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恐山で逢いましょう
■シュライン・エマ編【序】
「シュライン、たまには休んで旅行でも行ってきたらどうだ?」
武彦さんがそんなことを言い出したのは、10月の終わり頃だった。
「どうしたの急に……」
これまで感謝の言葉は聞いたことがあっても、そんな気の利くセリフを聴いたことはなかったので驚く。
「いや、こんなものが載っているからな」
そうして武彦さんは1冊の雑誌を差し出してきた。どうやら見ていたのはいつもの新聞ではなかったらしい。
「月刊アトラス? なーに?」
目を通すと、恐山ツアーの記事だった。そこで私はピンとくる。
「――麗香さんに頼まれたんでしょ」
「否定はしないさ」
武彦さんはそう笑うと。
「なんでも、温泉たまごが美味いらしいぞ」
実にそそる言葉を吐いてくれる。
(温泉たまごかぁ)
それを食べに行くのもいいな。それにこんな機会でもなければ、わざわざ温泉たまごを食べるためだけに恐山へ行くなんて暴挙はできないだろう。
うまく乗せられたような気もするけれど、私の心はすでに決まっていた。
(よーしっ)
ミネラルたっぷりの天然塩、用意しなくっちゃ!
■荒廃とした地獄【恐山:総門前】
やっとバスの長旅から解放されて、私は大きく伸びをした。
(うーん、長かったわ)
新幹線や列車はまだいいのだが、バスはなんだか疲れる。しかも平坦な道のりではなかったから、余計にだ。道はこれでもかというほど蛇行し、そして高低差も激しかった。ツアー参加者の中には、登山も体験したいと登っている者もいるらしいけれど、きっとそれにはかなりの体力が必要だろう。
辺りをキョロキョロと見回しながら、他のお客さんの動きについてゆく。
(本当に――地獄のようだわ)
そう思ってしまった。少なくとも、”神聖な山”という雰囲気ではない。
砂利のしきつめられた空間はどこまでも広く、硫黄が鼻をつき、薄いもやが現実との境を曖昧にさせていた。遠くに見える総門は、審判の門のイメージ。
暗い、イメージだ。
そのまま流れに任せて総門をくぐろうとしていた私は、まだバスの傍で何か話している人たちの存在に気づいた。
(! あら……)
しかもよく見るとその顔は、見たことのある顔――なんてもんじゃない。
私は流れを抜け出して、バスの所まで戻った。
最初に目が合ったのはドール。リバース・ドールだ。ドールは私を認めると、動きをとめる。それに気づいた皆が、私の方を見た。
「入りもしないで何してるのかと思ったら……皆お揃いで」
私が笑いながら告げると、羽柴・戒那さんが声をあげた。
「シュライン! キミも来てたのか」
「奇遇ですね」
続いて斎・悠也。もう1人いるのは、広瀬・祥子さんだ。この状況を見るに、戒那さんと悠也はドールと祥子ちゃんの保護者役、といったところだろう。
(若夫婦の子供にしては、祥子ちゃんの歳が高いわね)
私はそんなどうでもいい――戒那さんが聞いたら怒りそうな――ことを考えながら、皆にさらに近づいた。
「こんな機会でもないと、恐山なんてこれないもの。それに温泉たまご食べたいなぁって思ってね。最高のお塩用意してきたんだから」
むしろ温泉たまごがメインなのだと、告げるのは少々勇気がいるのでわざとそう告げておいた。しかしそれだけでも、食べ物に目がない戒那さんには威力十分だったようだ。
がっしりと私の手を握って。
「俺が温泉たまごを奢ろう。だからその塩を!」
「ギブアンドテイクね!」
ここだけ妙な空気が漂っているが、きつい硫黄臭のおかげで――言い換えるならまさしくたまご臭のおかげで、周りには気づかれなかったようだ。
「――あ、ドール? どこ行くのっ」
