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<東京怪談ノベル(シングル)>


2冊目の表紙


 夕暮れどきは闇に繋がっている。
 傾いた太陽が空を橙や紅蓮や紫紺に染め上げ、影は長く伸び、昼間は明るかった商店の間をも闇に変えてしまうのだ。
 海原みなもはそれに気がついていないが、これから知ることは出来る。
 彼女にとっては、普通のいつもの夕暮れだった。
 学校帰りの頭の中は妹のことと夕飯のことで一杯で、みなもは八百屋や魚屋を覗きこんでは、特売品をチェックした。
「あ、カレイ」
 3枚で250円。みなもは口元を綻ばせて、裏返しにされたカレイの載ったザルを取り上げた。途端に、拡声器でも使っているかのような大声が降ってきた。
「や! お嬢ちゃん、それでカレイ最後なんだ。お嬢ちゃんカワイイから200円にまけちまおう!」
「えッ?! い、いいんですか?」
「いいんだいいんだ。毎度あり!」
 みなもが呆然と開いた財布から、魚屋のおやじは約束通り、100円玉を2枚だけ取り上げていった。ビニールに入れられたカレイ3枚を受け取って、みなもは苦笑を浮かべ、ぺこぺこしながら魚屋の軒先を出た。
 カレイと言えば煮つけしか思い浮かばないが、家に帰ってからレシピ本を開いてみるのもいい。煮つけの作り方しか知らなくとも、「カレイはどんな料理にも使える」という話は知っているのだ。それでも、メインの料理にするのなら、こってりした味になるだろう――つけ合わせはさっぱりした酢の物で、味噌汁の中には豆腐とネギを……あの妹は、魚が好きだ。
 みなもの頭の中は、やはり妹と夕飯のことで一杯だった。
 夕暮れが生み出した影には気がつかなかった。
 両手にビニール袋を下げて、そろそろ帰ろうと思うまでは。

 ――。

「え?」
 みなもはふと振り返る。
 だが、周囲にいるのは主婦や子連れの若奥さんばかり。
 しわがれた声に相応しい、老爺の姿はどこにもない。
 だが、呼ばれたように感じたのは確かだった。
「……帰ろ。はやく……」
 それでも、
 靴屋と金物屋の間、暗い小路に気がついてしまった。
 普段なら目をくれることもなく通り過ぎてしまう、小路への入口が口を開けて待っている。傾いた日は、小路の中を照らすには至らない。
 みなもはその影を覗きこんでしまった。


 古本屋だ。
 みなもはぞっとして肩をすくめた。両手のビニール袋が、かさこそと呟いた。
 おぼろげながらもみなもの記憶に爪痕を残す、『本』の影。しかし、みなもはべつにあの夜から、あらゆる本を恐れているわけではなかった。本屋には行くし、古本屋の前を通っても特に恐怖など感じない。
 だがその小路に佇む古本屋は、どこか恐ろしいものだった。
 ――帰ろ。はやく帰ろ……カレイがわるくなっちゃう。
「おじょうさん」
 返そうとしていた踵は、ぴくりと固まってしまった。
 みなもは恐る恐る声へと顔を向けた。
 いつの間にか小路に立っていたのは、人の良さそうな初老の男だった。埃で汚れた古いエプロンをかけていたが、妖しさや異様さは感じられなかった。ただその声は、80を越えた老人のようにしわがれていた。
「本は好きかね」
 おそらく、あの影の中にある古本屋の店主だろう。彼はにこにこと愛想のいい笑顔を向けてきて、みなもはとても無視できなかった。
「き」
 思わず、そこで言葉をつまらせた。
「嫌いじゃないです」
「そうか」
 店主は嬉しそうに笑って、みなもを手招きしたあと、古本屋に入っていった。
 ――だめよ、行っちゃ。帰るのよ。カレイがわるくなっちゃうし……
 しかしみなもは、まるで惹かれるように、影の中へと足を踏み入れてしまっていた。
 

