コミュニティトップへ
高峰心霊学研究所トップへ 最新レポート クリエーター別で見る 商品別一覧 ゲームノベル・ゲームコミックを見る 前のページへ

<東京怪談ノベル(シングル)>


2冊目の本文


 ラクス・コスミオンに手紙が届いた。
 さらりと言える出来事だが、これは極めて異例な出来事だ。ラクスの現在住所どころか、出身地を知っている者さえめったにいないはずなのだ。古書店巡りから早めに戻ってきたところ、世話になっている屋敷の主から茶封筒を受け取って、ラクスは心底驚いた。
 何の変哲もない茶封筒で、差出人はわからなかった。
 何の変哲もない封書のように見えるが、実は何らかの術式が施されているのかもしれない。ラクスが知る探索の術を受けつけず、この封書の過去を見ることは不可能だった。
 口と爪を使い、ラクスはおっかなびっくり封書を開いて、手紙を読んだ。
 内容は手紙というよりも『投書』であった。
 ラクスは、文を追う目を疑った。
 彼女が日々探し求めている、『本』についての情報が綴られていた。
「親切な方……なのでしょうか?」
 ラクスは自分の言葉に自信が持てず、困り顔を傾げた。ある一点を除いて、ラクスにとって重要な情報はその手紙の中に詰め込まれていた。差出人の正体だけが、生命の定義のように韜晦されていた。


 もたらされた情報によれば、古本屋にある『本』は『畏るべき安寧』。
 有体に言ってしまえば、怪物図鑑だろうか。いつ頃の『本』なのかも見当がつかない古書だが、数百枚の挿絵はすべてがカラーなのだ。まるで写真のように、細部に至るまで美麗な色彩を帯びていた。偶数ページに載っている解説文はラテン語で、読む者の脳髄を蝕むとまことしやかに囁かれている。
 『本』の中では扱いやすい部類のものだが、秘められた力は厄介なほどに強力だ。人間にとってはまさに、『畏るべき』未知の力を持つ。ラテン語を読めない人間にも、文の力が影響を及ぼすことがあるほどだ。あの力を目の当たりにした人間はきっと、自分自身が畏るべき存在に成り得たのだと思い違いをするだろう。あの本には美しさと力がある。使いようによっては、不可能を可能にも出来る全能の『本』だ――
 『本』を畏るべきものだと捉えられない人間に、あの『本』の力を制することはできないだろう。
 ラクスは禁忌書架の奥で『畏るべき安寧』を一度だけ開いたことがある。
 ぱっと開いたそのページに載っていたマミーの挿絵が忘れられない。
 ぼろぼろの汚れた包帯が巻かれたマミーはもちろん、墓所の内部と思われる背景もまた、細部に至るまで正確に描きこまれていた。びっしりと壁やアーチに刻みこまれたヒエログリフには、ただ一文字の間違いもなかった。
 あれは、挿絵ではないのだろう。
 手を差し入れると、砂とミイラの渇いた肌に触れることが出来そうだった。
 あの『本』は、世界を抱えている。


 夕暮れどきは闇に繋がっている。
 傾いた太陽が空を橙や紅蓮や紫紺に染め上げ、影は長く伸び、昼間は明るかった商店の間をも闇に変えてしまうのだ。
 ラクス・コスミオンはそれを知っていて、いまがそのときであることに気がついている。
 ラクスは商店街が主婦たち女性の時間帯であることにホッとした。苦手な男性は店員くらいのものだ。主婦や子連れの若奥さんの波をかいくぐり、ラクスは夕陽がつくった影の世界を探した。手紙によれば、入口は靴屋と金物屋の間だった。

 ――。

 間違いない。人を呼びこむ術が施されている。
 この影は、人を喰う。
 そして、影の世界を知るものの侵入を阻む結界も張られていた。知識ある者が、『本』を手にしているようだ。厄介なことだった。
 ラクスは結界を紡ぐ糸をするするとほどき、難なく結界を通り抜けた。


 ばたん、と『本』が落ちる瞬間に立ち会うことが出来た。
 一瞬だったが、その直前まで『本』を手に取っていた人間の背を見ることも出来た。ラクスはその背に見覚えがあった。長い青い髪、白い肌、セーラー服というもの、水の気配、確かに以前助けたはずだ。
 いやはや彼女は被害者体質なのか、それとも、彼女が『本』を惹きつけるのか。
 ともかく、今回も助けてやらなくてはならない。彼女は『本』に喰われてしまった。
 『本』が落ちたその近くに、鞄とビニール袋が置かれていた。ビニール袋の中に入っている食材を見て、ラクスは彼女を救おうと思った。彼女には帰らなければならない場所がある。

