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<東京怪談ウェブゲーム 草間興信所>


「薔薇の花やら百合の花」


 草間興信所の店じまいはいつも遅い。

 時計の短針が頂点に向かって昇り始めている頃でも、秘書の零は真面目に仕事をこなす。彼女は草間が店じまいを告げないと仕事を止めない。仕事終わりを告げるため、草間はドアに鍵をかけようと頭を掻きながら歩き出した。
 しかし、草間の思惑は大きな音で砕かれる。入り口のドアが恐ろしい勢いで開いたかと思うと、大柄の男が一声鳴いた。

 「た、た、助けてくれぇ!!」

 「すまんな、今日は店じまいだ。明日にしてくれ。」

 目の前の男性の悲鳴を意にも介さず、眠そうな声でただ単調に話す草間。それを聞いた男はしばらく固まっていたが、草間にすがってお願いを始める。

 「と、と……とにかく助けてくれ。話だけでも聞いてくれ……お、俺にはあんたしかいないんだ……俺は今、幽霊に憑かれてるんだ!」

 あまりの不安についに泣き出してしまった……草間はそれを見た瞬間、しっかりと目が覚めた。泣き喚く男に同情したのか、彼の肩を叩いてひとまずソファーに行くように促した。それはまるでドラマのワンシーンのようだった。


 男はソファーに導かれると、半べそのまま話し始めた。男の名前は鴻池。ある企業のラグビー部に所属しているらしい。そんな彼がある日突然、幽霊に憑かれた。彼が憑かれたのに気づいたのはすぐだった。彼によると、その幽霊の記憶や思考がいとも簡単に読み取れてしまうそうだ。幽霊は『浅野 麗華』という若い女性らしい。だが、問題はここからだった。その女性が夜な夜な鴻池にとんでもないことをお願いするというのだ。

 「とんでもない、こと?」

 零が草間の方を向いてゆっくりと首を傾げ、彼も同じように首を傾げたその時だった。いきなり鴻池が頭を抱えて苦しみ始めたのだ!

 「う、ううっ……探偵さん、幽霊が出ても気にするな……っ、身体を乗っ取られても話は全部聞こえてるから……うわぁぁぁっ!」

 鴻池が叫びを上げて気絶した直後、彼は急に顔を上げる。さっきまで落ち着きのない表情をしていた『彼』の顔は一片の曇りもなく、動きにも躊躇がなかった。『彼』が草間と零の顔を一瞥すると、静かに口を開いた。


 『あなたが草間 武彦さん、そしてそちらのお嬢さんが零さん。そうですね。僕は浅野 麗華、よろしく。僕はこの世に未練を残してさまよう幽霊だ。姿は現せないが、ちょうど二十歳の時にこの世を去った……はずだった。しかし、僕の強い願いは怨念となって蘇り、今……今まさにそれを達成し、この世の執着を消そうとしているんだ……草間さん、僕は……僕は男としてロマンスに包まれて天に召されたいんだ。そう、きらびやかな舞台の上で。どうか叶えてはくれないか……この通りだ!』


 目の前で振りをつけながら踊るように話す麗華を見て、どうしても疑問が晴れないふたりはそれぞれに悩み出す。

 「浅野さんだっけ……あんた女だよな? さっき自分で『麗華』って言ってるしな……」

 『何を言ってるんだ……誰がなんと言おうと、僕は……僕は男だ!!』

 「ええっと……男の鴻池さんに憑依した幽霊は女の麗華さんなのに、麗華さんは男だと思ってて……あれ?」

 すでに自分に酔っている節がある麗華を説得するのは不可能だと踏んだのか、草間は悲しそうに首を振った。零も麗華を指しながら理解に苦しんでいた。そんな状況を目の当たりにした麗華は幽霊の本性を草間に見せつける。


 『草間さん、僕はあなただけが頼りなんです。もし引き受けてもらえないのなら……あなたに憑いて、僕の思い通りに事を動かし』

 「な、なんだって! 頼む、それだけはやめてくれ! わかった、人を集めて何とかしてやるよ。ただし、それなりの報酬は用意できるんだろうな。どこで誰にものを頼んでるのかぐらいはわかってるはずだ。」

