|
感情連鎖
SCENE[1] 無色の邂逅
「んー、こんなに小さかったかな」
佐和トオルは、腰に手を当てて眼前の建物を見上げた。
初秋の風が、トオルの金の髪を撫でてゆく。
彼がオーナーを務めるホストクラブ「Virgin−Angel」の客達が口を揃えて「男なのにどうしてこんなにきれいな髪をしてるの?」と言っては寄越す羨望とも媚態ともつかぬ上眼遣いが物語るように、トオルの金髪は柔らかな煌めきと手触りを有していた。その毛先が、秋の到来を思わせる爽涼な風に揺れ、すっと潔く伸びた彼の頸筋を刷いた。
それがくすぐったかったのか、トオルは一度大雑把に左手で髪を掻き遣ると、革靴の爪先でトントンと地面を叩いた。
秋風の中にひっそり佇む、教会。
こざっぱりと、余分な装飾の何もかもを刮げ落とし、ただ醇乎たる精神だけを積み上げ磨き上げて完成したような、真白い聖堂。
久し振りに訪れたこの場処は、かつてトオルの世界のすべてであり、生きるための糧であり、新しい一歩を踏み出すための支えだった。自分の生まれた場処や親の顔など知らずに生きてきたが、育った場処と神父、シスター達の笑顔なら今もまだ網膜に焼き付いている。
「……あの頃は、もっとずっと、大きく見えたんだけどな」
トオルは眼許に淡い郷愁を忍ばせ、聖堂前に設けられた聖水盤に手指をそっと浸した。
心地よい冷たさが、指先から全身に行き渡る。
聖水に濡れた指をすいと挙げ、慣れた風に胸の前で軽く十字を切った時、
「まあ」
品の良い声に導かれるように顔を向けると、パンをいっぱいに詰め入れた籐籠を腕に提げたシスターが、堂内から出て来るところだった。籠の中から焼きたての香ばしい匂いがふわり漂って、トオルの空腹を刺激した。
そういえば、もう正午も過ぎた頃合だというのに、今日はまだ何も食べていない。いつもならチョコレートの一つも口に放り込めば、勢い血糖値が上昇し、暫くは体力も保つのだが、そのチョコレートも今は携帯していなかった。今朝眼醒めた時に突然、「ああ、あの教会に行こう」という想いが胸中を占領したせいで、それ以外のことに気がまわらなかったらしい。
「トオルさん」
シスターは穏やかな微笑の裡で、トオルの名を呼んだ。
「お久し振りです」
トオルもにこやかに応え、ぺこりと会釈した。
「今日はこれから、近くの幼稚園までパンを届けに行ってきます」
シスターは、久方振りに逢ったトオルを、しかしそのようには扱わなかった。まるで、昨日も、一昨日も、この場処に彼がいたような気軽さで、これから自分のしようとしていることを告げた。
トオルは、思わず相好を崩し、敵わないな、と小さく呟いた。
こんな風に迎えられてしまったら、もうどんな巧緻な言葉も愛想笑いも持ち出すことはできないではないか。教会を離れた後、トオルなりに築いてきた己の世界で習得した技術も処世術も、ここでは意味を成さない。トオルが、ただ佐和トオルその人であるというそれだけで、すべてを受け容れ包み込んでくれるこの場処では――――。
たとえば、家族というのはこういうものなのだろう。
トオル自身、別段神父を父親と認識したことも、シスター達を母や姉のように位置づけた憶えもなかったが、そういった形式的な意識とは別なところで、この教会で育った皆は家族のようなものなのだ。心と体の成長をあたたかく、時に厳しく見守ってくれる家族。血の繋がりがない分、それはある種の押し付けがましさから解放された関係であり、同時に自身を己の力のみで律する強さを求められる緊張感を孕んだ世界だった。
「そのパン、シスターが焼いたんですか? 旨そうですね」
そう言ったトオルの眼に、ふと、シスターの背後でゆらと揺れる影が映った。
(ん……?)
