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<東京怪談・PCゲームノベル>


殺虫衝動『コドク』


■さいごのこどく■


 冗談のように大きい蜘蛛がいた。
 天井からすべてを見下ろしていた、88の眼を持った蜘蛛を見た。

 御国将は倉庫の裏側の部屋に入ったまま戻らない。
 そうして数分が経過していたが、相変わらず周囲は静まり返っていた。

「あなたがかばってくれるとは思いませんでした」
 綾和泉匡乃の背中には、まだ押された感触が残っている。彼は苦笑しながらぱんぱんと手を払った。将に倉庫の外へ突き飛ばされて、バランスを失った折に、渇いたアスファルトに手をついてしまった。わずかに擦り剥いた手のひらが赤みを帯びて、じわりと血が滲んだ。
 その赤味と血も、匡乃が見つめるだけですうと消え失せた。
「いえ……期待していなかったのかな」
 将が自分を助けてくれるとは思っていなかった。予想外ではなく、期待していなかっただけだ。将はよほどのお人よしか、匡乃を仲間か友人にしてくれているらしい。
「仕方ない、助けますか」
 ようやく風が少しばかり涼しくなってきたような気がする。
 匡乃は倉庫を見上げて、苦笑を浮かべたまま溜息をついた。


「『それはあなた自身の影なのですよ』」


 紙切れが風に弄ばれているのを見て、百足に咬み殺された蛾を思い出した。紙切れは、破れた蛾の翅のようではないか。
 死んだ小野間のようではないか。
 自分は蛾を小野間と呼んだ。
 だからあの蛾は小野間なのだ。
 だが――自分は、あの百足を御国将と呼べるのか。
 否、あの百足は、ウラガである。


 匡乃はためらうことなくドアを開けた。
 御国将と刑事の姿はなく、狭い部屋の中央のテーブル上に佇んでいるのは、匡乃よりも大きな体躯の蜘蛛だった。何も言わずに、匡乃は蜘蛛の目を覗きこんだ。匡乃の視線には憐れみのような蔑みが混じっていた。
 この蜘蛛は己の心に負けた人間の慣れの果てだ。小野間や、倉庫の中で喰い合いをしていた蟲たちと同じ穴の狢である。
 しかし驚くべきことだろうか――
 88の眼には知性があって、苛立ちを支配しているようだった。
『タイラー・ダーデンを知っているか』
 かさこそと蜘蛛が動いて、囁いた。
 いや、蜘蛛が言葉を話したわけではないようだ。
 匡乃の視線は、自然と蜘蛛の足元に向けられた。彼はやはり、蜘蛛とは話そうと思わなかった。黙ったままの匡乃を瞬き出来ない目で見つめ、影は陰鬱な声で語り始めた。
『すべてを棄てて初めて人間は自由になれると、名言を遺した。だが、タイラー・ダーデンはどこにも存在してはいないのだ。はじめからどこにもいなかったし、最期を迎えてもどこにも行かなかった』
 蜘蛛の影が――
 すう、と盛り上がり――
 真っ黒な人間のかたちを取ると、電源が入ったままのノートパソコンの前に音もなく移動した。
『かつてネットの中でのみ、私は平だった。タイラー・ダーデンを抱えた名無しの主人公だったのさ。「世界」に囚われるまでは』
「あなたのご高説に興味はありません」
 ようやくそこで、匡乃は口を開いた。この蜘蛛は、しっかりとした知性を持っていることを知ったからだった。影が動いている間、異形の蜘蛛はじっと動かなかった。
「あなたがたは、『蠱毒』を作り上げようとしていますね」
『私が仕組んだことではないがな』
「……あなたが蟲を集めたのでは?」
『私は仲介役を買って出ただけだ。世界が望んだのだ……この世を呪う蠱毒を作り上げることを。今の我々は、世界を呪うためだけにある』
 影は慣れた手つきでマウスとキーボードを駆り、ゴーストネットOFFに代表されるオカルトサイトをまわっていく。
 すべてのサイトから、すでにムシの噂は消え失せていた。ログはきっと、半永久的に残る。おそらく、人間の記憶の中にも残るだろう。
 だが、すべては過去のものになっていた。
『蟲は単純な生命体だ。餌で誘い出すのは簡単なことだ。集まった蟲が何を為すかは、蟲に任せておいた。倉庫の中がどんなことになっているかは見たのだろう? あれが生命そのものの出した答えだ。――呪いだよ』
 影はムシの噂が消えたことに満足したようだった。パソコンから離れ、すうと縮み、蜘蛛の足元に戻っていった。
『最後の1匹は、すべての蟲の想いと呪いを背負う。脳はただひとつの衝動で満たされるはずだ。ひどい苛立ちの矛先を、苛立ちの大きさに見合った規模のものに向けずにはいられなくなるだろう』
「……それこそが――」
『きみがすでに言った。「蠱毒」だ』


