の出入りがほとんどないんだよ。」
5人を先導するような形で地図を片手に前を歩く藤井百合枝は、振り向きざまに肩をすくめて笑って見せた。
「あるいは一連の事件で疑心暗鬼になってるとか。田舎の人間は外の人間を得意としないからね」
そして、まるで意に介していないかのように再び前を向き直るといくつもの視線をやり過ごし、淡々と歩を進める。
彼女に続き、5人は陽の元に晒された墓地へと続く道を何ひとつ見落とさぬように歩く。
「ここが…共同墓地、なんですね」
長い斜面と延々と歩き続けた先に見えてきたものに些か不吉めいた肌寒さを覚え、みなもは自身の腕を知らずさすっていた。
いわゆる外人墓地の場合、あの宗教の違いから来るのであろう精錬された墓石のデザインとあいまってそれほどおぞましさを感じない。横浜や函館では観光ルートにすらなっている。
だが、この村の日本特有のまがまがしく不吉な墓地は、けして、自ら観光に赴き、出来ればその墓石を写真に収めたいなどと思える代物ではない。
「いまどき土葬というのも珍しいわよね……昔はよくみたけど、今の主流は火葬でしょ?」
他の者にとってはおよそ見ていて気分のいいものではないこの光景も、真にとっては『懐かしさ』さえ覚える。
「背徳者には相応の罰を与えねばならない」
漆黒の修道着を纏うシスター、ロゼ・クロイツは、ヒトの熱を持たないその偽りの肌に教義を刻む。
これは怒りではない。感情の熱はそこにない。ただ妄信する神の戒めに従順であるが故に、彼女は機械的に罪を判断する。
「安息を暴く罪深きものを見つけるのが私の使命」
「………それにしても……ひどいね」
想いの残影を辿るように、百合枝は目を細め、周囲を見回す。
ゆらゆらと消え入りそうに、残留思念のような残り火が揺らめいているのが分かる。
だが、そこから何かをはっきりと読み取ることは出来ない。
後悔。怒り。悲哀。絶望。戸惑い。歓喜。鬱。
彩度も明度もあまりにも沈み込んだ色彩は、墓地という場所ではありふれたものなのだろうか。
あてられたように、百合枝は胸を押さえ込まれる圧迫感と、嘔吐感を覚える。
「あの、大丈夫ですか?」
額に汗を滲ませる百合枝にハンカチを差し出しながら、みなもが心配そうに覗き込む。
「ん。大丈夫。ちょっとあてられただけだから」
何とか笑みを作り、みなもの好意を百合枝は受け取る。
「………なんか、すごいですよね……嫌な気配ばかり感じます……」
軽く指を噛んで、みなもは眉をひそめる。
「ん〜、まあたしかに思い切り胡散臭い感じよねぇ」
真はすぅっと息を吸い込み、盛大に溜息をつく。
「不審な点ばかりって感じだし」
卒塔婆が立ち並び、土が盛り上がり、献花と雑草とお供え物が撒き散らされた墓地。
不審じゃないものを探す方が困難なのではないかとすら思いながら、真は周囲に視線を巡らせ、苦笑を浮かべる。
まだ真新しい卒塔婆が幾本も立っている。その周辺の土は一度掘り起こされた跡が残り、確かに踏み荒らされた痕跡も見て取れた。
だが、柔らかな土壌から、特定の足跡など辿ることは出来ない。
順に数えていくと、一見してすぐ荒らされたと分かる墓は全部で10を越えていた。
「あたし、村について少し調べてみます。魔物の噂が立つような土壌がどういったものなのか知りたいです」
みなもはかすかに首を傾げ、視線を落として逡巡する。
草間からこの依頼を聞いた時、誰もが一瞬感じた違和感と、胸騒ぎにも似た感覚。
「…………気になるんです。」
明確な言葉に代えるには、今はまだ早い。
予断ではなく事実を突き止めていくことで真実を確信して行きたいとみなもは思う。
「じゃあ、日が暮れる前に準備といこうか?」
百合枝の言葉に彼女達は頷きあう。
「夜になったらここで張り込み。それまでは情報収集といきましょ?」
「了解した。私はもう少しこの墓地の探索を行う。待ち合わせはここで良いか?」
「ああ、待って。この近くに公民館があるみたい。依頼主さんが押さえてくれてるようだし、作戦会議だって必要かもしれないんだもの。集まるならそこにしない?」
百合枝の持つ地図と託された手紙を横から覗きこみ、シュラインがそう提案する。
「疾風。ここの巡回をお願いね?」
足元にいつの間にか擦り寄ってきた白狼の頭をそっと撫でつけ、
「どんなものも見逃しちゃダメ。怪しい気配、音、人、人じゃないもの……私に教えてちょうだい」
了解の意を示すように、白狼は主の手に自身の頭を擦り寄せ、そしてするりと風に融けて姿を消した。
「今の子は?」
「ん?あの子は白狼の疾風。私たちがいない間見張りを頼んだから思う存分遠出をしても問題なし、よ?」
シュラインの問いににっこりと笑う真。
「さて、頑張りましょうか」
白狼に監視を託し、5人はそれぞれの仮定を確信に変えるために歩き出す。
来栖麻里は眠たげで不機嫌な表情を隠しもせず、森の中でただひとり、広大な墓地と、それを取り巻く山々、そして収穫を控えた畑とまばらな民家を見下ろす。
天へと突き出たこの木の上は、他の調査員を監視するにも具合が良かった。
「今回は揃いも揃って……めんどくせぇな」
風に消えてしまう小さな声でぼやく。
遠目に見た今回の調査員は全部で5人・
まっとうな人間は2人、妖の血が混じる人間が1人、人形が1体、人の体を借りた人でないものが1人。そのうちの1人は既に狩り取らねばならない対象と認識している者だ。
彼は草間から連絡を受けた後、単独、この村に来ていた。
何もかもが気に入らない。
墓荒らしも、鬱とした村も、胡散臭い熊谷という依頼人も、そしてこの村を作る人間とありとあらゆる現象全てが。
「財団に報告することが増えそうだな」