「これは『畏るべき安寧』という『本』なんだ」
 店主は最近手に入れたという掘り出し物をみなもに差し出してきた。
 みなもは夕飯の材料を古い床に置いて、『本』を受け取った。著名な画家の画集ほど大きく、ずっしりと重かった。湿っているようで、乾いていた。
 適当にページを開いたみなもはそこで、息を呑む。
 奇数ページには挿絵が、偶数ページにはびっしりと文章が載っている本だった。見たところ、英文ではなさそうだった。一見すると未知の言語に、素晴らしい色彩の挿絵がついている――いや、絵に文がついていると言うべきか。
 みなもがはじめに見たのは、三叉の矛を持ったマーマンの絵だった。
 きらめく水面は、マーマンの頭上にあった。マーマンの矛はきらめいていた。目を奪われるほどの輝きが、その絵にはあった。ページをめくると、次に現れたのは、帆船に巻きつくクラーケン。
 波の飛沫の音、船乗りたちの悲鳴、ぬたぬたと甲板を這う触手の立てる音までもが聞こえてくる。否、聞こえてきそうだ。手を差し入れると、きっと海水に触れることが出来るのではないか。
 それほど、絵には力と息吹があった。
「その辺りは、海の魔物をとらえてある章だよ。他にも、森や山の魔物がいるんだ。……でも、おじょうさんなら……その目と髪の青さなら……」
 みなもはページをめくった。
「海が、似合うだろうなあ――」


 足元に置いたはずの鞄とビニール袋は、どこに行ったのだろう。
 カレイが、わるくなってしまう。


 みなもは海辺にいた。日本の海ではなかった。それどころか、世界中どこを探してもみつけられそうもない海が、眼前に広がっている。寄せては返す波は、ガーネットを溶かしたようなくすんだ赤で、それでも美しく見えたのだった。
 みなもはその水をすくおうと、手を伸ばした。
 悲鳴は出なかった。
 だが、ショックのあまりにみなもはよろめき、倒れ込みそうになった――
 その身体が砂浜に倒れることはなかった。
 海水をすくえる手のひらはどこにもなかった。みなもの肩から伸びているのは、吸盤がびっしりと生えた鉛色の触手であった。足は消え去り、代わりに12匹の海蛇が腰から生えていた。海蛇たちはみなもの意思などおかまいなしに、ずるずると這って、海水を求めた。
「いや、あたし、あたしは……」
 足が変化することには慣れている。あの『本』、きっとマーマンのページの前には、みなもか載っていたのではないか。どうせなら、前のページをめくるべきだった。次のページをめくってしまうのは、人の性というものなのかもしれないが。
 あアあ、がァあ、うオあ!
 聞き慣れない異様な咆哮が、みなもの肩で上がった。
 見れば、鮫のような牙を持つ魔獣の首が、肩についているのだった。
 海蛇たちが海へと帰る。
 柘榴色の海水に、みなもの顔がうつった。
 うつっていたのは、鱗に覆われてはいるが、美しい女の顔だった。
「あたしじゃない! あたしじゃない! こんなの、あたしじゃ――」
 だが、水面にうつるみなもの顔は、うっすらと幸せそうに微笑んだのだった。
 帰るべき場所をみつけた異邦人の笑みだ――

 すべてが影へと還るまえに、柘榴色の海面にうつった魔物の顔は、一瞬揺らぎ――
 赤紫の髪と緑の眼を持つ少女の顔に変わったような気がした。
 少なくとも日本人ではなかった。
 古めかしいサークレットまでつけていた。
『想って下さい』
 彼女は囁き、ぎこちなく微笑んだ。
『貴方様が本当に帰りたいのは、何処ですか?』
 夕陽。
 海。
 主婦たち。
 カレイが入ったビニール袋。
 鞄。
 制服。
 みなもねえさま! おかえりなさーい。ああん、おなかへったよう。
 ごはん炊いといてくれた? 待ってね、すぐ作るから。
 あ、言い忘れちゃった。
 ただいまぁ。


 みなもは身体を起こした。地面についた手は人間のもので、ローファーを履いた足は人間のもの。鞄と、食材が入ったビニール袋とは、目の前に置かれているかのような佇まいで落ちていた。
 顔を上げると、見えるのは自宅。
「何か、前にも……こんなことあったな……」
 そして、以前起きたあの事件の再来ならば――


 後日、みなもは豚ロース300グラムの入ったビニール袋を提げて、靴屋と金物屋の間に足を踏み入れた。みなもが思った通り、影の中に古本屋はなく――建物すらもなく、ただ壊れて錆びた自転車や、傘や、段ボール箱が雑然と積み重なっているだけだった。

 ――。

 ぴくりとみなもは身体を強張らせ、
 ――早く帰らなくちゃ。お肉がわるくなっちゃう……
 この夕暮れははっきりと踵を返し、影の中から、飛び出した。




<了>