 平はかつて、平という名前ではなかったし、蜘蛛でもなかったし、影でもなかった。
 ある人物の影が蜘蛛であり、平だったのだ。
 それがある日、くるりと反転してしまった。
 それが始まりだったのだろうか?
 そこから始まったのか?
 ――きっと、違う。
 おそらく、人間が世界の色を拒絶したそのときから始まっていたのだ。
 いまの匡乃の脳裏に浮かぶのは、御国将とウラガのこと、妹のことだった。
 もし将がこの『会合』を蹴ったとしても、いつかはきっと、影になってしまっていたのではないか。ウラガがこの世に現れて、将という存在は名無しの語り部になってしまうのだ――そしてそのとき、忌まわしい呪いが成就する。
 自分と妹がいる世界は呪われて、砕けてしまうのだろう。
 妹がいるマンションは黴で覆われ、あの冷蔵庫の中身は腐り果て、妹は姿を消し、将とまた酒を呑む日も来なくなる。
 ……それでは、こまるのだ。
 きっと面白くない毎日になる。

『ああ、うぅう』
 蜘蛛が不意に身体を屈め、狼のように唸りだした。
『私が恐れているのは、「蟲」なのだ。血を流す蟲を見たか。あれは、苛立ちと嫌悪感に食い潰された人間の慣れの果てだ。あの浅ましさと獰猛さを見たか』
 陰鬱な声は苦痛と苛立ちに満ちていた。
『私はあの蟲たちを見たとき、ぞっとすることを考えたよ。……人間も虫と同じで、衝動だけで生きているのではないかと』
 蜘蛛の刃のような足が、汚れた床をかさこそと踏みしめた。
 88の眼の光が不愉快に瞬き、蜘蛛は胸部と繋がった頭を、ぶんぶんと苛立たしげに打ち振った。
『……私も、私は、ひどい頭痛に苛立っているのだ。この頭痛が消えるのならば、私は、誰かに喰われてしまっても、たった独りになってもいい。この痛みは……私の、衝動だ!』


 蜘蛛はいらいらと床を踏みしめ、そのとき初めて、88の眼には苛立ちと悪意が満ちた。爪なのか足なのかわからない八つの刃が、床に穴と傷をつける。
 来る、と匡乃が身構えたその時、蜘蛛は出し抜けに横へ跳んだ。凄まじい体当たりが、壁を破った。蜘蛛は恐るべき殺戮の場へと身を投じたのである。
 しかし――
「……ウラガ……?」
 匡乃は破れた壁から倉庫を覗きこみ、呟いた。
 広い天井の倉庫がある。壁や天井、放置されたコンテナやドラム缶に、殺戮の爪痕が残っていた。血とはらわたが塗りたくられて、死臭にも似た生臭い悪臭を放っていた。
 そこで鎌首をもたげた巨大な百足は、凶悪なあぎとに1匹の御器噛を咥えていた。その顎が蟲をばりばりと咀嚼するたびに、百足の身体はぶくぶくと膨らみ、蠢く。
 匡乃が見る限り、倉庫の中の蟲はその百足1匹になっていた。
 その百足に、蜘蛛が牙を剥いたのだ。
 蠱毒になるつもりだ。或いは、苛立ちからくる衝動のままに、百足に襲いかかったか。
 匡乃は砕けた壁の向こう側へと駆けこんだ。
 駆けこんだ途端に、匡乃は何かに躓いて、またしてもバランスを崩した。
 何故こんなところに人間の死体があるのだ。匡乃は場違いだとばかりに眉をひそめた。死体は刑事のものだった。この呪詛に巻き込まれたのか、はたまた将に引きずり込まれたのか――どちらにせよ、匡乃の力でも彼を救うことは出来ない。嘉島刑事は自ら命を断ったようだった。右手はニューナンブを掴んでいたのだ。こめかみからは、赤い血が流れ出していた。蟲たちが流したものと同じ、赤い血だ。うっすらと開いた目は、倉庫の中から――現実から視線を逸らしていた。彼は、現実を否定したのだ。
 匡乃は死体から目を背けて、奇声と咆哮を上げるものを見上げた。

