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<東京怪談ノベル(シングル)>


Howling


 レナード・カムホート――現ロン・ワンズのドーヴベルには、彼なりに感銘を受けた。もとより鈴の音は好きだった。そして、海の向こうのアクセサリデザイナーが、銀の鈴の音色を教えてくれたのだ。銀の鈴の「ちりり」は、ひどく涼しげで、ちいさく、美しいものであった。
 国内のシルバーアクセサリブランド『月ニ叢雲 花ニ陽炎』の新作は、銀で出来た鈴をあしらったものになりそうだった。デザイナーは『和』にこだわった。椿や牡丹が彫り込まれた銀の鈴は、和鈴であった。
 ちりり……
 出来上がったブレスレットを眺めるのは、創造主たる夏比古雪之丞。
 もう、満月も傾こうとしている刻限であった。
「今宵は静かだな」
 ちりり……
「良いことだ」
 だが彼は、溜息をついて、玄関に目をやった。
 こんな刻、こんな辺鄙なところに来る客など、まともな輩ではない。
 気配を感じて目を向けた、雪之丞の冷ややかな視線に貫かれたのは、1匹の野良猫だった。野良猫は鳴き声ひとつ上げずに、玄関でぱたりと倒れた。

 ここのところ1週間、雪之丞は作業場でもある自宅から出なかった。
 殺風景な、実用一点張りの家だ。都会の陰にあるデザイナーマンションの1階で、洒落た外観ではあったが、デザインに凝りすぎた部屋はどこか無秩序な間取りになっていた。風通しが悪く、銀を燻す薬品の臭気や、銀の粉を吸った空気を逃がすために、雪之丞はよく玄関ドアや窓を開け放っていた。開けっぱなしにしたところで、侵入してくる愚か者に何が出来ようか。ここは、夏比古雪之丞の自宅なのだ。
 気まぐれな彼は、その分何かにのめり込むととことんまで追求する性分だった。特にアクセサリーの制作となると、1週間や10日の間家に閉じこもることは珍しくもなかった。新聞の勧誘も空腹感もガキどもの喧嘩もすべて無視し、雪之丞はただ黙々と銀を削り、叩き、溶かした。
 だが――
 そんな雪之丞の、ともすれば無情ともいえるこころに、確かに届く声があったのだ。
 鈴をつくる手を、この1週間で何度とめられたことだろう。
 ピアスに彩られた雪之丞の耳に届く、悲痛な絶叫があった。
 人間のものではなかった。
 犬と猫のものだった。


「なかなかしぶといやつだな。死んでもおかしくはない傷だ」
 緑の目を開いた猫に、雪之丞は少しばかり意地悪な笑みを投げかけた。
「手当てをしておいたぞ」
 猫は露骨に顔をしかめて、後ろ足や胴に巻かれた包帯を、ぞりぞりと舐めた。
「ああ、紙で襟巻きをつくるべきだったな」
 傷口を舐めようとする猫を大して諌めず、雪之丞は白い手を洗った。こびりついた猫の血が、流れていった。
「近くで何が起きている?」
 雪之丞は、ただでさえ細い目を細めながら振り向いた。猫は最早包帯を舐めず、ちょこんと座って、じっと雪之丞を見つめていた。
「知っているのか、と問われてもな。何も知らんから訊いているのだ。ここ1週間、お前たち獣の鳴き声が五月蝿くてかなわん。私は鈴を――」
 冷蔵庫から腐りかけの牛乳を出したときには、猫はすでにキッチンから消えていた。
 だが、気配はまだ近くにある。
 雪之丞は牛乳と平皿を置くと、玄関に向かった。
 手負いの猫はそこで待っていた。雪之丞と目が合うと、よろよろと外へと出ていった。
 何も言わず、雪之丞は追った。
 右手の中指のリングと、耳のピアス以外には、アクセサリーを身につけていかなかった。それは彼なりの『軽装』といえた。

