コミュニティトップへ
高峰心霊学研究所トップへ 最新レポート クリエーター別で見る 商品別一覧 ゲームノベル・ゲームコミックを見る 前のページへ

<PCシチュエーションノベル(ツイン)>


クロイツェル・ソナタ

 玄関へ立ってドアを開け、来客の姿を認めた香坂・蓮(こうさか・れん)は、次ぎには無意識の内に一旦は開けたドアを閉めようとしていた。
 ──が、果たしてそれは適わなかった。
 ……閉まり切らない。
「……、」
 暫く、ドアは均衡の保たれた二方向からの押す力に依て静止していたが、結局、蓮の方が負けた。ドア越しの圧力に押された蓮は背後へよろめく。
 彼の前に、屋外の陽光を逆光に受けて立ちはだかる人影、──彼は、そんな蓮の様子は気にも留めずに莞爾と微笑んでいる。片手では、一体何処にそんな力が在るものか確りとドアを支えつつ。
「ただいま、蓮」
 ──これは悪い夢だ。
 ラスイル・ライトウェイ(らすいる・らいとうぇい)、柔らかな銀色の長い髪に青い瞳の穏やかそうな(あくまで見た目は)青年。──本当にラスイルだとすれば、目の前の彼が蓮と同じ位の年齢に見える筈は無いのに。
 目眩がした。
 現実感を失って呆然と立ち竦む蓮の脳裏に、ピアノの音がぼんやりと甦った。──18年前、あの日の「クロイツェル・ソナタ」が。

 陽光の差し込む窓の外には、礼拝堂の十字架の影が見える。黒い重厚なピアノのある部屋、そこは蓮が育った施設の中だ。施設の中は静まり返って居り、その代わり礼拝堂からは聖書を朗読する声がどこか透き通るように幽かに洩れ聞こえていた。
 蓮は生まれて直ぐに捨てられた。それを、この教会の神父に拾われて付属の施設で育ち、今に至っている。親が蓮に与えて呉れた物と云えば、「れん」という名前とそれを記した紙を入れていたお守り袋だけである。 
 神父は思慮深く慈愛に満ちた人で、蓮を教会の付属施設に置きながらもクリスチャンにはさせなかった。親が迎えに来た時の事を考えて、である。
 蓮が唯一持っていたお守り袋には、名前の他にも一葉の写真が入っていた。父親と思しい青年、「Kazui-Kousaka’DelGesu’」のもので、香坂姓は彼の名前から冠した。──結局、蓮が成人するまでその父親らしい男も、母親も迎えに来はしなかったが。
 そうした訳で、蓮は皆が教会へ行ってしまう午後の聖書の時間には独り施設に取り残される。子供ながら、快活に走り回るよりも独りの静かな時間を好む性質だったのでその事自体は別段苦痛ではなかった。本を読んだり何なりとして、穏やかな遅い時間の流れと付き合う事にも慣れていた。それは乳児の時期を過ぎて物心付く前からの習慣だった。
 だが、ここ数年程の間、その時間の蓮は独りでは無くなった。
 ──それと云うのも、彼が……。

