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<東京怪談ノベル(シングル)>


京都竹林樂

「……、」
 鶯張りの廊下を歩いていた涼は、足許に響くきゅ、きゅ、という小気味の良い音の中に笛の音を聞き付けて足を止めた。
 京都二日目、長閑な秋晴れの遅い午後だ。
 ひょい、と伽藍堂を覗き込んだ涼は、其処に、彼が宿を借りているこの家の家人でもある楽人の姿を見つけた。
「──や、お早うさんどす。よう眠れはりましたか、」
「いえ……、何だか緊張しちゃって。……こんな立派な家に泊まったのも初めてだし、興奮してたのかな」
 愛想良く訊ねて来た彼に本当の事が云える訳も無く、涼は大分端折った返事をした。
「所で、……それ、」
 涼が気になっていたのは、楽人の手に在る笛だ。視線に気付いた楽人は、ああ、とそれを軽く持ち上げて見せる。
「気になりますか? 良ろしかったら、どうぞ」
「良いんですか? ……済みません」
 涼は恐縮しつつも、好奇心には勝てずに笛を拝借した。
 雅楽で使う笛のイメージとは違い、実際に持ってみると意外に大振りだ。確りした手当たりの横笛は、深い緑と云うよりはやや黒に近い、玉虫色のような静謐な艶を放っている。
「能管、でしたっけ」
「良う知ってはりますなあ、若いのに。……けど残念、似てますやろ、せやけどこれは竜笛です」
「竜笛、」
「ちょっと構いませんか、」
 催促されて、涼は慌てて笛を返す。受け取った楽人はそれを構え、口に当てがって一声を奏した。

──……。

「……、」
 ポ──……と云う、丸みのある暖かい音だった。静かな京都の朝に良く映える。涼は思わず姿勢を正して聴き入った。
「どうです、ちょっとボヤーッとした感じの音でっしゃろ。中に喉の入ってる能管やと、もうちょっと締まった音になる」
「……凄い音ですね。何て云うか、単純に良い、って云うのとも違う、……心に染みると云うか」
「ええ笛です。こんな音はちょっと出ません。竜笛云うんは竹を使うんですが、それにも色々方法がありまして。これは『八ツ割りの笛』云うて、縦に細かく割いた竹の、表皮の部分を裏にして型に嵌めたものです。この方法で作ると、年数と共に竹が痩せてしまうんですが、それを予防するのに、上から、……ほら、こう、樺巻と云う覆いを巻いてあります」
 楽人は笛を示しながら涼に詳しい説明をして呉れた。涼はただ首を縦に振って話に熱中した。
「安物にはこの樺巻に藤の皮を使うんですが、最高のは桜の皮です。この笛を作ったんは京都の職人ですが、こだわる人でね、樺巻には八坂の桜、胴には嵯峨野の野宮竹、それぞれ最上級の素材を厳選して。……京都には誂えの笛ですわ」
「……嵯峨野、か……」
 涼はその竜笛を見詰めながら呟いた。
 嵯峨野の竹林は、最近観光名所になりつつある所為か有名なイメージがある。流行に疎い所のある涼でさえ、嵯峨野、と聞くと薄闇の竹林の中を、そう、この竜笛の音のような静謐な、一陣の風が葉ずれのざわめきを伴って吹き抜ける幽玄な情景を思い浮かべた。
 今回の京都旅行はそもそも、大学の命令で学会に出席しなければ不可なくなった教授に人件費ゼロの助手としてお伴した訳だが、その代償と云うか、二泊三日の滞在中、今日一杯と明日の出立までの時間は自由に観光しても良いと云われていた。教授自身は大学時代に世話になった病院の挨拶廻りが有るが、それには付き合わなくて良い、と。
 涼はこの機会だ、以前から興味のあった寺院や神社などを出来る限り散策してみようと思っていた。その第一候補が神泉苑だったのだが、謀らずもその敷地内に寝泊まりすることになったので、──とすれば、市内でもう少し足を伸ばしてみるか、と朝から考えていた。
「……行ってみようかな」
「嵯峨野ですか? そらええわ、最近は観光地になってしもうて、地元民にしたら車屋が煩うて適わんけども、野々宮の竹林あたりは未だ、ええ景色が残ってますさかいな」
 極めた。涼は楽人に礼を述べ、そうと極まれば早速出発しようと立ち上がった。
 ──その時だ。
「──……鬼に気ィおつけやす」
「……、え?」
 低い声で何か、云われたような気がして涼は振り返った。が、楽人は何事も無かったように気の好い笑顔を浮かべて「楽しんでいらっしゃい」と送り出して呉れた。