死人返りそのものは、昔から囁かれている逸話のひとつに過ぎない。それ自体はけして珍しくないのだ。
だが、理由が気になる。
特別な術が施された形跡を来栖は感じることが出来なかった。
闇の儀式はここにはない。だが、自然の摂理とは呼びがたい空気を肌で感じる。
「ん?」
するりと足元に擦り寄る獣の感触。
視線を下に向ければ、白い狼が自分を見上げていた。自分がいる場所に来ることは出来ないはずの存在がそこにいる。
「………使い魔、じゃねえよな」
その獣の本体は、闇ではなく澄んだ冷気の様なもので構成されている。それは自分が護るべき『森』にも存在している精霊の気配だ。
ほんのわずか、来栖の表情が和らぐ。
「疾風、な。ソレがお前の名前か。ふうん……まあ、いい。俺の事をそいつらに知らせてもいいが邪魔はすんなよ」
そういい残し、来栖は疾風の頭を撫でつけると軽く枝を蹴り、自身の嗅覚に訴え続けている異質なものへと向かって空間を跳んだ。
*
ひそやかに囁かれる罪の証。
*
インターネットというものがこの村には存在していない。ソレがみなもには信じられなかった。
図書館は閑散としており、規模もけして大きいとは言えない。
みなもは、カウンターに腰掛け背を丸めてこちらを伺う壮年の男に会釈し、書籍の検索機などないこの図書館で目当てのものを本棚の表示を頼りに探していく。
村に入った時から感じていたことだが、みなもはここでの事情聴取の成果にあまり期待をしていなかった。
閉鎖的なあの雰囲気は自分たちを拒絶しているようにしか見えない。
熊谷の言動に関しても不審な点が多すぎる。
百合枝やシュラインならば、うまくやれるような気がする。だが、13歳の自分に村人が本音を語ってくれるとは思えなかった。
魔物の仕業と囁かれる理由。
まずはそこからアプローチを開始する。
古い郷土資料のコーナーからこの村の成り立ちに関した書籍を3冊、民俗学の棚から死人返りに関する資料を2冊、それぞれ抜き出して窓際の机に積み上げると、みなもはそれに目を通し始めた。
欲しい情報はなかなか見つからない。
その中でみなもは何度目かの本の出し入れをしていた。
「何をお探しかね、お嬢さん?」
司書の男がいつの間にか隣に立ち、みなもを覗き込んできた。
「え、あ、あの……」
いきなりの声にどぎまぎと言葉を濁す。どこまで話すべきかに思考を巡らせる。
「今日東京から来たお嬢さんたちの一人だろう?随分熱心に本棚と机を往復しとるが目当てのものは見つからないんかね?」
みなもよりも若干低い位置にある瞳は、思いのほか穏やかで優しい。
この村に入った時に受けたあの不審と好奇の色ではない、純然たる善意がそこにある。
「……えっと……その……ここに伝わる民話を知りたいなって思って。魔物がいるってお聞きしたものですから、それで」
「ほお」
彼は目を細める。
「確かにな、ここには魔物が潜んでおるよ……だが、お嬢さんが読もうとしてる民話の中に生きとるようなもんじゃない」
「………え…」
「ここは土葬を習わしとしている。だが、邪なものが紛れ込むとな、土に還らず、摂理に反して蘇る。安心して眠れないんだな」
男は暗く沈んだ表情の中に深い色を揺らめかせている。
何かを知っている。
「魔物は…蘇った死者を指しているんじゃないんですか?」
「違うなぁ。それは魔物じゃない。魔物は眠りを妨げる悪しき存在をさす」
男の話は誰かを明確に示唆している。そんな気がする。
だがさらに詳しい話を聞きたくて質問を口に出しかけたそのタイミングを計ったかのように、男はみなもの肩を軽く叩いて背を向けた。
指の背を軽く唇に当てて、みなもはじっと考え込む。
彼は多くを語らず、踏み込むことを拒絶する。だが、それ以上の情報を自分に与えてくれたのではないだろうか。
古いもの、新しいもの、荒らされているもの、いないもの。
ロゼは黒衣の裾を下草や小枝などに捕らわれながら、墓地の端から順に周囲を山と木々に囲まれた広大な土地を歩いていく。
暴かれた墓の名を卒塔婆や墓碑に認め、記された情報をまとめていくのだが、そこには年齢も性別も共通点がない。
ただひとつ、ここ数年…正確には4〜5年という期間で埋葬されたものばかりだというそれだけのことだ。
「……差異はどこにある………?」
墓を中心に方々へと踏み荒らされた靴跡に混じり、裸足と腐肉を見た気がした。
手を伸ばして直接触れれば、なにかが混ざりこんだ不可解な土の質感に、ロゼのまがいものの指先が反応する。
掘り起こされたらしい墓地のすぐ傍には、壊れた棺桶の破片、そして、どうしようもなく干からびた人の肉片が落ちていた。
それらを拾い上げ、無表情のままに自身の視線まで持ち上げて間近で観察する。
「……歩いたのか?」
無機質な光を宿す緑の瞳が細く鋭く注がれる。
死者は安息の眠りにつくものだ。
そして神の祝福を受ける。
忌むべきものではなく、敬うもの。そう教義は示している。
「罰せられるべきは誰だ……?」
ただし、それはあくまでも神の祝福を受け、神の御許に遣わされた後の肉体だけだ。
もしもこの墓荒らしと言う現象が死者の蘇りにあるのなら、自分は神の摂理に背いたものたちを永遠の眠りに還さなければならない。
柩の残骸には、裏側から抉じ開けたとしか思えない痕跡が明確に残っている。
掻き毟られたように抉れた木片には剥がれた爪が突き刺さっていた。
泥なのか、血液なのか、それとも人体の一部なのか分からないものがこびりついた木片がさらにいくつか発見できた。
村の入り口からこの墓地まで、ちらほらと人の姿を見かけていた。
印象と言えば若者の姿が極端に少ない、そしてひどく拒否的だと感じさせる程度のものだ。