 人間にはきっとわからないのであろうが、雪之丞の鼻をつくのは、紛う方なき血と死の臭いであった。嫌が応にも、雪之丞の不快感と怒りのようなものをかき立てる。それは、雪之丞の獣性を刺激しているのだ。血と死だ。それこそが負の者を駆りたてる。
 猫が、古いコンクリートマンションの裏で立ち止まった。それ以上、猫は歩こうとしなかった。包帯には血が滲んでいたが、傷が痛むために歩けないわけではなさそうだ。
 猫は、恐怖しているのだった。
「私に何をしろと言うのだ」
 雪之丞は、こまったような、嘲るような笑みを落とした。
「私は鈴を――」
 ばたん、どすん。
 野暮な音に雪之丞は口をつぐみ、マンションを見上げた。
 明かりが灯っているのは一室だけだった。傷ついた猫は、すでにどこかへ逃げていた。雪之丞は眉をひそめ、湿った陰に身を隠した。
 どすん、ばたん。どすんどすんがたん――
「待て、ちくしょう!」
 1頭の犬がマンションの出入り口から飛び出してきた。ほとんど狂気の沙汰としか思えない速さと危なっかしさで、一目散に闇の中へと消えていった。その犬を、痩せた男が罵りながら追いかけていった。だが、ヒトはイヌに追いつけぬさだめ。痩せた男が肩で息をしながら立ちすくむまで、さほど時間はかからなかった。


「成る程な」
 彼は、びくりと振り返る。
 銀髪の男が、右手中指のリングをいじりながら立っていた。ほっそりとした体躯だが、頼りなげではない。ノースリーブの黒服のおかげで、引き締まった白い二の腕が見える。
「その鞭は手製か。この辺りから急に野良犬や野良猫どもを見かけなくなったのは、貴様が手を下していたからか――」
 いくら後ずさっても、男は近づいてきた。
 男の細い目には、おおよそ感情など宿っていないように見えた。
 だがその涼しげな顔が、ぎり、と不意に怒りで歪んだのだ、
「迷惑だ」
 ぴいん、と中指のリングがうち捨てられた。
 面倒臭げに、男は両耳のピアスを残らず毟り取った。
「獣たちの懇願と断末魔を聞く身になってみろ」
 途端、ざわざわと男の気が変化していく――
「懇願と断末魔を上げる身にもなってみるか」
 男は、白い狐のようであった。耳と爪が、人間のものではなくなっていた。

 白い耳、中指を戒める銀は最早無い。

 雪之丞は、2本の足で走った。本革ブーツではいささか走りにくかったが、男を追いかけるのには充分だった。男がよろめきながら逃げ、道端のポリバケツをひっくり返し(ああ、明日は燃えるゴミの日だ)、湿った塀を乗り越えようとした。
 雪之丞は白い尾でバランスをとりながら、無音の疾さで男を追い、道端に展開した酷い臭いのゴミ山を軽やかに飛び越え、男よりも先に塀に飛び乗った。
 塀に取り付いていた男は、わあッと叫んで手を離し、背中からアスファルトの地面に落ちた。
 遠吠えが聞こえる。
 猫の鳴き声もだ。
 男は手にしていた血塗れの鞭を振り上げ、塀の上に立つ雪之丞の足を目掛けて振り下ろした。鞭がコンクリートの塀をしたたかに打ったとき、すでに雪之丞は塀の上にいなかった。音もなく彼は身を翻し、男の背後に降り立っていたのだ。
 遠吠えが聞こえる。
 猫の鳴き声もだ。
 それは近づいてきている。
 男は、雪之丞の姿を見て息を呑んでいた。
 獣の耳と尾を生やし、鋭い銀の爪を持つ雪之丞は、ノースリーブの黒いシャツと、蛇柄の革パンツを纏う白い男ではない。
 笛が映えそうな白い狩衣を着ている――
 はあッ、と雪之丞が口を開けた。
 男が見たのは、きっと、牙と狐火であった。

 倒れて空になったポリバケツが起こされた。
 ごすん、と燃えるゴミが無造作に投げ込まれた。

 死体の第一発見者は、銀髪で蛇柄の革パンツを履いた男とすれ違ったというが、獣は見ていなかった。路地裏のポリバケツに頭から突っ込まれ、路上にはらわたを垂れ流す犠牲者は、犬の牙と爪によって死んだものと思われた。



 ちりりん――
「まったく、ようやく完成だ」
 実は、彼がそう呟くよりもだいぶ前に、ブレスレットは完成していたのだ。
 雪之丞は猫に聞こえるように、心持ち声を大にした。
 手負いの猫は雪之丞を見上げているばかりで、鳴き声ひとつ上げなかった。
「……細いやつだな。これがちょうどいいのか。もっと食わんと、長生き出来んぞ」
 ちりり……
 銀の鈴のブレスレットが最初に巻きついたのは、創造主の手首でもモデルの手首でもなく、包帯だらけの猫の首であった。

 夏比古雪之丞は、それからも玄関を開けっぱなしにするのだ。
 鈴の音がよく聞こえるように。



<了>