そんな祥子さんの声に視線をずらすと、ドールが総門とは違う方向へ歩いていくのが見えた。祥子さんがそれを追いかけている。
「ねぇ、ドールも一緒に来たの?」
無意識に小さな声で問っていた。あまりにも意外だったからだ。
「祥子くんはドールに誘われ、それを不思議に思った祥子くんに俺が誘われたんだ」
「それで戒那さんは悠也を誘ったってわけね」
「どうせ来るのなら、シュラインさんも誘えばよかったですね」
(何を言っているのかしら)
悠也の言葉に、私は思わず真顔になる。
「冗談でしょ。むしろ私が”おもり”をするわよ」
ドールと祥子さんを追いかける。
ドールは小さな橋の上に立っていた。その朱塗りの橋は、ひどく極端な弧を描いている。幅の短い川に、倍の長さの橋を無理やりつけたかのようだ。普通の子供ならうまく通れないだろう。
「あれ、太鼓橋っていうんです。その下を通っているのが三途の川」
見守る祥子さんが説明をしてくれた。
三途の川は既に、私たちは渡ってきたはずだった。道路の下を通っているのだとバスガイドが説明をしていたのだ。それを何となく残念に思うのは、どうやら私だけではないようだ。
「なるほど。こうやってバスで通ってきてしまったのを、自分の足で渡りたい人は渡れるってわけね」
そのためにわざわざ、こうして川に橋をかけた場所が存在しているのだろう。深く納得する。
(生きたまま、三途の川を渡るために)
渡っていることを実感したいがために。
どうしてそんなことをしたいのか、きっと誰にもわからない。死にたくてそんなことをするわけではないからだ。
(あこがれ、なのかしら?)
一般的に死に対して抱いているイメージは恐怖。けれどどこか、惹かれるものがあるのも事実だ。すべてのしがらみから逃れ、自由な世界を手に入れる。
(その瞬間を疑似体験できるような)
まさにここは、生と死の境目。
ドールはその橋の上から、三途の川の先を見つめていた。
「ドール? 何が見えるんだ」
いつものように戒那さんが優しく話し掛ける。また返事はないのだろう……と思ったけれど。
「――ここには脱衣婆(だつえば)がいないんだね」
ドールはそう呟くと、自ら橋をおり私たちの方へと戻ってきた。
「さぁ、中に入ろう」
■恐山の七不思議【恐山:地獄巡り】
バスガイドや他のツアー客は、既に山内巡りへと出発しているようだった。あれだけ人数が多いのだから、バスガイドが全員揃っているかどうか把握できなくても仕方がない。むしろこの場合は私たちの方が悪いのだ。
「私がちゃんと解説するから、安心していいですよ」
告げた祥子さんの手には、しかしガイドブックが握られている。ちょっとだけ不安だが、解説がまったくないよりはいいのでお願いすることにした。
総門からまっすぐ伸びている参道を歩いていくと、仁王門の奥に石段上の本殿(地蔵堂というらしい)が見えた。その奥には大きな山が見える。
(あら……)
覚えた違和感の理由に、すぐ気づいた。恐山にいるのに――”山”にいるのにさらに高い山が見える。しかもよく見ると、どうやらこの場所は山に囲まれているようなのだ。
(もしかして恐山って、低い山なのかしら)
私が首をかしげていると、戒那さんが祥子さんに振った。
「恐山って”山”なんだよな? もっと高い山があるなら、そっちにすればよかったんじゃないのか?」
(一理あるわよね)
山は高い方が”いい”と、何故か皆思っている。何が”いい”のかよくわからないけれど、私もそう思う。だからこそ恐山が低い山であることを不思議に思ったのだ。
しかし祥子さんは笑って。
「違いますよ戒那さん。あの山も恐山の一部です。地蔵山って言うんですけどね」
よくわからない答えを告げた。それを正確に聴き取ったのは悠也だ。
「もしかして、恐山という”山”は存在しないんですか?」