「終わりましたよ」
 小さな音でアルペジオを弾き続けながらそう告げる声で、蓮ははっと息を詰めた。
 ピアノソロが終わった、と云う事だ。弾き出さなければならない。
 楽譜には、ソロの少し前から小さな音符でその部分のピアノパートが記されている。が、単調なパターンの繰り返しは正確に小節数を数えていなければどこが今奏されている部分なのか判断が付かない。
 ヴァイオリンを構えた小さな少年──蓮は弾き出しの音程を押さえたままピアノに乗ることが出来ず、焦りと混乱で視界が点滅するのを覚えた。
「……、」
 音楽が止む。それとほぼ同時に、それまで鍵盤の上を流れていた手が鋭く空を切って振り下ろされた。
 ぱん、という容赦の無い音が響く。蓮は声を上げる事もせずに目をきつく閉じてそれを受け、然し衝撃で楽器だけは取り落とさないように確りと手の中のヴァイオリンとボウを抱えた。
 ほんの小さな少年の、そんな健気な程の反応は云わば無意識の内の反射神経である。ミスを仕出かすとすぐに手を出すのはこの師の癖だ。……以前、同じように頬を叩かれた時、あまりの痛みについボウを取り落としてしまい、辛うじてそれ自体は無事だったものの楽器を落とした事で更に平手を喰った事が在るので。曰く、こんなに繊細な楽器を床に落とすなんて演奏以前の問題だ、演奏家ならば何が在ろうと、自分は死んでも楽器を庇え、それには子供も大人も関係無い、と云うことである。
「休みに入ったら直ぐに小節数を勘定する、最初に云ったのは一体いつでした?」
 ……はい、と幼い蓮は少年特有の硬質な高い声で小さく返事をした。
「4小節前から弾きます。今度はちゃんと数えて必ず弾き出すように」
 柔らかい物腰ながら、未だ幼児である弟子に対して徹底的に厳しく容赦の無い事が伺える師も未だ歳若い少年である。
「返事は?」
「……はい、……ラス、」
 その時ラスイルは16歳で、それでも蓮とは10年の歳の開きがあった。
 軽く頷くとラスイルは再びピアノに向かい、言葉通りの箇所から伴奏を始めた。蓮は半ば必死で音符を数え、今度は正確なリズムに乗ってソロを弾き出した。
 身体に余るフルサイズのヴァイオリンから流れる音はまだ深みに欠けた堅さを残すものの、音程は正確で右手はしなやかなフォームで自在にボウを操り、伸びやかに美しい。この小さな手が、どうしてこれ程完璧に指板を押えられるのだろうと、第三者が見ればそれだけで溜息が出る筈だ。
 
 ラスイルはそれより更に4年前、ヴァイオリンケース一つだけを下げ、飄々とした体で教会へ流れて来た。
 その時、庭の木陰に独りで佇んでいた蓮は視界をよぎった、伸びやかな長い足を颯爽を運ぶ少年の銀色の髪が光に透けて眩しかったのを覚えている。──ふと、彼は蓮を振り返った。
 ぎくりとした蓮が身体を強張らせたのに対し、明るい微笑みを残して行った彼の青い瞳が印象的だった。
 
「──……」
 小一時間程の後、その場所でうとうととしていた蓮は急に翳った視界に顔を上げた。
「やあ」
「……、」
「君が蓮君だね。……ラスイル・ライトウェイです、よろしく」
 穏やかな声と笑顔に、幼い蓮はつい引き込まれるように差し伸べられた手を取って立ち上がった。
「……、」
 そのまま、何と云って良いか分からずに立ち尽くしている蓮を余所に、ラスイルは地面に置いたヴァイオリンケースを開けて楽器を取り出した。表板に特徴的な染みを持つ枯れた金色のボディを、とてもきれいだと思った事しか記憶に無い。──ヨーゼフ・バルトロメオ・グァルネリ二世、──「デル・ジェス」のコピーだと知ったのは後の事である。
 ラスイルは自らの手許を息を詰めて見守っている蓮に一度莞爾と笑い掛け、ヴァイオリンを構えて右手のボウを弦に乗せた。
 その時、ラスイルの表情が一変した事は未だ、──成人し、当時の彼の年齢を追い越した今でも明確なイメージとして脳裏に焼き付いている。
 ダウンボウを勢い良く引いたラスイルの手許から、蓮の小さな世界を覆すような、輝かしいA-durの和音が流れ出た。その明るく力強い音は、子供特有の視界の狭い世界の壁を一気に解放させる力があった。
「……、」
 その後に続く美しい旋律とヴァイオリンを奏するラスイルの姿を、蓮は夢中で追い続けた。これがヴァイオリンと云うものなのか、という驚愕から、子供ながらに身体の内部が震えた。
「……気に入りましたか?」
「……、」
 演奏を終えたラスイルに問われ、蓮は頷いた。──筈だが、実際にはまだ硬直が解けずに殆ど微動だにしていなかっただろう。
 ラスイルは再び蓮に微笑みを向け、ヴァイオリンを差し出した。覚束無い手付きで、慌てて伸ばした両手で受け取った蓮は当時の彼には大きすぎる、美しい楽器に、すっかり惹かれていた。
「今の曲はベートーヴェンです。──『クロイツェル・ソナタ』、名曲だ」
「……、」
 そしてラスイルはこう告げたのだ。
「蓮、君なら直ぐに弾けるようになりますよ。──今日から、私が先生だ。蓮にヴァイオリンを教える。私の事はラス、で構いません」
「……ラス、」
 両手でヴァイオリンを抱えたまま、蓮は呟いた。それに頷いて応えたラスイルの微笑は、非常に優雅で穏やかだった。
 ──勿論蓮は、程なく始められたヴァイオリンレッスンの初日から、その穏やかな笑顔は表面上のものに過ぎないラスイルの本性を知る事になるのだが、その時はもう後の祭りである。