 『もちろんです。僕は自分の遺産があります。それの在り処を教えましょう。報酬には十分過ぎるほどの金額になるはずだ。それを使ってどこかの舞台を貸切にして下さい。あとはあなたが集めた人と僕がロマンスを作り上げます。観客は君と彼女でいい。これだけの準備には手間がかかるな……草間さんには一週間の猶予を与えよう。それまでにすべての準備を整えておいて欲しい……』


 脅迫された草間は白旗を上げ、麗華の言いなりになった。このまま協力を拒んで憑依されれば、彼女は自分の身体を使って男とくちづけを交わすかもしれない。しかもその記憶は共有する可能性がある。そんなものは死んでも見たくない……草間は己の保身を考えた結果、人を使って事態を収拾する方法を取ったのだ。零が心配そうに草間の背中を見つめる中、彼は静かにつぶやいた。


 「ちくしょう、今週の予定はあいつのせいでめちゃくちゃになっちまった。とにかくあいつを成仏させればいいんだから、零には乗りのいい奴を集めさせて適当にやらせればいいだろう……」


 文句を言うのは成仏後と決めた草間は零のバックアップを受け、麗華の望む舞台などをセッティングした。彼女の言葉通り、遺産は相当な額になった。そのおかげでなんとか格好のつく文化センターを用意することができた。残りの金は、役者が仕事を果たしたときのためにちゃんと残してある。



 そして一週間後、運命のベルが鳴り響くのだった……


 「よし、準備はできた。あとはこれで霊を祓うだけだ……!」


 草間が借り切った文化センターの前でひとりの男がつぶやく。長弓を覆う袋をいつものように外し、退魔に使っている弓を手に取り矢を番える……その矢先から自然と炎が起こり、青年の顔を不気味に浮き上がらせた。たまたま近くを通りかかった小さな女の子が青年の奇術に小さな拍手をしようとしていたが、近くにいた母が慌てて娘を止め、その場からさっさと去ってしまった。一般人が見れば、この青年はただの危ない人だった。
 彼は神奈川に住む高校生で、矢塚朱羽という退魔師を生業にしていた。この依頼を零から電話で聞いた時、彼はごく自然に「なんだ、除霊すればいいだけじゃないか」と認識してしまい、さっさと電話を切ってしまった。だから、彼は自らが愛用する武器である弓矢とともにここまでやってきたのだ。中では男だか女だかわからない霊が人心を惑わしているのだろう。早くそれを止めなければならない。彼は真剣な表情で弓を構え、雄叫びとともにまずは会場のドアを足で蹴り飛ばして突入した!


 「うおおおぉぉぉぉーーーーーーーっ!」


 誰もいるはずもないロビーを駆け足で通り抜け、観客席に続く扉に向かう矢塚。上半身は決してぶれることはない。ただ足だけが動いている。それだけを見ると、まるでカルガモが必死に泳いでいる姿を想像させる。玄関と同じく豪快に観客席のドアが開け放ち、ものすごいスピードで舞台に向かって階段を駆け下りていく矢塚……彼は霊視することができたが、頭の中は『オカマ』という断片的な情報でいっぱいになっていた。美形の男がステージにいるのを確認すると、燃え盛る矢を向けた!


 「どこのどいつか知らんが、この俺が祓ってやるっっ! こぉの、お耽美野郎ぉぉっ!」


 矢塚は人間とは思えない跳躍力を見せ、空中でステージの目標に狙いをつけた……その覇気に振り向かされた美形の男は頭上を見ると、自らを指差し固まる。


 「え……お、お、俺?」

 「おい、矢塚っ! そっちは仲間だ、ホストだ、トオルだ、男だ! 隣だ、隣!」


 観客席から聞こえる草間探偵の指摘を受けて、隣に立つ男に狙いを変える矢塚。わずかに冷えた頭で確認すると、確かに絶世の美女というべき女性の霊がむさくるしい男に憑いていた……矢塚は勝ち誇ったかのような表情を見せながら叫ぶ。矢を持つ手に緊張が走った。


 しかし、今まさに矢を放とうとしている彼に突然の不幸が起こった。


 「悪霊っ……」

 「ダメですの〜〜〜〜〜〜〜〜っ!」


 どこからか聞こえてくるいたいけな少女の制止が矢塚の心をわずかに揺さぶった。電話では伝えきれない何かがあったのかと矢塚の心に迷いが生じたその時だった。


 「ロケットパンチ……!」


 実生活では絶対に聞かない言葉とともに、何かの発射音が矢塚の背後で起こった……聞き慣れない言葉を耳にして、自分の台詞を発しながら疑問を解決するために後ろを見る矢塚。周囲の混乱は矢塚への言葉にならない警告がすべてを物語っていた。