問いかけた悠也に、祥子さんは嬉しそうにして答えた。
「ぴんぽーん。それが恐山七不思議のうちの1つ目。”恐山”という固有の山は存在しないのに、誰もが恐山と呼んでいる」
「恐山七不思議ね。面白いじゃない」
思わず私は頭の中のメモ帳を開いた。
七不思議という言葉はよく聞くが、場所が最初から不思議にあふれているように見える恐山だけに興味深い。どんな内容が飛び出すのか想像がつかないところもいい。
(その1つ目は)
祥子さんの話によると、恐山とは――宇曽利湖という周囲10キロもある湖と、その周りを囲むように存在する8つの山を指して呼ぶのだそうだ。地蔵山もそのうちの1つなので、「あれも恐山」というわけである。
祥子さんの話を聴きながら、私たちは参道を外れ小道へと入っていった。
「他の6つは何なの?」
訊ねる私の目が輝いていることを、私は自覚していた。
祥子さんは祥子さんで、私が興味持ったことが嬉しかったらしく、楽しそうにしている。
「2つ目はね、恐山ではこんなふうに、至るところで硫黄が噴き出ているんです」
こんなふうに……と指した所には、古ぼけた看板が立っている。金堀地獄――と書いてあるようだ。地獄といっても何があるわけではないが、何もないことが逆に地獄っぽくもある。ごつごつした岩肌は噴き出る硫黄のためか赤く変色していて、所々鋭い。どこを見ても地面が平らでないところも非現実的だ。
(でも――)
もっと非現実的なのはその名前だと、つい思ってしまった。同じように思ったのか、戒那さんが呟く。
「凄い名前だな……」
「もっと凄いのもありますよ。重罪地獄や血の池地獄。同情したくなっちゃうような本妻妾地獄とか、つい笑っちゃう御釜地獄とか」
「…………」
楽しそうに解説する祥子さんに、言葉を失う。決して祥子さんが悪いわけではない。そのネーミングが問題なのだ。
「――それで、2つ目の不思議はこの地獄が存在していることなんですか? 地下に硫黄が蓄積されているのなら不思議でもなんでもないと思うんですが」
気を取り直した悠也の言葉に、祥子さんは否定の首振りをした。
「”そっち”じゃないの。こういう地獄は136つもあったって言われているのに、その中で何故か5ヶ所だけは薬湯が湧いているんです」
「! それが温泉か」
「そうです。不思議でしょ?」
「確かにそれは。納得です」
温泉だけ湧くならわかる。まったく湧かないならわかる。けれどたった5ヶ所でだけ、それは湧いたのだ。しかもどの噴気孔も、さして離れた位置にあるわけではない。既に2つ温泉らしき小屋を見かけているからそれは確かだ。
(そして身体にいい薬湯)
神聖なるお山と崇めたくなる気持ちが、少しわかった。
足を進めながら、祥子さんの説明は続く。
「3つ目の不思議はね、恐山は日本三大霊山に数えられるほどの霊場でありながら、方位から見て日本の鬼門に位置してるために、宗派の本山にはなっていないんですって。……なんかよくわからないけど」
つまりこれだけ賑わっていても、属している宗派から正式に認められた山ではないということだろう。
「昔ね、今は恐山に含まれている釜臥山ってのがあるんだけど、その山は女人禁制の修験者のための霊峰だったんですって。だから宇曽利湖を挟んだこちら側では、宗派に囚われず貴賎老幼男女の別さえ問わないような――民衆のための山にしようってことになって。だから本山にならないのも当然だって、本には書いてあったわ」
(先人の優しさが伝わってくる)
仏に希望を見出すのは、何も男だけじゃないのだ。女・子供だって一緒だ。
しかしそんな私の感動を破るように、戒那さんが真顔でつっこんでくる。
「じゃあ不思議じゃないじゃないか」
図星なだけに祥子さんは声を大きくして応えた。
「そうだけど! ロマンがあるからいいのよっ」