明らかに生者と一線を画すような、理から外れた存在をロゼは見つけることが出来なかった
「気配はする。死の摂理を超えたものが存在している」
ロゼは瞬きせずに視線を端から端へとゆっくり移動させる。
感情を映さないガラス玉の瞳は、祠や洞窟、使われていない建物といった類がないかを確認しながら木々の茂る畦道を辿る。
「話して下さい。何に怯えているんですか?」
心の底まで見透かすような百合枝の翠の瞳。
「………何の話、かしら?」
低い生垣の向こう側に女は怯えと戸惑いが露呈した視線を泳がせ、明らかに狼狽したふうに手を忙しなく動かしてエプロンなどを握り締めたりする。
「………墓荒らしが頻発するわけを、知っていらっしゃるんではないですか?」
「…………」
彼女はなにも言わない。ただ俯く。そうすることで拒絶と肯定を示すのだ。
心の中が透けて見える。
この女性には罪などないのかもしれない。
あるのは漠然とした不安と、不審。どこかで救われることを望んでいながら、それを拒絶する複雑な心理。
だが長く続く沈黙は、家の奥で泣き出した赤ん坊によって唐突に断ち切られた。
「あ、ごめんなさいね。子供が泣いてるから、今日はこれで」
百合枝の視線から逃れるように、女はそそくさと扉を引き、訪問者を締め出すようにして家に引っ込んでしまった。
百合枝はシュラインと視線を交わし、何度目かの苦笑を浮かべ、溜息をついた。
誰も何も聞いていないと言い張る、けして協力的とはいえない村人達の証言。
墓荒らしの被害は10件にのぼる。10もの墓があばかれ、死者がそこから連れ出されているというのに何故それを見聞きしているものが居ないのか分からない。
そして、この集落を順に巡りながら、村人達に聞き込みを行っていく中で、シュラインはつくづく思う。
この狭い共同体では、噂はあっという間に広まるものらしい。
自分たちは相手の何も知らないが、向こうは自分たちが東京から何らかの調査でここを訪れたものであることを既に知っているという状況だ。
「何だか全部筒抜けって言うのも変な感じ」
東京から来た調査員への好奇心と、不安。
今日5人で来たお嬢さんたちだな。墓荒らしのことを調べているんだろ。誰が呼んだんだ。こんなことを聞くのかね。何も知らないよ。知るわけないじゃないか。
鋭敏な聴覚は人々のひそやかな囁きもいちいち拾ってしまう。
あのことは喋るな。
その言葉が何よりも雄弁にこの村の現状を語っているが、それを突き詰めることが出来ないままに外堀から埋めていくことしか出来ないでいた。
「シュラインはずっと都会暮らし?」
「こういう場所で過ごした経験ってあんまりなくて。百合枝さんは?」
「ん?私は住んでいたのが田舎だったからこういうのって慣れてる。ここほど閉鎖的ではなかったけどね、すごいよ?どこそこの娘さんはどこに就職してるとか、誰だかの孫が手土産にアレを持ってきていたとか。迷信深いしねぇ」
この村に着いた当初から百合枝が彼らの視線を軽く受け流せていた理由を、シュラインはその言葉でようやく理解する。
文字通り慣れてしまっているのだ。
彼女はかつてその共同体に身を置いていたから、その心の動きすらも身を以って知っているのかもしれない。
「さて、次はそろそろ病院訪問かな?……たぶん、圧力がかかってる」
「百合枝さん?」
訝しげにシュラインは彼女を見る。
「あんたも本当は病院に当たりをつけてるんでしょ?怪しいって顔に書いてるよ」
行動はお見通しだと、百合枝は言う。
「まあね。荒らされたお墓の共通点を知るには手っ取り早いと思うし、たぶん、埋葬のために病院を通すなら問題はそこにあるかもとは思ってた」
「不審な点を知りたいなら…私、役に立つよ」
目を細めて意味ありげにくすりと笑う。
「風よ、遥かなる時を我に遣えるものよ。我が求めに応えよ……」
足が軽く地面を蹴れば、真の体はほんのわずか重力から解放される。
土葬という習慣ゆえに広く取られた墓地の敷地をぬけ、植物の枝が土を抜けて這い出し、石が無造作に転がる足場の悪い急斜面をためらうことなく降りていく。
「死体の臭いがする」
林道から脇道、そして細い畦道を滑り、村へと滑り降りながら風が示す異質な場所を辿る。
山を背にしたその民家はごく普通のありふれたもののひとつだ。
にも拘らず、不自然に死の影が付き纏う。
「何を隠してるのかしら?」
この村に棲まうものたちに真正面からストレートに質問をぶつけたところで、答えなど返っては来ない。
真は廃屋と思しきその扉を開く。
カビとホコリの臭いがむっと押し寄せてくる、淀んだ空気。
だが、そこから溢れ出した空気は長い年月をこの空間に閉じ込められていたものではない。
「………いるわね」
這いずった後がある。人の足跡と思しきそれらは多少乱れてはいたが靴のままであったり、裸足のままであったり、その差異を十分に示していた。
軽く埃を舞い上がらせながら、真は自身の足跡をつけずに廃屋の中を探索する。
風雨に汚れ脆く崩れた外壁と、塗装の剥げ落ちた内壁。曇った窓ガラスと積もるホコリが何年も放置されたその中で、屋根裏へと続く階段の裏側に扉を見つける。
息をしているものはそこにいない。
だが、何かがそこにある。
指先を触れることなく、真は扉を空気の圧によって押し開けば、そこには折り重なるようにして眠る者達がいた。
「………見ぃつけた……」
口の端がすっと持ち上がり、唇がきれいな弧を描く。
「数が合わない分はもっと探せば見つかるかな?」
緑と木造建築の中で、鉄筋コンクリートの白い箱のような建物だけがひどく異質な存在だった。
「この村に病院と呼ばれるものはひとつしかなのだよ。そして医者は私だけだ」
