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<東京怪談ノベル(シングル)>


 『Happy Birthdayを貴女に』
 風が渡る。
 シャン。シャン。シャン。
 果ての見えぬ聖域に敷き詰められた絨毯かのような花園を。
 シャン。シャン。シャン。
 風が渡る度に鈴に似た聖域に咲く花たちはその形通りにまるで鈴を鳴らすかのような澄んだ音色を奏でる。
 シャン。シャン。シャン。
 それはまるで汚れなどあろうはずもない聖域のだけどそれでも微塵の汚れをも許さないように浄化する鈴の音のように。
 シャン。シャン。シャン。
 花たちは夜空にある満月が放つ茫洋な蒼銀色の光を浴びて七色に輝いて。その夜の帳が降りた聖域に灯る明かりはとても優しくそして幻想的で。
 シャン。シャン。シャン。
 風を奏者にその汚れ無き澄んだ音色を奏で優しい月明かりを溜め込んだような花が咲き誇るその場を彼はゆっくりと歩いていく。
 シャン。シャン。シャン。
 彼が四肢を前に出す度に摘まれる事を踏まれる事を嫌うように明かりを消して、横にどく花たち。
 シャン。シャン。シャン。
 奏でられは消え、灯れば消える。
 シャン。シャン。シャン。
 そんな花園を彼は歩いていた。
 どうして?
 わからない。
 だけど彼には予感があった。
 朝起きた時から…いや、彼がこの聖域に生まれたその瞬間からずっと胸にあった予感。それが伝えていた。待ち人と今日逢えるのだと。ここで。この月明かりを溜め込んだ美しき澄んだ音色を奏でる花たちが咲き誇るここで。
 シャン。シャン。シャン。
 風が吹くそこで。
 彼は足を止めた。他の花が咲き誇るその中でその周りの花とは違う一輪の花だけはまだつぼみのままそこにいて風に揺れていた。
 シャン。シャン。シャン。
 彼が見ているその中でつぼみがゆっくりと開いていく。
 シャン。シャン。シャン。
 すべての者達の緊張が一気に高まっていく。
 濃密な緊張はだけど不安や恐れなどは微塵も無い。あるのは喜び。そして予感。何かが今日生まれ、そしてそれに出逢う事で初めて自分は自分になれるのだと。
 シャン。シャン。シャン。
 そして・・・
 夜空の満月より降りた一筋の光。その最高の美を持つスポットライトに照らされた汚れ無き純粋無垢な風吹き渡る夜の聖域に一輪の花が咲き、新たな産声があがると同時に気高き咆哮があがった。

―【Happy Birthdayを貴女に】―
 うららかな晴れた日の空。透明感溢れる水彩絵の具の青で塗り染めたキャンパスに白の絵の具を落としたようなそんな空。
 その空をバックに麦藁帽子が風に飛ばされてこちらにやってくる。
「待ぁってぇー」
 そしてそれを追いかける声とその主の幼い女の子。
 風祭真は風に舞って首筋を撫でる髪をくすぐったそうに掻きあげながら一つひどく悪戯っぽい笑みを零した。四肢に力を込めてそれをフリスビー犬のようにジャンプして捕まえようとしていた疾風は彼女のその笑みを見て人間ならため息とも取れるような息を吐いて四肢に込めた力を抜く。
 そして肩まである髪を二つに分けて編んだおさげを揺らして走っていた幼い女の子に、その美貌に悪戯っ子の表情を浮かべた真は小首を傾げてさらりと揺れた前髪の奥で魅力的な青い瞳を細めると、人差し指を伸ばした右手を真っ直ぐに青い空に向けて伸ばして。
 そして・・・
「風よ、風よ、風さんよ。飛ばされた麦藁帽子をこの指に止めておくれ♪」
 軽やかな澄んだ声で歌うようにそう言って、転瞬、吹いた魔法の風はまるで生きているようにぴっと伸ばした彼女の右手の人差し指にその飛んでいったはずの麦藁帽子を止めた。
「おわぁー!」
 その風の魔法を目の当たりにした女の子は思わず立ち止まって大きなどんぐり眼を丸くする。そんな彼女にくすくすと笑うと、真は麦藁帽子を持った右手を胸にあてて優雅にお辞儀をした。