「そうよ、戒那さん。すごく素敵な話じゃない」
私も祥子さんの味方をする。2対1だ。悠也は輪の外で笑っていた。
「今ここにいる時点で、戒那さんの負けでしょう?」
(それも不思議)
不思議はいくらでもつくられる。
開眼したように、戒那さんはこくりと頷いた。
■白とエメラルドグリーンの極楽【恐山:極楽浜】
世界の果ては、きっとこんな感じなのだろう。
「すごい、きれぇ……」
祥子さんが呟いた。
(誰も)
それ以上の言葉を持っていない。地獄の中に存在する極楽。
私たちは、極楽浜へと到達していた。
驚くほど白い砂の上に立ち、なみなみと水をたたえた宇曽利湖の水面を見つめている。
「どうしてこんなに水が碧なの?」
私は思わず口にしてしまった。
(これまで水は、透明か青だと思っていたのに)
宇曽利湖の水はどう見ても碧なのだった。緑ではない、碧。そして真っ白な砂と生み出すコントラストが、本当に美しかった。
「あの山が、釜臥山よ」
祥子さんが解説を加える。
宇曽利湖の向こうに見える山は、くっきりとした美しい/~\の形をしていた。この景色をより一層引き立たせてくれているのは確かだ。
ふと、どこからか唄う声が聞こえる。
極楽の鐘の響で目を覚す
五色の空に沿うぞ嬉しき
有難や念仏唱えて願うべし
極楽浄土へ参るべし
南無や恐山(オヤマ)の地蔵様
南無や大師の観世音
南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏……
祈りを捧げるような、死後の安息を願うような。どこか切なく懐かしい響き。
耳を澄まして声の出所を探ってみると、100メートルほど先にいるおばあさんたちの声のようだった。風車の回る音が、その唄に合いの手を入れているかのようだ。
(そうだ)
私は音についてのレポートを書こうかしら。
ただ観光に来たわけではないのだから、それなりに気をつけて過ごさなければレポートなど書けない。
それから私は、少し耳に神経を集中するように気をつけることにした。
しかし早速飛び込んできたのは。
「――ドール」
戒那さんが呼んだ声。おとなしく私たちのあとにくっついてきていたドールは、不思議そうに戒那さんを見上げていた。
「?」
「真っ赤なバラの花を、出してくれないか」
ドールは何も答えず、それでも片手を前に出した。まるで手品のように、その手の平にバラの花束が出現する。戒那さんは花”束”とは言わなかったけれど、ドールの出したそれに満足そうに頷いた。
「ありがとう」
にっこりと笑って受け取る。
「戒那さん、どうするんですか? それ」
「もちろん手向けるのさ」
悠也の問いにそう短く答えると、戒那さんは思い切り助走をつけて、湖に向かってその花束を投げた。それを見届けた私は、祥子さんとドールにこっそりと合図を送ってその場を離れる。
白い砂は、私たちの足音を消してくれた。
「しばらく2人きりにしてあげましょう」
そうして少し離れた地獄の上から、宇曽利湖を見下ろした。
「――4つ目は何なの?」
七不思議の続きを問う。目では、ドールを追っていた。
(最後まで聴いたら)
ドールに理由を訊いてみよう。
そんなことを思った。
★
「4つ目は、恐山には昔からずっと南部ヒバの大原生林が密生していて、霊場全体がこの霊木に大きく包まれているということ。――気づきました?」
「え?」
何を訊かれたのかわからずに生返事をすると、祥子さんは笑って。
「紅葉が終わって落葉の季節なのに、落ち葉の一つも落ちていないでしょ。ここから湖を見たってわかるわ。こんなに樹に囲まれているのに、湖の上には碧と――戒那さんが投げたバラの紅しか見えない」
「確かに――そうだわ」
言われるまで気づかなかったが、本当に落ち葉が見当たらないのだ。葉を落とさない樹ではないはずなのに。
