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ジャックのためのランタン
いつもならば、「抜き打ち」の如くに、連絡もアポも取らずに向かうのだが――
藤井百合枝は、この日は妹に約束を取りつけていた。今夜家に行くから家に居ろと。いつも抜き打ちで向かうのは、そんな約束をしなくとも、妹は家に居るからだった。ドアを開けた途端に聞こえてくるのは、パソコンとモニタから生み出される電磁波の呟き、ファンが回る音。鬱陶しい熱気もまた姉を出迎える。百合枝は「また閉め切ってこんな!」と愚痴をこぼしながら上がるのだ。
この日事前に約束をした理由は、百合枝にもよくわからなかった。たまには断ってから行くべきだろうかと思ったのだ。10月31日だ。ただの平日だ。百合枝は明日休みだが、今日という日は誰かの誕生日でもないし命日でもない。
だが、妹の家へ持っていく食材の買い出しに出かけたとき、百合枝は10月31日がただの平日ではなかったことを思い出した。
ハロウィーンだ。
カボチャが教えてくれた。
『ランタン用カボチャ 1個300円から』
『ジャック・オー・ランタン(おばけかぼちゃ)のつくりかた ※ご自由にお取り下さい』
ハロウィーンとは、万霊祭前夜のことだ。カトリックが故人の魂を偲ぶ日だった。基本的に日本人とは所縁がない。だから10月31日は平日なのだ。日本人の前には、万霊も姿を現さないのだろうか。不思議なものだ。
百合枝は見慣れない橙色のカボチャを手に取って、微笑んだ。見慣れないせいもあるだろうが、ひどく愛らしいものに思えたのだ。
約束の時間までは、まだまだだ。
カボチャの中身をくりぬき、目とぎざぎざの口を開ける時間はあるはずだ。
百合枝はカボチャを数個カゴに入れ、それから『つくりかた』のプリントを、キャンドルを、今夜の食材を入れていった。
スーパーが用意してくれた『つくりかた』のプリントには、素人臭いが味のあるイラストに、丸文字の説明が書かれていた。文は主にひらがなで構成されていた。
『ナイフをつかうところは、おうちのひとにやってもらいましょう』
「はいはい、そんなの居ませんよ」
今はね。
独り言を言うほど、妙にむきになっている自分に苦笑しながら、百合枝はカボチャのヘタの周りに包丁を入れた。
中身を取り出すのは、意外と根気の要る作業だった。感触もいやに気持ち悪いもので、ボウルの中に投げ込まれる橙色の中身と種も、何となく見つめていると不快感を抱くものだった。なぜ自分は4つも買ってきたのだろうと、百合枝がうんざりし始めたのは、3個目のカボチャの中身をそっくりくりぬいたときだった。
中身のなくなったカボチャに、三角の目と鼻、ぎざぎざの口を描き入れる。
黒いマジックが油性だったことに、描いてから気がついた。百合枝は己の不注意を呪いながら、黒々としたマジックの下書きにナイフを入れた。日本の緑カボチャよりははるかにましだが、皮は固かった。百合枝は呻き声のようなものを上げながら、カボチャに目鼻を作っていった。しかし、なぜ自分は4つも買ってきたのだろう。百合枝がうんざりし始めたのは、2個目のカボチャに口を作ってやったときだった。
ジャック・オー・ランタンは、酔いどれジャックのための灯。
悪魔と神に見限られた男のための灯火だ。
はじめは、カブだったという。
時の流れが、カブをカボチャに変えたのだ。
そして今では、ランタンはジャックためだけのものではなくなっていた。
いつしかランタンはすべての人間のために、悪霊を退けるようになっていた。
カボチャを4つ買ってきたのは正解だったのかもしれないと、百合枝は考えたのは――4つ目のランタンを完成させたときだった。
1つ目のジャック・オー・ランタンに比べると、4つ目のランタンの出来映えは素晴らしいものだった。百合枝は1つ目のランタンをゴミ箱に食わせた。妹に見せたら何を言い出すかわからない。それほどみじめな出来映えだった。自分が不器用だということは自覚していたが、正直ここまでとは。無言で自分に嘆き、或いは叱咤しながら、百合枝はキャンドルを取り出してランタンに入れ、火を灯した。
折角だからと、百合枝は部屋を照らす蛍光灯を消した。
部屋の明かりは3つのジャック・オー・ランタンだけとなった。
もう、午後7時をまわっている。
酔いどれジャックのための炎が燃えている。
無心の炎だった。カボチャに心などあってたまるものか。
炎は見飽きている。だがこの炎は見ていて飽きるものではない。
カボチャが浮かべるいびつな笑みが、闇の中に橙いろをして浮かび上がっていた。この笑みはカボチャの笑みではないのだ。百合枝が思い描いていた悪戯っぽいにやにや笑いだ。本当はもっとひょうきんな笑い顔にしたかったのだが、技術が追いつかなかった。カボチャの笑みは少しだけ歪んでいる。
炎が笑みを歪ませているわけではない。百合枝がその手で歪ませたのだ。
――そんなものだよ。
百合枝はぼんやりと炎を見守った。
炎は音も形も心もないものだ。カボチャに似ている。
――そんなものであればいいのに。
百合枝がいつも見てしまうあの炎は、炎ではないのだろう。炎は歪まず、独りでに燃え上がることもない。百合枝が人間と向かい合ったときに見てしまう炎は、炎でないのだとしたら、何だというのだろうか。
――ちがう。私が勝手に、『炎』と呼んでるだけじゃないの?
あれは、炎ではないのだ。
炎に似ていると思ったから、百合枝はあの揺らめきを『炎』だと呼んだのだ。
ひょっとすると、炎に対して失礼なことをしたのかもしれない。
人間の心が、炎だなどと――
だが、いまジャックのためのランタンの中で燃えている炎もまた、百合枝を咎めたりはしないのだろう。総ての炎がそうであるように。
午後7時半をまわった。
約束は、「8時過ぎ」だ。
百合枝は電灯をつけると、ジャック・オー・ランタンの中の火を吹き消した。
ランタンは相も変わらぬいびつな微笑み。
――あの子は、何て言うだろうね。
『ほんとに百合姉が作ったの? ほんとに? 図工がいっつも2だった百合姉が? ……ごめんごめん、怒らないでよ。……いいな、かわいいね、結構』
炎を前にしなくても、妹が何を言い出すか想像がついた。妹はまず驚いてから、ランタンの出来映えを評価するだろう。そのためにも、1つ目のランタンはゴミ箱に入っているべきだ。勿体無いが、カボチャはきっと咎めたりはしないだろう。
百合枝は3つのランタンを食材が入ったビニール袋に詰め、カボチャの中身を入れたタッパーも、ビニール袋の中に突っ込んだ。日本のカボチャと味は違うだろうが、パンプキンポタージュの材料にはなるかもしれない。捨てる気にはならなかった。捨てるのは、1つ目だけで充分だ。
百合枝は明かりを消して、家を出た。
酔いどれジャックよろしく、火を灯したランタンを手に歩くのもいいかもしれないと思ったが――カボチャの中身はいびつなのだ。キャンドルが倒れない保証はなかった。
ジャックのためのランタンは今宵、テーブルの端に置かれたときから、その3つに限り――藤井姉妹のために闇を照らしてくれるのだろう。
<了>
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