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<東京怪談ノベル(シングル)>


月に想うは赤い瞳の

「…水が出るだけ有難い、か」
 ぱしゃり、と蛇口を捻ったそこから、水を手に掬い顔を洗う。
 顔を上げると鏡の中に、酷い顔の男が居た。


 なんて顔をしている?


 己に問う。
 憔悴し切った顔色の。
 目を逸らしたくなるような。
 …今、私が一番見たくない男。
 その男の名は――シェラン・ギリアム。

 ちなみに先程試したが、ここでは湯は出そうにない。
 安ホテルなので仕方は無いが。
 …ひとりで本が読める場所があれば、僅か休める場所があればそれで良い。
 良い、筈だ。

 言い訳しながら本を読む。
 ホテルに着くより前、買い込んだ幾つかの文献。パピルスの写し、魔術の研究本。他。

 ここはエジプト。
 ナイルの恵みにより興された偉大な文明を源流とし、様々な激動を経、今日に至る大地。
 そして何より。
 この場所は魔術の発祥の地。
 …いつか来たいと思っていました。
 憧れの地でもありました。
 なのにどうして。
 折角辿り付いたと言うのに――心は、晴れない。


 晴れる訳が無い


 …心の声は敢えて無視する。
 文献は山程ある。
 知識を深めるには持って来い、な。
 古代の遺跡、その実物もすぐ側にある。
 ほんの少し足を伸ばせば、神秘のピラミッドにさえ手が届く。

 男は本を読んでいる。
 …気が付けば夜も更けていた。

 人間の機能として睡眠は必要だと。
 勝手に考える自分がいる。
 …私は今でも眠れるらしい。
 貪欲に過ぎると自嘲する。

 灯りを消した。
 男は簡素なベッドに身体を滑らせ、横たわる。
 眠ろうと瞼を下ろす――下ろそうとする。
 ――前に。
 窓から差し込む皓い光が。

 ――月、の。


 …古代エジプトに於いて。
 月は世界を生んだ母。
 男女両性の具有者であると信じられ――。


 思わず目を奪われた。
 月の光。
 闇夜に浮かぶその姿。

 アルビノの。
 神々しい貴女の姿が。

 男は、ぶん、と頭を振り、再びベッドから身を起こす。
 そしてまた、小さな灯りを点けた。
 読み途中だった、本を取る。

 再び、記述を目で追う。
 ――大いなる尊き狒々。学問と魔術の神、トート。
 ――生命の母であり死の老婆。女王イシス。
 宇宙の秘密を解く鍵。
 後世になると新たな意味が次々と付け加えられている。どれが誤っているのかどれが正しいのか、判断が難しくなる原因。けれどそれも研究の結果。人々の積み重ねてきた過程。努力の結晶。導き出された解釈。
 誤っている、とされる事でも、『力』を持ってさえしまえば、それは『本物』にもなってしまうから。
 選び取るのも難しい。
 けれどそれらも、今日在る私たちの、使命でしょう。
 正しいもの――と言うより効果のあるものを正しい方法で使えるよう、選び取り、残す事。
 そんな中にあった記述のひとつ。
 女神イシスに関して。
 そう。
 …この女神は、月の女神、ともされている時がある――。
 女神。
 私の。
 守るべきひと。
 守ると決めたひと。
 守り切れなかった。
 …私は。


 ――シェラン


 透けるような赤い瞳が。
 今にも零れ落ちそうな涙を湛えて。
 鮮明に。


 ――僕の前から居なくならないで…!


 離れない。
 最愛の人の泣き顔が。
 そんな顔をさせたのは俺。
 …きっと、今も。
 変わらず。
 涙を。
 確信出来てしまう自分がいる。
 確信などしたくないのに。
 …笑っていて欲しいのに。

 本を持つ手に力が入らない。
 取り落とす。

 ごとん、と。
 床に落ち。

「…くッ」
 男は胃の辺りを押さえ、がくりと。
 自身も――床に崩れた。

 俺、は。
 意気地の無い男です。
 貴女を守りたいと決めながら。
 貴女を連れて出る勇気さえ無かった。
 ウィッカ――魔女宗から。
 あの屋敷から。
 俺なんぞが彼女を連れて。
 何が出来た?
 どうしてやれたと言う?
 否。
 何も出来なくとも構わなかった?
 傍に居てさえやれれば良かった?

 そうかもしれない。
 けれど。
 それ程俺は強くない。
 そんな自信は。
 そんな勇気は。

 ありませんでした。


 ――こんな私に、貴女を幸せにしてやれたと、思いますか?


 天に問う。
 赤い瞳の貴女の如き、皓い月の浮かぶ――天に。

 思い出すのはその姿。
 泣き顔は変わらない。
 ずっと。

 今、目の前に彼女が居たならば。
 ――その涙を拭う事が出来たのに。

 薄暗い部屋で項垂れる。
 静寂が痛々しいまでに男を責め立てた。

 天上の月は、何も言わない。
 ただ、愛しい月を照らす太陽にはなれなかった――この男を、見下ろしているだけ。
 冷ややかに。

【了】