「不思議、ね」
「ええ、不思議なんです」
そのまま5つ目・6つ目と続くように思われた話は、何故かそこで終わりのようだった。祥子さんが口を開く気配はない。
ドールは……無心に三途の川の方を眺めていた。
「祥子さん……?」
「6つ目は、ドールが言ったことよ。恐山の三途の川には、脱衣婆がいない。――それはドールがここに来たことと、何か関係があるんでしょ?」
祥子さんの顔は、私ではなくドールに向いていた。
(そういえば)
ドールは太鼓橋の上で、そんなことを呟いていたっけ。
「脱衣婆ってのは、何なの?」
「三途の川の渡し場で、亡者から衣類を奪う老婆です。服を奪って、帰れないようにするの」
「だから奪われたはずなんだ」
最後の言葉はドールのものだ。
「――誰が、何を?」
慎重に訊ねる。
どうやら私が決心するまでもなく、ドールがここに来たわけを知れそうだ。
ドールは何かを諦めたように、地獄へと座りこむ。
「ボクの……”お母さん”という人がだよ」
「!」
意外な言葉だった。
「ボクはこの世界のものにしか手を出せない。この世のものにしか、ね。だから幽霊が嫌いなんだ。怖いんだ。何をしても、ボクの思いどおりにはならないから」
そう告げた後で、「すべてを思いどおりに、したいわけじゃないけどね」と付け足す。
(だから訊きに来た?)
つまりドールの母親は、既に死んでいるということか。
「脱衣婆に、一体何を訊きたかったのよ」
祥子さんの声は小さい。それは祥子さんには、かけがえのない両親がちゃんと存在しているからかもしれない。
ドールは子供らしくない笑いを見せると。
「どんな人だったのだろうと、思ってね」
「え?」
「知らないんだ。育てられた記憶がない。だからその人は、最初からボクが異常だって、気づいていたのかもしれない」
「!」
私はドールの傍まで早足で歩いていくと、ドールの腕を引っ張って立たせた。
「何を……!」
きつく、抱きしめる。
「あんたは異常なんかじゃないよ。異常なのはその母親の方だわ。一体母親の何が知りたかったのよ。本当に母親から教えてもらわなきゃならないことなら、全部私が教えてあげるわよ?」
温もりも愛情も、いくらでも与えることができる。少なくともそんな母親よりは。それくらいの自信は、子供のいない私にだってあるのだ。
「シュラインさん……」
まだ高校生の祥子さんには、おそらくまだ言えないものだろう。
震えているドールの、言葉はうまく言葉にならない。
「だって、ボク……素直になろうとすればするほど、わからなくなるんだ。ボクはどうしてここにいるのかって。ボクを産んだ人がいるはずなのに、その人はどうしてボクを――殺してくれなかったのかって……っ」
「ドール……」
そんなことは、考えなくてもいいこと。
普通の子供なら、決して考えるはずもないこと。
(ドールはドールであるがゆえに)
いつも囚われる必要のない檻の中にいた。
「そんなこと考えないで、ただ感謝すればいいのよ」
「――感謝?」
「生かしてくれてありがとう、産んでくれてありがとうって。子供はそれだけでいいのよ。余計なことは考えちゃダメなの」
「これが余計なことだって言うの?」
「あんたに限っては、そうよ」
「わからないよ……」
「だってわかるはずのない問題なんだもの」
「え?」
あっさりと返した私を、腕の中にいたままドールは見上げた。
「人の心なんて、本当は誰にもわからないわ。勝手に想像して傷つくのも馬鹿らしいじゃない。あんたはそれを経験したんでしょ、ドール。そうして学んだんでしょう? 私たちはあんたを嫌っていない。それが真実だと、今はわかっているはずだわ」
「そう――だね」
本当にわかってくれたのか判断つきかねる弱い声で、ドールは応えた。そしてそれ以上は、何も言わなかったのだ。