『病院』の看板を掲げ、そこに権力が見いだされる狭い村。シュラインと百合枝の訪問を受けた彼は、自分はここでは特別な存在だという。
「この村のものは私の診断書なしには葬儀だって行えない。全てはこの手を通して死を宣告されるんだ」
膝の上で指を組み、村の規律を2人に示す白髪の混じる壮年の医者は、穏やかな表情で目を細める。
「だが、こうも続いちゃたまらんね。祟りなどと世迷言が生まれる。死人が生き返るなんてことは万が一にもありえないんだよ」
「万が一にも、ですか?」
「万が一にも、だ」
早すぎた埋葬。
それを想定していたシュラインの思考を見透かすように、医師はきっぱりと否定する。
彼の自信がどこから来るものなのかは分からない。
医者としてのプライドによるものだろうか。それとも、もっと別の――――
「生き返るはずがないとどうして言い切れるのかしら?この世界には様々な可能性が潜んでいるのに……それとも貴方は絶対に生き返らないという保証の理由を知っていらっしゃるのかしら?」
シュラインの思考を引き継ぐように、百合枝が問いかける。
心の中を覗き込むような澄んだ翠の視線に、彼は居心地悪そうにわずかに眉をひそめ、そして咳払いをひとつ。
「私は自分の診断に絶対の自信を持っている。」
「そうですか」
彼の人当たりの良い柔らかな物腰に奇妙な居心地の悪さを感じながら、シュラインは質問を重ねていく。
「そういえば、院長はいつごろからこちらへ?」
「いつ?そうだな……5年か…もっと経ったか。前任者はこの村の出身だったが私は他の場所から交代できたからね。なじむのに随分苦労したよ」
「………苦労、されたんですね」
百合枝は医師の中に揺らぐ青と黒の暗く淀んだ色彩に違和感を覚えずにはいられない。
まがいもの。
そんな印象が拭えない。
「とにかく……あんたたちが一日も早く、罰当たりな犯人を捕まえてくれるのを願っとるよ」
そうして、院長はひどく疲れた表情で窓の向こう側で寄り合う老人達を見る。
彼は自身の周囲を取り巻く黒い情念の炎の揺らぎにまるで無頓着だった。
この男はあまり長くないかもしれないと、百合枝は確信めいた予感を覚えていた。
死者の臭いは一箇所に留まらない。
あちらこちらに分散している。
辿る道はどれも死の残り香に侵されている。
処置室、ナースステーション、病室、院長室……
来栖は影に潜んでリノリウムの冷たい廊下を渡り、病院内をひとり探索していた。
墓場からずっと付き纏う、腐臭や死臭とは違う奇妙な臭いが鼻について仕方がない。
それを辿れば、行き着く場所はここだという。
獣のようにしなやかな肢体をするりと風に乗せ、音を立てずに空間を渡る。
影の気配。死の気配。闇の力。禍々しい人の欲望。
病院を取り巻く黒い霧が、病んだ怨嗟の吐露であることは見て取れる。
3階の窓から裏庭を覗けば、そこには黒い車が一台止まっているのが見える。
「………ろくなことをしやがらねえな……」
今夜も人が1人この世界から居なくなるのだ。切り刻まれた人間の中身があの車の中にある。
「ん?」
一際強く嗅覚を刺激する不快な気配に視線を窓の外から地下に続く階段へ移す。
軽く跳躍。
一瞬にして、来栖の身体は、3階の渡り廊下から地下の霊安室前に降り立つ。
当然施錠されているその扉に手を伸ばせば、いとも容易く『壁』を越えられる。
次元を歪め、外側から内側へ。
「…………ああ、ここでか……」
神獣の血が混じる獣の瞳が捕らえた残像は、呪詛の渦巻く闇のカタチだった。
白衣の人間。強い光。閃く白刃。刻まれる人間。
腕を、目を、腹を、奪われていく様が焼き付いている。
「悪趣味だな」
濃い血の臭いに顔を顰め、来栖は舌打ちし、空間を再び跳んだ。
息を整えながら、緩やかな斜面を登り、林から脇道を通って、砂利の布かれた村道に抜ける。
自身の中に答えを返す水のさざめき。
みなもは車の轍などを水脈とともに探りながら、村の入り口から墓地までの道を辿っていた。
外部犯か内部犯か。それだけでも特定したい。
車の出入りならばこの小さな村では目立たないはずがない。
事実、どこに行こうと、みなもならばこの村の人々の目に留まる。異分子であることを自覚させられる。
だが村の入り口に位置する文房具屋は、関所の役割を持ちながらもまったく目撃証言を持っていなかった。
定期的に業者が出入りしているらしいのだが、不審と思われるものはないという。
「え。あれ?」
左手に山、右手に刈り取られた後の水田が延々と続く中、小さな地蔵尊がポツリと佇む道の端。
黒い車が一台、病院の方からみなもとすれ違い、村の外へと出て行った。
それを出入りの業者なのかと思いながら見送り、みなもが再び前に向き直ると、
「真さん?」
まるで風に乗ったかのようにふわりと彼女が目の前に降り立った。
「どうだった?」
にっこりと笑顔を作って成果を問う真に、困ったような表情を浮かべる。
「自分がよそ者だって思い知らされちゃいました」
彼らは余所者には頑なに口を閉ざす。
時折お茶や菓子でもてなしてくれるものもいたが、墓荒らしの件については一切口を噤むのだ。まるで誰かに緘口令でも布かれているかのように。
「真さんは?」
「ん〜なんと言うか、見つけたいものはなかったって感じかな?祠とか洞窟を探したかったんだけど意外と墓地の周辺って何にもないのよね」
やれやれと肩をすくめてみせるその表情はしかし、落胆の色を含んでいなかった。どちらかと言えば面白い発見をした子供のような笑みを浮かべている。
「その代わり変なもの見つけたわ。普通の民家だったり、納戸だったり、廃屋だったりするんだけど、すっごく変。皆と合流したら教えてあげるわね」
2人はゆっくりと公民館へ歩いていく。
