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<東京怪談ノベル(シングル)>






 ――時間が来た。
 あたしは着ていた制服を脱ごうとした。一時間程前に浴びたシャワーのおかげか、制服は肌の上を滑らかに滑っていく。
 右手の指先だけが多少べとついている。自由時間の間に寄った甘味屋さんで、落ちそうになった和菓子を受け止めたせいだ。そのとき、誤って指先で和菓子を強く握ってしまったから。
 指先をハンカチでよく拭いた。それでもまだべとついている気がする。
(あとでもう一度水洗いしよっと)
 と思いながら――視線は、置いてある衣類の前で揺れる。
(これ、本当に着るの……?)
 これは、水泳部主催の喫茶店用の衣装。喫茶店用といっても、水泳といえばコレと言うくらいのモノ――そう、スクール水着。
 しかも、わざわざ色まで揃えてある。紺と黒と白。
(この情熱はどこから……)
 苦笑したくなってしまう。さすが学園祭、というべきだろうか。
 時計を見ると、自由時間は残りわずか。そろそろ交代の時間だ。
 朝からは演劇部の方で動いて、今からは水泳部の活動。
 忙しいけれど、先輩には逆らえない。
 今だって、先輩のことを思えば――。
(おとなしく、着ちゃおう……)
 とはいえ、色で迷う。白って……透けないよね? それに目立つかな?
(視線を集めてしまうのは)
 考えただけで涙目になる。白はだめ。それじゃあ……どうしよう。
 手前にあった紺を手に取り、着ける。競泳用なので、他のと比べて身体に馴染みやすい。慣れるまで、少しくすぐったいけれど、それは我慢。後ろ髪を手で掬い、大きくVの字に開いている水着の上に離した。
(恥ずかしい)
 鏡の前に立つと、戸惑っている自分の姿が映し出されていた。
 うう、と声に出す。泣きたいような、いっそ笑ってしまいたいような。はうぅ。
 でも、もう時間が迫っている。覚悟を決めて、行くしかない。
 ながーい一日になりそうかも……。


「これ、お皿に移してー!」
「はい」
 お菓子の袋を開けて、お皿に移す。お皿といっても、紙で出来ているから、軽くて扱いやすい。
 ――ざらざらと袋から落ちていくスナック菓子。
 今度はペットボトルを持ってきて、紙コップに注ぐ。開けたばかりのペットボトルは少々重くて、こぼさないように両手で持ってコップへ向けた。スピードも大事なので、急がなければならないのだけど、丁寧にやらないとこぼしてしまうので意外と神経を使う。
「はい、これもねー!」
「はいっ」
 別のペットボトルを手にして……休む暇がない。
(大変なんだなぁ)
 しかも、裏方とは言ってもプールサイドに作られた即席の喫茶店。ペットボトルやお菓子を取りに行く姿が、お客さんに見えてしまう。
 格好が格好なので、お客さんに見られるたびに、歓声が上がったりして。
「大うけじゃない♪ あたしの読みはあたったわ!」
 部長は黒い微笑を浮かべていた。確かにウケてはいるけれど、喫茶店として間違っているような気がする。
(他にこだわることがあっても良いような)
 もっと、お菓子を際立たせるために盛り付けを考えようとか、お皿にこだわるとか――。
 そう思ったけど、口に出すのはやめにした。
「一年生に人権はない!」
 これが部内の方針。
(言えないなぁ)
 口に出したら、逆にお客さんの前に出されて、「うちの看板娘です〜♪」と部長に紹介されかねない。それをされるくらいなら、まだ今の方が――。
 あたしを見て、再び上がる喜びの声。
(これくらいは我慢……)
 と言い聞かせるものの、足早にペットボトルを持って戻ったりして。
(早く交代の時間来ないかなぁ)
 プールに視線を向ける。水しぶきを飛ばし、泳いでいる同級生。これは一年扮する人魚。これを目当てにくるお客さんも多い。あたしもやることになっている。
(人に見られるのは恥ずかしいけど)
 学校でも人魚でいられることや、水の中で泳げることが単純に嬉しい。
(あれ、でも)
 店内にあるこのプールを使うなんてこと、よく先生の許可がおりたなぁ……。
「海原さん、そんな許可はいくらだっておりるのよ?」
 部長は、例の微笑みで答えてくれた。
「裏取引っていうものが、この世にはいーっぱいあるんだから。具体的に言えば、写真を使えばすぐね」
「何の写真ですか?」
「ここでは言えないわねー」
 目を三日月のようにニヤつかせて言われた。嫌な予感がするので、これ以上はあえて問わないことにする。
「そろそろ、交代かしらね」
 部長の言葉に、あたしは思わず笑顔になった。
 泳げるのは、やっぱり嬉しい。


 時期が時期なだけに温水だけど、心地良い。水に身体を任せると、足につけられたヒレが水の抵抗を受けた。
 格好も、さっきのスクール水着から、人魚をイメージしたらしいビキニに着替えさせられている。恥ずかしいけれど、水の中に身体が入っているから、裏方をやっていた時程でない。
 ――お客さんと目が合う。これはちょっと恥ずかしいけど……視線も身体と同じく泳がせた後、先輩たちのところで止めた。
 黒のスクール水着を着ている先輩が、注文を取っている。
 その向こうではレジをしている先輩。この人は白いスクール水着を着ているらしく、目立っていた。遠くから見ると、白い、大きな雪の欠片みたい。
 ――今だけはゆっくり出来る。泳ぐのは大得意、こんなヒレをつけなくても、自在にヒレだって出せるくらい。
(もちろん、ここでは出さないけど……ね)
 泳いでいるだけで笑顔になる。こういう時間は、
(好き)
 なのだと思う。


 水から上がると、お客さんはかなり減っていた。閉店の時間が近づいている。
 かわりに、引退した三年生の人たちがお客さんとして現れた。三年生が着ているのは学校の制服。三年生はあたしたちの水着を一瞬羨ましそうに見てから、席に着いた。
 先輩たちは三年生と一緒に席に着き、話し込みはじめた。
「海原さん、今だけウェイトレスやってくれる?」
「はい」
 コップに飲み物を注ぐ。開けてから時間が経つため、炭酸の泡の音は意外に小さかった。
 チョコレートと合わせて、それを運ぶ。テーブルまで運んでから裏へと戻る時、三年生の声が耳に届いた。
「……高校に入っても水泳は続けるわよ。好きだもん」
 その口調はあっさりとしていて、とても当たり前の言うときの発音だった。
『好きだもん』
 ――その一言が、突き刺さる。
(あたしも、泳ぐのは好き)
 だけど、それは先輩の言う「水泳が好き」なのと同じなのだろうか。
(違う)
 何かが違う。何が違うのだろうか。
(わからない)
 だけど、明らかに違う。
「海原さん、飲み物おかわりー」
「はい」
 引き返して、両手で持ったペットボトルを傾け、コップに注ぐ。
 炭酸音が、さっきよりも遠くで聞こえた。
(そのうち)
 見つかる筈。更衣室の鏡で見たように、あたしはまだ中学1年生なのだから。
(これから探せば)
 絶対見つかる。
 ペットボトルを持って戻り、振り返る。
 健康な肌をした三年生の人たちは、あたしよりずっと大人に見えた。



終。