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<東京怪談ノベル(シングル)>


赤い月暈

 山はどこまでも深い。高い、とも言える。そして冷たくもあり、暖かくもあり。優しく人を迎え入れる時もあるが、場合によっては厳しく突き放す。山はあらゆるものの命を与え、命を奪う。そんな山奥にひっそりと建つ神社、そこの片隅にこれまたひっそりと存在する座敷牢が、朔夜の自室である。

 座敷牢と言っても言葉程には物騒でなく、ただ窓脇に鉄格子が嵌まっていたり、部屋への出入り口が妙に強固だったりするだけで、暮らす分には何の支障も無い。壁が他の部屋よりも厚みがある分、余分な雑音を通さない事は結構良い事であったし。ただでさえ静かな山奥にある神社であるのに、そのうえこの座敷牢に居ると、ここだけ空間を切り取って、現世と遮断されているのではないかとの錯覚にも囚われかねない。人によっては、その孤独感に耐えられないと言うかもしれないが、仕事で疲れて神経が高ぶっている時の朔夜なら、それぐらい静かな空間の方が、荒ぶる己の中の鬼の血を普段以上に容易に鎮められるような気がした。

 その日も、朔夜は仕事を終えて心身ともに疲れ切った身体を引き摺るようにしてその座敷牢へと帰り着いた。調伏には多大なる精神力を要する。そして、その精神力の消耗は、同時に体力をも削り取る。結果、調伏を終えた後は、身体全体が水を吸った綿のようにずっしりと重く、一時も早く帰って休みたくなる。チャイナ服を着替える余裕もなく、朔夜はそのまま敷いてあった布団の上に、その身を投げ出す。どさりと、柔らかい布の上に何かが倒れる音が、静かな山の中に吸い込まれていった後は、もう何も音は聞こえなかった。朔夜の寝息でさえ、音もなく山間を吹く風に紛れてしまい、まるで息をしていないかのような静かさだった。

 山はどこまでも高く。朔夜が帰り着いたのは夜中だっただろうか、朝方だっただろうか。それとも夕方だったのか。本人も覚えておらず、また思い出す事もなく静かな深い眠りについていた。ただ、精神だけは多少高ぶっていたのだろう、帰り着いてすぐなのか、幾度目なのかは分からないが、深夜、何かに突き動かされたような気がして、朔夜はふと薄目を開けて目覚めた。

 …………。

 突き動かされたと言っても、身体を揺さぶられたとかそう言う訳ではなく、心の中に触れられたような感じだった。具体的には何かに呼ばれたような気がしたのだ。求められたと言うよりは、本当にただ単に朔夜の名を呼んだ、と言う感じだった。だが、こんな時間に自分を呼ぶ人に心当たりはない。しばらく薄目を開けたまま、耳をそばだてて入り口の方に神経を集中させてみたが、再び自分の名が呼ばれる事はなかった。それで朔夜は、気のせいだったのだろうと結論づけ、中途半端に目覚めてしまった事への自嘲的な軽い苦笑を、その細面に滲ませる。布団の上でごろりと身を翻し、仰向けになる。ふと、視界に何かが飛び込んで来たような気がした。朔夜がその方へと首を巡らせ、鉄格子の掛かった窓を見上げた。そこには、窓に切り取られ、鉄格子で遮られた深く暗い夜空にぽっかりと浮かんだ、禍々しいばかりの赤い月が、朔夜をじっと見下ろしていたのだ。

 何故か、朔夜の脳裏には、実の兄の姿が思い浮かんだ。

 月が赤く見えるのは大気中のエアロゾルの量がとか、そう言う類いの赤さではなかった。まさに生きた血を滴らせたような赤。恐らく、今、天空にある月を赤いと思っているのは朔夜ただひとりなのだろう。これは、月そのものが赤いのではなく、朔夜が見ているから赤いのだ。つまり、これは朔夜の心の中の月、なのだ。
 赤い月は不吉な証拠、と昔から言われる。今では地震の予兆とか言われる事もあるが、もしもこの赤い月が朔夜にとっての不吉な予兆なのだとすれば、それは実の兄妹でありながら自分の命を狙っている、兄の事なのだろう。だが、朔夜がさっき、ふと漏らしたあの言葉は、それらを踏まえての呟きでは無かった。

 闇夜の中で、その縁を僅かに溶かして浮かぶ赤い月は、何故か寂しそうにも見えたのだ。そしてそれはきっと、朔夜の思い違い、或いは思い込みと言う名の希望。赤い月の寂しさは、実の妹の命を狙わざるを得なくなった兄の苦悩、と取りたかったが、実際は分からない。兄は、同族を裏切り、今なおその命を奪い続けている自分を憎んで、その命を狙っている。だとすれば、愛する兄の為には、この命を捧げる事が女としての本望なのかもしれないが、だがそれは朔夜には出来なかった。
 命が惜しいのではない。自分には、まだしなくてはならない事がたくさんあると思うから。

 ひとりの愛する誰かの為にではなく、大勢の愛する誰か達の為に、この身を捧げた朔夜だったから。例え、その大勢が不特定多数で、朔夜が日々、調伏の為に身も心もへとへとになるまで頑張っている事なぞ誰も知る由もなく、当然、感謝される事もない、としても。

 だから、もしも兄に、朔夜が今している事の理由を求められたら困ったかもしれない。人間が好きだから、人間の為に、それだけの理由では納得して貰えないかもしれない。自己満足だろうと言われれば、そうかもしれないし、好きだから、と言うのなら愛する兄の為には何もしないのか、そう言われれば、答えに窮するかもしれない。
 それでも、今、もしも本当に理由を問われたら、そうとしか答えようがないし、そしてまた、兄の事を愛している事も事実であった。
 自分の心の機微さえ、はっきりとは分からない。実の兄とは言え、他人の心なら尚更。

 兄が、ただ自分が憎くて命を狙っていると、そう思いたい時もあるのだ。
 愛する兄が、望まない行為に心を引き裂かれながら、武器を手にするぐらいなら、と。

 赤い月は、時が経てばそのまま西へと沈むのだろう。
 そしてまた、東から顔を覗かせて、夜の間中、空から朔夜を見詰めるのだ。