 『本』を拾い上げた初老の男が、この店の店主であるようだ。幸せそうに微笑んでいた。我が子か孫を抱くように、『本』をいとおしんでいる。またしても男性だ。ラクスは怖々近づいた。
「……どうやって、入ってきたのかね」
 店主は驚いたようだった。いつかの紳士と同じ、結界を張っていたのだ――ラクスは侵入者である。
 ラクスはいつでも後ずされる体勢で、つっかえながら要求した。
「あ、あの、その『本』なのですが……返して、いただけませんでしょうか……」
「返す?」
 店主は戸惑ったような笑みを浮かべ、ラクスに1歩近づいた。
 対するラクスは、一歩退いた。
「で、ですから、その『本』です。危険なものですから、監視をつけながら保管しなければならないものなのです……から……ええと……」
 声はどんどん小さくなっていったが、ラクスは最後に勇気を振り絞り、
「返して下さい!」
 そう叫んだのだった。
 叫んだ途端に、ラクスは反撃に備えて肩をすくめた。
 しかし返ってきたのは、怒号でも反抗でもなかった。
 幸せそうで、嬉しそうで、可笑しげな笑い声だった。
「返せと言われても、返さなければならないものを持っていないよ」
「え……」
「これは、私の、『世界』じゃないか。あの子と私が生きている『世界』だよ……住人を増やして……もっと増やせば、あの子も寂しくないし……そうだよ、誰もいない『世界』など……寂しいだけじゃないか。そう思わないかい?」
 ラクスの気持ちは、暗く沈みこんだ。この男性に対する恐怖心は消え、ただ憐れみと悲しみが生まれてきた。涙さえこぼれそうなほどの情念だった。
「でも――でも」
 転がっている鞄。キュウリと大根、新聞紙に包まれた何かが入ったビニール袋。あのセーラー服。
「その『世界』に行った方々のすべてが、その『世界』を望んでおいででしょうか。愉しく賑やかな『世界』をつくるためには、住む人々が幸せでなければなりません。無理矢理『世界』に引きずりこまれた方々が、果たして幸せでしょうか……」
「きみは、そうだな、スフィンクスの『世界』がお似合いだ。きっとそこでなら幸せになれる」
「う」
「さあ、見てごらん。綺麗だから……」

 ラクスの眼前に広がったのは、ラテン語とスフィンクスの挿絵でつくりあげられた『世界』。
 この『本』の力もまた、無色透明であった。
 店主がいかに純粋な願いを抱いてこの『本』を使っていようとも、それはやはり欲望であり、悪だった。
 ラクスは仕方なく、『本』を見つめながら呟いた。
「ラクスではなく、貴方様が行くべき『世界』です」

「『トト神よ』 『本に眠りを』」

 ばたん。


 まだ、仕事は残っている。
 店主は望んで『世界』に行ってしまったが、彼のあの調子なら、きっとこの『本』に与えられた餌はあの青い髪の少女だけではないはずだ。
 ラクスは深呼吸をし、『本』を開いて、扉のページに前脚を乗せた。
「想って下さい」
 彼女は囁き、ぎこちなく微笑んだ。
「貴方様が本当に帰りたいのは、何処ですか?」
 『本』は――光に包まれた。
 幸福な光だった。いくつもの光球が飛び出し、空へと散らばっていった。
 それを見送るラクスの目は、少し暗いものだった。飛び去った光球の数が意外なほどに少なかったことに気がついたのだ。店主の言う通り、畏るべき『世界』は意外と幸福なのかもしれない。
 ――おじいちゃん。
 扉のページから伝わってくる笑い声があった。
 ――やっと来てくれたんだね。これからはずっといっしょよ。わたし、とっても幸せよ。おじいちゃんがいてくれるんだもの……
「わかりませんね……」
 ラクスは少なくとも、そう思うのだ。
 この『本』に対する畏れはあれど、一瞬覗きこんだあの砂漠の世界に、ラクスは魅力を感じることが出来なかった。
「この世界で幸福をみつけようとは、思われないのでしょうか――」
 『本』を閉じると、ラクスはそばに置かれている鞄とビニール袋に目をやった。
 持ち主のところに送り返してやろうと、彼女はすこし悲しい顔のままで微笑んで、ちいさく呪文を囁いた。


 ラクス・コスミオンは、人喰う影から難なく脱した。
 すでに日は落ち、世界のすべてが影に包まれていた。




<了>