 「あ……あ〜あ〜あああっ!」

 「退さぁぁ……んがあぁぁぁあっ!」


 『ガコッ』


 本当にロケットパンチが飛んできているとは夢にも思わなかった矢塚はそのまま背中を強打し、蚊取り線香にやられた虫のように地面へ垂直落下した。全員の視線が上から下へと移動する……その後、主人の手元から離れた弓矢は乾いた音を寂しく立てたのだった。矢塚の記憶はここで切れた。



 「ん……あたたた……ど、どうなってるんだ、今回の依頼は!」


 記憶を取り戻した矢塚を草間探偵たちが取り囲んでいた。背中を押さえながら元気に草間に食って掛かる矢塚を見て、零が安堵の表情を浮かべた。


 「矢塚。お前な、ちゃんと依頼の内容を最後まで聞けよ。今度の依頼は芝居をやって安らかに昇天させることなんだ。あんなもん持ち出されたんじゃ、俺たちの苦労が水の泡だぜ。」

 「あんたらの苦労って……あ……」


 多くの人間の前で説教をされていたくご立腹の矢塚だったが、ステージや周囲を取り巻く役者たちが着ている衣装を見てやっと草間の言っていることが理解できた。もう少し文句を並べようと思っていた矢塚はその言葉たちを一気に飲みこむ。円の中心で小さくなりつつある青年に向かって、シルクのドレスを身にまとった少女が心配そうに声をかけた。


 「さっきはごめんなさい……身体は大丈夫ですか?」

 「普段から鍛えてるからな、あれくらいなら大丈夫だ。」

 「私はファルナ・新宮です〜。今日のお芝居、矢塚さんも麗華さんのために一肌脱いでくれませんか? 私の大切な方……その方も、成仏し切れない幽霊さんなんです。何だか、他人事と思えなくて……」


 悲しそうな顔をしながら必死にお願いするファルナ。少女を泣かせてまで無理に除霊することもないだろう。安らかな気持ちを胸に彼女に返事をしようとした矢塚の目に不思議な物体が飛び込んできた……それはファルナの隣にいた。右腕を触っているメイド服の女性がファルナと一緒になってお辞儀をしていた。


 『お願いします。』

 「さっきのロケットパンチは、私が作ったメイドゴーレムのファルファがしたものです……ごめんなさい。」


 再び主人と同じタイミングで何度も細かいお辞儀を繰り返すファルファ。その様子がよほど面白かったのか、さっき矢塚に狙われたトオルという青年が愉快に笑った。矢塚は記憶の底で、彼がホストであることを聞いたような気がした。


 「こんな美しい娘の申し出を断る気かい、シュウくん?」

 「まさか、こう見えても俺は文芸部所属だ。歯の浮くような台詞は任せろ。」

 「あ、ありがとうございますですの〜!」


 ファルナが今度は感謝のお辞儀で身を大きく屈めた。それを見てから、矢塚は麗華が乗り移っている男に向かって話し始めた。彼の目には本来の麗華の姿が見えている……それは本当に美しい女性だった。凛とした表情が印象的だ。彼女は矢塚の視線を感じて、ファルナと同じように挨拶する。


 『浅野麗華だ……よろしく。』

 「ああ、成仏できるようにがんばってくれよな。しかしこんな美人がそんなことを考えるなんて……ふふ、世も末だな。」


 麗華は皮肉っぽく笑う矢塚の言葉の意味を理解できなかった。ただ不思議そうな表情を浮かべてそこに立っていた。奇妙な間がふたりを包んだ……
 それを打ち壊さんとばかりに演出家がぶっきらぼうに台本を矢塚の目の前に差し出した。それには大きな文字で「矢塚専用!」と書かれている。それを差し出した張本人の顔を見て、矢塚は露骨に嫌な表情を浮かべる……


 「シュ、シュライン……さんが……脚本?」

 「待ってたわよ、千両役者〜。台本には適当に目を通してよね。本当に適当なことしか書いてないから。もう他のみんなは準備できてるんだから。衣装は下手にハンガーでかけてあるから着替えてね。あと、ほとんどアドリブになると思うからそこんとこもよろしくね。出番のない時は上手で待機。とりあえずはこんなとこだけど、いい?」


