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夜は静かに降りてくる。
珍しいこともあるものだ。
深山智はグラスを拭く手をとめて、窓の外をみた。
無数の雨が店のウィンドウに当たってははじけ、水滴となっては滑り落ちていく。
滝のような、という表現は陳腐で詩的ではないが、本当にもう、そうとしか表現のしようがない雨だった。
かすかに押さえた照明の中で、古びたアンティークの振り子時計が正確に時を刻む。針が指し示す時間は、すでに十二時に近かった。
普段なら、とうに店を閉めている時間なのだが、なぜか「CLOSE」の札を出す気になれなかった。
それはある意味、予感だった。
この雨のなか、この時、この場所を求めて誰かがやってくる。
――ほら。
本当に酷い目に遭った。
風見璃音は濡れた髪が頬に張り付く不快な感触に舌打ちして、雨の中を走り続けた。
バイトが終わった深夜。
帰宅の半ばまできた時に、突然のこの雨。
住宅街であるためか、雨宿りできる場所もあまりなく、閉店してシャッターを下ろしたビルと、住宅の塀がどこまでもつづいている。
コンタクトを入れている性か、雨が酷く目にしみる。
水滴でにじみそうになる視界を、それでも目を凝らして見渡すと、紅いルビーのような信号の輝きの向こうに、ぼんやりとした……まるで月のようにあわやかな光を漏らしている店があった。
――あれは。
そう、以前行った事のある店。
オーダーもなしに、しかし、一番飲みたいと想っていたカクテルを、鏡の月というカクテルを出してくれた店だ。
あそこならば、と不意に直感が走った。
きちんと手入れされたひげと、アイロンがきっちりかかったシャツをきた、人の良さそうなマスターの顔が思い出されるが早いか、赤信号をつっきって、店のドアを一気に開いた。
からん、というなんだか状況に酷く不似合いなドアベルの音がして、視界一面に白がひろがった。
「ぷあっぷ」
勢いのまま、その白にぶつかる。と、柔らかい感触が顔をつつんだ。
「いらっしゃいませ」
のどをかすかにふるわせながら、オーナーは広げたタオルをそのまま璃音に手渡す。
「悪いわね、こんな時間に飛び込んで」
苦笑しつつ、タオルで髪をぬぐう。一瞬、黒く染めている髪からタオルに色がうつるかも、という心配がよぎったが、もうどうしようもない。
璃音がタオルで水滴を追い払ったとほとんど同時に、甘いような苦いような香りがふわりと店内に広がった。
「どうぞ」
白いカフェ用のマグに、ココアが満たされていた。
本当に、とあきれとも驚嘆ともつかない想いがよぎる。
この店の主は、客の心が読めるのではないだろうか。それとも、魔術師なのだろうか?
さもなければ、こう、次から次に自分が欲しがるモノが出てくるなどありえない。
肩をすくめてカウンターによると、深山は璃音の推理など素知らぬ顔で、またグラスを拭きはじめた。
静かに、時が流れていく。
「ああ」
雨音というバックグラウンドミュージックの中、カップを両手に包みココアが冷めるのを待っていると、不意に深山がうめいた。
彼の黒い瞳を見ると、璃音ではない、その向こうを見ていた。
いぶかしげに想いつつ、振り向く。
と、そこには一人の青年が雨にぬれたまま立っていた。
黒い、闇より、夜の海より深く、雨にぬれてつややかに光る髪。
それと対照的に燦然と輝くのは、金とも光ともとれない不思議な瞳。
息をのんだ。
あまりにも、彼は酷似していた。
璃音が探していた、かの存在に。たった一度だけ邂逅した彼に。
沈黙。
雨音も、吐息も、すべての音が不意に璃音の世界から遠ざかった。
どれほどの時間かわからない。長い長い沈黙の後。
――古びた振り子時計が、重々しい鐘の音と共に十二時を告げた。
とんでもない話だった。