「おう、御影」
「……教授、宿酔は大丈夫なんですか」
 客間に戻った涼は、彼もまた出掛けらしい、身支度をして涼しい顔で常からの偏屈者の仮面を被り──掛けている教授と出くわした。
「莫迦野郎、大丈夫な訳無ぇだろ。ああこれだから縦の繋がりの世界は厭だ。何が悲しくてあんな阿呆共に頭下げて挨拶に行かなきゃならないんだ。……御影、お前も医者になりたいなら覚悟しとけよ。先ず母校の大学病院だろ、それに研修医時代の病院、その時の担当医、それから──。……全く、未だ頭がガンガンする」
「……挨拶はともかく、頭痛は教授の自業自得ですよ」
 涼は大分彼に冗談を云う余裕も出来て、苦笑を浮かべながらそう云い放った。
「……このガキ、云うに事欠きやがって。……レポート、少しでも手を抜いたら単位落としてやるからな」
「大丈夫です、手は抜きませんから」
 全く、と教授はこれ見よがしの溜息を吐いた。厭々何かをやらされている人間と云うものは、少しでも他人に不幸のすそ分けをしたがるらしい。
「で、お前どうすんだ、今日は」
 然し、割と細かい事を気にしないらしい教授は次ぎにはあっさりと話題を変え、涼に訊ねる。
「あ、そうだ、嵯峨野に行く積もりなんです。ここからはどう行けば良いですか?」
「嵯峨野? ……そうだな、嵐電が良いだろ。今どき古臭ぇ路面電車だ。お前の趣味に合う、多分な。駅はここから少し歩くが、……待てよ、地図書いてやる」
 彼は口は悪いが気安く手帳を開いて線を引き始め、そうしながらも「しかし一体、こんな所に何を見に行くんだか、このガキは」と呟いた。
「……ああ、渡月橋か。あんなもん一人で見てどうする。どうせなら何年か後に女連れて来い」
「……、」
 もうこの教授が何を云おうと驚くものか。涼は「まあ、そう出来れば良いですけど、彼女なんていつ出来るかな」と適当な相槌を打った。
「どうでも良いが。人力車の客引きに引っかかるなよ、お前、ぼーっとしていつの間にか車に乗せられて、結局ぼったくられそうな感じだから、注意しといてやる」
「……気を付けます。……教授こそ、母校で地が出ないよう気を付けて下さいよ」
 意外に繊細で整然とした手書きの地図を涼に手渡すと、教授は「お前に云われんでも分かってる。俺を甘く見るなよ」と全く威張れはしない事を自慢気に吐き捨てて先に出て行った。

 昭和と云う時代と共に忘れられたような空気が、そこには在った。教授云う所の「古臭い」路面電車の窓から眺める京都の町並みはどこか暖色のフィルターが掛かったように懐かしい。
 観光名所化し過ぎて、演出を狙ったのだろうがそれが逆に安っぽく逆効果を生んでいる其処此処に竹のモチーフをあしらった京福嵐山駅はともかく。そこから石畳の散策道を歩くと、教授や楽人が煩わしそうに予告していた車屋や土産物屋の掛声さえが暖かい活気に溢れて涼の目を楽しませた。
「すみません、野々宮神社はどちらですか?」
 涼は手近な土産物屋の売子に訊ねた。
「ああ、野々宮さんどすか? そこの道を上がったら左に竹林が見えますやろ。そこの道を入って貰うたら直ぐですわ」
「竹林を抜けるんですよね、分かりました、どうもすみません」
 道を訊ねたついでだ。涼は京都土産としては定番の八ツ橋の菓子箱を一つ、買い求めた。荷物になるから帰り際にしようかとも思ったが、生物だし、東京に帰って直ぐにまた大学が開ける為、期限内に届けられる保証も無い。倖い、クール便の手配も店で手配して呉れると云うことだ。宅配用の伝票を貰った涼は、東京の某探偵事務所の住所と、そこの主と同居人の名前を連名で書いて渡し、精算を済ませて竹林に向かった。

