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掛軸の女 〜『牡丹燈篭』異聞 第一夜
……往来の人影も次第に稀になった頃、髪を両輪に結んだ召仕い風の小女が双頭の牡丹燈をかかげて先に立ち、ひとりの女を案内して来ました。女は年のころ十七、八で、翠い袖、紅い裙(もすそ)の衣(きもの)を着て、いかにもしなやかな姿で西をさして徐かに行き過ぎ…………
――岡本綺堂『中国怪奇小説集 14 剪灯新話(明)』
日本で云うところの急須に似たそれは「茶壷(ちゃふう)」という。
まず、茶壷の中に茶葉を適量――しかしこの匙加減には絶妙の勘が要求される――を入れ、勢いよく熱湯を注ぐ。蓋を閉め、その上から、容器そのものにも湯をかける。容器全体をしっかり温めておくことがコツなのだ。
二呼吸ほどの間を置いて、湯を捨てる。最初に注いだぶんは「洗茶」。茶葉を開かせるためだけのもので、次に注いだぶんからが飲むためのものなのだ。
「いい香り」
客は若い男女だ。
雑誌などでも取り上げられたこともあるせいか、常雲雁の働く茶館――いや、日本のマスコミ風に云えば“チャイナカフェ”は、なかなか繁盛している。
「どうぞ」
淹れたての鉄観音を、出す。
鉄観音はいわゆる烏龍茶の一種だが、質の高い烏龍茶は、イメージに反して、むしろほのかな甘みをともなうものだということを、客は知っただろう。
口に含むと同時に、舌の上に広がる甘みと、深い香り。そしてじわりと、渋みがその後を追う。
雲雁は、大陸が育んだ茶の文化を愛している。
ゆえあって暮らすことになったこの極東の島国のひとびとにも、それが伝わればいいと思う。
「あ……」
時計をみて、雲雁は、小さな声をあげた。
「ごゆっくりどうぞ」
客に頭を下げると、彼は足早にカウンターの裏へ戻る。
「今日はあがらせてもらいます」
「ああ……師匠のお供かい」
「まあね。あとは頼みます」
同僚の店員に盆をあずけ、雲雁は微笑んだ。
バスに揺られて十数分。
美術館の前には大きな今の展示を宣伝する看板が立てられていたが、その前に、ひとりの人物がたたずんでいる。
中国風の古めかしい服を着た、初老の男性だった。
その背後に立つ看板には『明王朝の秘宝展』といういささか仰々しい題字と、水墨画風のイラストが書かれていたが、そうしていると、まるで彼も、その演出の一部のように見えるのだった。
「すいません、お待たせしました、老師」
雲雁は男に駆け寄ると、一礼する。
老師と呼ばれた男は雲雁をともなって会場へと歩いていった。それは休日の午後のことだったが、美術館の中に人の姿はまばらだった。題材が題材だけに、ことさら興味のある人間でなければ、わざわざ訪れようとは思わない展示だったのかもしれない。その意味では、企画担当者の感性は疑われるのだったが――
「へえ……」
雲雁は、師の後を歩きながら、感嘆の息をついた。
「比較的、新しい年代ですが、それでも、よく集めたものですね」
展示は、明代の中国の古美術品ばかりが集められたものだった。
「うむ。見事なものよ。日本でかようなものを目にできようとは。雲雁も、目を肥やしておけ」
「はい、老師」
雲雁はガラスに顔を近付けて、鮮やかな絵付の色さえ残る陶磁器を見つめる。
「……?」
ふと、目をとめる。
「これは……」
掲示されていた解説によると、それは、貴族の墳墓から発掘された品物であるらしい。ごく最近発見された遺跡で、盗掘にも遭わずに埋もれていたのだ、とある。
それは、掛軸だった。
描かれているのは、ひとりの女の姿である。
服装は、むろん、古い中国女性のそれで、それなりの身分の娘なのだろうか、結い上げた髪には果実が実るように玉の飾りがきらめている。
残念なことに、顔はうつむき加減で、そのうえ、肝心な部分の絵具が褪せているせいで、細面なおもざしは、ぼやけてしまっており、顔つきははっきりしない。
それでも、かろうじて見てとれる切れ長な目や紅をさした口元からして、美しい娘であることは間違いないようだった。
だが、それよりも――
一見して目をひくのは、娘の顔でも服装でもない。たおやかなその手に提げられた、燈篭なのである。目にもあやな、見事な牡丹の花がふたつ、図案としてあしらわれている、凝った細工の燈篭だった。