大上隆之介は水たまりの水を派手に跳ね上げさせながら、駅へ向かう道を走っていた。
まったくもって、ここのところナンパ成功率が悪い。今日も一日無駄にぼんやりと繁華街で過ごしてしまった。
意欲が無いのかもしれない、と自分でも思う。なのになぜナンパをしているのか、自分でもわからない。
――多分、それは迷いなのだ。
逃れられない運命が近づいてる予感がする。それは遠くない、だけど自分から飛び込むにはあまりにも先が見えない。
だから逃げるようにナンパで気を紛らわせるが、気を紛らわせても、どこかで罪悪感が――たった一度だけ邂逅したあの銀の髪の少女に――心を、すべてを躊躇させる。
全戦全敗のままたどり着いた最終地点が、この雨だ。
まったくもってついてない。
運が悪いことに、近道を狙ったのがいけないのか、住宅地と商店がばらつく界隈にでた。
深夜だからもちろん、タクシーさえ通らない。あいてる店もあるわけが……いや、あった。
金色の瞳が夜闇を滑り、一カ所で動きを止める。
ぼんやりとした月に似た看板の光が見える。深山、と刻まれた店の名前さえも。
(あそこなら、まだ大丈夫か)
同志という名のカクテルを出してきた場所。
確認するが早いか、一気にアスファルトをけりつけて、店まで全力で走る。
店内を確認するより早く、扉を押し開けた。
「ああ」
聞き慣れた、深山の深く、そして柔らかい声が聞こえた。
ごめん、と言おうとして言葉が止まった。
一人の女性が、カウンターに座っている。
長い黒髪は、まだすこし水気をふくんでいるのか、しっとりと体のラインに沿って流れている。
華奢な、だけど、どこか流れるような鋭さを持つ肩と、細い腕。
ああ、と、深山のうめきがもう一度頭の中で繰り返される。
時間が、止まった。
ゆっくりと、もどかしい位の動きで女性がこちらを振り返る。
――俺は。
彼女の顔を見たいのか、見たくないのか?
わからない。
逃げ出すなら今だ、とどこかで誰かが告げていた。
昨日までの今日が、彼女と瞳を会わせた瞬間に壊れて消える。
だけど、隆之介は逃げなかった。
瞳が合わさる。
金色の瞳と、どこか彼女に似合わない黒い瞳が。
そして運命を告げるように、古びた時計が十二時の鐘を鳴らした。
コーヒーフィルターから濾過された、漆黒の液体がカップに落ちる音が、奇妙に大きく店内に響く。
まったくもって奇妙な夜だ。
秋の夜中のこんな大雨も、そして出くわしてしまったこの風変わりな二人も。
アイリッシュウィスキーをカップにそそいで火をつける。
蒼く透明な光が二人の間にともる。
しかし二人は表情を動かさない。視線もまた、無理にあわせようとしない。
観察しながら、焔がゆれるカップにできたてのコーヒーを注いで、隆之介の前に置いた。
ウィスキーとコーヒーの香りが混ざって、空気に拡散しては消えた。
「あの」
ほぼ同時に二人が同じ台詞を口にした。
全く同時だったから気まずいと感じたのか、再び二人してうつむく。
「あなた以前」
「アンタ以前」
再び、台詞の一致。
これは、と苦笑して深山はひげをなでた。
同調している……。完全に。
静かに目を閉じる。閉じていてもわかる。
二人から同じ気配がする、二人から同じ世界が見える。
高い糸杉の森、朽ち葉を踏む柔らかな足。そして満月。
空になったカップを前に、二人は沈黙している。
「黒い狼……」
「え?」
ぽつり、と璃音がつぶやき、それにはじかれたように隆之介が顔をあげた。
目を開くと、かすかにふるえてる璃音の手が目にはいった。
「あなた、黒い狼みたいだわ。ううん。黒い狼そのものに見える」
多分、それが彼女精一杯の言葉なのだ。直感的にわかった。
そして隆之介もまた、かすかに唇をふるわせている。
(――ああ)
腑に落ちた。
多分これは、二人は運命に対峙しているのだと。