いつの間にか彼女達の傍には白狼がそっと寄り添っていた。
*
終焉を望み、動き出す夜の世界。
*
不自然なのはこの村そのものではないのか。
そんな疑問を胸に抱えたまま、公民館の会議室に5人は集う。
「さてと、まずは私から皆へ」
にっこりと笑って真が荷物から風呂敷包みを広げてみせる。
「え、あ、すごいです」
「へえ、上手いもんだねぇ」
みなもと百合枝が覗き込む重箱の中には、色とりどりにおかずとご飯が絶妙のバランスで敷き詰められていた。
「腹が減っては戦が出来ぬ、ってね。花音特製仕出し弁当、と言うわけじゃないけど、腕によりをかけた一品を召し上がれ」
都内で『丼亭・花音』を営む(表向きは雇われ店長の)彼女の料理は空腹でなくとも十分に魅力的だった。
ロゼだけがそれを黙って見つめている。この体内に取り入れることの出来ないきれいなものたち。
「じゃあ、真さんのお料理を頂きながら情報交換と行きましょうか?」
「あ、その前に、ね?もう一人いるのよ」
シュラインに手を伸ばし、その唇に人差し指を当てて、真は軽くウィンクする。
「もうひとり……今日一日我々を監視していた者のことか?今は…窓のすぐ外にいるな」
「ロゼ、正解」
ふふ、と笑って見せ、
「ねえ、疾風から聞いてるの。よかったら一緒にこのお弁当食べない?ずっと私たちとこの村のこと、探っていたでしょ?」
席を立って、一気に窓を横に開く。そして、その奥に潜むものへと笑顔のままで声を掛けた。
「美味しくてあったかいコーヒーなんかもあるんだけど?情報交換だけでも、どう?」
「………」
シュラインは訝しげに真の隣に立って窓から身を乗り出して周囲を見回す。
耳をそばだてれば、誰かの息遣いと、枝葉を揺らす音が聞こえてきた。そして、小さな舌打ち。そして、そこにいたものが発する全ての音が一瞬にして、
「…………消えた」
「ん〜、振られちゃったみたい。残念。じゃあ、私たちだけで会議しましょっか」
まるで未練がないようにくるりと踵を返し、軽やかにとすんと椅子に腰掛けた。
「じゃあ、それぞれの手持ちカードを開きましょうか。まずは誰からにする?」
シュラインが真に続いて自分の席に戻ると、再び夜が動き出す。
出来る事なら彼女達の会議とやらも監視しておきたかったが、真に声をかけられ、宿敵の視線が煩わしくなり、来栖は嗅覚に任せ、墓地から続く臭いを辿る方を選んだ。
雑多なものに掻き消され、磨耗していく中で、その軌跡は奇妙な道を示していた。
夜が、歪で陰鬱なこの村に忍び込んでくる。
禍々しい気配に満ちた森全体を、病んだ闇がひそやかに包み込んでいく。
女達は自分の存在を知った。そしておそらくこれから朝まであの墓を拠点に寝ずの番をするだろう。
「今回の狩りはなしだ……アイツの方が気にいらねえからな……」
自分は自分のやるべきことをやりたいようにやる。
あの悪趣味な人間がどんな末路を辿るのかを見届けるために。
黒く淀んだ空気が森に、そして墓地に充ちていくのを肌で感じる。
今夜、全てを終わらせる。
死者への冒涜を許すわけにはいかなかった。
全てのカードが会議室の机に提示された。
「利害の不一致か?」
「内部分裂、内部告発……そういう感じなのかもね」
真の言葉は何よりも真実(こたえ)に近い気がした。
「熊谷さんは随分この村の人にしたわれているね」
「あの人は村の役人らしいのよ。この村のために随分がんばってるみたい。……でも、あやしい」
「それはたぶん、犯人を知っているから。そして、証拠がないままに動くことを恐れている」
「村という共同体は、ひとつである間は何よりも強く結びついているの。でも、一度でも亀裂が入ったらあっという間。脆く崩れてしまうものよ」
長い年月を生きてきた自分が見てきた人々の営み。古い時代から受け継がれ、紡がれてきたその理を、真は見てきたのだ。
「ああ、それは言えてるね。そういう『生き物』だよ、共同体っていうのはさ」
境界が存在する。村があり、集落があり、そしてひとつの生命となる。百合枝は幼少時代をその中で生き、感覚でそれを知っている。
「さて、じゃあ、そろそろ私たちも行きましょうか?」
「段取りは今の形で。頑張りましょ?」
*
渦巻く憎悪が摂理を越える。
*
「死者を冒涜するものよ。汝の罪を裁きに来た」
夜勤の看護婦を残して病院を出た医者は、自分が乗るべき車の向こう側に、闇色の少女を見た。
月と外灯の光に閃く銀糸の髪に縁取られた白い作り物のような肌が闇に浮かび、その中心には凍える瞳が嵌っている。
「……昼間、私の所に来た者たちの仲間か……」
「許されざる罪人よ。汝は今宵冥府の裁きにかけられる」
射抜くような視線に息を詰め、彼女の血の通わない唇に寒気を覚える。
「………私は…医者だ……そんな真似をするはずがないだろう?」
努めて平静を保とうとするが、声には動揺と怯えが混じり、かすかに揺らぐ。
「偽証するなかれ。神は全てを見ている。我々は汝の罪の在り処を知っている」
まっすぐに注がれる視線から逃れるように、男は震える手で鍵を開け、車に乗り込んだ。
暗い霧と淀んだ風が自分を取り巻いて沈めようとしている。そんな錯覚に怯えながら、ひたすらに夜の村道を走り抜けていく。
私は医学に貢献しているのだ。私は罪など犯してない。研究のための犠牲なら仕方ないのだ。私は私は私は―――
テールランプが墓地の方向へ消えて行くのをロゼは黙って見送る。
情報を継ぎ合わせていった中でひとつの仮定に辿り着いたシュラインの支持で、あの医者に揺さぶりをかけたのだが、その効果は思いの外大きかったようだ。
死者が出るたび、他所から来た黒い車が村に出入りしている。
呼び込んだのはあの院長の名を持つ医者だ。