「すごい、すごい、すごい。お姉さんの所にも白いフクロウさんが来たのぉ?」
「白いフクロウさん?」
 しゃがみこんだ真は目線を女の子に合わせると小首を小さく傾げた。
 女の子は真に麦藁帽子をかぶせてもらいながら音がしそうなほどに首を縦に振る。
「うん、白いフクロウさん♪」
 薄く形のいい唇に人差し指の先をあてながら真はさらりと顔にかかった髪の奥で青い瞳を楽しそうに細めながら、
「白いフクロウさんは来なかったわね。だけど白い犬さんなら来たわよ。ほら」
 と、悪戯っぽい声で囁きながら白狼の頭を撫でた。疾風はちょっと困ったような顔。だけど真は気にしないで赤のルージュが塗られた薄く形のいい唇の前に右手の人差し指を立てると、何か悪い相談でもするかのように囁いた。とても神妙な顔をして。
「だけどいい? お姉さんが魔法使いなのは私とあなただけの秘密よ」
 すると同じく神妙な顔つきをしていた女の子はまた音がしそうなぐらいに首をこくこくと縦に振る。唇に軽く握った拳をあてた真はそんなかわいらしい彼女の様子にくすくすと笑っていて、そしてそれを見上げていた疾風はやはりため息のような声を小さく漏らした。
 と、その疾風の頭に小さな紅葉のような手が乗せられる。その手はとても優しく温かくってそしてその感触と温もりは彼にどこか懐かしさを感じさせた。
「いつかあたしの所にもお手紙を持ってきてね♪」
「くぅーん」頭を撫でられながら瞼を閉じて甘えた声を出す。
 そしてそれは真も同じな訳で。彼女は疾風とじゃれあう女の子に昔の自分を重ね合わせた。それはひどく胸がきゅっとなるような感触を伴っていて、そしてそのせいかはわからぬがその時に吹いた風にどこか甘やかな香りを感じた。その香りに彼女は懐かしさを感じるのだけど、しかし一体自分がどこでその甘い香りを嗅いだのかまでは記憶が繋がらなかった。

 街を包み込むのは温かく柔らかな橙色の光。
 夕方の時間。街の通りを歩く家路を急ぐ人々の足は気持ち速い。
 その早足で通り過ぎる人々の行き交う通りを真はゆっくりとした足取りで疾風と一緒に歩いている。
 と、「うわぁー、お姉さん、ありがとう」
 真はふと足を止めた。道を挟んで正面。たまたま通りかかったその道沿いにあるケーキ屋に真は昼間出会った幼い女の子の姿を見た。
「あら、あの娘」
 疾風は真の顔を見て、そして続けて彼女と同じ場所に視線を向ける。
「パパ、お誕生日会、驚くかなぁー?」「ええ、驚くわよ。泣いちゃうかもよ」「ほんとに!」
 店から出てきた彼女の両手には大きなケーキの箱があって、その顔には満面のかわいらしい笑みが浮かんでいた。
 真は中途半端に上げていた手をどこか迷子になった子どもが道端にうずくまる様に下ろした。
 そして彼女はその白い美貌に苦笑いを浮かべて呟く。
「そう言えば私の誕生日っていつだったかしら…」
 首をわずかに傾げる真。さらりと揺れた髪の奥で寂しげな光を宿す青い瞳は何か遠くの物を見つめるかのように細まる…。
「・・・」
 早足に家路を急ぐ通りを行き交う人々の中でだけど真だけはその中で立ち止まって首を横に振った。古の真名すらも忘れてしまうぐらいに永き時を見守り続けてきた彼女。その時の守り人かのような彼女はその生きてきた時と引き換えに自分がいつから生きているのかもいつ生まれたのかもわからない事に改めて気がついたのだ…。
 風に揺れる髪の奥にある青い瞳はケーキを持ったあの女の子と母親の姿を追っていた。風が運んでくれるのは今夜の誕生日パーティーのご馳走についての楽しげな会話だ。
 真は肩をすくめると再び足を前に動かし始める。だけどその歩くスピードは周りの誰よりも速くってそして周りの人たちと違って行き先が無いようなそんなあやうげな感じだった。そして歩きながら彼女はそっと呟く。
「これじゃ誕生日祝いもしてもらえないわね」
