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<東京怪談ノベル(シングル)>


憧憬



 人を呼ぶ声。大きな物音。うっすらと漂う埃のにおい。
 あたしがいる二階梁からは、大道具を運ぶ人たちの様子がよく見える。
 もっとも、見ているだけではいけない。あたしだって演劇部の一員なのだから。しかもあたしは一年生。やることは山積みだ。
 丁度私の視線の真下に、細く丸めた台本を手で叩き声を出している先輩がいる。大道具係りに指示を出しているのか、台詞を口にしているのか、この騒音の中では判断がつかない。
 ふざけている――なんてことはまずないだろうなぁ。
 学園祭に向けて、みんな真剣なんだから。
(あたしだって――)
 一瞬ふらついた身体をなおす。危ない……。こんなところから落ちたら、大変なことになる。
(暑いなぁ)
 今は便宜上体操着を着ているとはいえ、やっぱり汗をかいてしまう。額の汗をぬぐおうと右手を動かしたら、頬の汗が首筋に落ち胸へ流れていった。
(今これだけ暑いなら、本番はもっと大変かも)
 何せ本番は今の倍の時間はこのままなのだから。
 でも、投げ出すことは出来ない。
 投げ出すことは好きではないし、何より「やめたい」だなんて先輩に言える訳がない。
 元々、先輩の頼みで今ここにいるのだから。


「みなもちゃん、照明を担当してくれる?」
 あたしの教室に現れた先輩の一言目がそれだった。
 ――あたしの学校には、運動会がない。
 だからなのかはわからないけれど、学園祭は学校のメインイベントになっている。大々的に行われるこの行事には、運動部文化部関係なく参加するので、学園祭が近づくとみんな準備で忙しい。それはあたしが所属している演劇部にも言える。
 正直、やろうかどうしようか迷ったのだけど――。
 先輩の目は――やれ、いいからやれ、と言っている気がした。断れない雰囲気。
「別に、断っても良いのよ?」
 先輩は畳み掛けるように言った。
「その代わり、舞台に出てもらうことになるけどね。作品名は知っているでしょ?」
「はい。狼と七匹の子ヤギ――じゃなくて、子豚です」
「その中の、一番小さい子豚をみなもちゃんに演じてもらおうかな? 時計の中に隠れて震えてもらうの。こんな風に、カタカタカタカタと――涙とかも浮かべてもらって。そしたら狼役の私がアドリブで襲ってあげるわ。後のストーリーがちょっぴり変わっちゃうけどね」
「……照明係やります」
 こうして照明係をやることになった。
 始めてみると、照明係という立場は不思議なものだった。
 自分も参加していながら、演劇部の人たちを客観的に見られる。あたしは練習時間の間、梁の上で先輩たちを見ながら、話に笑ったりため息をついたりしていた。
 そうしながら、時折我に返る。
 ――先輩たちを見ていて、悲しくなるときがある。面白い場面なのに、寂しい気持ちになる。怖い、とも言える。
(何でこんな気持ちに?)
 わからないまま、照明係りの役割をこなしている。