 ラスイルのレッスンはスパルタそのものだった。
 施設の音楽室に埋もれていた、子供向けの分数サイズの安物の楽器を使わせてくれたのは最初の内だけである。まず楽器の構えかたや姿勢を、文字通り身体に叩き込んで教えると、先ず基本的な音階とボウイングの練習が一日数時間に渡って始まった。疲れようが手が痛くなろうがお構い無しである。然も、音程を外したりボウの角度が曲がるとすぐに平手が飛んだ。
「高い。今、何の音を弾いているんですか? 口に出して云ってみなさい、音名で」
「……ファ、」
「そうですね。では、ミ、とファ、の間の音程は?」
「半音」
「半音と云うのは?」
「……、」
 ここで、蓮の頬が鳴る。
「短2度のことです。長音階の各音間の長短については、もう既に教えましたね? 必ず、次ぎの音が何度の間隔に来るのかを理解してから押さえること」
 そして、はい、もう一度、と促す。その日は既にレッスン開始から二時間が経っていて、子供には堪え難い苦痛と疲労を感じ始めていたのだが、勿論云って通る相手ではない。
 一件、穏やかそのものの内面が現れているように見えるラスイル少年の笑みは、既に蓮にとって恐怖の対象になっていた。その歳にして、蓮は既に泣いても逃げられない事が世の中には存在する事を知っていたのである。
 「今は、耐える時期です。今きちんとした基礎を固めて置かなければ良い演奏家にはなれない。そして、基礎を身に付けるのは出来るだけ早い方がいい」というのがラスイルの弁で、実際、世界的な演奏家になろうと思えば3歳児程度の時期から訓練を始めるものだが、──それにしても、蓮のラスイルへの畏怖の念を緩和する事にはならない。
 そして、1年程して基本的な音階や簡単な曲が弾けるようになったと思えば、直ぐにまた新しい試練が与えられた。
 ラスイルは蓮から分数サイズのヴァイオリンを取り上げ、レッスンの時には自分のヴァイオリンを与えるようになったのだ。
「子供の内こそ、良い楽器を弾いて音質の違いを聴くことが重要なんです。それを、手の小さいのに任せていつまでもこんな安物の音を聴いていては不可ない。それに、大人になってからフルサイズに替えていては後々、技巧でつまづきます。今からフルサイズに慣れて置けば、フィンガートオクターヴでも10度の和音でも簡単に弾けるようになる」
 蓮が一度落とした事のある楽器は、この分数サイズの物である。それ以後、何があっても(と云うよりはどれだけ強く叩かれても)楽器だけは死守する癖が付いたので、自分の楽器を貸しても大丈夫だと思ったのかも知れないが、身体に釣合わない大きさのヴァイオリンを使ってのレッスンは、それまで以上に何倍もの苦痛を伴った。
 普通に習い事としてヴァイオリンを始めた同じ歳頃の子供がまだ分数サイズの楽器で「パッフェルベルのカノン」だの「ボッケリーニのガヴォット」だのを拙いながらに弾いて喜んでいる時に、蓮は既にフルサイズのヴァイオリンでベートーヴェンのソナタに取り組む事が殆ど強制されていたのである。
 全てはそのお陰、の一言に尽きるが、4年後には蓮は最初のラスイルの予告通りに「クロイツェル・ソナタ」を弾けるまでになっていた。
 同時に、彼は何故かピッキングやその他諸々の小細工を蓮に伝授もした。
 あまり、その内容の異常さに気付いていない蓮に、一見(だけ)穏やかに微笑みかけてこう云いながら。
「生きて行く為には手先の器用さが必要ですよ」
 そんなものか、と蓮も妙に納得してそれらを覚えて行った。こちらの方は、ヴァイオリンに比べれば余程他愛のないレッスンだった。