そして、いくつもの符号が合わさっていく。
ロゼは地を蹴ると、墓地に向かって夜の獣道へとその身を飛び込ませた。
*
ガリ、ギリ、ガリ……土の中から聞こえてくる、木の蓋に爪を立てる死者の音。
時が来る。
ゆらゆらと、それは動き出すのだ。神の摂理にそむいた躰で。
生と死の境界線の向こう側。歩をあわせ、夢遊病者に似た不確かな足取りで死者の境界を越え、いずこかを目指す。
何を求め、何を望み、何を想ってそれは動くのか。
*
真たちと別れ、シュラインはひとり、ロゼを待ちながら墓の東側で身を潜め、耳をそばだてていた。
蘇り、歩く死者。それはおそらく今夜も動き出す。もし動かないとしても、ロゼを通じて罪状を突きつけられた医者が何らかのリアクションを起こすことは考えられた。
百合枝は言ったのだ。
彼は黒い影に纏わりつかれ、増大していくそれに気付かぬまま、近いうちに呑み込まれると。
「ひ、ひぃいいぁああぃっっ」
喉を締め付ける細く長い恐怖の悲鳴が、シュラインの鋭敏な聴覚に触れる。
「あっちに聞こえる!」
茂る草葉を掻き分け、シュラインは足場の悪い獣道の斜面を駆け下りる。
「―――――っ」
視界が開けたそこで見たものは、まるでゾンビ映画のワンシーンのような有様だった。
どろりと腐敗した死者に取り囲まれ、村道に立ち往生している高級車。
恐怖に歪んだ表情でそこから転がり出る男。
「この人が」「コイツが」「この体を」「この私の体を」「ユルセナイ――――」
意思を持ちながら命を持たず、生者でも死者でもなくなってしまった、ざわめく骸。
囁きは次第に音を大きくし、波となってうねり、津波のように押し寄せて、罪人を呑み込んで行く。
呪詛を声高に叫び、罪の証をその身に内包する骸は哭き声を上げてずるりと融けた体で医師を取り囲む。
「やめなさい!!」
鼓膜を貫き、聴覚を奪う超高音。空気を震わすその音は、死者の動きをも止めるほどに鋭く突き刺さる。
だが、その効果も一瞬の間。取り囲まれた男を救い出す時間には至らない。
「神の規律に反するものよ。土に還れ」
鬱蒼と茂る木々の合間から跳躍。
ロゼの指が空を斬り、白く脆く儚い指先で操りの極細ワイヤーが蜘蛛の巣のように張り巡らせる。
その糸を伝い、聖水が霧となって降り注ぐ。
死者は苦痛に歪む呻き声を発しながら動きを止める。
腐敗の進行した躰がぎこちなく崩れていくものたち。
命なき人形の無慈悲な粛清。
「生ける屍は生者にあらず。また敬うべき死者にもあらず」
そこに躊躇いはない。歩く屍は、かつて人であったものの残骸として映る。
正しくあるもの。秩序の中に存在すべきもの。遵守すべきモノのために。
「この人が」「コイツが」「この体を」「この私の体を」「ユルセナイ――――」
だが、それでも歩く屍は苦痛に身悶えながら医者にその干からびた手を伸ばす。
見開かれた目。投げ出され横たわる体。医師の口を塞ぎ、喉を塞ぎ、呼吸を止めて、命の流れを止める腐肉。
互いに折り重なり、倒れ伏すかつて人であったものの残骸は、凄絶な憎悪の具現化を果たす。
だがその憎悪の核には、何よりも深く魂を揺さぶる怒りと悲しみが満ちていた。
「……………」
ロゼは血の通わぬ自身の中でざわめきだった感情に動きを止める。
言いようのない感覚が自分を内側から揺さぶる。
蜘蛛の結界の外では、シュラインが同様の表情を浮かべて立ち尽くしていた。
2人の意思が全てを壊すことに躊躇いを覚えたその時、するりと糸の結界を潜り抜け、一人の少年が姿を現した。
「何者だ?」
何人も入り込むことは叶わないはずの場所に立った少年は、一瞬でロゼとの間合いを詰め、鼻先を突きつけるようにして彼女の瞳を覗き込む。
「………まとめて成仏させてやれねえ人形は、そこで黙ってみてろよ」
そうして、跳躍した来栖の爪がいまだ蠢く死者の体をいくつも引き裂く。
黎明の冷たい虚空に響き渡る破壊音。
濁った黒い血液を振りまいて、ぐしゃりと潰れ、崩れる屍。
だが溢れるはずの臓物はなく、ただ空洞の中身を晒す。
「ちっ、やっぱりか」
腐臭がする。そこに混じり込み、染み付いているのはホルマリンと特殊な薬液の臭いだ。
胸の悪くなる人工物と悪意の臭いに顔を顰める。
「いっそ燃やしちまった方がいいか」
そこへ白い獣が割り込んでくる。
「!」
「………お前、俺を邪魔しにきたのか?やめろと言ったはずだが?」
既に動くこともままならない屍の横にトンっと降り立つ白い獣は、じっと来栖を見上げる。
体をすり寄せ、視線を交わす。
シュラインにもロゼにも届かない言葉にならない意思の疎通が確かに存在していた。
「………なんだ、迎えか」
触れるもの全てを切り刻むような鋭い来栖の視線がふと和らぐ。
「分かった。俺がまとめて成仏させてやる」
白狼に頷いて見せると、屍越しにシュラインとロゼをきつく睨みつける。
「今夜の俺は掃除屋だ。だから、今日のところはお前らを見逃してやる」
そう言い放つと、シュラインが何か言葉を発するより早く、来栖はそこに折り重なった医者と蘇ってしまった死者の残骸全てを闇に飲み込んで姿を消した。
「………あの者は……」
「………彼は、来栖麻里……それ以上のことは知らないわ」
叩き潰された高級車と、獣の爪に切断されたワイヤー。そして耳にこびりついて離れない死者のざわめきだけが、ロゼとシュライン2人の間に残された。
歩いた屍の痕跡はもうどこにもなかった。
*
もう一度だけでも会いたかった。言葉を交わしたかった。当たり前のことを当たり前に続くと思えた時間まで戻りたかった―――――
*
真は、昼間に見つけた廃屋の前に立っていた。隣には百合枝とみなもの姿もある。
「中は随分と騒がしいね……耳が痛くなりそうだ」
