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<東京怪談ノベル(シングル)>


スコール

「Cheers!!」
 
 歓声と共に黄金色の飛沫が一斉に上がった。
 輪の中心に居る、落ち着いた雰囲気の男性は来客達の挨拶を受けながら会釈を返し、グラスを合わせている。
 この日、高名な画家である彼の新居披露パーティが、吹き抜けに設えたホールの即席宴会場でささやかながらも華やかに執り行なわれていた。
 彼は最近、東京郊外の海辺に土地を買ってアトリエを兼ねた洋館を建てた。街中を離れ、閑静な水際を生涯の住処に定めた意図は定かではないが、ともかく今日は取り引きのある画廊や美術商の経営者や顧客、パトロン等が集まっての内祝いだった。
 来客の一人であるセレスティ・カーニンガムはやや離れた場所に、ステッキを支えに静かに佇んで主役の画家を、穏やかな微笑を以て眺めていた。
「ちょっと、失礼」
 ようやく挨拶が一段落した所で、画家は自分を取り巻く来客へ断った。歓談に嵩じる輪の中を抜け出した彼は、やや忙し無くホールを見回し、セレスティを見つけると真直ぐに近付いて来た。
「カーニンガム総帥、……本日はわざわざお越し頂きまして、……」
 恐縮し切ったような表情。セレスティは優雅な手付きで、軽くグラスを掲げた。
「あ、これは、どうも」
 慌てて、ややセレスティよりも下に画家はグラスを掲げる。そこでセレスティは彼を制し、「今日の主役はあなたなのですよ」と彼のグラスを上方に留めた。
「──乾杯」
「乾杯、……恐縮です、総帥」
 軽くシャンパンを煽ったセレスティが気安さを見せているのに、彼の堅さは解れない。
 日本の画壇では油彩画で名を為し、五十代も半ばにして大家とされた彼は別段、この晴れの場の空気に対して緊張している訳ではない。ただ、セレスティへ向かい合うのが気恥ずかしい、そんな風だ。セレスティはやや、それを寂しい気持ちで眺めた。
「あの頃はもっと親しく打ち解けて下さいましたね」
「あの時は、」
 吊られてシャンパンを、──こちらは一気に──煽りながら、画家は言葉を詰まらせた。
「……未だ、若くて。怖いもの知らずでした」
「覚えていますよ。非常に元気の良い青年だった。……確か、こう云われましたね。『ただそうやって車椅子に座っているだけの君に、何が出来る』と」
「……何とお詫びすれば良いか……」
 彼の畏縮の度合いが更に増し、アルコールの所為もあるのだろうが頬に朱が差した。
「どうぞ、忘れて下さい。……若気の至りです。今、私の目の前にそんな無礼な若者が居れば引っ叩いている所です」
 セレスティはくす、と真剣な表情で弁解する彼に笑いかけた。
「そんなあなただから、陰から見守る気になったのですよ」 
 ──そうだった、と画家は思い出す。三十年前と何ら変わらない、この美しい財閥総帥の笑顔を。初めてこの顔を見た時、ひっそりと水辺に咲く白い水蓮の華のようだ、と彼は思ったのだ。

 ──三十年前、日本は昭和という時代の半ばだった。非常に騒々しく、野蛮な活気に満ちていた。
 当時、一介の画学生である彼はその日、覚束無い足を引き摺って海岸沿いを歩いていた。
 風の強い日だった。──恐らく、嵐になる。
 横殴りの雨が、彼の全身の血を洗い流した。それでも其処此処に受けた傷の跡や痣は消えはしない。潮を含んだ風が触れる度、それらは悲鳴をあげて痛みを訴えた。私刑の跡だった。
 殺伐とした時代は、彼のような芸術家を受け入れなかった。同年代の学生複数人から、さんざん軟派と詰られた挙げ句の私刑である。
 抵抗しようと思えば、微力ながらに出来ないことは無かっただろう。だが、彼はそうはしなかった。寧ろ、──こんな身体など、いっそ粉々に砕けてしまえ、とばかり。自暴自棄になっていた時だった。
 画学生の片手には、傷付いた身体には手に余る三十号のキャンバスが引き摺られていた。砂浜には、彼の足跡とキャンバスの角が引いた曲りくねった線が延々と続く。
 ──彼は、一部始終を見ていた。嵐の中の砂浜から、車椅子に沈めた身体は激しい雨を気に留める様子も無く静かに、静謐な青い瞳には一人の興味深い人間の姿を映して。
 怪我をしているようだが、その身体でこんな雨の中を三十号キャンバスをずるずると引き摺って砂浜を歩く青年の姿は気狂い沙汰である。暫く、静かに見守る事にしたセレスティの目前で青年は波に足を取られて躓いた。
 