 「クロイツェル・ソナタ」を弾き終えると、ラスイルはいつも通りに蓮がヴァイオリンを仕舞ったケースに鍵を掛けた。それが、レッスン終了の合図である。そして彼は疲労困憊した蓮を置いて、放り投げたキーを受け止めたりとしながら飄々と去って行く。
 その時には、蓮は何ら異常を感じなかった。酷使した全身の疲れと極度の緊張が一気に解けた精神状態の中で、ぐったりしているのが常だった。その日も、そうだった。
 然し翌日、ラスイルはピアノの前には現れなかった。

 いつものように、施設の中は静まり返り、眩しい中庭の向こうからは聖書の続誦が響く。
 蓮は、独りでずっと待ち続けていた。
 いつまでも現れないラスイルを。ピアノと、彼のヴァイオリンケースの前で、ただじっと押し黙ったまま。 

「神父様、」
 数時間の後、施設内にざわめきが戻って来た。蓮は子供達の後から戻った神父の衣服の袖を掴まえた。
 はい、と首を軽く傾いで蓮を見下ろした彼の瞳は優しい。
「……ラスは?」
「……、」
 彼の笑顔が少し寂し気に曇った。蓮は矢継ぎ早に続ける。
「ラスは、どこへ行ったんですか?」
 神父が幼い蓮に視線の高さを合わせて屈み込んだ。蓮の高等部に、大きな手の暖かさが在る。
「行ってしまいましたね。……自由な人です。去ろうとする彼を引き留める事は、誰にも出来ませんよ」
 神父の言葉は曖昧だったが、幼い蓮、ある意味では今よりも感の鋭かった繊細な子供は、もう、ラスイルは戻らない、と云うことを瞬時に理解した。
 もう、直ぐに手の出る師の厳しいレッスンに拘束される事は無い。──然し、だからと云ってではこれからどうすれば良いのか、蓮には何も分からなかった。
 不意に、自分が何か大きな支えを失ったかのように感じて目眩がした。
「蓮」
 視界の中の神父の顔はぼんやりと霞んでいが、彼の声だけは妙にはっきりと聞き取れた。
「ラスイルはもう居ません。これから先は、あなたは自分で極めなくては不可ないのですよ」
「……、」
 長い間、蓮はその場に立ち尽くして動かなかった。その時の顔は子供とは思えない程に表情が無く、身体は微動だにしなかった。
「……蓮、ラスイルのヴァイオリンのことですが」
 去り際にそう付け加えた神父の言葉も、良く聞いてはいなかった。但し、その響きは覚えていなくとも言葉の意味だけはやけにはっきりと感覚に残った。
「グァルネリ・デル・ジェス[イエスを護る者]、ケースが開けられれば、弟子に譲る、と云うことです」

 夜になってから、蓮はヴァイオリンケースを開けた。6歳児の蓮の片手にはピッキング用の特殊な形状に曲げたワイヤー。──こんな方法で最後まで「おさらい」をさせる辺り、あの師らしい。
「……、」
 部屋は暗い。蓮は月明りを求めて窓辺へヴァイオリンを持って移動した。
 普段は、演奏に集中しなければ平手を喰う恐怖でゆっくりと眺める暇など無かった。あの日、初めてラスイルと逢って以来、ようやく蓮はその楽器を手に取って見ることが出来た。
 妙に荒削りなスクロールや形状の直線的なヴァイオリン、f字孔から見えるラベルに記された特徴的な十字架の横には、「レプリカ、ヨーゼフ・グァルネリウス製作『デル・ジェス』」の英字が、幼い蓮にも何となく読み取れた。
 親が遺したお守り袋の中の写真の裏に「デル・ジェス」、──護る者、という同じ言葉を見付けたのは暫くしてからである。今までは見落としていた文字に気付いた時は愕然としたが、確かめようにもラスイルが行方をくらましてからでは、その術が無かった。