いつか隆之介が酔った拍子にもらした白銀の髪の少女の話を思い出す。
だから、とまどっているのだ。
今夜の璃音は(おそらくバイト帰りだからなのだろう)黒い偽りの髪と、黒いカラーコンタクトで武装した黒い瞳。
人の世界に紛れ込む為の、ささやかな擬態。
だから、とまどう。彼の記憶にある璃音は武装してない。ありのままの璃音なのだから。
でも気配でわかる、同調する意識でわかる。これが運命なのだと。
しかし、人は運命に直面すると臆病になる。
これまでの生き方が、いっぺんにして変わってしまうという不安、何が起こるかわからない不安。
それでも知りたいという、切望。
――時計が時間を刻む音が響く。
雨はずいぶん小降りになり、そして、やんだ。
上空ではずいぶん強い風が吹いてるのか、厚く黒い雲が空からおしながされていく。
すべての雲が消えれば、今宵は満月。
この二人が出会うべき本来の夜が。静かに降りてくる。
しかし、それにはまだしばし時間がある。そして二人にはかすかなきっかけが必要だった。
並べられたボトルから、透き通った無色の液体が入った一本を選ぶ。
シェイカーに氷と液体をいれて、振った。
グラスにそそいで、レモンのしぶきを飛ばすと、深山はそれを二人のちょうど中間地点に置いた。
初めての来訪じゃないからか、二人は何の疑問も見せず、当たり前のようにそのグラスに手を伸ばし。
全く同じタイミングで、二人の指が触れた。
触れた瞬間、隆之介が指だけではなく、璃音の手をつかんだ。
「あっ」
唐突な出来事におどろいて璃音は顔を上げる。視線はすぐに隆之介と交わった。
「あんたは、銀の狼だとおもう」
かすかにかすれ、うわずった、けれど言葉以上の、言葉にできない感情が込められた声で隆之介が言う。
切なくも熱に浮かされた視線が、交わる。
――隠されていた月の光が、店内を照らした。
刹那、璃音があわてて立ち上がった。
「ご、ごちそうさま、今日は、助かったわ、雨あがったみたいだから、私、帰るっ」
手をふりほどいて、背中を向けるが早いか、店の扉を押し開ける。
「まっ」
待てといいたかったのだろうが、すでに璃音の姿は店内にない。
「深山さん」
「はい」
泣きそうな、それでいて、どこか迷うような瞳で隆之介が問いかける。
「このカクテル、なんて名前?」
飲まれないまま、カウンターに置かれたグラスを視線で指し示す。
ため息をついて、肩をすくめた。
「――月と運命に言葉はいらない」
一息にいうと、カウンターごしに隆之介の肩を叩いた。
「お急ぎなさい。貴方の足なら、まだ十分彼女に追いつけますよ」
「で、でも」
「女性を一人で帰すつもりですか、あなたは」
常にない強い口調で言う。と、隆之介は何かを吹っ切るように強く頭をふると、言葉もなく店を飛び出した。
まるで銀の狼を追う、黒い狼のように。
くすん、と鼻の奥をならして、手がつけられなかったグラスを指先でつまんだ。
「まったく、手のかかる"運命の恋人"達ですね」
「深山」始まって以来、初の出来事だ。客が出した飲み物に手をつけなかったなど。
ウィンドウにうつる月に、グラスを掲げる。
グラスに揺れる月が、どこか遠くの森に、その森をかける銀と漆黒の狼に見えた。
智はかすかに口の端を上げると、グラスの中身をシンクに流した。
――月と運命に言葉はいらない。
グラスの中身など、最初からカクテルではなかった。
ただの水だった。
智は何事もなかったようにグラスをシンクに置くと、「CLOSE」の札を扉にかけた。
間をおいて、「深山」の明かりが、この町最後の灯火が消えた。
明かりの消えた町に、月が光をなげかけていた。
夜はこれから。
これから、静かに降りてくる。
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