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<東京怪談ノベル(シングル)>


優しい手


 春には薄紅色の絨毯を敷き詰める桜並木。その終着点に佇む老人ホームには、灰色猫が一匹住み着いている。
 彼女がいつからここにいて、何故ここにいるのかを知るものは誰もいない。
 でも、彼女がロビーに飾られた絵画を気に入っていることだけは、好意的な入居者なら誰もが知っていること。

「あら?エリゴネッたら今日も熱心ねぇ」
 老女は不自由な体を屈めて、枯れた細い指でゆっくりとエリゴネの背を撫で、指先で喉元をくすぐる。
「なあう」
 ぐるぐると喉を鳴らし、猫は甘えるように頭を擦り付ける。
「……あらあら……そうね、お天気もいいし、私もあなたと一緒に芸術鑑賞といこうかしら?」
 エリゴネを抱き上げると、彼女はそのまま肖像画の前に置かれたベンチへ腰掛ける。
 大きく取られた窓から差し込む陽の角度は緩やかで暖かい。
 遠くではゲームに参加している入居者達の歓声が聞こえてくる。
 穏やかな午後の時間。
 彼女の膝の上で丸くなり、自分を撫でる手に身を任す。
 こんなふうに過ごすのも悪くない。

――――――『エリゴネ』

 記憶の中のあの人の声に耳を傾けながら、エリゴネは静かに目を閉じた。

――――――『さあ、散歩の時間だよ』



「おいで。お待たせ」
 パレットに筆を置くと、青年は油絵の具の匂いが染み付いた手をエリゴネへ伸ばす。
「さあ、散歩に出かけよう?」
「にゃあ」
 キャンパスを滑る手にじゃれ付きたいのをじっと足元で我慢していた自分を抱き上げて、彼はエリゴネを肩に乗せたまま散歩の支度に取り掛かった。
「さて……あの公園に彼女は来てると思うかい?」
「にゃう」
「そうだね。行ってみないと分からない。昨日は会えなかった。天気が悪かったせいかな?でも、今日は会えるかもしれない」
 楽しみだね。緊張するね。そうして笑う彼の気持ちがエリゴネに心地よい。
 彼の肩には、いつでも大きな布カバンが提げられていた。
 中にはクロッキーブックとスケッチブックが1冊ずつ。それから木炭、鉛筆、消しゴム代わりの食パンが一袋。木製の小さなイーゼルも一緒に入れる。
 最後に牛乳瓶を一本、そして冷蔵庫の中に作り置きされたサンドイッチひとかけをカバンに詰め込んで、ついでにエリゴネもその中にお邪魔して、そうして1人と1匹は、午後の散歩へと出かけた。

 移動にはパリの市街地に張り巡らされたメトロを利用する。そこで演奏されるアコーディオンやマリンバの音楽。新聞を売り歩くものたちの声。様々な人間たちと一緒に騒音を共有し、川の畔から市内までを散歩と称して巡っていく。