「──……、」
 野々宮の竹林は、イメージを裏切らなかった。
 無への懐古の念を行く者に抱かせる、表道の喧噪から切り離された薄闇の世界、青い若竹の香りが鼻孔を掠めた。
 ──その中で涼は葉ずれの音の中に、朝とよく似た良く通る音を捉え、立ち止まった。
「……、」
 凛としたまでに繊細な直線の蔭の中に目を凝らす。
 ──何か、白い影が見えた。
「……あ、」
 だが、その白い姿は涼が良く見極めようと目を細めている瞬間の内に、ふっと消えてしまう。──見間違いか?
 暫く、その場に立ち尽くして居た涼に勢い良く小さく、敏捷な身体がぶつかった。
「あ、すいませーん!」
「莫迦、何やってんのよ、お兄さんごめんなさーい!」
 ……修学旅行の中学生だろう。制服を着た数人の少年少女の一団が神社の方角から、微笑ましい程姦しく歓声ともつかない謝罪の言葉を口々に叫びながら駆け抜けて行った。
「こら、お前ら大人しく出来ないのか、──どうもすみません、大丈夫ですか?」
 付き添いの教師らしい男性が涼に詫び、此れもまた慌ただしく彼等を追って歩き去って行った。 
 何とも騒々しい。一瞬、何かに感応しかけた涼の意識をはっきりさせるには充分な出来事だった。
──気の所為、かな。
 元気の良い中学生達の背中を苦笑混じりに見送りながら、涼は軽く頭を振った。
 ……中学生と云えば……。
「……どうしてるかな、勝明に亮一さん」
 まあ、土産も送ったし。育ち盛りの中学生を抱える探偵は喜んで呉れるのではないだろうか。あの探偵事務所、最近来客も増えたようだし。

 涼は気を取り直し、傾斜のある竹林道を再び登り出した。
 縁結びで有名な神社に何を祈るでも無いが、小ぢんまりとしながらに静かな時間の流れる境内を暫く堪能してから、其処を後にしようとした涼の目に神社と向かい合わせに建っている藁葺きの小さな家が留まった。
「……?」
 こんな所に、──何だろう。
 戸は開け放たれて居る。衣紋掛けに遮られて中の様子は見えないが、向かいの神社は参拝客でそれなりの賑わいを見せていると云うのに、これほど近い位置に在る民家の中は不思議な程に静まり返って居た。
 妙に生活感の無いその家は、地元民の民家でも無さそうだ。
 涼は後ろめたさを感じつつも、注意されれば謝って引き返せば良いだろう、と結論付けて中を覗いて見る事にした。敷居を跨いだ所で神社を振り返ってみたが、誰一人その家にも、そこへ入って行った涼にも注意を払った人間は居ない。
「……済みません、……お邪魔します」
 上がり框から、中へ遠慮勝ちに声を掛けてみる。静かな中に、涼の声はよく通った。
 相変わらず空気はしん、と静まり返り、奥からは人の気配も彼に答える声も聴こえない。
「誰か、居らっしゃいませんか」
 再び、やや声を張り上げて奥へ向けて問い掛けた。……が、結果は同じだ。
「……、」
 駄目だな。
 興味が湧いた所で、少し残念ではあるがまさかその中に勝手に上がり込む程常識知らずでも無い。涼は溜息を一つ吐いて引き返そうと踵を返した。
「……!」
 一歩を踏み出そうとした所で、涼は全身を竦めた。
 何時の間にか戸口に、白い法衣を着、網代笠を目深に被った男が立っていたのである。──その彼の手には、見覚えの在る横笛が在った。
 一見、虚無僧のような装束だが涼の特異な神経には彼の気配が尋常な物とは到底思えなかった。が、涼がその笛の細部や彼の気配へ注意を向けようとしたのを遮ってそれを賺すように、声が発せられた。
「……どうされました、……御用がお在りでしょう、……お上がりなさい」
 どこかで聴いた声だ。何処で、誰の、だったろう。涼が記憶の糸を手繰り寄せている間に、彼は足袋の上に履いた草鞋を脱いでさっさと上がって行く。
「ここの家の方ですか? 済みません、何の建物だろうと思っていたので、──」
 涼は慌てて弁明したが、振り返った彼はそれには答えず、ただ促すように無言で頷いただけだった。
 そして、衣紋掛けの奥へと消えて行く。
「……、」
 どうしたものか。涼は判断に迷ったが、──昨日の今日、だ。何か在るならとことん経験して置こうと云う気になり、「お邪魔します」と断って後に続いた。