「……、」

 雨に打たれて波打ち際に倒れ込んだ姿は余りにも痛々しい。徐ら、セレスティは車椅子を押して青年に近づいた。
 ──波の音、雨音、風の悲鳴に混ざって彼の無言の絶叫が聞こえた。

──何て事だ、ここまでしてもこの絵が描けないなんて! ……俺が聖書の世界を描き切ろうなんて思い上がったのが間違いだった。……だが、大体、神の救いなど本当にあるのか、こうまでして、ただ、この絵を描くことだけが唯一の望みである俺に何の教示も与えない神など、……。

「……、」
 
 直ぐ傍まで車椅子を寄せたセレスティの存在にも、青年は気付かなかった。彼の精神は、激情に駆られて周囲の全てが見えていなかった。
 砂浜に投げ出された描きかけのキャンバスにセレスティは視線を向けた。──朧気な視界ながらに、主題は理解出来た。

──……良いザマだ。連中、好き放題云いやがって、それでも、俺は遣り返さなかった、右の頬を打たれて左の頬を差し出した人間にさえ、神はただ一景のインスピレーションも与えてくれない。……もう、神など信じるものか、こんな絵、……止めだ! 止めだ止めだ、もうどうにでもなれ!

「お止めなさい」

 びくり、と両手で掲げたキャンバスを海へ投げ出そうとしていた画学生は動きを止めた。振り返った彼は初めてセレスティに気付いたらしく、驚愕に目を見開く。その驚きようと云えば、無かった。

──何だ、この……、一体何時、何処から、……人魚か、こいつ……。
 
 偶然だろうが、云い得て妙だったのでセレスティは思わず笑みを洩した。
 青年は中途半端な位置に立ち尽くしたまま、先程までの興奮が冷めた代わりに混乱を来して往生している。
「どうなさるお積もりです、その絵を」
 穏やかに、然し強風に消えない強い声でセレスティは訊ねた。
 青年の身体が震えている。寒さの所為か、正気に戻って満身創痍の身体が痛み出したのか、或いは目の前の不思議な存在感を持つ麗人への畏れか。
「……どうしようと、俺の勝手だ」
「そうですね。……その通りです。然し、少しお待ちなさい。冷静になってよく考える事です」
「考えてどうなるものでも無い! こんな絵、どうせ俺には仕上げられやしない」
「何故、そう思われます? ……良い主題です」
 脱力した青年の手を離れ、砂浜に落ちたキャンバスには周囲の嵐と同じ色彩が載っている。
 旧約聖書の、「モーゼの奇跡」だ。未だ荒い筆の跡ながらに、その主題ははっきりと伺える。
「……何が。……俺には描けない。そもそも、在りもしない神の奇跡を描こうなんて考えが莫迦げてたんだ」
「在りもしない、本当にそうお考えですか」
「当然だ!」
 一際鋭い風が吹き抜けた。後に続く雨も強さを増す。
「……そうですか。ならば私は引き留めません。……ですが、最後によくお考えなさい。その絵は、あなたの運命そのものです」
「何を……、」
 雷光が閃いた。セレスティの視界に、風に嬲られた彼の白銀色の髪が踊る。
 強風と雨で、画学生の前髪は額に貼り付いていた。その間に煌めく瞳の輝きは鋭く、口唇は小刻みに震えていた。
「……君に、絵の何が分かる。俺の絶望が、君には分かると云うのか!」
「……絵は、好きです」
 