「なんていうかさ、ここの空気は本当にすごいと思うんだ」
「なあう」
 顔だけを覗かせて、彼が歩くその振動を感じながら、彼の見る景色を共有する。
「信じられるかい?この建物もあの絵もあの彫刻も、全て人の手が作り出したものなんだよ?しかも自然までちゃんと共存してる」
 のんびりと緑の中でくつろぐ人々を眺め、心地よい日差しを受けて、ルーブル美術館、ピカソ美術館、ロダン美術館……有名な美術館から個人の小さな画廊まで、いくつもの芸術に触れていく。
 時には教会にも足を伸ばし、アパートの周囲に張られたエリゴネの縄張りよりもずっと広い外の世界を彼は見せてくれた。
 そして、彼が感じる世界を、自分の感覚で理解する。
 カバンの中から顔を覗かせ、じっと見入る。
「ああ、たまに思うんだけどね。エリゴネ、もしかしてキミは僕の見えないものが見えているのかな?」
 キャンパスに向かう人間の姿が、込められた思いとともに風化せず、そこに留まっているのが見えていた。
 自分にとっては当たり前の光景。
 だが、飼い主である彼には見えていない世界。
「お前が見ているものは過去なのかな?それとも、記憶かな?それとも……絵そのものかな?いろんなものと対話できるっていいね」
 羨ましそうに話しかけてくれる彼が名づけた『風景』は、エリゴネにはぴんと来なかった。
「にゃあう」
 ただ、彼の手に頭をすり寄せる。
 美術館の近くには広い公園がいくつもあった。そこで彼は時折何かを探すように視線をめぐらせる。
「僕の生まれた国にはね、信じられないくらいたくさんの桜が一斉に咲くんだよ」
 キャンパスに淡い色彩で薄紅色に染め上げられたあの並木道は、彼の郷愁であるらしい。
「エリゴネ…いつかお前にも見せてあげたいよ……桜の花びらを絨毯にしたあの道、花吹雪と呼ばれるあの光景……何もかも本当に圧倒されるから」
 約束という言葉は知らない。
 でも、彼の目を通して語られるその景色を見てみたいと思った。
 そうして公園の緑の中をゆっくりと話しながら歩いていた彼の足が唐突に止まる。
「にゃう?」
「…………あ……」
 カバンの中から見上げた彼の頬が、一瞬にして赤く染まる。
 視線の先に彼女がいた。
「…………よかった。今日は会えたよ……うん、今日はとってもついてる」
 カバンを下ろし、イーゼルを芝生に立てると、彼はそこに画材を広げ始めた。
「にゃあうにゃあう」
 ごそごそと埋もれてしまいそうになりながらカバンの中身と格闘し、エリゴネは彼女達の華やかな世界へと飛び出した。
 だが、彼はその後を追いかけない。
 ただずっと遠くから、スケッチブックを手に彼女を描き続けるだけだ。
「あら?」
「まあまあ、可愛らしい」
「にゃうっ」
 貴婦人達はエリゴネを歓迎するけれど、目当ての彼女に近付くより早く、猫好きの女性が自分を抱き上げてしまう。
「また会ったわね、仔猫ちゃん」
 覗き込むようにして、彼女がエリゴネの喉を指先でそっとくすぐる。
「にゃあう」
 貴婦人たちの手から手を渡り、サンドイッチやお菓子をほんの少し分けてもらうと、礼の代わりに舌で彼女達の手の甲や指先を舐める。
 そうしてひと時を過ごすと、エリゴネは飼い主のもとへと帰るのだ。
「………あの人によろしくね、仔猫ちゃん」
 彼女の声が自分を背後から追いかける。
 振り返るけれど、彼女はついてきてくれない。
 飼い主が自分を追いかけてくれないのと同じように。
 言葉を掛けるでもなく、ただひたすらに遠くから語りかけるように、彼は彼女を描き続ける。
 公園で友人たちとお喋りをする彼女。
 日傘を指して、美術館に並ぶ彼女。
 仔犬と戯れる彼女。
 そして、スケッチブックもクロッキーブックも、紙面という紙面全てが彼女で埋め尽くされていく。
 線の一本一本に想いを刻みながら、言葉にならない心のさざめきを映していく。
 彼は彼女をスケッチブック越しに見つめる。
 彼女は彼をエリゴネ越しに見つめる。
 一瞬だけ交わる互いの視線の意味を、2人は言葉にしないまま、いつも穏やかな時間を離れた場所で共有していた。
 ずっとこんな日々が続くのだとエリゴネは思っていた。
 そしてもしかしたら、いつか二人は互いに言葉を交わすのではないかとも思った。

 だが、アパートに届いた一通の手紙が、唐突に2人と1匹の『いつか』へ続くはずの時間を止めてしまった。

「お別れをしなくちゃいけないんだ……」
 床に散乱したスケッチブック。クロッキー画。描きかけのキャンパス。
「……日本に、僕は帰らなくちゃいけない………」
 テレピン油の匂いが染み付いた彼の優しい手が、エリゴネの頭を撫で付ける。
「ごめん……ごめんよ、エリゴネ………」
 ずっと一緒にいられるのだと思っていた。
「どうか、どうかお前を連れて行けない僕を許してくれ………」
 あの陽だまりも、あの優しい手も、名を呼んでくれる優しい声も、ずっと自分とともにあると思っていた。
「なあう、なぁう」
 どこへ行くの。どうして行くの。そう問いを繰り返す自分に、彼は苦しそうに目を伏せる。
「…………ごめん……」
 そして、古いアパートには、彼の匂いと数枚のスケッチと、そしてエリゴネだけが残された。
 あの人の替わりにこの部屋を訪れた人間は、あの人と同じテレピン油の匂いを染み付かせていたけれど、あの人と同じ存在ではなかった。
 もういない彼のために、エリゴネは公園を歩く。
 あの人はもうここには帰ってこないけれど、せめて、あの人が何も告げないままに別れた彼女だけは見守りたいと思った。
「………仔猫ちゃん、今日もひとりでお散歩なの?」
「にゃあ」
 公園で、彼女は毎日エリゴネを迎えてくれる。そうして切なげに伏せた目で、膝に抱き上げたエリゴネの背をそっと撫で付けた。
「……あの人は…どうしたの?」
 自分と同じ想いを抱いて、彼女はその問いを繰り返す。