(必死に考えているのかもしれない)
考えないようにしているのかもしれない。
どちらにしろ、私はただ抱きしめるだけだ。
今しばらくは――。
■温泉とたまご【恐山:花染の湯】
その後落ち着いたドールを連れて、私たちは他のツアー客や戒那さんたちと合流した。そして戒那さんのお誘いに乗って、先に温泉へ入ってしまうことにしたのだった。
戒那さんと2人、まずは冷抜の湯に入り、その名のとおり身体を温める。木でできた小屋と浴槽は小さめではあったけれど、とてもいい香りを放っていた。立ち込める硫黄臭を少しは和らげているようだ。
「これヒノキだわ。ヒノキのお風呂なんて、入浴剤以外で入ったの初めてかも」
私は感動した声をあげる。何故ヒノキとわかったかといえば、逆にその入浴剤のおかげなのだけど。
香りを楽しみながら浸かっていると、戒那さんは突然どこかに促した。
「そろそろ向こうへ行こう、シュライン」
「向こう?」
「若返りの湯だ」
「まだそんな歳じゃないじゃない」
私は思わず笑う。でも2種類の温泉を楽しめるのは嬉しいし、まだ”そんな”歳ではなくとも、若返りに興味はあるのだった。
★
少し離れた場所にある花染の湯には、何故か悠也がいて先に浸かっていた。
「ゆ、悠也……あんたなんで女風呂にいるのよ……」
予想外の状況に、思わず指を差してしまう。
「なんでって、ここ混浴ですよ」
苦笑した悠也は、それでもあっさりと答えた。
「え?!」
急いで辺りを見回すと、”若返りの湯”と言われることからも想像がつくように、中年の女性がとても多い。――しかし確かに、老年の男性も混じっていた。
(きーてないわよ……)
「まあまあシュライン。早く入らないと風邪をひくぞ」
「戒那さーん」
私は別に混浴が嫌というわけではない。ただ何の覚悟もなく、普通に女風呂に入る勢いで入れはしない。そんな人はよほど自分のボディに自信があるか、ただの恥さらしだろう。
私がその場で硬直していると。
「お嬢さん早く入りなされ。後ろがつかえとるよ」
「あ、すみません」
ついには知らないおじさんにも声をかけられて、急いで身体をお湯にうずめた。
「あら……ちょうどいいぬるさで気持ちいいわね」
ぬるいと思ったのは最初だけで、長く浸かるならこのくらいの温度がいい。
気がつくと、私はすっかり上機嫌になっていた。おそらく2人は苦笑していたのだろう。
温泉から上がると、私たちは戒那さんが買ってきた温泉たまごを皆で食べることにした。祥子さんとドールも合流して、戒那さんから1人ずつそれを受け取る。
「ありがと、戒那さん」
「ありがとうございます」
「私までいいんですか? どうもありがとう」
「…………ありがと」
それぞれに礼を述べた後は、今度は私があのスペシャルな塩を配る番だ。
(よーしっ)
と張り切って配ろうとすると。
「ストーップ!!」
どこからか声がかかった。声の方に視線を移すと、そこにはバスガイドが立っていた。
私たちは花染の湯の脇でたまごパーティーをしようとしていたのだけど、そのバスガイドはお風呂に入りに来て私たちを見つけたようだった。
「まさか……温泉たまごを塩で食べるつもりじゃありませんよね?」
「え……」
皆呆然とした顔でバスガイドを見つめている。
「温泉たまごは専用のたれで食べるんですよー。買った時袋の中に入ってませんでしたか? それにスプーンもついていたはずですが」
(いや)
戒那さんに渡されたものは、たまごだけだ。――今のところ。
私たちが何も答えないでいると、バスガイドは戒那さんが手に持っていた袋を奪って中身を確認した。
「あ、やっぱり入ってるじゃないですか」
「あの、温泉たまごって普通のゆでたまごとは違うんですか?」
訊ねたのは悠也だ。
(よく訊いた!)