「……で、どうしたよ、その牛若丸は」
「牛若丸じゃありませんよ、教授、何を聞いてたんですか、」
 ──嵯峨野、野々宮神社からもさほど遠く無い場所にある、明るい雰囲気のジャズ喫茶の一階だ。予め時間を極めて待ち合わせていた教授が現れるや否や、彼を掴まえて事の次第を打ち明けた涼は彼の恍けた返答に思わず語調を荒げた。
「何を興奮してる、お前らしく無ぇぞ」
 昨夜の事は、酔って覚えていないのかそれとも忘れた振りをしているのか、「何を夢みたいな事云ってる」と云う冷めた目で教授は珈琲を啜る。殊更、不作法にずず、と音を立てて。
「……すみません。でも、俺がいつ牛若丸なんて云いました? 嘘とか冗談を云ってる訳じゃないんですよ、真剣に聞いて下さい」
 涼は、つい平生の穏やかさを忘れた事を恥じつつ、気を鎮めるべく彼に倣って、こちらは静かに珈琲に口を付けた。
「……聞いてるよ。竜笛だろうが。んなもん、極まってるだろ、京都、竜笛、着物の男。ほれ見ろ、三つ揃った、牛若丸だ。知ってるか、牛若丸が吹いてた笛ってのは竜笛だったんだぞ」
「そうだったんですか。……いや、違う、そうじゃない。教授、俺はそんな事を聞いてる訳じゃ無いんです」
 彼に聞く可きじゃ無かった。涼は軽い後悔を感じた。

 涼の打ち明けた体験談はこうだ。
 あの後、男に続いて家に上がり込んだ途端、涼は自分が真っ暗な空間の中に居る事を知った。
 ──何故……。
 閉め切った家の中でも、外は未だ明るいのにこんな、自分の手許も見えない程の真っ暗闇になるとは思えない。それに、男の姿も無く、慌てて見遣った入口さえ見え無かった。つい今、そこを通って来たばかりだと云うのに。
「──……、」
 涼が声を上げようとした寸前、彼の目前で火のが上がった。

──鬼火、
 
 咄嗟に、そんな言葉が脳裏を掠めた。声を飲み込み、思わず左手を握り締めた涼の額には冷たい汗が滲む。
 
──あ……、
 
 鬼火に続いて響いたその音色を聴いた時、思い出したのだ。
 あの男の声、聞き覚えがあると思ったのが何故だったか。
 何処で聴いた、誰の声だったか。
 ──竜笛の音色、そのものだったのだ。

「で、音楽が終わると同時に鬼火も暗闇も消え、不思議の国の御影君は元通り野々宮神社の石段の前に立って居ました、と」
「教授……どこまで巫山戯れば気が済むんですか」
 ここまで来ると殆ど悲しくなって、涼はこめかみを押さえた。この中年男の本性は大分分かった積もりだが、それにしても先程からの戯け方は度を越している。──作為的な程だ。
「あ、悪い悪い。で、何の曲だった、その音楽は」
「分かりませんけど、こんな感じでした」
 早八拍子のリズムを、指先でテーブルを叩いて取りながら涼が口ずさんだ盤渉調の旋律を教授は腕を組んでじっと聴いていたが、記憶が途絶えて詰まった所で頷いた。
「ああ、そりゃあれじゃ無いか、『竹林樂』。唐楽のな、昔の中国で葬式の時によく演ってた曲だ」
 流石は、見た目に由らず元雅楽部員だけある。
「竹林樂……、」
「……なあ、御影」
 考え込んだ涼に、教授は不意に真剣な表情になってそう囁いた。
「お前、ちょっとおかしいぞ。疲れてんじゃ無いか。どうせ突っ立ったまま夢でも見たんだ、気にするだけ時間の無駄だぞ、とっとと忘れちまえ」
 疲れているとしたら誰の所為ですか、とは云わず涼は彼の顔を真直ぐ見詰め返した。
「夢じゃありません。それだけははっきりしています」
「阿呆。お前は幼稚園児か。それとも電波でも受けたか」
 酷い言い種である。涼は首を振った。
「どうして、そう否定して掛かるんです?」
「あまりに莫迦々々しいからに極まってんだろうが。忘れちまえ、と云ってるのが分からんか?」
「……本当です」
 途端、教授は苛立ったように音を立てて椅子から立ち上がった。
「……教授?」
「そんなに気になるなら、もう一度行って見れば良いだろう。俺も入ってやる、それでも何も無かったら、諦めろ、──良いな?」
 そうして、涼の同意を待たずにカウンターへ向かうとさっさと精算を済ませて教授は外に出る。急いで彼に続きながら、涼は、教授が何を頑なまでにそう否定するのか、ふと不思議に思った。
 