 気に入らない演出家の指示だったが、ファルナや麗華に「協力する」と言った手前、無下にするわけにもいかない。言われたことをしっかり記憶した上で頷き、しぶしぶ準備に取りかかる矢塚だった。それを合図にまた周囲が慌しくなった。ファルナはファルファとともに発声練習をしているし、トオルは麗華の緊張をほぐしているようだった。そう、劇の開始まであとわずかである……



 シュラインが号令を出し、劇の開始まで数分と迫った時だった。何かのアニメで見たような衣装を着せられた矢塚は台本の後ろの方を読んでいた。通しで読んでおこうと思い、自分の出番まで台本を開いてそれに目を通す。そんな彼の陣中見舞いだろうか……小さな猫がどこからともなく忍び寄ってきた。その猫は矢塚の台本を一瞥した後、静かに「ニャオン」と鳴いて、さっさと来た道を戻っていった。矢塚はここで飼ってる猫だろうと思い、特に気にも留めずにいた。そしてけたたましいベルの音とともに、ついに成仏のための芝居の幕が上がるのだった……



 序盤、舞台の上でロマンスが繰り広げられた。ステージには、中世ヨーロッパを思わせるような舞踏会が再現されている。その豪華さは目を見張るばかりだ。本当に設置したかのようなきらびやかなシャンデリア、巧みなダンステクニックを披露しつつも控えめに踊るエキストラ……一流の劇団でも用意できないようなセットを見て、草間と零は開いた口が塞がらない。彼らの隣で座っているシュラインは満面の笑みを浮かべていた。すべては彼女の徹底した情報収集と研究の結果だった。シュラインは麗華の好みを演出していた。
 そんな舞踏会の中をさまようのが主人公の麗華だった。自前で用意したというオスカルのような衣装は彼女本体には似合うのかもしれないが、本来の依頼人である鴻池の身体にはまったく似合わない。逆の意味で、彼も舞台で映えて見える。そんな心配はよそに、麗華は必死に演技を続ける……エキストラの踊りをかいくぐり、上手から下手へと歩く。そこに清ました顔をしたファルナが出てきて、ドレスのすそを両手で上げてご挨拶をした。麗華も一礼する。

 すると、ファルナはひとりで優雅にダンスを始める……舞台の明かりが落ち、小さな女優をスポットライトが追いかける。そのダンスは音楽を弾ませ、観客たちを熱中させる。


 「必死になってるとは思えないくらい……ダンスが上手じゃないか、あの娘。」


 舞台袖で見ている矢塚も思わず賞賛の言葉を発した。彼女のダンスが終わろうとした時、着なれないドレスが災いしたのか、ファルナは足を取られてしまい麗華に向かって倒れこんでしまった。慌てて彼女をオーバーアクションで支える麗華。


 『大丈夫ですか……お姫様?』

 「ええ、大丈夫ですわ。お気遣い、ありがとうございますの……」

 『名前……あなたのお名前は……』

 「ファルナ、です……」


 ふたりのロマンスは一気に盛り上がっていく雰囲気だった。矢塚は急いで自分の出番を確認し、スタンバイを始めた……いよいよレイカの親友である矢塚の登場である。しかし、彼は口元を大きく歪めていた。彼のピンチは舞台袖から始まっていた。



 物語は進み、舞台の上にはふたりの男が立っていた。少し前から自分の苦悩を朗々と語る麗華を、その親友役として出演している矢塚が見守っていた。彼はめがねを外していた。さっきのオーバーアクションを見た時、柄になく笑い転げてしまいそうになってしまったからだ。あまりにそれがはっきり見えると成仏できないような大失敗をしてしまいそうだったので、こうなった。


 『どうすればいい……僕はどうすればいい……!』

 「どうもこうもないだろう。お前が思っていることはひとつじゃないのか。君を阻む砦が何だ、君を襲う苦難が何だ!……君の愛は揺るぎないものになってるんじゃ、ないのか?」


 『お姫様であるファルナと駆け落ちしたい』と言う麗華に親友としてアドバイスを送る矢塚。その言葉は中途半端なものではなく、しっかりとした意味を持ったものだった。観客である草間や零、トオルたちと同じように、彼もまた芝居に入りこんでいる者のひとりだった。