皆温泉たまご=ゆでたまごと思っていたから、自然と塩が思い浮かんだのは言うまでもない。
バスガイドは逆に驚いた顔をして。
「全然違いますよ! ちょっとボクのたまご貸してくれない?」
と訊いておきながらドールのたまごを奪うと、袋からプラスチックの小さなスプーンと何らかのたれの袋を取り出した。どうやら食べ方講座が始まるらしい。
「いいですか? お皿にあけれれば食べるのは簡単なんですけど、お皿がない時はこうやって食べるんですよ」
バスガイドは慎重なしぐさでたまごの上の方を小屋の壁に打ち付ける。私たちはその動作を食い入るように見つめていた。
てっぺんに少しのひびが入ると、やはり慎重な仕草で殻を取り除く。そしてやっと見えた白身に、その慎重さのわけを知った。
「うわーぷるぷるだ」
「これ、まるっきり半熟なんじゃないですか?」
バスガイドの手が少し動くだけで、白身は踊り殻からこぼれそうになる。
「ほらボク、この白身をちょっと吸って」
バスガイドは感心にも自分では食べずに、ちゃんとドールの口元へと運んだ。仕方なく言いなりになっているドールの姿が微笑ましい。
白身が殻の囲いよりも減ると、バスガイドはたまごをドールに持たせたまま、そこにたれを流し込んだ。たれは、納豆についている醤油みたいに小袋に入っていて、ちょうどいい量になっているらしい。
うまくたれがすべて殻の中におさまると、今度はドールにスプーンを手渡す。
「はいっ、これで食べられるわよ」
「あ、ありがと」
気圧されてお礼を述べるドール。ちょっと可哀相になってきたが、一口食べたドールの顔を見て、それが羨ましさに変わった。
(あのドールが)
物凄く美味しそうな顔をしたのだ!
「ど、どうなの?!」
訊くまでもなくなくわかっているけれど、つい問いかけてしまうのが人間。ドールも意地など張っている余裕もないのか、やけに素直に言葉を繋いだ。
「美味しい……」
それが始まりの合図だったかのように、私たちも慎重にたまごの殻を割り始めた。バスガイドがその姿を満足そうに眺めている。
ある意味それは、地獄よりも怖い光景だったのかもしれない。
■夜は更けてゆく【旅館:大部屋】
その味は、”普通のゆでたまご”とはかけ離れていた。たれと白身、そしてたれと黄身のコンビネーションは最高で……たかがたまごでここまで美味しいのだから、ふもとの旅館で出されるだろう郷土料理はどんなに美味しかろうと、皆期待していた。
そしてその期待は、裏切られない。
「――ずいぶんと豪勢だな」
呟いた戒那さんの目は、最初から全開だ。しかし多分、私もそうなんだろう。
海の幸と山の幸があふれている。そういえばこの都市は、海も山もある貴重なところ。囲んでいる陸奥湾ではホタテがよくとれるらしく、ホタテ料理も多い。そして――
「そういえば、まぐろで有名な大間がすぐ近くでしたね」
悠也が口を挟んだ。
刺身がやけに美味しそうに見えたのは、錯覚ではないだろう。
「てんぷらがありますよ、シュラインさん。あのお塩使いましょうよ!」
山菜のてんぷらにはてんつゆがついていたが、素材が美味しいてんぷらならば塩で十分だ。その塩が美味しければなお言うことはない。
「あらいい考えね! 持ってきたかいがあったわ〜」
私の勘違いからすっかり行き場をなくしていた塩が、ここにきて敗者復活の機会を与えられたのだ。これを逃す手はない。
そうして美味しい料理に舌鼓を打ちながら、夜は更けていった。途中祥子さんとドールを寝かせたあとは、大人だけで酒盛りを始める。寝ている2人の邪魔にならぬよう月明かりだけを頼りに、大きな窓の方へ。
旅館側に用意してもらった地酒も美味しく、いつもよりもハイペースで酒宴は進んでいた。
(そろそろかしら)