 百足が居る。
 もたげる鎌首が天井にまで届くほどに膨れ上がったウラガだ。百足の身体に生じた瘤は、絶えず蠢き、脈動しているようでもあった。ひとつひとつの瘤が、いちいち触覚や脚や頭のかたちをとっているようにも見える。ウラガはすでに百足ではなくなっているのかもしれない。これほどおぞましい姿をした虫はこの世にないはずだ。
 百足はぶくぶくと泡立つ己の身体を、苛立たしげに掻き毟った。鋭い脚先は甲殻すら引き裂き、破れた瘤からだらだらと膿じみたものが流れ出した。
 いや、これは――膿ではない。虫を潰したときに腹から飛び出す、はらわただ。
 匡乃は露骨に顔をしかめた。あまりにも汚らわしい存在だった。封じ込められた力をも呼び起こそうとする、忌まわしい醜さと呪いである。
 これが、世界そのものを呪える蠱毒に、いま最も近いものの姿か。
 だがそのとき、匡乃の脳裏をかすめたのは――妹の言葉。
 解けない呪いはない。まして、まだ成就していない呪詛ならば、容易く砕くことが出来るはず。綻びをみつけ、そこからするするとほどいていけばいい。
「まだ2匹居る……」
 呪う対象すらまだ見つけていないものなのだ。それ自体が、綻びだ。
「……綾和泉!」
 ドラム缶に寄りかかった男が、呻き声を上げた。
 匡乃が振り向き、その声が御国将のものであると気がついたとき、蜘蛛の牙が百足に達していた。

 百足の右半身についた脚が、100本ほどごっそりともぎ取られた。
 将が同時に断末魔じみた悲鳴を上げた。彼の右腕が――たちまち細切れになって、床に散らばった。
 蜘蛛が百足の長い胴体の半ばに咬みついた。
 またしても、将が苦悶の声を上げた。脇腹から鮮血が噴き出して、ドラム缶をしとど濡らす。
 ――いけない、またですか。ウラガが自分だと認めている。
 匡乃は、血塗れになった将の前に屈みこみ、その耳元で囁いた。その目は、床に散らばった将の右腕の残骸を見ていた。もげたのならば治癒の力で繋げることも出来ただろうが、挽肉になって散らばってしまっては、匡乃にも打つ手がなかった。
「御国さん」
 とりあえず、匡乃は将の出血を止めた。
「『ウラガはあなたのものですよ』」
 はあッ、と将が息を呑み――
 蜘蛛の牙が、とどめとばかりに百足の首に突き立てられた。

 悲鳴が上がった。

 それは人間のものではなく、獣の咆哮と蟲の囁きを混ぜ合わせたような、異様なものだった。
 百足の、蜘蛛が一撃を与えた首筋の傷口から、恐ろしい勢いで血が噴き出した。陳腐な噴水のような音がした。どす黒い血は、倉庫の天井と壁をキャンバスにして、見るもおぞましい絵画をつくりあげていく。
 それは壮年の男や成人したばかりの青年たちの顔であり、まれに意思の強そうな女性も混じっていた。いまの世界を支えている者たちのポートレートだったのだ。どれもが苛立ちと怒りと悪意に歪み、口汚く罵っていた。あの大人しい小野間の顔も、見た気がした。小野間までもが、何かを呪おうと顔を歪めていた。
 百足の身体は見る見るうちに小さくなっていき、ただの影になった。噴き出す血を飲み下す蜘蛛の身体が、変わりに醜く膨らんでいく。先ほどまでこの場に存在していた、百足と同じような姿へと変貌を遂げていった。百足と違うのは、脚の数と眼の数くらいのもの。
 匡乃の腕の中で、将が無言のままがふりと血を吐いた。
 彼はきっと息をしているし、聞こえている。
 匡乃は信じて立ち上がり、完成しようとしている蠱毒を見上げた。


 88の眼の中に、苛立ちと衝動とを見た。
 有り余る衝動を何に向けるか、蜘蛛は束の間考えているようだった。
「『あなたは今、ただの影です』」
 その『呪』は届いたか。
 88の眼の中に無数の視線を持つ蜘蛛が振り向いた。
 無数の囁きが、匡乃の耳と脳に注ぎこまれる。その囁き声はすでに言葉を失っていた。ただひとつの衝動だけで満ちていた。その衝動を受け止められる大きさのものを求めているだけの存在だ。
 しかし、ただの蜘蛛である。
 匡乃はそう信じていたし、『呪』は蜘蛛の狂える脳にも届いているかもしれない。
 証拠に、蜘蛛は不意に身をよじらせた。明らかに苦しみ悶えていた。それは、匡乃に綻びを見つけられたからだ。
「『あなたがあなたを制するのです』」
 蜘蛛はだらだらと涎とはらわたを垂れ流し、すべてのものに苛立ちながらも、何かをためらっているかのようにそこに佇んでいる。壷たる倉庫を飛び出せず、何かを呪おうともしていない。
 まだ、衝動以外の意識があるのだ。
 それは、蟲に名前をつけて、自分と蟲との間に一線を画していた男の影が混じっているからだ――蟲は自分の一部ではあるが、これが自分だとは決して認めたくなかった人間が溶けているからだ。
 御国将が、居るからだ。
「御国さん、『あれもあなたの影なのですよ』」
 蜘蛛の中の衝動、蜘蛛の動きが、そのとき完全に止まった。
 匡乃は音もなく、巨大な泡立つ蜘蛛に近づいた。封じられていた力が、怒りのように弾け飛んだ。光が、倉庫の天井をも吹き飛ばす。