 学園祭当日。
 体育館内の簡易席につく生徒や大人を見て、あたしも緊張してきた。視界が人で埋まっている。
(失敗は出来ないよね)
 軽く、唾を飲み込む。館内の熱気もあり、練習以上に汗をかきそうだ。
 体操着の胸のあたりを掴んで頬をぬぐう。がんばらなくちゃ。
 汗ばんだ手が微かに震えていた。
 梁へと移動し、深呼吸をしてから、照明器具を確認する。
 本番の始まりだ。
「むかしむかしあるところに、七匹の子豚がいました」
 ナレーションに合わせて、舞台中央に照明を当てる。そこには、先輩扮するピンクの子豚が七匹。
 衣装を作る段階で「豚は肌色じゃない?」という声もあったのだけど、「そんなリアルな豚は見たくない」という意見が多かったため、ピンクに決定した。
 少々大きめの子豚の衣装で動き回る人の姿は、なかなか愛嬌がある。
(可愛い)
 巻き毛のようなやわらかい尻尾もついていて、微笑してしまう。でも、照明を断っていたらあたしもあの中に入れられていた訳で――そんな自分を想像すると、ちょっと笑えない。
(助かったぁ)
 その分、照明を頑張らなくちゃいけないけどね。
 照明の作業自体は割りと楽なので、ストーリーを梁から眺める。時間が経ってくると、余裕って出てくるものだ。それはあたしが照明係なせいかもしれない。
(先輩たちは余裕を見せる暇がないもの)
 ――うわああああん!!――
 叫び声が響いて、心臓が大きな音を立てる。
 舞台では、狼に子豚が襲われていた。
(びっくりした……)
 全体の照明を暗くして、狼だけを照明で照らす。狼はきょろきょろと身体や目を動かしながら、一匹ずつ子豚を探していく。
(先輩、上手いなぁ……)
 あたしが狼役だったら、あそこまで上手に出来るだろうか。――きっと無理だ。
(先輩は、毎日猛練習していたから)
 ううん、例え先輩と同じように練習しても――。あたしには足りないものがある。
(ここまでの熱意)
 きっと先輩は、舞台で演じるのが好きなんだ。あたしにはない気持ち。
(あれ――)
 それって舞台に限ったことじゃないかもしれない。舞台以外で――あたしは何をするのが好きなんだろう。
(何を熱心にやりたいと思っているんだろう)
 そんなもの――。
(あたしには、まだ)


 ――暑い。体育館内の熱がどんどん上へ上ってきているせいだろうか。
 吐息も重く、熱い。胸に手を当てると、じんわりと体操着が濡れていた。背中を汗が流れていくうち、体操着が背中に張り付くようになった。髪の先も、幾本か耳の後ろや首元にくっついている。
 その髪に指先を絡め、身体から離す。
(暑い)
 それでも熱は身体に張り付いて決して離れない。
(あたしには、やりたいことがないのかもしれない)
 照明を舞台端に移動させながら、思う。
(先輩たちのように何かあったなら)
 別に舞台じゃなくていい。他の――何でもいいから。
(どうして、ないの)
 照明をお母さん豚に当てる。狼のおなかを開いているお母さん豚。
(ずっと見つからなかったら)
 手が、がくんと震えた。一瞬、照明がお母さん豚からずれる。
(いけない)
 あわてて元に戻す。大きくはずれた訳ではないので、会場の人には気づかれなかったようだ。
 上を向いて、肩の力を抜くように息を吐いた。吐息は今も熱い。
 物語が終わった頃、汗が胸から腹部をなぞっていくのがわかった。相当の汗をかいている。


「やりたいことがない?」
 後片付けの際、先輩が言った。
「そんなのいつか見つかるよ。今はあせらなくてもいいんじゃないかな」
「――はい」
 椅子を折りたたみながら、あたしは小さくうなずいた。はい、としか答えられなかった。
(いつか――)
 それは、いつのことだろう。
 これは自分の問題なのだから、誰かに助けてもらえることはないとわかっているし、いつかは見つかることなのかもしれないけれど――。
 ちょっとだけ、寂しい。
「制服に着替える前に、更衣室のシャワー浴びてきなよ。特別に先に入れてあげる」
「良いんですか?」
「うん」
「ありがとうございます」
 体育館の隣についている、更衣室。
 その隅にあるシャワー室に入った。
 身体にくっついていた体操着から離れ、熱いシャワーを浴びるのは開放感にあふれていた。お湯の雫が首元をなぞる感触すら心地いい。
 ――ふぅ、とため息をつく。
 制服に袖を通し、更衣室の鏡の前に立つ。映っているのは、中学生のあたし。
(まだ、中学生だから)
 やりたいことは今はないけど。
(この制服が高校のものに変わるときには――)
 あたしにも、心から打ち込めるものが出来ているといいな。


終。