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猫の歌
猫、夜、そして歌。
父と子と精霊に、とって代わった新たな三。
猫、夜、そして歌。
◇◆◇
夜が明ける音を聞く。太陽がぢりりと、静か、冷たい、空気、混ざる音。それは幻聴、かもしれない、けれど現に繋がるのなら、大差は無くて。
つまり今こうやって、闇は去った訳である。闇が消えれば三は二となり、二では力を失うから、
猫の歌は、寂しく。
獣屠るべき、鴉の嘴すら突き出せぬくらい、弱々しくて。
掠れるような鳴き声を、聞き漏らさぬように、屈んで距離を狭めて、
醜い傷と折れた骨の臭いがする。
構わずに、ライ・ベーゼは猫を抱えた。
◇◆◇
彼の忌むべき夏が過ぎ去り、彼の為の季節が訪れた。読書の秋。本当は、酒飲みの歌と同じで、四季に囚われず読むのだけれど。少なくとも一般的に、本狂いにとっては待ちに待った季節。茶菓子も要らずに耽るとしようと。
だがしかし、道に置かれた小石のつまづき、本棚から知識の雪崩が発生する。無論あのバカ鴉の所為。仕置きは何時ものように済んだけど、もともと本が散乱している部屋への追加攻撃、今度こそ、足の踏み場は無くなった。己の場所を失ったライ、途方に暫くくれた後、片付ける気にもなれなくて、読みかけの本を探し出した後、己の場所を失ったライ、……外、屋根。
屋根の上、そこでの読書。風が心地よい所為で、月が美しい所為で、それはとても良い事で、微笑みすら浮かぶ読書。人が見たら、ロマンチックな事してるなと、囃し立てられそうだが。人以外なら、みつめられても支障は無い。
あの鴉の首は絞めてるから、何も言わせないけれど、猫の鳴き声はあってもいい。
来客者は、予定も居れずにやってきた。
それは斑な模様から解る雑種の猫、都会の隙間をのんびり駆ける野良の猫。屋根の上のライの元、猫らしくやって来て、無言でひょいっと、彼の膝に乗った。
若干の戸惑いに続いては新鮮な驚きであった。猫は膝の上から、本を覗き込んできたのだ。
ちゃんと左上から文字を追い、右下まで視線を移すと、猫は催促するように、ライの右手を眺めた。
ライ、苦笑する。この鴉に比べてなんとも頭の良い猫である。なにより心にゆとりがある。
一頻り思いを寄せた後、ライはページをそっとめくった。猫の視線とライの視線が重なる。それは誰かに見られたら、ロマンチックな事をしていると、囃し立てられそうだが。
風が心地よい所為で、月が美しい所為で、
それはとても良い事に思えた。
◇◆◇
次の日も、その次の日も、三日目は雨だから屋根の上に出ずで来たかどうかは知らないけれど、その日挟んで次の日も、猫はふらりとやってきた。
本棚はとっくに整理されて、深く落ち着ける椅子も、冊子が塔のように積み重なってる机上も空いているが、今や彼の場所は屋根上だった。あの日と同じ月と風がある訳では無いが、猫が膝の上にあるのは、とても良い事に思えた。
そして今日も世が更けて、三冊目の本、魔方陣についての本をパタリと閉じた。
ふと、気付く。この猫は物語でも無い無駄な知識でも無い、どちらかというと恐ろしい、魔界の本で楽しめるのだろうか。獣である猫に、ライはおかしくも考えてしまった。それで、翌日。
絵本。
飛んでいった赤い風船を、呼び戻そうとする為に、歌を歌う少女の話。神も悪魔も存在しない、完全なる創作。
ライの蔵書ではない、借りてきたのだ、あの興信所に集まる内の御人好しに頼んで。
猫は、じっと眺めていた。随分と長い時間をかけてから、ライの右手に目をやっていく。読み耽る。
そして最後のページの後、目を星空に向けて。
猫は、にゃあと鳴いた。
それは、歌に聞こえた。
幻聴かもしれないけれど、現に繋がるのなら関係ない。
猫の歌は、どちらかといえば不機嫌そうな男に、柔らかな笑みをもたらした。鴉さえ静かに、静かに惚れた。
それはとても良い事に思えたのだ。
永遠として欲しいくらいに。
………、
だけど、
◇◆◇
木の葉が舞う秋の公園を、近道で通り抜ける、昼である。
喚く鴉が傍に居ると、秋の風情は吹っ飛んで行く。苛立つライ、からかう鴉、お決まりのオチは、鴉の悲鳴。
溜息を吐きながら公園を通り抜ける。平日の所為か、人は見当たらない。
だけど、少し前に人は居た。
誰も居なければどれだけ良かったか。
少なくとも、もう少し永遠を信じていられた。
少し前に人は居たのだ。
猫を、嬲る人が。
ボロボロの猫は、ライの前に、突然現れた。
醜い傷、曲がった前足、そして半分に千切れた尾。
受身を損ねてもこうならない。人の仕業である事は明白。慌て駆け寄るライ、しかし、
猫は、ライから離れた。捕まえようとするライから、ボロボロでも、柔らかい身体でするりと抜けていく。
仕舞いに猫は、血をしたたらせて走り去った。鴉に追う様指示するライ。
暫くして、黒い鳥は帰ってきたけれど、排水溝に逃げ込んで見失ったと。問い詰めるライだが、空の主に地は不慣れと考えると、仕方ないと。
その日の夜、猫は来なかった。とても、悪い事に思えた。
予感は的中する為に、あるかのようで。
◇◆◇
夜の公園である。
己の虚弱体質を引きずり回して、探し続けて辿りついたのは最初の地、
希望は無かった。悪い終りだと感じていた。だから悲しげに、ライは探索する。
猫の歌は聞こえない。
落ち葉を踏む音だけが、虚しく、人のいない公園に。
しかし人は居たのだ。
今は、
あの世。
それはボロボロの骸。
若者、若者、若者、
手にはナイフを持っている、そして骨は砕けてる、醜い傷から血が溢れ。腐臭が始まろうとしている。
ライは死体を見た、後、視線を上にあげた。
唱える、目の前、
(ベルゼブブ、ソロモン、マルバス)
不恰好な悪魔の羽、今にも折れそうな脆い牙、
(グリモア、ゲヘナ、アンドレアルファス)
頭の悪い魔法の言葉、醜いだけの召還獣、
(カバラ、ヴァッサゴ)
付け焼刃、
「ファルネウス」
偽の魔。
赤い風船に歌う少女。
◇◆◇
聖なる三によって成り立ったという俄かの魔王、真の姿、
もう、猫の死体。
鴉は言った。好きな男にゃ見せれねぇ姿だって。
それがあの時逃げた理由かは知らない。
だが腕の中で、朝の温度ですっかり冷え切った猫を、
もうけして歌えない猫を、みつめて、
ライは―――
銃が子供を突き抜けないのに、核が世界に降らないのに、
なんで涙が流れるのだろう。
声も出ず、顔が歪む事も無く、
ただ雫が零れる。
夜が明けた。
猫の歌は力が無く。
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