──何を云ってるんだ、こいつは。
 俺は、ずっと信じて来たんだ、自分の才能、未来を。神が、絵の道を俺に示して呉れたなんて莫迦みたいな事を、ずっと信じてここまで来たんだ。
 俺には描ける筈だった。民衆を連れて海を渡ったモーゼの奇跡が。
 だがどうだ、俺にはイメージすら出来なかった! こんな事は初めてだ。絵を描き始める時には、いつだってイメージがあった。明確なイメージだ。俺はただそれをキャンバスに写す、それが画家の仕事だ。
 描けると信じていたイメージが見えない画家なんか!
 あまつさえ硬派の連中には私刑に遭うし、神の教え通りに抵抗さえしなかったのに、俺の目の前の海はただ荒れ狂うばかりでイメージすら与えて呉れやしない! まるで俺を嘲笑するようだ、
 俺の絶望が、こいつには分かってるのか、……こいつも、どうせ俺を揶揄かっているんだ。

「……あなたのように真摯な人間を、私は笑いはしませんよ」
「何だと、」
 画学生は更にセレスティから身を引く。彼の足は海に入った。
 ──何故、俺の考えている事が分かるんだ。こいつ、本当に人魚か、それとも悪魔の類か。
「……先ずは落ち着きなさい。……こちらへ。危ないですよ」
「もうどうなったって良いんだ、こんな身体。もう、生きる意味なんか無いからな」
 ──聞き分けの無い。
 セレスティは穏やかに微笑したまま、片方の眉を僅かばかり持ち上げた。
「元気が良ろしいようで。……然し、不可ませんね。若い内は感情に任せて早まった行動を起し易いものです。後から後悔しても、遅いですよ」
「……、」
 今迄とはやや調子の異なるセレスティの言葉を聞いた青年は、畏れつつも引き寄せられるようにセレスティの前へ歩み出た。
「もっと、近くへ」
 誘う優雅な手、──然し、その静謐な青い瞳に在るのは嘲笑や怒りでは無く、優しい、限り無く優しい、──神のような、慈愛に溢れた色だ。青年はその青色に吸い込まれるように彼の前へ身を屈めた。
「……、」
 白い手が痣を残した頬に触れた。
 冷え切っていた画学生の頬は、一瞬優しい暖かさに包まれたと思うと、その鈍い痛みがすっと引く。
「あ」
 青年の口唇から驚愕の呟きが洩れた。

──神の手……、

 目を閉じ、同じように腕や脇腹に負った無数の傷を癒して行くセレスティに身を任せた画学生の表情は一種、恍惚としていた。

「……どうです、少しは気分が落ち着きましたか?」
「……、」
 我に帰った画学生は全身を見下ろし、信じられない、と呟くと改めてセレスティを見詰めた。
「一体、君は……」
「落ち着きましたね。……さあ、もう一度よく考えてご覧なさい。……その絵を、どうします」
 画学生は、雨に打たれたままに打ち捨てられたキャンバスへ視線を落とした。どうしてもイメージの湧かないままに、荒々しく筆を叩き付けて描いた「奇跡」、──そして自らの絶望の跡。
「信じない、……もう神の奇跡なんか信じない」
「頑なですね」
「信じない!」 
 そして画学生は指先をセレスティに突き付け、この一言を吐き捨てたのだ。

「何が出来る、こんなのはまやかしだ、ただそうやって車椅子に座っているだけの君に、何が出来る!」

「私を信用するか、しないか。それは些細な事ですよ。どうでも良い事です。然し、先程も忠告しましたがその絵はあなた自身の運命です。一度は、挫折するものですよ。全てが信じられなくなる事でしょう。そこで全てを捨ててしまうか、絶望を乗り越えて自分の未来を信じるか。……それは、あなたには非常に大きな事です」
「駄目なんだ、どうやったって。俺には才能なんか無かった」
「才能が何だと? 才能などと云う言葉、それに何の意味があります?」
「そんな事はどうでも良い、……もう、疲れたんだ」
 悲鳴のような叫びだった。
「……良いのですね。その絵を、……あなたの未来を捨ててしまって」
「……、」
 ──本当は、信じたい。
「……見せてくれ。……こんな、傷を消してしまう程の奇跡を起した君が、若し本当に捨てては不可ないと云うのなら、俺にイメージを、『奇跡』を見せてくれ」
「……、」
 セレスティを見つめる瞳には、真摯な切実さがあった。
「……良いですよ。見せて差し上げましょう、……あなたの『未来』を」
 