私はダウンした振りをして、先に寝かせてもらうことにした。ちろりと戒那さんを見ると、どうやら私の意思が伝わったようだった。
「じゃあお先に寝かせてもらうわね」
「ああ……ありがとう」
お礼を述べた戒那さんに、悠也が不思議そうに問い掛ける。
「? 何がですか?」
その時には既に、私は自分用の布団に向かっていて、背中で答えに聞き耳を立てていた。
(戒那さん、どう答えるのかしら)
そしてその答えは――
「――塩」
それだけだった。
私は笑いを堪えられない。
(確かにいい答えだけれど)
ある意味素直なところが戒那さんらしい。
(――ああ、今日は楽しかったな)
布団の中で、眠りの落ちるまでの思考をしばしめぐらす。
故意にとはいえ、このツアーを教えてくれた武彦さんに感謝しなければならない。そして一緒に盛りあげてくれた皆にも。もちろん、ドールにも。
(いつか武彦さんと来れたらいいなぁ……)
意識が途切れる瞬間、私はそんなことを考えていた。
■お約束エンド【白王社ビル:月刊アトラス編集部】
「麗香さーん。お待ちかねのレポート持ってきましたよ〜」
後日できあがったレポートを持ってアトラス編集部を訪れると、何故か編集長の碇・麗香さんが凄い勢いで抱きついてきた。
「待ってたわよーシュラインちゃん! あなたのレポートはまともよね?!」
いつもはちゃん付けでなど呼ばない。麗香さんがどこか変だ。とりあえず刺激しないように答える。
「ええまあ……2枚目は」
2枚目には、私が恐山で耳にした不可思議な音について考察したことを載せてある。
ピタリと、麗香さんの動きがとまった。
「……じゃあ、1枚目は?」
「読みますか?」
怖々差し出すと、麗香さんはカメレオンの舌のごとく受け取って読み始めた。
(大丈夫かしら……)
さすがに心配になる。
1枚目の内容は、”温泉たまごの固さについての考察”だ。
「シュラインちゃーん……」
「ハイ」
両手で紙を握りしめて、麗香さんはぷるぷると震えていた。
「シュラインちゃんも温泉たまご好きなの?! 温泉たまごって美味しいわよねぇ。あ、今度温泉たまごの特集でもしようかしら♪」
「――は?」
予想に反して、麗香さんは嬉しそうに編集部内をスキップで飛び回っている。
「…………」
辺りに冷めた空気が漂っているのはたしかだった。
「編集長は今、温泉たまご萌えなんですよぅ……」
部下である三下くんが、説明をしながら泣いている。
「温泉たまご――萌えっ?!」
初めて聞いた言葉だった。
■終【恐山で逢いましょう】
■登場人物【この物語に登場した人物の一覧:先着順】
番号|PC名 |性別|年齢
|職業
0164|斎・悠也 |男性|21
|大学生・バイトでホスト
0086|シュライン・エマ|女性|26
|翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員
0121|羽柴・戒那 |女性|35
|大学助教授
■ライター通信【伊塚和水より】
この度は≪恐山で逢いましょう≫へご参加いただき、ありがとうございました。
作中には入らなかった、恐山に脱衣婆がいない理由。それは――なんと脱衣婆が自ら望んで川下に下ったからでした。「もう亡者の衣類を剥ぎ取るのは嫌だ。川下の部落の人々は自分を大切にしてくれるから、そこにいたい」と。だから本当は、優しい脱衣婆だったのかもしれません。ちなみに脱衣婆が盗った衣類を干す樹の上には脱衣爺がいるそうです(笑)。いやはや奥が深い……。
それでは、またお会いできることを願って……。
伊塚和水 拝
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