 そんなふたりのやり取りの中、颯爽とひとりの貴婦人が上手から現れ、麗華に駆け落ちのリスクを語り始める……ゆっくりとした足取りで麗華に迫る彼女は甘く誘うような言葉をかけ、震える顔を人差し指で軽く撫でる。まさに妖艶という言葉がピッタリの悪女だ。


 「あなたの愛が本当ならば……うふふ、態度で示すこともできるでしょうね。それがあなたにできるかしら……?」

 『う……うう……エリゴネさん……あなたの言うことは……確かに……』


 悩んでいる麗華に言葉をかけようとするが、矢塚の関心はどうしても貴婦人に行ってしまう……彼は雑念を振り払い、なんとか台詞を吐き出した。


 「何を悩むことがあるレイカ! お前の心の奥に、彼女の……ファルナの愛があるんじゃないのか!」


 矢塚は息を荒げて叫ぶ。その姿を見て不敵に笑う貴婦人は、今度は矢塚の傍にやってきた。そして彼女は、彼にだけ聞こえる声で台詞とは違う言葉を耳元で囁いた。


 「ニャオン……なんてね。ふふふ……」

 「おっ、お前ぇ!?」


 ロケットパンチと同じで、またしても不意を突かれてしまった矢塚。さっきの猫がまさか彼女だとは思ってもみなかった。その驚きが声になってしまい、最悪のアドリブになってしまったのだ。脳みそをフル回転させ、場を繕おうとする矢塚……


 「何を……何を、考えてるんだ?」

 「ふふふ……何でしょうね。」


 きれいに台詞を繋いだ後、矢塚は麗華と並んで立ち、エリゴネを睨む……彼女はただ不敵に笑っているだけだった。彼女のその姿でさえも、観客たちには優雅に映るのだろう。矢塚は首筋に嫌な汗が流れていくのを感じていた……



 再びファルナと出会った麗華は親友である矢塚の励ましを内に秘め、エリゴネの誘惑を断ち切り、ついに駆け落ちしたいと告白した。ファルナは麗華の申し出に対して静かに頷く……そしてそのやわらかな頬を麗華に向け、その目を閉じた。いよいよクライマックスである……天井からは白い花吹雪が舞い、ふたりのラストシーンを彩った。
 しかし、この時だけは誰ひとりとして物語に入り込む余裕はなかった。目の前に映る映像は、いい年したオッサンがいたいけな少女の頬に無理やりキスするようにしか見えないからだ。舞台袖に残った矢塚もこの見たくもない風景を見守っていた。

 ファルナの動作を見て、麗華が頷いた……その時、事実上の演出家であるシュラインが立ち上がり、トオルに『あること』を確認する。彼女の両手にそれぞれ人の形をした式紙が握られていた。


 「トオルくん、麗華さんにちゃんと教えてあるわね!」

 「ああ、バッチリ。『男はキスする時に目を開いちゃいけない』ってね。ホントに女の子も恥ずかしがるから、普通はしないことだし。」

 「上等! ごめんね、武彦さん……最後の最後で脚本を変えちゃうわ!」

 「ど、どうするんだよ! 今さら変えたって……ファルナは……」


 鴻池の分厚い唇がファルナの頬を捉えようとした瞬間、シュラインが腕を交差させた……その紙は「ファルナ」と「矢塚」と書かれており、ちょうどそれぞれが今いる場所と同じ間隔で開かれていた。麗華の唇が頬に接触する頃、ヒロインはシュラインの陰謀で矢塚に代わってしまっていた。矢塚は自分の頬を襲う無駄に柔らかい感触で、やっと自分とファルナの場所を替えられたことに気づく。


 「ムニュッって……? ぐ、げ。」


 彼はビクッと震えたかと思うと、白目をむいてそのままの体勢で固まってしまった……固まったのは彼だけではない。観客たちも突然の出来事にあ然としていた……唯一、物珍しそうな表情で舞台を見ていたのは猫に戻ったエリゴネだった。彼女はなぜか必死に舌を動かしていた。