「──帰ってくれ」
 呆然とした彼を擦り抜けて勝手に部屋へ上がり込んだラスイルを見る事無く、蓮は低くそう告げた。
「今さら、どうだと云うんだ、帰れ、出て行ってくれ!」
「まあまあ、そう冷たい事を云わず」
 激昂しかかっていた蓮は、相変わらず飄々としたラスイルの声に混ざった、弦を弾く音──間違えようもない彼の愛器、グァルネリ・デル・ジェスのコピーの──に気付いて振り返った。
「──……あ、」
 愕然とした。一応、鍵を掛けてケースに仕舞っていた彼のヴァイオリンがいつの間にか取り出されてラスイルの手に収まっているのを見て。
「いつの間に、」
「合鍵を持っているのは私ですよ」
 莞爾、と微笑んだラスイルは片方の手で小さなキーを掲げて見せた。
「……、」
 ──そうだったな、まともな常識が通用する相手ではない。諦めの境地に達した蓮の感情は一気に納まった。
 不意に、ラスイルはそのキーを蓮へ放って寄越した。蓮は慌てて片手で空を切り、それを受け止める。
「……、」
 片手にキーを握ったまま、冷めた目で自分を眺めている蓮にラスイルは爽快な程に淀み無く告げた。
「渡して置きます。もう、必要が無いので」
 ラスイルは、肩に別なヴァイオリンケースを下げていた。蓮に譲ったデル・ジェスのコピーの他に、新たに愛器を見付けた、という事だろう。──この時点で、そのヴァイオリンがジュゼッペ・アントニオ・ロッカ、ガダニーニの流れを汲んだイタリアモダンヴァイオリンの巨匠の作と知れなかったのはある意味蓮には倖いである。順当に計算すれば自分より十歳年上の34である筈のラスイルが、どうも自分と同じ程度の年齢にしか見えないと云う事で、彼らしく無く混乱を来している彼には。そうと知れば、一体こいつは何物なんだ、という疑問が爆発していた筈だ。
「……用向きは、鍵を渡すだけか?」
 ──そうじゃないだろう、と蓮の皮肉っぽい口調が云っている。それに応えたラスイルの微笑みも、「勿論」と告げていた。
「一曲、弾いてみなさい」
「……、」
 ラスイルがヴァイオリンを蓮に差し出す。蓮は落ちつけ、と自らに云い聞かせて精神を鎮めてから受け取った。
 調弦を行い、指板に置いた左手の指とボウを構えた右手のフォームを鋭く見咎めたラスイルが牽制した。
「パガニーニなどで誤摩化さないように。技巧が安定しているのは分かっています。……『クロイツェル』を」
「……、」
 蓮は溜息を吐いて一旦、楽器を下ろした。迂闊だった。この「元」師ならば弾き始めの姿勢や左手の位置を見ただけで何の曲を弾く積もりか分かってしまうのは当然である。
 パガニーニの奇想曲は、ヴァイオリン超絶技巧の結晶だ。それだけに、情感に欠ける機械的な演奏をカバーするには最適だが、──見抜かれた以上は観念するしか無い。
 楽器を構え直した。「クロイツェル・ソナタ」の冒頭の和音の形を取る。

「──昔はきれいに弾けたのに。……もっと、感情豊かに、伸びやかな音で」
 第1楽章だけを聴き終わった時点で、ラスイルは苦笑いして溜息と共にそう呟いた。
「音程は安定しただろう」
 蓮はそそくさとボウの螺子を緩め、楽器を仕舞い始めながら素っ気なく応えた。
「それは当たり前でしょう。身体が成長したのだから」
「……、」
 クロスで、弦にこびり着いた松脂を拭う。蓮はラスイルに背を向けたまま殊更強く、不快な甲高い音を響かせるようにその作業を行った。
「また一から教え直さなければ不可ませんね。……これは大仕事だ。大人になってから一度付いた癖を直すのは」
 ラスイルは既にその心積りらしく、「伴奏が無かったのが不可なかったのかも知れませんね、まあこれからまた二重奏に慣れて行けば」などと持ち込んだ自らのヴァイオリンケースを見遣って一人腕を組んで頷いている。
 ──冗談じゃない。
 蓮の脳裏に、ラスイルのピアノを伴奏に、平手を喰いながら受けたレッスンの記憶が甦った。今、再びあの毎日が繰り返される事を思うだけでぞっとする。
「帰れ」
 呟くように、然し強い語調で告げた蓮の言葉が果たしてラスイルの都合の良い耳に届いていたかどうかは分からない。
「暫く、世話になりますよ」
 振り返り、ラスイルの笑顔と視線を合わせた蓮はどうしたものか、途方に暮れる思いで言葉を継げずに黙っていた。