 いつか、気がつくと彼女の姿も公園からなくなってしまっていた。

 どこに行ってしまったのだろう。どうして行ってしまったのだろう。
「にゃあう」
 匂いを頼りに彼女の姿を求める。
 彼の残したスケッチブックの切れ端を口に咥えて、せめてそれを届けたくて、エリゴネは彼女の姿を探し求めた。
 ようやく彼女のもとへ辿り着いた時には、スケッチはぼろぼろになっていた。何が描いてあるのか辛うじて見て取れるくらいにこすれて消えかけていた。
 それでも。
「あ、ああ……」
 教会の隅で、ウェディングドレスを纏った美しい彼女は、彼の残した絵を抱き、そしてエリゴネの柔らかな体に顔を埋めて静かに泣いた。
 声を押し殺し、肩を震わせて泣く彼女の涙は、確かにあの人のために流されているものだ。

 エリゴネは港で彼と同じ匂いのする人間のカバンに紛れ込んだ。
 フランスから日本へ。
 揺れる船の中でじっと、ただ2人のことを考えていた。

 彼の名を呼び続ける。
 彼の姿を探し続ける。
 あの優しい手を、求め続ける。
 彼女の気持ちを伝えなくちゃいけない。
 彼女に気持ちを伝えなくちゃいけない。
 間に合うから。
 まだ間に合うから、あの人を――――――

 それからどれだけの時間が過ぎたのか、猫の身では分からない。
 見知らぬ土地の見知らぬ人々の中で、エリゴネはひとつの力を手に入れる。
 あの人を見つけ出すための力。
 彼が愛したあの人と同じ姿を手に入れて、猫の理から外れて、それでもひたすらに探し求めた。
 ヒトの姿で、猫の姿で、目まぐるしく変化していくこの国を歩き続けた。

 そして、運命と偶然の狭間で、エリゴネはようやく彼の絵に行き着いた。

 いつか彼が話してくれた、薄紅色の絨毯を敷き詰めた桜並木のその向こう。木々に囲まれた小さな老人ホーム。自分と自分の仲間達を快く受け入れ、優しい手で導きいれてくれたその中で、再会を果たしたのだ。
「にゃあう」
 緩やかな角度で差し込む陽射しの中で、彼が最愛と決めた女性、ついにその想いを告げることなく分かれてしまったあの貴婦人が、静かな眼差しを向けて佇んでいた。
 彼女の手の中には、灰色の猫が抱かれて蹲っている。
「にゃあうにゃあう」
「あら?どうしたの?」
 切なげに訴えかけるように鳴くエリゴネを、老女は不思議そうに覗き込む。
 まっすぐに見つめれば、いつものように彼の姿が映る。
 キャンパスに向かい、誰よりも真摯な瞳で想いを筆に乗せて刻んでいく彼の姿が。

『……頼むよ。これだけは完成させたいんだ』
『分かってる……もう長くないんだろ?自分の体は自分が一番よく分かってるよ』
『完成させなくちゃ、ダメなんだ』
『僕があそこに置いて来た、僕の生きる糧だった大切なもの』
『あの人にもエリゴネにも見せてやれないかもしれない……それでも、描き上げなくちゃいけないんだ』
 涙をこぼしながら、それでも彼は筆を取る。
『これは……僕の……生きた証なんだ………』』
 時折ひどく苦しそうに咳き込み、その手の平に赤い色を散らせながら、それでも日に日にやつれていく体をおして彼はキャンパスに向かっていた。

 エリゴネは、彼の最後に間に合わなかった。



「あら、エリゴネ。看護婦さん達が呼んでるよ……おやつの時間みたいだねぇ」
「なあう」
 追いかけたのはあの人の手。欲しかったのはあの人のぬくもり。2人の暖かい時間。
 でも今は、あの人の想いとともに自分はここで待ち続けている。
 この場所を自分は気に入ってしまったから、ここで待とうと決めた。
 いつか自分は、あの人の愛した女性へ、この絵を彼が抱いた優しい想いとともに渡せる日が来るかもしれない。
 彼女自身でも、彼女の娘でも、孫娘でも構わない。
 長い時間を掛けてもう一度めぐり合うその瞬間を、ここにいることを許してくれる優しい手とともに待ち続ける―――――



END