 そのどこか僅かに淋しそうな微笑に、一緒に歩きながら真を見上げる疾風は慰めるように擦り寄った。
 鼻先をそっと自分の右手に擦り寄せる疾風に真は小さく微笑んで足を止めると、そっとその夕日に金色に輝く体を優しく撫でた。
「そうね。私にだってあなたがいるわよね。ええ、そう。疾風はずっと傍にいてくれたのよね……貴方だったら分かるのかしらね」
 その温かい温もりと感触につい零した真の本音に疾風は何かを想うようにそっと瞼を閉じるのだった。

「どこへ行ったのかしら?」
 真は夕刻の街をさ迷っていた。今朝から疾風の姿が一向に見えないのだ。
「こんな事は今まで一度だって無かったのに…」
 真は落ち着かない素振りで髪を弄りながら夕刻の街を見渡す。
 疾風と一緒にいつもいた世界はしかし彼がいない今、どこかよそよそしかった。彼女はそんな世界に寂しげに己が身を両手で抱きしめた。今更ながらに真は疾風の存在の大きさに気がつかされる。ずっとずっと自分の傍にいてくれた彼。見守ってきてくれた彼。たった一人の家族…。
「疾風、貴方は今どこにいるの?」
 とぼとぼと親とはぐれた迷子の子どものように歩く彼女はやがて数日前にあの麦藁帽子の女の子と初めて出会った場所に来ていた。
 夕方の橙色に照らされたその場所で数日前に彼女は昔の懐かしい疾風との思い出に想いをはせて……だけど………今は………
 それがなんだかとても遠い昔の事に思えた。覚えている事柄で一番古い思い出よりも…。
「疾風…」
 真が彼の名前を寂しさという音色で音声化した時、一陣の風が吹いて、そして夕日を背に背負う疾風がそこにいた。
「疾風、貴方、今までどこに?」
 と、思わず声を鋭くして詰問した真であったが、彼がくわえている物に青い目を細めた。
「花?」
 シャン。シャン。シャン。
 なぜかかすかな鈴の音のような音が聞こえた。
(この花のせい?)
 疾風が咥えているのは一輪の白い花。
 シャン。シャン。シャン。
 また、鈴の音が聞こえた。
 真はその花を指先で摘み上げると、そっと鼻先に近づけた。まだつぼみのそれはだけどもうとても心地よい甘い香りを放っていて・・・。
 シャン。シャン。シャン。
 香りの記憶。
「見慣れない花だけど…何だか懐かしい香りだわ。私、この花を知ってる。目覚めた時…傍にあった?」
 シャン。シャン。シャン。かすかだった鈴の音のような音がはっきりと脳裏で奏でられだす。
 シャン。シャン。シャン。
 そしてゆっくりと夕方にある仄かに茫洋な月明かりを太陽に代わって眼下の世界に投げかけ始めた満月の下でつぼみが開き始める。
 それは聖域に人知れず咲く花。真はその花の香りを覚えていて、そしてちょうど数日前にこの場所で香った匂いもまたこの花の香りであったことを思い出す。それはこの時を吹く風が過去にまで流れてきたのだろうか? それとも懐かしい光景に心に刻みこまれていた香りを思い出したのか? とにかく真はすべてを理解した。
「ありがとう疾風。今日が…私の誕生日なのね」
 そう言って無邪気に微笑む真。
 そして真は両手で愛おしげに抱きしめる疾風にそっと囁いた。偶然とは言えぬ花と自分たちの縁を。
「疾風、今日4月14日の誕生花って知ってる? 今日の誕生花はね、白のセイヨウヒルガオ。その花言葉は絆と縁。そう、貴方がプレゼントしてくれたこの白い花と同じ色の花。同じような形をした花。すごい偶然…ううん、偶然なんかじゃないわね、きっと」
 立ち上がった真は目じりの端に溜まった涙をそっと指で拭うと、明るい声で疾風に言った。
「さあ、帰りましょうか、疾風。私たちの家に。そのついでにケーキももちろん買っていかないとね。今日は私の誕生日なんだから♪」
 その温かい橙色の光に包まれた一日のうちで世界が一番綺麗で優しく思える夕方という時の中で運命という絆で結ばれた真と疾風は幸せそうに微笑みあった。