「──ほれ見ろ、何も無いじゃねえか。ただ珍しいってんで保存してるだけの骨董品だ」
 再び、野々宮神社の前の家を後にしながら教授は涼を軽く小突いた。
 確かに、教授と二人して上がり込んだ家の中はただこの辺りの関係者の休息所と思しいただの民家で、鬼火らしいものも虚無僧の姿も、何一つとしておかしい物は無かった。
「……確かに……」
「いい加減にしろよ、お前、でなきゃ頭がイカれるぞ」
「……、」
 そんな遣り取りをしながら、すっかり夜の闇に沈んだ竹林道を歩く。

──……、

「教授!」
 竜笛だ、涼は竹林を振り返り、教授を呼んだ。
「何だ、また笛か? 俺には聴こえんぞ、──全く、寝言も程々にしろ」
「……、」
 そして、教授は半ば強引に涼の腕を引き、どこか焦ったように表道まで来るとタクシーを呼び止めて早々に乗り込んだ。

「いいか、明日にはもう東京に帰るんだ、つまりだな、医学のお勉強がお前の帰りをお待ち兼ねだ。下らん事はさっさと忘れて、さっさと寝て、頭を冷やすんだな」
 屋敷に戻ると、何故か怒ったように教授はそれだけ涼に叩き付けて自分は先に風呂を貰う、と彼を取り残してしまった。
「……、」
 未だ、釈然としない。涼は廊下に立ち尽くしたまま、また教授に追い縋るのも客間へ行く気もせずにぼんやりしていた。
「……や、お帰りやす。どうどした、嵯峨野は」
「……、」
 不意に、愛想の良い笑顔で涼を出迎えた楽人に涼は迷いつつも事の顛末を教授の不可解な態度も含めて打ち明け、「これはどういう事でしょうか」と相談した。
「──ああ、そうですか……」
 教授とは違い、穏やかに話を聞いていた楽人は涼が言葉を切ると、ふっと意味深長な表情になって深く頷いた。
「……まさかとは思うて多少は心配してましたんやけど、……ほんまに遭うてしまわはってんやなあ」
「……何に、です?」
「御影さん、」
 楽人は、やや神妙な表情で涼を真直ぐ見据えた。
「あんたが遭わはったんは、──鬼や」

 ──京都に伝わる、「鬼の笛」と云う古い民話がある。
 昔、京都に笛の名人が居た。その名人の笛は竜笛だったと云われる。
 彼は夜毎、京都の町を歩きながら笛を吹いていたが、やがて、毎晩道の向こうからやって来る、自分よりも上手い笛を吹く男を見掛けるようになる。
 良く見れば、彼は鬼であった。
 ある夜、名人はその鬼から笛を教わる事を思い付くが、途端に鬼は消えてしまう。其れは、幻だった。
 
「それだけの話ですわ。まあ、なあ。遭うても不思議やないけど、まあ、どうって事はあらへん、気にせんことですな」
「……あなたと云い教授と云い、何故そんなに忘れろ忘れろと云うのか、俺にはそれが不思議です」
 つい、無礼かとも思ったが涼はそう訊かずには居られなかった。
 だが、楽人は気を悪くした様子は無く、──変わりに、やや思惑気な笑みを口許に浮かべて「なあ、御影さん」とゆっくりした口調で告げた。
「……何でや云うて、……忘れた方が良いからですわ。 分かりませんか、鬼の正体が何であるか」
「……何なんです、笛、ですか」
「そんなもんはただの切っ掛けに過ぎませんわ。よう考えてみなさい、鬼は、その存在に語りかけようとしたら消えてしまうんです。答えては呉れんのですわ。……さあ、分かりますか、物語の中で名人が遭うた鬼、それから御影さんの遭わはった鬼の正体。……そんなもんは、いつまでも後生大事に覚えてるもんやありません。気付く事もありますやろうけど、いつまでも覚えていたらあきません」
「……分かりません、何なんですか、それは」
「……、」
 楽人は涼を追い越した。引き止めようとした涼より先に、数歩先で立ち止まった彼は背を向けたまま一言だけ、然しよく通る声で云った。
「……鬼は、遭うた人間の心に居る者です」
 人間が誰しも持つ影の部分。──何かの切っ掛けで見てしまった人間の目に、それは鬼として映る。
「気ィ済みはりましたか。……ええですね、……忘れるんですよ」
 そう、振り返って告げた楽人の笑顔は再び穏やかで愛想の良い京都人のものに戻っていた。
「……、」
 取り残された涼はようやく一本の筋が通った一連の現象を思い返しながら、どうしたものかと途方に暮れた。

──忘れた方が良いからですわ。気付く事もありますやろうけど、いつまでも覚えていたらあきません。……誰しもが持つ、自らの暗黒の面、鬼としての姿など。