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人魚姫は2度笑う
私の書斎ははっきり言って、陽当たりがあまりよくない。もちろんそれはわざとそうしているのだ。
(強い光と)
高い気温。
それが私の弱点。
陽当たりのよい部屋は、そのどちらの環境をもつくってしまう恐れがあるから。
(それではくつろげもしない)
私の日課は、書斎で本を読んだりネットを楽しんだりすること。そのためにはまず、落ち着ける書斎でなくてはならない。
何故陽当たりの話など持ち出したのかといえば……日光は時として人を睡眠へといざなうが、日光などなくても当人に心地いい環境であれば人は睡魔に襲われる、ということだ。
(――簡単な話が)
私は今現在、とても眠いのである。
膝の上に本を広げたまま、ウトウトしている。机の上にはグラスに入った水が。
(このまま少し、仮眠でも)
覚悟(?)を決めると、本に栞を挟んで机の上に置いた。
「――あっ」
その本がグラスに当たってしまい、倒れる。眠気のせいで感覚まで鈍くなっているようだ。
グラスから飛び出した水は、机の上はおろか伝い落ちて絨毯までも濡らしていた。
(困ったな……誰か人を呼ぼうか)
いまだ眠い頭で考える。
――と。
「……?」
机の上に広がっている水が揺れた。気がした。
(何だ……?)
私は水を操ることができる。しかしこれは、私のせいではない。
もう一度、揺れた。絨毯に染みこんだはずの水ですら、揺れて……私を誘う。
――バタンっ!
「?!」
突然窓が開き、風が吹きこんでくる。水はそこから外へと飛び出していった。
「池か……?」
この屋敷には、小さいながらも池がある。その池の底は、ちゃんと海へと繋がっているのだという話だった。だから一応、満潮と干潮が存在する。
驚いたことで多少眠気が覚めた私は、車椅子に座り替えて部屋を飛び出した。
★
池の水位は、少し上がっていた。
(もう少しで満潮の時刻だ)
穏やかな水面を見つめる。
おかしなことに、先ほど私を誘った水の動きは、今は何一つ見られない。気配もない。
(一体何だったのだろう?)
わからないが、何も起こらないことに安心して、また少し眠気がぶり返してきていた。
「ふぁ〜〜ぁ」
大きな欠伸がでた。
――その時。
「!? 危な……っ」
不意に車椅子が押された。池に向かってとまっていた私は、後ろから押されたため池に落ちそうになる。思わず、車輪を抑えていた。
「誰ですか?!」
勢いよく振り返るが、誰もいない。
「…………?」
でも気配はしたのだ。視線を下へと下げる。
「あ」
「ご、ごめんなさい……ちょっと驚かそうと思ったの」
背もたれの陰に隠れていた少女が見えた。
「キミは……どこの子?」
日本の子供の一般的な服装とはかけ離れた格好をしていた。どちらかと言うと――そう、アイルランドの子供の格好に近い。
「あたし? あたしは人魚よ。水の中から来たの!」
その子は思いがけないことを言った。
「――で、人間の男に恋をして、想いを伝えるために人間になったと?」
「ええ、そうです! ロマンチックでしょ?」
瞳を輝かせて、少女はそんなことを告げた。
ここは書斎。結局また戻ってきたのだ。水は戻らなかったけれど、代わりに少女を連れて。
「でも本当は、あたしまだ恋してないんです。相手はこれから探すの!」
「……え?」
まるで物語の人魚姫のようだと思っていた私は、どうやら甘かったようだ。
「これから、探す……?」
「はいっ。あたし人魚姫にすご〜く憧れてたんだけど、なかなか人間と逢う機会がなくて。どうせなら人間になっちゃってから探そうかと」
「…………」
(なんて大胆な)
いや、命知らずと言った方がいいのだろうか。
私は思い切り頭を抱えた。
「キミそれ……叶わなかったら、泡になるのではないの?」
「ええそうですよ。でも相手が決まっていない分、人魚姫のお話より期限が長いんです!」
「どのくらい?」
「一ヶ月です」
「長っ」
確かにそれくらいあったなら、可能かもしれない。……やはり確率は、かなり低いだろうけれど。
「――ところで、何故うちの庭にいたのかな?」
ふと思って問った。
私とて元は人魚だ。少女が私のもとに現れたのが偶然とは思えない。
すると少女は恥ずかしそうに顔を赤らめて。
「あのー……一ヶ月間泊めていただけませんか?」
「やはり私を元人魚だと知っていて、ですか」
「だってあなた、有名人なんですもの! あたしたちみたいに、魔法を使ってではなく人間になったんでしょ?」
尊敬するような眼差しで、少女は私を見つめた。確かに私と少女では、人間へのなり方がまったく違う。
「そう。私は長い時間をかけて徐々に人間へと変化を遂げたのです。ですから、人間でいることに期限がない反面、完全には変化できていないのであなたのように歩けないし、視力も非常に弱いのですよ」
「ふぅん、期限がないのも大変なんだ」
「命懸けのあなた方よりは、そんなことないと思いますけどね」
私がそう告げると、少女はにこりと笑った。
(怖くないのだろうか?)