「この図案は『剪燈新話』か」
老師が、ぽつりと呟いた。
「ああ……“牡丹燈篭”ですね」
雲雁は応じた。
それにしても、どことなく――不思議な吸引力を感じさせる絵であり、品物だった。
雲雁はそのわけを探ろうとでもいうように、青い瞳をこらしてじっとその絵を眺めていたが、老師が次の展示へと歩き出したので、しかたなく、後を追う。
そのときだった。
「あっ」
会場の片隅に、立っている制服の人物に、雲雁は目を止めた。
「すみません、老師。知人を見かけました。すこし、挨拶をしてきてもよろしいですか」
師が頷くのを待って、雲雁は小走りに、その男に駆け寄る。名を呼ぶと、彼は驚いた目を雲雁に向けてきた。
「ユンじゃないか」
「久しぶりだね。ここで働いてたんだ」
「ああ――会期中は、ずっとここだ」
微笑む。が、その笑みに力がない。
いや、というよりも……
「……いきなり、こんなこと言うのも何だけど……もしかして、どこか具合が悪いんじゃないか。なんだか、顔色が悪いようだけど」
雲雁は眉をひそめた。
そうなのだ。彼は、もともとやせた男だったのかもしれないが、なにかひどく頬もこけ、肌つやがくすんでいるように見受けられる。
「…………」
警備員はすっと真顔になると、周囲を見回し――小声でささやいた。
「ユン。……実は、相談したいことがある」
その夜のことである。
当然、もう閉館となった美術館内だ。
わずかな非常灯をのぞいて、館内は闇に充たされている。
そして、今。コツ、コツ、と、靴音とともに、懐中電灯の光が一条、フロアに差し込んできていた。
暗闇を見通せるものであれば、そこに、ほっそりした青年の姿を見ただろう。むろん、それは常雲雁である。その後ろから、やはり懐中電灯を持った例の警備員が続いてあらわれた。
「なかなか不気味だろう?」
明りの輪の中にあらわれる、骨董の数々。
昼間に見たそれらは、見事な美術品であったかもしれないが、濃い闇の中からぬっと浮かび上がってきたようにして見えるそれらは、長い年月を経たもの特有の、小昏い、翳りのようなものをまとわりつかせているように見える。
「三人とも……夜警の最中に消えたんだね」
「そうらしい」
「ふうん」
雲雁は神妙な面持ちで、唇を引き結んだ。
「このたった半月ばかりのあいだに三人。この美術館で警備員が行方不明。……ただの失踪とは……さすがに思えないね」
「……おれ、二階を回ろうと思う。ユンは奥の特別展示室を見てきてもらえる?」
「わかった」
ふた手に分かれる。
ひとりになると、よりいっそう、静寂が重苦しくのしかかってくる。
真夜中の美術館から消える警備員たち。
知人が声をひそめて語ってくれた話に、雲雁はひっかかりをおぼえた。
なにか、尋常ではないことが起こっている。雲雁の直感がそう告げていた。それは武道家としての勘であったかもしれないし、神秘にかかわるものの、嗅覚のようなものであったかもしれない。
失踪事件は、この展覧会と時を同じくしてはじまっている。
だとすれば――。
(……!)
異様な気配に、雲雁は肌が粟立つような感覚をおぼえた。
(なにかいる)
懐中電灯を切る。途端に、漆黒の闇が雲雁を包み込んだ。息を殺して、雲雁はすべるように進んだ。まるで猫のように、雲雁はしなやかに、暗闇の中だというのに障害物を避けて小走りに移動する。にもかかわらず、足音が立たないのは、まさに日頃の修行の成果というべきか。
部屋の奥で、青白い燐光がともるのを、雲雁は見た。
(あれはたしか)
記憶をたぐる。――そう、掛軸だ。
(……牡丹燈篭)
雲雁は、目を見開いた。
女が、いる。
掛軸から、抜け出てきたとしか、思えなかった。
年のころなら十七、八か。翠い袖に紅いもすその衣を着ているのも絵のとおり。だが、濡れたように艶やかな髪に挿した飾りが揺れるのを見れば、女が実体をもってそこに居ることは間違いない。
なによりも……大振りな牡丹の花の燈篭が、あやしい光を灯しているのだ。
その灯りにぼんやりと浮かび上がった女のおもてを見て、雲雁は息を呑んだ。
(彼女は……!)
知っている。
まぎれもなく、常雲雁のよく知る顔だったのだ。
(続)
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