二、三回瞬きし、改めて眼を据えると、影だと見えたのは、濃紺のワンピースを身に纏った少女だった。
「あれ……、キミ」
見憶えがあるかと問われれば、ない。
だが、見知らぬ相手かと訊かれたら、即答できず頸を傾げてしまう。
肩より少し長めの黒髪。
伏し眼がちな重い眸。
卵形の輪郭。
弘い額。
蒼白い頬。
少し厚めの、小さな唇。
あと十年もすれば魅力的な女性に成長しそうなその少女は、トオルの記憶をひどく曖昧に掻き乱した。
これと特定することは不可能乍ら、トオルの心のどこかに融けている存在。
それは――――
(……ああ、そうか)
心に引っ掛かっているのは、この少女の容貌ではない。
色だ。
視えない色だ。
全身から立ち昇る子供特有の溌剌とした生命色。
それを、何か濁った靄のようなヴェールが押し隠し、彼女が本来持っている筈の感情を消してしまっている。
恐らく、他人どころか、自分自身にさえ視ることを、感じることを禁じた心模様。
(何だか懐かしいな、この感じ)
トオルは、シスターの後ろでじっと身を潜めている少女に視線を注ぎ続けた。
トオルの懐かしさの正体は、二つある。
一つは、幼い頃の己の姿。
そして、もう一つは。
「久し振りだね。大きくなってて、一瞬誰だか分からなかったよ。元気だった?」
突然トオルに声をかけられ、少女はびくんと肩を揺らせた。
シスターは、あら、と短く驚嘆し、「この子のこと、よく分かりましたね」と眼を丸くした。
「ええ、まあ。何となく」
そう応え、トオルは苦笑した。
確かに、トオルにエンパシーの能力がなければ、この少女に思い当たる節などみつけられなかったろう。何しろ、彼の記憶に残る少女の姿と言えば、生まれたばかりの赤子でしかないのだから。
今から十年ほど前の、北風の冷たい夕暮れ。
高校卒業を間近に控え、今後の身の振り方を考え乍ら歩いていたトオルは、薄桃色の塊が教会の前庭に転がっているのをみつけた。何だろうと思って何気なく近付いて、それが毛布にくるまれた赤ん坊だと気付いた時には、頭の中が真っ白になった。
トラウマというほど、もうその一事に心囚われてはいなかったが、それでも寒空の下にたった一人放り出された赤ん坊を見て、ああ自分もこうだったのかという思いが胸を過ぎった。
毛布に落ち葉を絡み付かせ、遠く高く澄んだ空に顔を仰向け、泣きもせず、ただ静かに何かが終わってゆくのを待っている。
誰からも必要とされずに、どんなぬくもりからも離れて、空を見上げるしかない捨て子。
お前は母親の胎内から産み出された存在なのだと諭されても、理解できるわけがない。いっそ、神の思し召しのままに天空がその青の中から産み落とした子だと言ってくれた方が、まだしも納得できるというものだ。
生後何ヶ月かは正確には分からなかったが、ともかく毛布の色からいって、女の子だろうと推察できた。トオルは心の動きを止めたまま赤ん坊を抱き上げると、教会の中へ入っていったのだった。
その印象的な出逢いの後、すぐに教会を出て一人暮らしを始めてしまったトオルは、以来どんな風にその子が成長の途をたどったのか知らなかった。だが、今こうして間近に少女を見る限り――――未だ彼女が救われていないのは明らかだった。
誰にも心を開かず、自分を認めず、心の色を喪った少女。
あの日、トオルが自らの腕に抱き上げた赤子。
トオルの中で、昔の自分と少女が抱く感情の鎖がかちりと繋がった。
SCENE[2] 光あれ
この子のこと、お願いします。
トオルにそれだけを言い置き、シスターはパンの香りを引き連れて去っていった。
二人はそれぞれ手に一つずつパンを与えられ、それを手にしたまま、足早に歩み行くシスターの後ろ姿を暫く眺めていた。
少女は、シスターがいなくなっても淋しそうな顔一つするでなく、かといってパンを食べるでもなく、トオルを必要以上に警戒することもなく――――ぽつんと立ち尽くしていた。
「お腹、空いてないの?」
トオルはおもむろに両膝を折り、顔の位置を少女に揃えて話しかけた。
少女はきゅっと口を一文字に結び、一度ちらとトオルを見たものの、すぐに視線を足許に戻し、それ以上どんな反応も見せなかった。
これはなかなかに手強い。
そう思うトオルの眸は、彼が今自分の表情を鏡で見たらきっと驚くほどに、優しかった。
「キミは空いてないかもしれないけど、俺はね」
言うなり、トオルは少女の片手をぎゅっと握った。
反射的に手を振り解いて逃げようと身構えた少女の恐怖心を制したのは、トオルの真っ直ぐな笑顔だった。
「もう、腹減って仕方なかったんだよね。焼きたてのパンを抱えたシスターに逢えて、ホントよかった。こういうの、神様の恵みっていうのかな」
言い終えるや、大きく口を開け、ぱくっとパンに齧り付いた。
少女は、手を繋いだまま美味しそうにパンを咀嚼するトオルを落ち着かぬげに見ていたが、やがて自分も、ぱくりと一口、パンを食べた。
「…………おいしい」
初めて聞いた少女の声は、風に吹き鳴る梢の頼りなさに似て、幽く震えていた。
「だろ? キミも今度、シスターに習ってみたらどうかな、パンの焼き方」
「…………できない、よ」
「できない? どうして」
「……どうしても……」
そう応えた直後、トオルにぎゅうっと手を握り直され、少女はびっくりして眼を上げた。途端、