絶対に相手が見つかると、信じている?
そんな確証などどこにもないのに。
(あまりにも、無邪気すぎないか)
そして無知だ。
私は少女の未来を考えて、少し哀しくなった。
「――この家に泊まるのは構わないですよ。いい人が見つかるといいですね」
(せめて)
それを手伝ってあげようと思う。
「ありがとう!!」
少女はもう一度、満面の笑みを見せた。
★
ひと月は瞬く間に過ぎていった。
その間姫――本人の希望でそう呼ばされていた――は、午前中は私と一緒に過ごし、午後はどこかへ出かけていって夕食の時間に帰ってくるという生活を続けていた。
「いい人は見つかった?」
私が尋ねると、決まって。
「まあまあよ」
と答えていた。
それは最後の日の朝も、同じ。
「――姫?」
姫はあの池を、見つめていた。
「今からでも、一緒に探しに行こうか」
慰めるように、声をかける。
「…………もん」
地面にぺたりと座って、無心に一点を見つめていた姫が呟いた。
「え?」
「あたしの相手は、ここにいるからいいんだもん」
「! 姫……」
こちらを向いた姫は、既に泣いていた。
「っごめんなさい!!」
立ち上がり、深く頭を下げてくる。しかし私は何に対して謝罪されているのか、まったくわからなかった。
「あの日あたし、あなたをこの池に突き落とそうとしていたの」
「え?!」
そういえば車椅子を押された。それは憶えている。
「でも……」
「屋敷に忍びこんで、水に睡眠薬を混ぜたわ。そして水を使ってあなたをここにおびき寄せた」
「な――」
あの時妙に眠かったのは、そのせいだったのだ。
「何故そんなことを……?」
「だって帰ってきてほしかったんだもん! 水の中に、帰ってきてほしかったのっ」
「どうしてキミが……」
見ず知らずの人魚に、そんなことを言われるとは思ってもみなかった。
姫は視線を私から池へと戻すと。
「――あたし、独りになりたい時はよくこの池に来てたの。あたしの秘密基地みたいな場所だった。そして……あなたに恋をしたの。それであなたが元は人魚だったってことを知って――水の中に入ったら、その心地よさを思い出してくれるんじゃないかと思って……」
「あたしの相手は、ここにいるからいいんだもん」
私はやっと、その言葉の意味を知った。
「でもできなかったの。あなた車椅子だったし、もし泳げなくなってたらどうしようって思って……」
私は車椅子をもう少し姫に近づけると、上半身と腕を伸ばして、姫の頭を撫でた。
「!」
「姫……私は最初から、水の心地よさを忘れてなどいませんよ。ただ帰りたいとは思わない。私の居場所は、既にこちらにあるから」
再び私と目を合わせた姫は、軽く頷く。
「うん知ってる。この一ヶ月、一緒に暮らしててわかったの。だからあたしも、それでいいかぁって」
私はその姫の言葉に、少なからず驚いた。
(私は元々、恋愛には不審を抱いている)
特に男女の恋愛には。
求め合う先には、繁殖の二文字しかないような気がして。
(でも姫は違う)
私が自分の居場所を持ち、幸せならばそれでいいと。たとえ自分が泡になっても――
(それは同じだ)
”人魚姫”の最期と同じ。
「姫……」
「あなたが哀しい顔をすることはないわ。選んだのはあたし。全部あたしの責任で選んだんだもん! 折角だから笑って、お別れしよう?」
「ええ――あ、お名前を聞かせていただけますか?」
せめて名を呼んであげたいと思った私に、姫は首を振った。
「それはだめ。呼ばれたら泣いちゃうもん。あたしはただの人魚姫でいいの。物語の中の人魚姫が何度消えたって、誰も哀しんだりしないでしょ? 人魚姫は読まれるたびに、世界中で消えているのにね」
にこりと、姫は笑った。そうして立ち上がる。
「あたしはそういう存在でいいの。あなたがあの物語を読むたびに、思い出してくれたら」
「必ず」
姫の身体が少しずつ後ろへ傾いてきているのを悟って、私は短く応えた。その私に応え、姫はもう一度笑う。
「さよなら――」
思わず立ち上がって伸ばした手は、届かなかった。
――バシャンっ
人とは思えない軽やかな音を立てて、姫は水に消えた。
(姫……)
身体を車椅子に戻して、私はしばらくその池を眺めていた。
――動けなかった。
(なんて潔い)
恋人を来てから探すなんて言った姫を、私は「大胆だ」と思っていたけれど。本当は潔いだけだったのだ。
1を望めば、1を失うことを知っている。それを受け入れられる。
(”姫”と呼ぶに相応しい)
賞賛に値する存在だったのだ。
見つめる先で水面が揺れ、波紋は姫の笑顔を描く。それは無意識に私がしていたこと。
(やってきた時に2度)
帰る時に2度。
姫は笑っていた。
とても幸せそうな顔で。
それを私のせいだと思うのは、悪い気分じゃない。
(姫が消えたのは私のせい?)
そう思うよりずっと、姫は喜んでくれるだろう。
そんなことを考えながら、私はしばらく水面を見つめていた――。
(終)
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