そう呟いた百合枝の細めた瞳には、暗く悲しく揺らぐかすかな残り火が映っている。
「そろそろね」
「…………」
ざりがしゃんぱりんぱりんぱりんっ――――――
夜が来て、闇がこの村を支配する。そしてそれは動き出すのだ。
まるでスイッチが入ったように境界を容易く越え、生の光を失い虚ろな目を携えて、屍はゆらゆらと起き上がる。
そしてそれは意思があるかのように扉の向こう側からやってくるのだ。
「っ!」
みなもの両手が水筒の中身を撒いて、入り口の前に水壁を為す。
「あんまり手荒なことはしたくないのよね」
真を中心にふわりと風が渦を巻いて立ち上がる。
「だから、静かにしてちょうだい」
それはみなもの水と同じように、あるいはそれ以上の力を持って死人を取り囲み、威圧する。
廃屋から先へ行かせるつもりはない。
「やめてくれ!」
唐突に制止の声が飛び込んで来る。
おそらくは昼間の調査である程度は予測していたのだろう。廃屋を取り囲むようにして、暗がりから村人達が3人の前に姿を現した。
「やめてください!その子は何も悪いことなんてしていないんです!!ただ、生き返ってしまっただけなんです」
「せっかく帰ってきたんだ!せっかくこの子達は帰ってきたのに、傷つけないでくれ!」
必死に既に死したものの骸を護るように訴えかける、老夫婦の姿。
「そこから離れてくれ……お嬢ちゃん、頼むよ……」
「おじさんっ?」
そこには図書館で魔物の話をしてくれた司書の男も立っていた。
赤ん坊を抱いた主婦も、村役場の青年も、文房具屋の店主も、そして病院の待合所で日向ぼっこをしながら話していた老人達も。
彼らは悲しく、切なく、どうしようもないほどに追い詰められたもの特有の視線で3人を見つめる。
「………理由を聞かせてもらいたんだけど?」
真は嫣然と微笑みかける。
「話し合いといきましょう?問答無用で全てを処分してしまうなんてつまらないこと、したくないもの」
これは彼女の本意だ。
長い時を経た彼女の深い瞳が、村人の一人一人に注がれる。
死者を労わるものたちがここに居る。
泥に汚れた両手が、弔うための証でもあるのだと分かる。
「………どうしても……あの冷たい土の中に居させたくなくて」
「なんでもない病気だった。ちょっとした風邪の筈だったのに、この子は急にいなくなってしまったの……でも、私にはもうこの子しかいないのよ」
「帰ってきたんだ……わしの元に帰ってきてくれた。だからそっとしておいとくれよ」
「魔物が潜んでおる。あの余所者だ。だがそれでもこの子は帰ってきたんだ。だからいいんだ」
みなもは胸が抉られる痛みに顔を顰める。
もしかしたら村人と対立関係に陥るかもしれないと思っていた。だが、自分が思い描いていたのはこんな形ではなかったのだ。
「どうしても知られたくなくて……」
何の前触れもなく唐突に奪われ、失われた者たちが、再び自分のもとへ還ってくる。
それを受け入れた瞬間から、この村は歪んでしまったかもしれない。
だが、その思いを責めることなど出来ない。
全てを燃やすことも、全てを壊すことも、全てをなかったことにすることも出来ない。
「………でも…人は一線を越えちゃいけないんだと、思うんです………」
みなもが支配する水の壁が解除される。
そしてゆっくりと言葉を紡ぐ。
「………あたし、たぶん皆さんのお気持ち、分かるような気がします……あたしだって家族を突然亡くしたら、そしてもう一度帰って来てくれたら……皆さんと同じように匿うと思います……」
空っぽの体を抱えて、神の気まぐれによってそれは動き出してしまった。
戯れに偽りの生を受けたものたち。
「でも…でも……あたし達の想いとか執着とかそんな気持ちで引き止めちゃいけないんじゃないかって、思うんです」
真の風の包囲で隔てたこちら側と向こう側で、生者と死者の視線が混じりあう。
みなもの言葉が浸透していく様を、真は静かに見つめていた。
「生きているあたし達は、亡くなった方の魂をちゃんと眠りにつかせてあげなくちゃいけないんだって思うんです」
優しく切なく、人の心に訴え続ける。
そして、波が引くように激しく燃え盛る情念の炎は沈静され、後にはどこまでも悲しく穏やかな沈黙が降りるのだ。
百合枝は立ち尽くすものたちの心の嘆きに耳を傾ける。
―――――助けて欲しくて……
むせび泣く遺族達に悲しい視線を向け、死者の少女はポツリと呟く。
―――――……この体はあたしのものだから……あたし以外にもたくさん可哀相なことになってる人がいて、何とかして欲しかったから
―――――痛かったよ苦しかったよ
―――――会いたかったの……
「………大丈夫…大丈夫よ………たぶん、全部終わるわ。もう大丈夫なの」
彼女達に届く優しい呟くを繰り返し、そして百合枝は静かに闇の向こう側を振り返り、声をかける。
「ねえ。熊谷さん?……知っていて、私たちを呼んだのよね?」
「え?」
「熊谷さん?」
再びざわめきだった村人の視線を受けながら、それでも精一杯胸を張り、彼は廃屋の陰からその姿を現した。
「…………私は……」
百合枝に導かれるようにして中心へと進み出ながら、彼は疲労と苦痛と哀切をないまぜにした表情でポツリポツリと言葉をこぼしていく。
「私はただ、この村を元に戻したかったんだ………」
医者の罪も村人の罪も死者の悲劇も、何も確証がないままに自分が動くわけにはいかなかったから。
そして、自分が愛し生き続けると決めたこの共同体を壊したくなかったから、彼は草間興信所の扉を叩いたのだ。
不安定な思いを胸に抱えて、彼はたった1人でこの事態を正常に戻すための決断をした。
「…………これからを…この村の未来を……私は考えたかったから………」