 頬から唇が離れたのを見計らって、シュラインはファルナを元の位置に戻した。彼女は目を閉じていたため、何が起こったのかわかっていない。目を開くときょろきょろと周囲を見渡した……その刹那、鴻池の身体からある女性の姿がおぼろげながらに出現した。それは今にも四散しそうな勢いだった。絶世の美女とも言えるそのビジョンこそ、本当の麗華だった。麗華は改めてファルナの頬にキスをした……しかし、その唇は決してファルナに届かない。それでもファルナは彼女のぬくもりを感じたような気がした。観客は今度こそ、静かにそれを見守る……


 『ありがとう……僕の……お姫様……ありがとう、皆さん……』


 穏やかな微笑みを見せながら、麗華はその存在をこの世から消した……彼女は満足して消えていったのだろう。それを見て、ファルナが涙ぐみながらも笑顔で送った。


 「さよなら……麗華さん……」


 なんとも言えない雰囲気が草間たちの心に響く。観客はどんな表情をすればいいのか、しばしの間悩んだ。



 しかし、それも本当につかの間だった。舞台袖から怒り狂った矢塚が舞台脇に置いていた矢を番えて登場し、鴻池もその記憶を取り戻してむっくり起き上がったのだ!
 それを見た観客席の面々は同じタイミングで後ずさる……ファルナとファルファだけが状況を飲み込めずにあたふたしていた。そんなふたりを無視して、被害者ふたりは劇中でも聞けなかったほどの大音量で恨み節を奏でる。


 「シュラインさぁぁ……ん、俺がオッサンとキスなんて……そんな脚本になってるなんて聞いてないですよぉぉぉ!!」

 「えっ……俺、もしかして……もしかして男とキスしたのか??」


 全員の視線がシュラインに向けられる。憎悪、心配、押しつけ……さまざまな思惑を一身に受け、彼女は仕方なしに喋った。


 「あんたたちねぇ、年頃の女の子に傷つけるわけにはいかないでしょうが! 仕方がなかったのよ、緊急避難よ、いいじゃない! 矢塚くんは尊い犠牲よ、美しい自己犠牲よ!」

 「なんて女だ! 悪魔みたいな人だな、あんた……ってなんですか、別にあんたから聞くことなんか何も……」



 「お肌に張りがあって……女の子みたいだった。君の頬。」



 「お前から死ねぇ!! 全部、ぜぇぇんぶ燃えてしまえぇぇ〜〜〜〜〜っ!!」


 ついにプッツンしてしまった矢塚は動くものすべてに矢を打ち始めた……阿鼻叫喚の劇場内を駆け巡る仲間たち。シュラインは草間や零を守るように見せながらその影に隠れてコソコソしていた。トオルも服を焦がされてはたまらないと身を屈めながら逃げまくる。矢塚の足元でいまだにきょとんとしているファルナに、お尻に火がついてしまって大騒ぎの鴻池。そして悠然と火矢を避けながらあくびをするエリゴネ……

 次第に混乱は大きくなり、火災報知器やスプリングラーまで作動する大騒ぎになってしまいましたとさ……もちろんその弁償で全員の報酬が目減りしたことは、言うまでもない。



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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】

1781/佐和・トオル  /男性/28歳/ホスト
1493/藤田・エリゴネ /女性/73歳/無職
0086/シュライン・エマ/女性/26歳/草間興信所事務員
2058/矢塚・朱羽   /男性/17歳/焔法師
0158/ファルナ・新宮 /女性/16歳/ゴーレムテイマー


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■         ライター通信          ■
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皆さんこんばんわ、市川 智彦です。今回もお楽しみ頂けましたでしょうか。
前回とは打って変わって、ギャグを前面に打ち出してみました。
とりあえずギャグが好きです。ギャグが大好きです……ということで書きました。

そんなこんなで多くのキャラクターさんが集まって見事なデコボコ劇団大結成です(笑)。
特に今回の矢塚くんはありえないくらいデコボコです。本当にいじり倒しました。
こんなシリアスなキャラを、ここまでギャグキャラになってしてもいいのかどうか……
と、悩んだ結果がこの通りです(笑)。今度はシリアスな彼が書いてみたいですね(笑)。

ちなみに……他の皆さんとの文章にかなりの違いがあります。特に矢塚くんは意図して変えました。
ここでは書き切れなかった部分やそれぞれの描写はそちらで反映しています。
ぜひ違った視点での物語も楽しんでやってください。これからもよろしくお願いします!