──……、

 荒れ狂う嵐、風が、雨が止んだ。凪の訪れのように。
「ご覧なさい」
「……、」
 恐る恐る背後を振り返った画学生は驚愕のあまりか、その場に膝を折って崩れ込んだ。

 海が割れ、静謐な青に透き通る壁が深遠に一条の道を示していた。

「……奇跡……、」
 セレスティは慎重に、車椅子から立ち上がった。身体を支えるステッキも無い、頼り無い足許だったが、彼は何とか画学生の傍らに立ち、細い腕を持ち上げて海の果てを指し示した。
「……進みなさい、海の向こう側へ。あなたの未来へ。……この壁は、優しい。覚えて置きなさい、この先、水はあなたにとって立ちはだかる壁ではなく、優しく見守る存在となる事を」
「……、」
 
 セレスティは再び車椅子に戻ると、未だ呆然としている画学生にこう云い置いて海岸を去った。
「今見たものは、あなたの未来そのものです。今、日本に居るのはあなたに取って良くない。外国へ行きなさい。もう、イメージは在るでしょう。先ずはその絵を仕上げて持って来なさい。東京にリンスターというアイルランドの財閥の、日本での拠点が在ります。……あなたの未来の為に、留学を援助します」

 ──。
「あなたは変わらない。……ずっと、若く美しいままだ。あの頃から、何も変わらない」
「あなたは何かお変わりになりましたか?」
「……分かりません。あの時は無知だが、勢いがあったと思う。……今では、そんな威勢の良さも失われてしまったようには思います」
「悪くない」
 少し寂しい事ですがね、とセレスティは微笑んだ。
「時々、戻りたいと思う事があります。……あの頃に」
「……それで、こちらへ?」
 セレスティは視線を外へ向けた。視力の弱い青い瞳、然しそれに映る海の水面ははっきりと見渡す事が出来る。
 ここは、あの日の海岸だ。
「一つだけ確かなのは、……あの日から今日の今まで、海は私にとって優しく厳しかった、……それだけです」
「それは何より」
 総帥、と呼ばれ、セレスティは視線を画家へと戻した。心無しか、彼の表情には昔と同じ無邪気な青年の色が現れていた。
「この際、総帥の前で気取っても始まりませんから、いっそ恥の掻き捨てでお目に掛けましょう」
「……?」
 小首を傾いだセレスティの身体を支え、画家は中央のテーブルへ歩を進めた。
「何を為さるお積もりです?」
「ほんの遊び、余興です」
 どこかはしゃいだ彼の様子に、セレスティの感覚が嘗ての満身創痍の血気盛んな画学生の姿を二重写しにした。
「本当は、ずっと楽しみにして居たんです、またこうして遭える日を。……未だ、子供ですね。何も変わってはいないのかも知れない。あなたの気を引きたくて、練習していたんです」
 そう云って画家は、白いクロスの掛かった伽藍としたテーブルの上にグラスを積み上げに掛かった。
 積み木遊びに嵩じる子供のように一心不乱な様子を、セレスティを始めとしたホール中の来客が微笑ましく見詰めている。
「……行きますよ」
 画家が頂上のグラスから一斉に黄金色の発砲酒を注ぐ。
 見事なシャンパンツリーに歓声と拍手が上がった。
「……、」
 拍手を送りながら、一番間近でそれを見ていたセレスティはふとある事に気付く。
「……、変わっていませんよ、あなたは。……無邪気な子供のままです」
 差し出された頂上のグラスを受け取りながら、セレスティは珍しく苦笑した。
 ──画家の悪戯だ。
 グラスを満たす濃い色彩の液体は、シャンパンでは無い。──ギネス。
 アイルランド産では最も有名なビールである。

※スコール[squall]強風を伴う激しい俄雨。/[skal](デンマーク語で)乾杯。