まるで罪人は自分であるかのように俯く熊谷に、責めるような村人の視線がゆっくりと変わっていく。
熊谷の想いが、生者の死者のざわめきを鎮めていくのが分かる。
百合枝は目を細め、揺らぐ心の炎が移り変わる様を眺めていた。
「あの子が来るわ」
ふいに、それまで言葉を発することをやめていた真が顔を上げた。
「え」
「!?」
真が張ったはずの風の結界をまるで意に介すことなく、漆黒の髪を月光に閃かせた少年が1人、歪んだ空間から白狼とともに舞い降りる。
降り立った瞬間、彼はキロリと獣の視線で真たちを一瞥する。
そして。
「何をする気だ!?」
「いやっ、やめて!その子を連れて行かないでぇ!」
「やめてやめておねがいよぉっっ」
月にかざした腕は濃紺の毛並みと獰猛な爪を宿し、一切の悲哀と嘆きと懇願を拒絶した鋭い歯牙で次々と生ける屍を引き裂き、闇の中へと引きずり込んでゆく。
突然の混乱。そして悲鳴。目の前で再び愛するもの達が奪われていく。
「真さん、止めないんですか?」
みなもの言葉に、真は静かに首を横に振る。
少年の姿は彼らには暴虐な運命と映るかもしれない。
だが、今の彼らにはそれこそが必要なのだ
もう一度、この村の人間達は知らなければならない。死者が蘇ってはいけないことを。そして、一度失われた命はけして元には戻らないのだと言う事実を。
自分の足元に纏わりつき、摺り寄せる白狼の頭を優しい眼差しと柔らかな手で、真はそっと撫でつける。
「……面白い子よねぇ」
そこにあるのは、先程までと変わらない笑みを浮かべる真の顔だった。
断末魔と引き裂かれる悲鳴の只中にありながら、彼女は人の感情で受け止めていない。
美味しいお弁当を作ってきたり、明るく笑いかけてくれる目の前にいる彼女は『人』の範囲にはいないのだと、今更のようにみなもは気付く。
理を護る獣の手により、苦しみと哀切に彩られたまま、事件の幕は月光の中で引き降ろされた。
そして、朝が来る。
村に侵食していた闇を照らし、全てを呑み込んで、闇を消し去り、朝が来る。
山の稜線から差し込んでくる陽の光の中で、理を綻ばせてしまった村人達は、二度も奪われた大切なものの喪失感に虚脱し、茫然と佇んでいた。
いたたまれない想いで俯くみなもの肩を、百合枝が労わるようにそっと抱き寄せる。
朝焼けとともにシュラインとロゼの姿を森の向こう側に認めた真は、彼女達を手招き、そしてねぎらいの言葉を交わした。
「………有難うございました…………」
5人が揃うと、熊谷はやつれた顔に僅かながらも安堵とある種の充足感を以って静かに頭を下げた。
望んでいた形ではないのかもしれない。それでも、彼は己の役割を全うした。
「本当に……有難うございました」
この村がこれから綻びた理をもう一度紡ぎなおせるのか、それは分からない。
異端者である自分たちには、ここに留まって村の終焉を見届けることも、これから先の未来に関わることも許されてはいない気がした。
だから、重ねられる礼の言葉を曖昧な笑みで受け止め、そして彼女達は村を後にする。
死者のざわめきに、それを望んでしまう弱気者達の願いに耳を塞いで。
全ては、閉鎖されたあの空間の中で終わりを告げる。
END
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■ 登場人物(この物語に登場した人物の一覧) ■
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【0086/シュライン・エマ/女/26/翻訳家&幽霊作家+時々草間興信所でバイト】
【0423/ロゼ・クロイツ/女/2/元・悪魔払い師の助手】
【1252/海原・みなも(うなばら・みなも)/女/13/中学生】
【1627/来栖・麻里(くるす・あさと)/15/男/『森』の守護者】
【1873/藤井・百合枝(ふじい・ゆりえ)/女/25/派遣社員】
【1891/風祭・真(かざまつり・まこと)/女/987/『丼亭・花音』店長】
【NPC/熊谷信之(くまがい・のぶゆき)/男/43/地方公務員】
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■ ライター通信 ■
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はじめまして、こんにちは。友人からもらった真っ白でおっきなぬいぐるみとともに越冬準備をしております駆け出しライター・高槻ひかるです(笑顔)
この度は『墓荒らし』と言う少々レトロちっくな当依頼にご参加くださり、誠に有難うございました。
大変お待たせいたしました、『死者のざわめき』をお届けいたします。
さて、今回は珍しく女性メインです☆
男性は来栖様ただおひとり。
単独行動がやや多めの今回ですが、その中できれいなお姉さんお嬢さんのやり取りを書くのは大変楽しかったです♪
出来る限り話の雰囲気が重くなりすぎないようにと気をつけてみたのですがいかがでしたでしょうか?
少しでも楽しんでいただければ幸いです。
<シュライン・エマPL様
6度目のご参加有難うございます!力いっぱいお世話になっております☆
さて、調査プレイングメインのシュライン様ですが、今回も村を歩きまわったり、カマを掛けたりとブレインのスタンスを重視した描写をさせていただきました。
プレイング内でも細やかな視点と鋭い洞察を読むことが出来、個人的にとても嬉しくなってしまいました。
それではまた別の事件でお会いできますように。
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