「大丈夫」
トオルの力強い言葉が少女の心を捉えた。
「キミはね、本当は何でもできるんだ。ただ、できないような気がしてるだけ」
「……でも……」
「シスターに言ってごらん、私もパンを焼いてみたいって。一から丁寧に教えてくれるからさ」
「…………私なんかに教えても、仕方ないよ。上手に、できないし」
「誰だって最初から上手にはできないよ。俺だってそう。……いや、俺の場合、いつまで経ってもパンを焦がしそうだな。キミ、俺が真っ黒に焼いたパン、食べてくれる?」
トオルがわざと眉間に皺を寄せ、芝居がかった調子で問いかけると、
「……焦げたところを食べるとガンになるんだよ、お兄ちゃん」
少女は知った風な口を利き、ほんの少し口許を綻ばせた。
トオルは口を尖らせて、少女の眸を覗き込んだ。
「じゃあ、やっぱりパンはキミが焼いてくれる? 俺、食べるの専門ね」
「……私が焼いたら、お兄ちゃんが食べてくれるの?」
「もちろん。女の子の手料理は大好物だからね。……魚とか納豆とか生臭いもの以外は」
「……好き嫌いは、よくないんだよ」
少女に真顔で言われて、さすがにトオルは返す言葉もなく、はは、と苦笑った。
それから二人は、近くのコンビニエンスストアで飲み物を買い、教会隣の小さな公園へ行った。並んでブランコに腰かけ、トオルはコーヒーを、少女はミルクを飲み乍ら、あたたかいパンを食べ終えた。
トオルと一緒にいることに慣れ始めた少女は、時折不安そうな色を滲ませてはトオルの方を見、そこに彼がいるのを確認すると、また前を向いてブランコを揺すった。
きっと、心のどこかで怯えているのだ。
身近にいてくれる筈の誰かに、見捨てられることを。
置き去りにされた瞬間を憶えているわけもないだろうが、物心ついた時に、母として甘えられる人も、父として頼れる人もいなかったその事実は大きい。
どうして、自分はここにいるのだろう。
どうして、捨てられたのだろう。
どうして、愛されなかったのだろう。
どうして、どうして、どうして。
どうして、私は、生きているのだろう。
ねえ、どうして――――おかあさん。
他の何かがよかったの?
他の誰かがよかったの?
私なんか、いらなかったの?
生まれてきた私は、かわいくない子だった?
おかあさんをたくさん困らせた?
いっしょにいたら、しあわせじゃなかった?
神父さまもシスターも、みんなみんなやさしいけど、私はやっぱりひとりだよ。
ずっとずっと、ひとりだよ。
神さまはどこかから見守っていてくれるのかもしれないけど、私にはまだ見えないもん。
どこにいるのか分からない。
だから、今も、ひとりだよ。
「…………お兄ちゃん」
少女が、ぎいっとブランコを軋ませ、踵で砂を蹴った。
「ん?」
「……お兄ちゃんも、ここの教会で暮らしてたひと?」
「ああ、そうだよ。キミと同じ」
「……でも、お兄ちゃんは、もうさびしくないよね、おとなだから」
「淋しくはないけど……それは、俺が大人だからってわけじゃないよ」
トオルの返辞に、少女は不思議そうな顔をした。
「じゃあ、どうして?」
「一人じゃないから、かな。善くも悪くも、俺のことを理解してくれる友達もいるし、仕事も結構愉しいしね」
「……私は……ひとりだよ」
少女は両手にブランコの錆びかけた鎖を握りしめ、深く項垂れた。
トオルは数秒黙してから、急に立ち上がると、少女の坐ったブランコの背後にまわり、その小さな背をゆっくり押した。
トオルのリズムに合わせて、ブランコは前後にゆるやかに揺れる。
少女はそれを厭がりもせず、揺らされるままに身を委せていた。
「……さっきも言ったけど。大丈夫、だよ」
トオルは、遠離ってはまた近付いてくる少女の背をみつめ乍ら、言った。
「キミは、一人なんかじゃない。確かにね、生まれた時には、祝福されなかったかもしれない。けれど今、キミの周りにはキミを祝福してくれる人がたくさんいるんだよ」
「……お兄ちゃん……」
「それは気付こうとしなければ気付くことのできない祝福なのかもしれない。俯いているうちは、見えないかもしれない。でも、ちょっと顔を上げて周りを見まわしてみたら、きっとすぐ分かるよ。たくさんの祝福が、たくさんの仲間が、キミを待ってる」
そこまで話すと、トオルは揺り返してきたブランコを、少女の体ごと抱きとめた。
「もちろん、俺もね」
「わ……!」
唐突にブランコが止まった衝撃と、トオルの胸のぬくもりに、少女は驚いて声を上げた。
そうして、一瞬の後。
彼女は生まれて初めて、子供らしい澄んだ笑顔を見せた。
「……お兄ちゃん」
少女が、頸を捻ってトオルを振り返った。
「また、逢いに来てくれる?」
「ああ。必ず来るよ」
トオルは、明るい光の宿った少女の眸に、優しく微笑みかけた。
人は、どんな場面で、何がきっかけで救われるのか分からない。
けれど、ある日出逢ったたった一人の人に、たった一つの言葉に、新しい世界が拓けることもある。
幼き時分、トオル自身がそうだったように。
少女もまた、今日が出発の日。
遠い記憶の向こうで、彼女を抱き上げた手によって、今、背中を押され乍ら。
抱きしめられ乍ら。
清らかなる神の子らに、大いなる祝福を。
[感情連鎖/了]
|
|
|