 そして蜘蛛の身体が、胸の悪くなりそうな音を立てて裂けた。

 噴き出す闇色にも似た血潮が匡乃を汚した。
 だが匡乃は、その生温かい本流の中で、いくつもの白い欠片を見たのである。それは雪のようで、蛍のようで、まるで蝶のようにはらはらと、おぞましい闇の飛沫をくぐり抜け――天へと昇って行こうとしていた。
 匡乃の凄まじい退魔の力も、それを滅ぼすことはなかった。白い欠片は、呪でも魔でもなかったのだ。
「何を見ているんですか」
 匡乃は苦笑を欠片たちに向けた。
「早くお逝きなさい」
 その言葉もまた、呪か。白い欠片は勢いよく天井へと向かい、天井を越えて、ずっと高みまで昇っていった。


「御国さん」
 返事はない。
「御国さん!」
 やはり、返事はなかった。




「御国さん」


 授業を終えた匡乃が病室に顔を出すと、将は苦笑で出迎えた。顔はほとんど包帯とガーゼの下だが、辛うじてぶっきらぼうな顔と、その表情は伺える。
 傷は匡乃が応急的な治癒を施していたために軽かったのだが、失った血の量と部位は大きかった。御国将は現在入院中である。
「何の用だ、もう愉快な事件は終わったぞ」
 開口一番がこれだ。
「あなたらしいご挨拶です」
 匡乃もまた、彼らしい苦笑で返しながら呟いた。
「お酒は――」
「呑めると思うか?」
「僕が治せば、呑めるでしょう。ああでも、治すと明日からまた仕事ですよ。あの編集長の下で」
 見舞いの剣菱をちらつかせながら、匡乃はあからさまに意地悪な笑みを見せた。
 彼が露骨に心の裏を見せるのは、珍しいことかもしれない。
 将は迷惑そうに眉をひそめたが、口元にかすかな笑みを浮かべつつ、左手でコップをふたつ取り出した。
 白い布団に、彼の左腕が落とす影はなかった。
 そう――床に落ちている影は、ベッドと、匡乃のものだけであったのだ。



 月刊アトラスの『ネットにはびこるムシの噂』特集の連載は、その月で終わった。
 御国将のデスクには、いま新人記者が座っている。
 だが御国将の書く原稿は、今月もアトラス誌面の一部を埋めている。締切の前日には、ちゃんと碇麗香のデスクの上に、原稿が提出されていたのだ。原稿を置いた者が誰なのか、置いた者が言い出さなかったので、謎のままだ。
 さしもの碇麗香もさすがに、片腕を失った記者に出社しろとは言い出さないようだった。匡乃は、「血も涙もないひとだ」といった皮肉を言えるかとひそかに期待していたのだが――逆に、少しだけ彼女を見直すことになったのである。
 そして彼は、将の原稿を麗香に届けたのが誰なのか、白状しなかった。




<了>


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   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)
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【1537/綾和泉・匡乃/男/27/予備校教師】

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               ライター通信
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 モロクっちです。大変お待たせしました。『殺虫衝動・コドク』をお届けします。殺虫衝動というお話はこれで終わりです。匡乃様のお陰で、ひとつの物語を作ることが出来ました。
 『コドク』はマルチエンディングとなっており、匡乃様のこのラストはわりと良い結末となっております。ただ、将の趣味は模型制作、利き腕は右腕です。好きなことが出来なくなってしまった彼が生き残ったこの結果、本当に良いものなのか……判断は匡乃様にお任せしますね。とりあえず、将は「コドク」にならずにすみました。
 匡乃様の『殺虫衝動』、如何でしたでしょうか。ご満足いただければ、何か心に残るものがあったのであれば、これ以上の喜びはありません。
 それでは、この辺で。
 全話のご参加、有り難うございました!